碇シンジが目を覚ました。
その報が戦略自衛隊の査問会にもたらされた途端、会議の代表者である冬月コウゾウはただちに『会議の延期』を申し出、了承を取るよりも早く三人娘を連れて戦略自衛隊を出た。
はやる気持ちを抑えながら、高速ヘリを強引に出させ、ネルフ本部へと戻る。
その神業のようなスピードは普段ののんびりとした副司令からは想像もつかないものだった。
だが、その驚くべき事象ですら三人娘には全く関心がない。
彼が、目を覚ましている。
それが、その事実がどれほど三人を喜ばせただろう。それにしても、何故こんな時に目を覚ますのか。一週間ずっと自分たちは傍にいたのに。どうしてたった半日離れている間に目を覚ますのか、あの大馬鹿者は。
「最初に絶対、ぶん殴ってやるんだから」
そのアスカの声は震えていた。そして、三人とも目に涙を浮かべていた。
Another World The After
『未解決のシナリオ』
だが、結局彼を殴ることはなかった。ネルフ本部を全力で走り、病室に駆け込む。ベッドを斜めに起こし、そのベッドに上半身を預けている彼の姿を見た途端、もはや言葉も何もなかった。我先にと彼のところに飛び込んで、大きな声で、あるいはか細い声で泣き出した。
「心配かけてごめんね、みんな」
少年は右手で彼女たちの頭を一人ずつ撫でていく。
最初に一番右手に近かったアスカ。彼女は「馬鹿っ! ずっと傍にいたのに、どうしていなくなった途端に起き上がるのよ!」とそれでも文句を言うことは忘れなかった。だが、その彼女が泣きながら怒っている、その姿が何より美しかった。本当に、こうして素直に気持ちを出すアスカは可愛いと思う。
「ごめんね、アスカ。ありがとう」
そして次にその隣にいるマナの頭を撫でる。彼女も「シンジくんが目を覚ましてくれて、本当によかった」とぐずりながら言う。一番女の子らしい、優しい、自分と唯一対等でいられる少女。彼にとっても彼女の存在は安らぎであり、救いであった。彼女がこうして自分を好きでいてくれるのは幸福だと思う。
「ありがとう、マナ。心配かけてごめん」
最後にベッドの反対側に来たレイを右手で撫でる。彼女は「碇くんが目を覚ましてくれて嬉しい」と、笑顔を見せて言った。今までのような無表情のレイはどこにもいなかった。出会ったときからずっと感情がなかった少女。彼女がこうして感情を手に入れることができてよかったと心から思う。
「俺もレイにまた会えて嬉しい」
そうして三人が一通り言いたいことを言い終え、落ち着いたところを見計らって、ようやくその場にいたマヤが声をかけた。
「それじゃ、三人ともちょっとシンジくんから離れてね」
それは別に意地悪で言っているわけではない。彼女たちが戻ってくる間に、彼の身体についてマヤがだいたい調べ終えていたのだ。
「シンジくん、まだ、本調子じゃないから」
そういえば頭と首、それに右手は動かしているが、それ以外のところは全く身体を動かしていない。先ほどのレイを右手で撫でたことといい、動作が不自然だ。
「どうやらLCLの圧縮のせいで神経系統が麻痺しているらしい。動くのは頭と右腕だけだ。まあ、自分の体のことはよく分かっているから、信号を送り続ければ普通に戻ることはできる。一ヶ月はかからないだろ」
普通にそんなことを言い出したが、それがどれだけ重大なことかは彼女たちにも分かる。
「アンタ、それで大丈夫なの?」
「直るんなら大丈夫だろ。自分でトイレに行けないのが不便ってことくらいだ」
「たとえ碇くんがどうなっても、私が面倒を見るわ」
ポーカーフェイスが戻ったレイが言う。途端にマナもアスカも自分だってと言いはじめる。
「良かったわね、シンジくん。よりどりみどりで」
「あのね、マヤさん。さすがに下の世話を自分と同い年の、それも好きな子たちにやってもらうのは気がひけますよ。こういうのは顔見知りじゃない方が安心できる」
「それもそうね。別に私がやってもいいんだけど」
「マヤさんはマヤさんで忙しいでしょう。俺のことはいいですから」
何かこの二人、妙に息があっている。
三人娘から一斉に敵意を見せられたマヤは、肩をすくめた。
「みんなが怖いから遠慮しておこうかな」
「そうしてください。さて、目が覚めてからこっち、検査検査で大変だったんですけど、そろそろこちらの質問と要求に応えていただけませんか」
少年は真剣な表情で言った。
