初号機が輸送されていく。
 目的地はネルフ本部。第七ケイジ。
 パイロットは、エントリープラグ内部。
 ぴくりとも動かない。
 目は閉じられ、一切の表情が消えうせている。
 こうしてみると、彼はなかなかの美青年だった。
 軽口をたたかず、優しく振舞っていれば、誰からも好かれる人間になることができただろう。
 だがそれを、時代は許さなかった。
 いや、許さなかったものは『時代』ではなかったのかもしれない。
(許さねえ)
 顔の筋肉を全く動かさず、心の中で青年は叫ぶ。
(殺してやる殺してやる往人絶対に殺す殺してやる殺す何があっても殺す絶対に殺す往人許さない殺す絶対許さない殺す殺す殺してやる殺すぶっ殺すこの手で殺す何があっても殺す絶対に殺す誰にも邪魔はさせない殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる絶対絶対殺してやる殺してやる殺す往人殺してやる)
 精神が崩壊に向かいつつあったのかもしれない。
 だが、青年はいたって冷静であった。
 少なくとも、自分のプライドをこなごなに砕いた男に対しては、命をかけて抵抗する権利があるものだと青年は理解している。
 処分も処刑も何も恐れるものはなかった。
 自分から戦場をとりあげ、あまつさえ友人殺しの異名を負わせたあの男を、この手で殺す権利が自分にはある。
 それが、青年には分かっていたのだ。
(殺す殺す殺す何があっても殺す絶対に殺すぶちのめすはいつくばらせる絶対に許さない殺すただ殺す殺すそれしかない殺してやる殺す絶対に殺す)

 コロシテヤル

 がくん、と初号機が揺れた。
 第七ケイジに、到着したのだ。
 青年はまだ動かない。
 エントリープラグ内部のLCLが排出されていく。
 そして、プラグがイグジットされる。
 外からの光が、少年の顔に刺さる。
 ゆっくりと、目を開く。
 右手で、髪にまとわりつくLCLを払う。
 立ち上がり、プラグを出る。
 眼下には、何人かの見知った顔。
 だが、今の彼にとってはそれも全てどうでもいいことであった。
「祐一さん」
 降りてきた青年に声をかけたのは佐祐理だった。
「往人はどこだ」
 鋭い視線に、佐祐理が怯む。
 今の彼の目は、街でゴロツキを相手にしていたときのもの──いや、殺意がこもっている分、あのとき以上に凄惨だ。
「な、なにを……」
「発令所か」
 彼は、ゆっくりと歩き出した。
 プラグスーツを着替えるため、では当然ない。
 発令所に行く。
 往人総司令に会いにいく。
 それは、つまり。
「ダメです、祐一さ──」
「どけ」
 前に立とうとした佐祐理を睨みつけて、行動を制する。
 邪魔をすれば、自分も殺される。
 刺すような視線が、それを物語っていた。佐祐理には理解ができた。
 そしてその場にしりもちをついた。
「ゆういち、さん……」
 だが、彼はそんなことにはかまっていられなかった。
 自分の先には、あの男がいる。
 そこまで、自分は行かなければならない。
 殺すために。
 罪を贖わせるために。
「サードチルドレン、止まりなさい」
 保安部の人間が何人か、彼の肩に手を置いた。
 瞬間、彼はその手を取った。
 同時に、音が聞こえた。

 ごぎっ。

 そして、そのまま保安部員を軽く放り投げた。
「が、が、あ、あああっ!」
 壁に叩きつけられた保安部員は喉から叫んでいた。
 本気であることが、誰の目にもよく見てとれた。
 彼は、殺す気なのだ。
 自分の上司を。自分の父親を。
 ネルフ総司令、碇往人を。
「止まりなさい、サードチルドレン!」
 三人の保安部員が銃を構えた──瞬間、彼の体が風のように流れた。
 一人目の鳩尾に拳を打つと、がっくりと膝をついて保安部員はその場で嘔吐した。
 彼はそのまま二人目の銃に右手をかけ、空いた左手で顎を強烈に打つ。脳震盪を起こした保安部員はそのまま倒れた。
 三人目は、女性の職員だった。
 だが、そんなことが彼の障害になるわけではなかった。

 ダンッ!