「食事。それから、俺が倒れてからこの一週間、世界がどういうふうに動いていたのか、その情報をください」
食事はすぐに運ばれた。思えば少女たちもずっと査問会で食事をしていなかったため、一緒に運んでもらうことになった。少年には消化のよいおかゆを少量。三人娘もあまり量は頼まなかった。少年に遠慮したようだ。
その食事の間にもマヤと三人娘が次々に話をしていく。
赤木リツコはいまだ精神病棟の中。誰が話しかけても全く反応しないらしい。今彼と会ったなら、本気で殺そうとするかもしれない。完全に錯乱しているとのことだ。見張りが常に複数ついていて監禁されているような状態だという。
そしてコンフォート17で見つかった死体の検視結果が出て、葛城ミサトではないということが判明した。つまり生きていることになるが、その姿は完全にロスト。既に国外の可能性もあるということだった。だが、それについて少年は何の関心も示さなかった。
「まあ、二人で幸せでいてくれるのが一番じゃないかな。裏の道からは足を洗ってくれればいいですけど、そうもいかないだろうし」
二人で、というところに逆に質問が来たが、少年は笑ってそれ以上は何も言わなかった。
続けてネルフ。現在冬月が副司令のまま司令代理を務めている。マヤが技術部長代理、マコトが作戦部長代理、シゲルが保安部長代理だ。今まで保安部長は冬月が務めていたが、これを機にシゲルに役割を譲ったらしい。
エヴァについては担保にして世界各国からの資金を得るか、それとも凍結してしまうかの問題が浮上していた。もっとも、あんな兵器はあるべきではない。できればすべて破壊してしまうのが一番だが、そういうわけにもいかないだろう。
「凍結するのが一番だと思います。ネルフはそもそも対使徒決戦組織でしょう。だったら、もう役割は終わりました。組織を解体してもいいかと思います」
その意見にはさすがに衝撃が走る。マヤも、それにレイやアスカにしてもネルフから給料をもらっている身分だ。職がなくなるのは困る。
「大丈夫ですよ。俺がマヤさんを雇いますから」
考えてみれば少年は実に持ち資産百億円を超えるという金持ちだった。使徒撃退の都度十億円が舞い込んで来ていたのだから、十分に暮らしていけるだけの資産を持ち合わせている。しかも家持ちだ。即金で払っているからローンの支払いなどの問題もない。
もちろん事はそんな簡単なものではない。ネルフは本部と支部を合わせれば数十万人単位での職員がいるのだ。いざ解体となればそれだけの失業者が世界中に吐き出される形となる。
「そうね。シンジくんのところに永久就職もいいかも」
三人娘の視線が敵意を通りこして殺意に変わる。これ以上からかったら本当に命の危険がありそうだ。マヤはそこで退散することにした。
「あ、マヤさん。お願いがあるんですけど」
出ていこうとするマヤを呼びとめ、少年は神妙な顔で尋ねた。
「何かしら」
「明日でいいんですけど、ドグマに下ろしてほしいんです」
「ドグマに?」
少年が何を求めているのか分からない。戦いも終わったというのに、今更あの場所に何の用があるというのだろう。
「それはかまわないけど……どうして?」
「確認したいことがあるからですよ」
少年はわけありという表情で言った。マヤも深くは考えず「分かったわ。明日の午後からでよければ私が一緒に行ってあげられるから」と答えた。
そしてマヤが出ていく。だが、そんな会話が三人娘の気に止まらないはずがない。
「まだ何かあるっていうの?」
アスカが慎重に尋ねる。
「いや? ただ、一つだけ未解決になったままのものがあったからさ。それを確認したかっただけ」
少年はそう言って食事の手を止めた。
「俺たちは……アダムという現実の危機を乗り越えることができた。でもそれは、今までの秩序を壊したということだ」
真剣な表情で言う。少年の哲学が始まった。
「俺たちは人間の父親であるアダムを殺した。それは大きな罪だ。俺自身に限っていえば、直接の親であるゲンドウをも殺した。この罪は裁かれなければいけない。そして裁くのは人じゃない。神が裁くことになる。神はアダムを造った。だが神がアダムの子らを造ったわけじゃない。神にとって愛すべき子、アダムを殺した人間の罪は非常に重い、と思う」
「神……」
哲学と宗教は多分に交わるところが多い。その時代に宗教の影響が強ければ、哲学の内容は宗教の中身とほぼ同一の内容になる。
「じゃあ、使徒っていったい何だったの?」
それについてはシンジは仮説を既に立て終えている。それをリツコやマヤが最終戦の時に直接聞いていた。
神がアダムを創り、リリスがアダムの最初の妻となった。第一の使徒アダムと、第二の使徒リリスだ。
神はアダムの肋骨を抜き取り、イヴを作った。それがアダムの二番目の妻となった。だが、このイヴは長く生きることができなかった。十五のパーツに別れ、来るべき時、西暦二〇一五年まで待つことになった。これらが第三から第十七の使徒だ。
そしてリリスに子が生まれた。第十八の使徒、これが人間だ。人間は単体ではなく群体で生きることを願った。
第三から第十七までの使徒は、自分がアダムの肋骨から生まれた存在であることを知っていた。だからアダムに還ろうとして、アダムを目指して活動を始めた。だが、それらはエヴァンゲリオンによってすべて葬られることとなった。
そして第一の使徒アダムもまた、望まれない子、人間によって葬られた。
こうして、人間は使徒との生存競争に勝ったのだ。
「……ちょっと待って」
アスカが真剣な顔でシンジの説明を止める。
さすがは大学まで出ているアスカだ。彼女はシンジが何を今知りたがっているのかを正確に理解した。そう、この使徒戦ではまだ解決されていない問題がある。それに彼女は気付いたのだ。
「じゃあ、リリスって何?」
──そう。リリスはまだドグマにいるはずなのだ。
「俺たち人間の母。そして、人間はその母を槍で貫き、力を奪った」
「槍で、貫き……?」
「ロンギヌスの槍だよ。あれでリリスの力を封じていた。だからカヲル戦でロンギヌスを使った際に、リリスは既に解放されたはずだ。そしてリリスは、その分身──というか、魂、ゼーレをその身に取り込み、完全体になろうとしている──のではないかと思う」
「何よ、その魂ってのは」
やや、緊張した空気が張り詰める。
シンジはため息をついて答えた。
「綾波だよ。綾波はリリスの魂を具現化した存在なんだ」
二人がレイをじっと見つめる。
「そこまで知っていたの」
レイが少し悲しそうな顔をする。
「ああ。綾波が何となく『お母さん』のような感じがするのは、別に綾波がお母さんの外見をモチーフにしたせいじゃないと思う。それはリリスの魂だからだ。まあ、そんなことは全然関係なく綾波は可愛いんだけど」
よしよし、とシンジは難しい体勢でレイの頭をなでる。その顔がぽっと赤らんでいた。
「……レイって、何者よ」
アスカが怪訝そうに尋ねる。
「それを説明するには、俺が四歳の頃の、エヴァンゲリオンにまつわる一つの事故から話をしなければならない。いや、それよりも前、あの南極で起こったセカンドインパクトから、かな」
そうしてシンジは語り出した。
世界の真実を。そして、この戦いの背景を──
二〇〇〇年九月十三日。それが、人類の歴史の転換点となった。
スーパーソレノイド理論に基づき、アダムや使徒のエネルギーを利用すれば機械動力の永久稼動が可能になり、しかもクリーンエネルギーとしての利用が可能であるということを、アダム本体を使って実証することとなった。
南極において、永久凍土の下にいたアダムを掘り起こし、アダムまで還元させる。
その最中、アダムが覚醒する。その時のエネルギーからセカンドインパクトが発生する。だが、葛城調査隊の一員がロンギヌスの槍をアダムに刺して再封印を試みた。それはうまくいかなかったのだが、S2機関が暴走したために覚醒したアダムは破壊された。
そして、そのコアとなる細胞だけが生き残り、それが硬化ベークライトで固められることとなった。
アダムが動き出したことにより、使徒の活動が観測された。何年か、もしくはもう少し長くなるかもしれないが、近い将来必ず使徒が動き出し、自分の本来の在り処──アダムに還ろうとするだろう。もしそうなってアダムが覚醒したならば、今度こそサードインパクトだ。使徒とアダムが接触するとサードインパクトが起きるというのは、ここから来ている。
アダムの発見に伴い、もう一つの始祖たるリリスの存在も確認されることとなった。アダムは白き月=南極に保護されていたのに対し、リリスは黒き月=ジオフロントに保護されていた。その黒き月においてリリスの力を利用して作られたのがエヴァンゲリオン初号機だ。
二〇〇四年、そのエヴァンゲリオンとの接触実験が行われる。その担当は人工進化研究所を隠れ蓑として活動していたゲヒルンであった。その実験の責任者が碇ゲンドウ。そして実験の実行者がその妻、碇ユイだ。