 恐怖にかられた保安部員が発砲する。佐祐理が目を背けた。
 が、それよりも早く彼は動いていた。左手で銃を、右手で職員の顎をつかんでいた。
「あ、あ、あああああぅあああああ」
 みし、みし、と女性の頬骨がきしむ。そしてそのまま──
「祐一!」
 が、その声に彼は手を離す──あと三秒遅かったら、手遅れだったかもしれない。
 彼は視線だけを送るが、すぐに無視して歩き出す。
 だが、その少女は彼の行く手に両腕を大きく広げて立ちはだかった。
 名雪だ。
 先に脱出していたおかげで、あゆよりも早く戻ってきていたのだ。
「お願い、やめて」
「邪魔だ」
「祐一」
 青年は、かまわずにゆっくりと近づいていく。名雪は意を決して、彼を止めようと彼に抱きつこうとした──
「あぐっ!」
 が、彼は右腕に抱きついてきた名雪を壁に叩きつけた。
 そして、何事もなかったかのようにさらに前進をつづける。
「あ、う……ゆ……い、ち……」
 その声も、全く届かない。
 彼の頭の中にあるのは、一つだけなのだ。
 第一発令所。
 そこに敵がいる。
 敵。
 敵。
 敵。
 自分の戦士としてのプライドを打ち砕いた男。
 殺さなければならない。
 自分のプライドを取り戻すために。
「そこまでだ、祐一くん」
 第一発令所の扉の前に立ちはだかった男。
 加持柳也。
 言うなれば、彼こそが『最終防衛ライン』といったところか。
「……どけ」
「そういうわけにはいかない。これも給料分でね」
 彼は立ち止まり、初めて身構えた。
 この男とだけは、正直戦いたくなかった。
 青年が唯一かなわない相手。それがこの男だった。
 力の差は充分に認めている。
 だが、戦わずに退くことはできない。
 これは聖戦なのだから。
「やる気だな」
「邪魔だ」
 彼の言葉に対し、柳也も身構えて戦闘体勢に入る。
 保安部員が二人を囲むように並ぶ。
 だが、彼にとってそれはどうでもいいことだ。
 目の前の男だけが、唯一にして最大の障害なのだから。
 青年が、動く。
 今までにないほど、全力で柳也に突進し、顔面めがけて右腕がうなりをあげる。
 が、柳也はかがんでそれをかわすと、左の肘を彼の鳩尾に落とした。がはっ、と彼の口から大量の息が吐き出される。
 するり、と柳也は背後に回りこむと彼を床に這わせて、両手を押さえた。
「手錠!」
 柳也が言うと、保安部員が一斉に青年の体を押さえつけ、後ろ手で錠をかけた。
「柳也」
 自分の肩ごしに、青年は男を見上げる。
「何故邪魔をする」
「仕方ないだろ。こうしないと君が処刑される」
「俺のためだと?」
「命を助ける、という意味ではね」
 保安部員がそのやり取りの間に鎮静剤を青年の腕に打ち込む。
 薄れ行く意識の中で、彼は──ようやく自分の敗北を悟っていた。