だが、その実験は失敗に終わる。碇ユイは初号機に取り込まれ、永遠に還らぬ人となった。サルベージも試されたが、結局失敗に終わった。
碇ユイを通常の方法で取り戻すことができないと悟ったゲンドウは、保管されていた碇ユイの細胞からクローンが作ることを試みた。これが綾波レイである。
コピーはたくさん作られたが、どの媒体にも魂は宿らなかった。だからこの器に魂を入れることにした。
その魂を物体としてインストールするのは通常の作業では困難だった。そのため、明らかに存在している『魂』を使うことにした。それがリリスの魂だ。
リリスの魂は当然一つしかない。リリスの魂は数あるコピーたちの中から一つを選び、その中に入った。そして一人目の綾波レイが誕生した。
一人目は事故によって死に、魂は次の器を選んだ。
それが、今の綾波レイである。
碇ユイのクローンであり、リリスの魂の持ち主。
それは果たして綾波レイと言ってもいいのか。それとも綾波レイという人格は存在しないのか。
当然、レイ本人もそれは怖いと思うところだろう。だが、シンジは平然と言う。
「綾波は綾波だよ」
そのあっけらかんとした言い方に、さすがのアスカやマナも呆然とする。
「あ、あんたねえ……もう少し言い方ってもんがあるでしょうが」
「って言っても、綾波はもうリリスでも母さんでもないよ。たとえ体や心がもともと別の人のものでも、問題はその人間がどうやって生きてきたかだ。綾波はずっと自分一人で生きてきたからまだ『自分』というものがどこにあるかが分かっていない。でも、マナに信頼されて、アスカと名前で呼び合うくらい仲がよくなって、俺に愛されている。俺は別にリリスや母さんを好きになったわけじゃない。綾波レイっていう女の子が好きになったんだから」
「碇……くん」
レイはまた涙を流していた。
「……嬉しいの、私」
「人間、嬉しいときは泣くものだよ。それだけで綾波がリリスじゃないっていうことが証明されるだろ?」
そして、その綺麗な顔に微笑みを浮かべる。同性のアスカやマナですら見ほれるほどの、美しさ。
「人間は、感情を持つ動物である」
シンジが難しいことを言う。
「ベルクソンの言葉に、人間は笑う唯一の動物である、っていう格言が残ってる。全くその通りだと思うよ。だってほら、俺たちはこんなにも大切な感情を持っている」
シンジが三人に微笑みかける。
「みんなが好きだっていう気持ち。この気持ちがあるから、俺は生きていられるんだ」
そんな彼の言葉に、三人はただ泣いて、笑った。
翌日。
冬月、マヤと共にドグマに四人とも降りる。シンジは歩けないので車椅子だ。アスカが「一度車椅子って押してみたかったのよね〜」と非常に不穏当な発言をする。勢いをつけすぎて放り出されるのだけは勘弁してほしい。
昨日からシンジの調子は傍目にはそれほど変わっていない。それでも改善はしているらしく、ぎこちなくも少しずつ首などが動き始めている。相変わらず右手だけはよく動く。
「それにしてもシンジ君、ドグマなどに降りて何をするつもりかね」
多忙な中、さすがにドグマに降りるとなっては責任者がいなければならない。冬月が尋ねるとシンジは当たり前のように答える。
「決まってるじゃないですか。俺たちの母親、リリスを見に行くんですよ」
その言葉に口をつむぐ冬月。
「副司令は、何かご存知ですね?」
その様子に何かを感じ取ったシンジが尋ねるが、冬月は首をかしげた。
「まあ、君がその目で見る方が早いだろう」
そして冬月が自分のカードをリーダーに通し、扉を開く。
その先が、ドグマの最奥、リリスの間。
そこは──LCLの湖だけが存在する、ただの空洞だった。
「リリスは?」
シンジが冬月に尋ねる。だが、彼は首を振った。
「分からん。だが、あの戦いが終わった後に確認したときには既にその存在が消えていた。これをどう判断すればいいのかは私にも分からんよ」
「でしょうね」
さすがのシンジも顔をしかめて戸惑っているようだった。
「……リリスは自分の子を愛していたのか、それとも憎んでいたのか」
望まれなかった子。だが、アダムにとっては望まれない子だったとしても、リリスにとってのリリンはどうだったのか。本当に望まれていなかったのか。
「愛していたと思うわ」
小さく呟いたのはレイだった。
「どうしてそう思うの?」
振り返って尋ねると、無表情のままレイが答える。
「……そう、思うもの」
「あんたねえ、それじゃ答えになってないじゃない」
アスカが突っ込むが、シンジは首を振った。
「なるほどね。綾波がそう言うんだったら、そうなんだろうね」
気勢をそがれたアスカが、フン、とそっぽを向く。
そう。レイの言葉なら、それがきっと真実なのだ。何故ならレイの魂はもともとリリスのもの。レイが人間を愛しているというのなら、きっとリリスも人間を愛していたのだ。
「そうか。じゃあ、俺たちは母親に感謝しなければいけないな。父親は殺さなければいけなかったが……」
「だが、子にとって父親というのは超えなければいけない存在だろう」
冬月がカバーする。そうですね、とシンジも答えた。
「エディプス・コンプレックスですね」
何を言っているのか分からないという様子でマナとレイが首を捻る。
同性の父親に対する反感と、異性の母親に対する愛情。その二つの感情から生まれる子供の罪悪感。それがエディプス・コンプレックスだ。
「俺たちは今でこそ一人ですけど、お互い、父親に対する感情っていうのは違ったんですよ」
「ああ、そんな風に見えたな」
「アナザーは父親に対して畏怖と敬慕を、ミッシングは父親に対して憎悪と軽蔑を」
「うむ」
「それは母親に対しても同じでした。アナザーは母親に対して愛情を、ミッシングは母親に対して疑心をそれぞれ持っていました」
「ユイ君は、君のことをとてもよく心配し、愛していた」
「ええ。でも、俺は碇ユイという人物が少し分かる気がするんです。きっと双子として生まれてきていたら、碇ユイの愛情は二人には注がれなかったと思います。一人だったから愛することができた。だから碇ユイは自分たちを一人にした。今となってはもう、何を考えてどうやったのかなんて分からないことですけど」
「そうかなあ」
アスカがシンジの言葉に反対する。
「アスカは違う意見なの?」
「まあ、アタシも一応女だから、少しは分かると思うけど」
「参考までに聞いておこうかな」
「アンタ、いっぺんはったおすわよ」
言いながらもアスカは笑っている。
「好きな人の子供なら、何人産んだって愛することができると思うわ」
「好きな人の子供なら」
「そ。アンタのお母さんは、ちょっと信じられないけど、碇司令のことが本気で好きだったんでしょ? だったら、何があっても子供を産んで育てたいって思うものじゃないかなあ」
そんなものだろうか。まだシンジには納得がいかないところがあった。
「そういえば、ミッシングが発生したのは受胎してから三週間から四週間の間だった。通常なら発生してすぐに起こるはずなんだけど」
そう。普通なら受胎したことすら気付かない時期に、既にミッシングは終わっている。それも結構な確率で起こるものらしく、ほとんどの母親はミッシングが起こったことに気付くことはない。
それを、自分でミッシングをつきとめて、片方を潰すことを考えた碇ユイという人間は確かに非凡なのだろうが、シンジにはそれが納得いかない。
「……きっと、産むことが難しかったんだと思うわ」
今度はレイが続けた。
「難しい?」
「分かるもの。この体、子供を産みづらいっていうこと」
それがどういう意味で言っているのかは分からないが、レイが何かに気付いているのは分かる。
「どういうこと?」
「……二人とも産もうとしたら、逆に二人とも育ちきらずに死産になるかもしれない。そう思って、一人にしたんだと思う」
それも、碇ユイのコピーだから分かるものなのだろうか。
「だから、ミッシングを意図的に起こしたって? 三週間も過ぎて、普通ならミッシングがとっくに終わっている時期になっていたのは、最初は二人とも産むつもりで、それが無理だと判断したからだとでも?」
シンジは言いながら、そういうこともあるかもしれないな、と片隅で思った。
だが、まだ素直になるには時間が必要だった。
「それでもいいさ、碇ユイ本人は。でも俺は、今はこうして一人で生きているけど、ずっと闇にいたミッシングの十四年はどうなるんだ? もちろん、死産になる可能性があるのにも関わらず、二人とも産んでほしかったなんて言うつもりはないよ。でも、それを認めるには、もう少し時間が必要だ。俺は、少なくともミッシングの方の俺は、そんな言葉だけでは納得できない。愛情も自由も独り占めにしたアナザーを憎らしく思っているのは事実なんだから」
理屈が分かっても感情がついてこない場合がある。まさに今の自分がそれだ。
だが、人間納得いかないことなどいくらでもある。自分が認めたくないと思うのなら、それでいいと割り切ることにした。
「それはそうと、問題のリリスだな」
既に無くなったものを詮索しても意味のないことだというのは分かっている。だが、これからリリスが何をしようとしているのか、それだけは見極めておきたい。
「綾波。リリスが何を考えているか、今の君でも分かるものなのかい?」
だが、レイは首を振った。それもそのはず、レイはリリスの魂を受け継いでいるのだから、昔のリリスのことは多少なりとも分かる。だが完全に別の存在となった今、リリスが何をしようとしているのかなど全く分からない。
「でも、リリスは私たちを滅ぼそうとか思っているわけじゃない」
「そうだな」
「子供のためなら命もかける。人間が生きるのに邪魔なのだとしたら、もう」
この地上にリリスは存在しない、ということなのだろうか。
「人間が自分の足で立って歩けるようになるまで、リリスは見守っていてくれたっていうことかな」
そう信じたい。人間にとってはそれが一番、幸せな結末だと。
「シンジ君、そろそろいいかね」
話も終わったとみて、冬月が声をかけてくる。そうですね、とシンジは答えた。
「副司令、マヤさん。お忙しいところをわざわざありがとうございました」
「なに、君のためならいくらでも便宜は図るよ。なんでも言ってくれたまえ」
「そうよ、シンジくん。遠慮なんかしたら駄目だからね」
「ありがとうございます。それじゃあ、お言葉に甘えてもう一つだけ、お願いをいいですか」
次は何が来るのか、と身構える二人。
だが、シンジの要望は意表をつくものだった。
「赤木博士に会わせてください」
シンジは病室に来ていた。
さすがに一人では動けないので、リツコが寝ているベッドの近くまで車椅子を運んでもらい、そして全員に退室してもらった。もちろん内部の様子はモニターがされている。シンジに危害が及ぶようならすぐに立ち入る用意を万全にした上でだ。
「今さらリツコに何の用だっていうのよ」
アスカがモニターをじれったそうに見ながら体をゆする。
リツコが危険人物だという認識は誰もが持っている。碇ゲンドウにすべてを捧げ、その駒として生きることを選択した女性。今のシンジにとって最大の脅威でもある。
その女性が今目を覚ませば、シンジを一瞬で殺すことだって不可能ではない。
『赤木博士……リツコさん。どっちで呼んだらいいのかな、どっちも呼びなれているような気はするんだけど』
しばらくしてから音声が入る。
その声に導かれるようにして、彼女がゆっくりと目を開く。
『……シンジ、くん』
憎んでいるのか、悔やんでいるのか、判断に迷う目をしていた。
ただ、彼を見つめる彼女の瞳は、行き場のない思いが充満していた。
『ここは俺のほかには誰もいない。でも、モニターもされていれば盗聴もされている。いやなら全部切ってもらうけど。その方が俺を殺すのには都合がいいだろう?』
いきなり挑発的な言葉を切り出す。中の様子を見ている一同が体を震わせた。
『かまわないわ。あなたを殺してもあの人が戻ってくるわけじゃないもの』
『ロジックではないですね、男と女は』
『その通りよ。あなただって分かっているんでしょう、何しろ、あなたはあの子たちを本気で愛しているわけじゃない』
三人が愕然とする。リツコの断定的な口調に、思わず自分の立つ位置を見失った。
だが、それを和らげるのは当然、シンジの言葉だ。
『俺に対する復讐ですか、それは。博士があの三人を動揺させようとしてわざとそんなことを言っても無駄ですよ。俺は三人を信じていますし、三人とも俺のことを信じています』
全く動揺することのない少年の台詞に三人は自分を恥じた。その通りだ。だいたい、シンジが自分をどう思っているかが問題なのではなく、自分がシンジのことを好きだという気持ちが大切なのだから。
『三人を平等に愛せるとでもいうの? 人間の愛情は一人にしか向かないものなのよ』
『自分の価値観で話さないでください。言ったでしょう、男と女はロジックじゃない、って。碇ゲンドウがあなたのことを見てくれなかったからといって、俺が同じ人間だと決め付けるのはやめてほしいですね』
険悪なムードになる。リツコが突然行動に移ったりしないか、固唾をのんで見守る。
『わざわざこんなところまで、そんな話をしに来たの?』
『場所は関係ないでしょう。ギャラリーのない場所がいいというのなら、音声もモニターも切りますよ。その方がいいですか』
全然よくない。
見ている側は終始はらはらしている。いつこの二人が取っ組み合いになるのかが心配で、だ。
『そうね。多分、話としては重たくなりそうね』
『じゃあ、切りますよ。副司令、申し訳ないですけど、そういうことですからよろしくお願いします』
冬月は一瞬迷ったが、マヤに指示を出す。マヤも悩んだが、やがて全ての電源を切った。
モニターも、音声も、全く中の様子を探る方法が途切れる。
「ちょっと、本当にいいの、それで」
「もし中で何かあったら、MAGIが警告の合図を出す。それだけはシンジ君も許してくれているから」
危険はない、ということだ。だが、中で二人が何を話し合っているのか、それを知る術はない。
閉じられた扉の向こうで何が行われているのか、不安なまま時間だけが過ぎた。
二十分後、中から合図がある。と同時にモニターと音声が復活した。
中の様子は先ほどと変わっていない。ただ少し嬉しそうな様子のシンジと、無表情なリツコがいるだけだ。
『すみません、お手数をおかけしました。もういいですよ』
「ロック解除します」
がちゃり、と前時代的な音がして、三人娘がわらわらと侵入していく。
「いったい何を話していたんだろうな」
冬月が言うがマヤにも当然分かるはずがない。ただ首をかしげるばかりだった。
「何話してたのよ」
中に入ったアスカが真っ先に尋ねる。
「いろいろだよ。心配かけてごめん。でも、俺のことを心配してくれたのはうれしいな」
にっこりと笑うシンジにまたノックダウンされるアスカ。それに気付いた彼女はそっぽを向いて「知らないっ!」とだけ答えた。
「後で、話してもらえるんですか?」
マナが尋ねる。シンジも「当たり障りのないところはね」とだけ答えた。
その時だった。
「レイ」
リツコが、無表情な彼女に呼びかけた。
「今まで、いろいろとごめんなさいね」
表情こそ冷たいままだったが、それはお互い様だ。レイもまた「いえ」と一言だけ答えた。
「それじゃ、病室に戻ろうか」
そう言って少年は右手をレイに差し出す。
「ごめん、綾波。俺の手を握っていてくれないか」
レイは何も疑うことなくその手を取った。
──かすかに、震えていた。
リツコとの会話の内容について、詳しいことは明日話す、とだけ言ったシンジは早々に三人を帰し、一人ベッドに横たわる。
そう。これから先の話は、彼一人だけが理解していればいいだけの話。
ここから先を考える必要は、誰にもない。
彼、ただ一人だけが知っていればいい。
一睡もしないまま、真夜中までくる。
睡魔すら襲ってこないのは、それだけ自分が緊張しつづけているからだろう。
そう。必ず来る。
この場所に。
やがて。
病室の片隅に白い影が現れる。
希薄なその存在は、既にA.T.フィールドが完全に解かれた状態だ。
「はじめまして」
シンジはその影に向かって語りかけた。
「あなたが、リリスですね」
白い影は徐々に人の形を取り──そう、幼い頃の記憶にしか残っていない、あの碇ユイの姿となった。
『……』
リリスは冷たい目でこちらを見る。それも仕方のないことだ。理由は分かっている。いや、リツコと話してはっきりと分かった、と言った方がいいだろう。
リツコの母、赤木ナオコはMAGIに三つの人格をインストールした。科学者としての自分、母親としての自分、女性としての自分。
そう、レイがリリスの気持ちを考えたとき、母親としてはそれでよかったのかもしれない。だが、女性としてはどうだろうか。
最愛のアダムを殺した我が子を、憎むのではないだろうか──?
「あなたには、どれだけ謝っても、償っても、仕方のないことをしてしまいました」
そう。リツコとリリスは同じだ。共に最愛の男性に見てもらうことができず、そしてその最愛の男性を殺された。
自分、最愛の男性の子に。
「すみませんでした」
動かない頭を、なんとか下げようとする。
「親殺しの自分が言える台詞でないことは分かっています。それが免罪符になるなんて思っていません。ですが、自分は生き延びるために精一杯のことをしたつもりです」
リリスがゆっくりと近づいてくる。
その手が、自分の首にかかる。
リツコも、自分をこうして殺したかったのだろうか?
親を殺した自分には相応しい死に方だと思う。
尊属殺。
たとえ何があろうとも、親に手を上げるなどということは、自分のルーツを消すことと同じだ。
ルーツのない自分にはもう、生きる資格がないのだといえば、自分はリリスの言うことに従う。
だが。
『……最愛の男性を失い、そして我が子すら失う。そんな悲しみを私に背負えというのですか』
リリスの口から、綺麗な声が聞こえた。
「リリス。俺は」
『もう、いいのです。すべては済んだこと。そして、私ももう、この地上にはいられない』
リリスの姿が徐々に消えかかる。
「一つだけ教えてください、リリス」
口にしてから、その続きをためらう。
碇ユイの姿をしたリリスはそれを哀しそうに、そして優しげに見守る。
『……ええ。あなたが言いたいことは分かります。ですが、それは口に自ら出さなければいけません。それも、勇気、ですから』
「はい」
シンジは涙を流した。
「俺を、赦してくれますか。父親を殺し、アダムを殺した俺を、赦してください」
「赤木博士。俺は、あなたに謝らなければいけません」
そう。
リツコはゲンドウを愛していた。それはあの『フィルム』を見た時から分かっていることだった。それでもあの時、自分はゲンドウを殺すことを選択した。それは仕方のないことだった。そう、それ以外の手段などなかった。
人類補完計画など、発動させるわけにはいかない。人間はいつまでも群体のまま生きる。それが人間の歩むべき道なのだから。使徒との戦いにもそうして生き残ったのだから。
単体種はいつか終わりを迎えるが、群体種に終わりなどないのだから。
だからゲンドウは殺さなければならなかった。自分がエヴァに乗れば補完計画を発動するつもりだったから。そんなことをさせるわけにはいかなかった。
「シンジくん」
「俺は自分の行動を後悔してません。また同じ場面になったら、同じ行動を取るでしょう。でも、それは赤木博士を傷つける行動です。愛する人を奪われる苦しみは分かります。俺もこの戦いで亡くしかけましたから。だから──ごめんなさい」
シンジは動かない体で、なんとか必死に頭だけを下げる。それを見たリツコがため息をついた。
「もう、いいわ」
彼女も少し、穏やかな顔になっていた。
「私が報われないのは分かりきっていたことだもの。もう……疲れていたのかもしれないわ」
「ロジックではないですか」
「そうね。ロジックじゃないわ」
ふふ、とリツコは笑う。
「あなたに愛されているあの子たちは幸せね。女っていうのは、好きな人に愛されることほど嬉しいことはないものよ」
「それは男だって同じです。愛しい人と一緒にいて、幸せを分かち合うことほど嬉しいことはありません」
「そうね。人間だものね」
そうして、二人は笑った。
「でもね、もうひとり、シンジくんは謝らなければいけない相手がいるわね」
リツコが表情を戻して言うと、シンジも真剣な表情に戻った。
「はい」
「彼女がどうしているのかは知らない。でも、早いうちに確かめた方がいいわよ」
「ええ。多分今日あたり、向こうから接触してくると思うんです」
「向こうから?」
「はい。本当に、なんとなく、ですけど」
その予感がどうしてあったのかは分からない。だが、自分がこうして目覚めて、あれこれ見て回っているうちに、なんとなくそう感じた。
リリスが、自分を見張っているということを。
そう。
シンジがリリスに会って行いたかったのは謝罪。
愛しい人を奪ったという行為を赦すことは難しい。だが、それでも自分から言わなければならなかった。それが、懺悔なのだから。
『分かっています』
そしてリリスも、リツコと同じことを言った。
『私が報われないということは、分かりきっていたことですから』
リリスは微笑むと、さらにその姿が薄くなる。
『さようなら、子供たち。あなたがたはもう自由です。どうか永久に、安らぎと幸福を』
そして──その姿は消えてなくなった。
「さようなら。そして、ありがとう、リリス」
泣きながら、シンジは答えた。
「俺は、幸せになります」
そして、しばしの慟哭の後、シンジは安らかな眠りについた。
明けて、翌日。
つきものが落ちたかのような朗らかな笑顔を見せるシンジに、三人娘がまた顔を赤らめる。本当にこの少年は、日一日と素敵になっていく。
「なんだか、今日は随分と機嫌がいいみたいじゃない」
アスカが尋ねると、シンジは両腕を動かして答えた。
「まあね。もう体も随分動くし。今朝は立って歩くこともできたよ」
「もうそんなに回復したの?」
「まあ、色々あってね」
そう。おきてみるとシンジの体の麻痺はほとんどが治まっていた。もっとも、まだ体がうまく動かないところもあるが、それも直に治るだろう。
「今日中に退院するよ。そしたら今日はみんなで平和を祝してパーティしようか」
「いきなりな展開ね。本当にいいことがあったみたいね。それに、聞きたいこと、色々あるんだけれど」
「そうだね。俺も色々と話したいよ、みんなと。それに──」
シンジは笑顔で言う。
「俺が、綾波のこと、アスカのこと、マナのこと、本当に好きだっていうことを、もっと感じてもらいたい」
「なっ」
その不意打ちのような言葉に、アスカが完全に真っ赤になる。
「私も、シンジくんが好きです」
きゅっ、とマナが手を握ってくる。
「……私も」
そしてレイもまた、同じようにする。
三人の視線がアスカに向いた。
「私もそこに加われっていうの?」
「だってアスカは俺のことが好きなんだろ? アラエル戦で告白されたし」
「あれは忘れなさいっ!」
乱暴にアスカがシンジの手を取る。
そして、四人の手が重なった。
「ずっと、ずっと幸せでいよう」
シンジが、誓いの言葉を述べた。
「俺の命がある限り、みんなのことを愛するから」
Fin.
もどる