 第拾九話

 戦士の戦い












 携帯端末に打ち込みを続けていた美汐のところへ、ようやく秋子がやってきたのは丸一日たってからのことであった。
「休んでいなくていいのですか?」
 そう声をかけた美汐もまた、頭に包帯をしていた。だが隣に立った秋子の方がはるかにひどい怪我を負っているのは見て明らかであった。
 左腕を吊り、右腕の松葉杖によりかかっている。
「大丈夫です。それに今は人手が必要ですから」
 少なくとも、決定権限のある人間が多いにこしたことはない。
 この、松代の惨状を見ればそれは一目瞭然であった。
 使徒とカノンとの戦いは戦闘区域であったため被害はほとんどないに等しかった。だが、事故の現場となった松代ではそういうわけにもいかない。秋子と美汐がそろって無事だったことの方が奇跡のようなものだ。
「祐一さんの話、聞きましたか?」
 美汐がつとめれ冷静に言う。秋子は珍しく顔をゆがめて頷いた。
「まだ数日は拘留されるみたいですね」
「責任は全て、私にあるんです」
 美汐が手を止めて言った。
「長距離輸送のおかげで、使徒が参号機を乗っ取りやすい状況にあったことは考えれば分かったはずなのに」
「人間はとかく、自分の能力を過大に評価しすぎます。そしてそれはとても危険なことです。今回の事件は防ぎようが無かったと諦めて、そしてこれからの反省につなげていけばいいことです」
「秋子さん」
「そう。問題は過去ではなくて、未来ですから」
 自らに誡めるかのように言う秋子。
 そして美汐はまた端末に入力する作業を再開した。
「祐一さん、カノンを降りるかもしれませんね」
「そうですわね」
「どうするおつもりですか」
「選ぶのは祐一さんですから」
「ですが、今までの使徒戦を見ても、祐一さんがいなくなっては……」
「だとしても、強制することはできませんから」
 祐一が既に第三新東京市にいる理由はないということを二人とも心得ている。
 今まで祐一が自分たちに付き合ってくれていたのは、彼の善意によるところが大きい。
 彼が乗らないと決めたら、絶対にカノンに乗ることはないだろう。
「秋子さん。ここは私に任せて、第三に戻ってもらえませんか?」
「美汐ちゃん」
「今は、祐一さんを引き止めることが先決です。事後処理は他の誰でもできますけど、祐一さんを引きとめることができる人は、多くありません。私のかわりに、どうか」
 最後に私的な感情が入ったことが、秋子の行動を決定させることになったのかもしれない。
「分かりました。すぐに第三に戻る準備をします。向こうも今は仕事が多いでしょうし」
「ええ、お願いします」





(祐一さん)
「美凪、か。最近、よく会うな」
(はい……ぽっ)
「だから、何故赤らむ」
(それは秘密です)
「やれやれ……で、今日はどうした? また何か、話があるから来たんだろう?」
(はい。がんばったで賞です)
「またお米券か」
(お米、好きですから)
「聞きたいのは、往人のことか?」
(……どうして、あんなことをしたんですか?)
「お前なら分かると思ったんだけどな、美凪。俺は、お前をなくしてから、戦うことでしか生きる意味を見出せなかった。だが、あいつは俺から戦場を奪った。だから殺したかった。それだけのことさ」
(……祐一さんの戦場?)
「ああ。俺の戦場だ」
(……めりーくりすます……)
「ボケるのもいい加減にしろ。まあ、もう終わったことだ」
(戦うのを、やめるのですか?)
「戦場を取り上げられて戦うことなんかできないさ」
(でも……)
「なんだよ、美凪」
(祐一さんは、何のために戦うんですか?)





「命令違反、保安部員への暴行、これらは全て犯罪行為だ。分かっているな」
 祐一は答えない。
 答えるだけ無駄だと分かっている。
 手は三重の手錠で誡められ、回りには銃を構えた保安部員が何人も取り囲んでいる。
 さすがにこの状況で往人に襲いかかることはできない。それは即、死を意味することになる。
 祐一は完全に無視することに決めた。
 男の顔を見たくなかったから目を閉じた。
 耳を塞ぐわけにはいかなかったから、極力声が聞こえないように心を閉ざした。
「何か言いたいことはあるか」
 祐一に言葉はない。
 何があろうと、往人と話す気はなかった。
「カノンに乗る気もなくしたか」
 無視。
 祐一はその声を聞こえないものとして処理していた。
「いいだろう。現時点をもってサードチルドレンを抹消する」
「碇」
 隣に控えていた石橋が口を挟むが、往人は聞き入れなかった。
「かまわん。初号機はあゆをベーシックに、ダミープラグを補助に回せ。連れて行け」
 保安部員が祐一の腕を両側から押さえ、司令室から連れ出した。
(くだらない)
 馬鹿な奴が多い、とため息すらでる。
(何のために戦っていたのか、か……)
 最近は、自分でも戦いの意味を見失っていたところがあった。
 今回のことは、いい教訓になるかもしれない。
 誰かを守ったり、救出したりする戦いではなく。
 戦うために戦う。
 美凪を失ってから、自分はそう戦ってきたのではなかったか。
(北川の救出を一番に考えるなんて、俺らしくなかったな)
 だが、あのときはそれ以外のことは考えられなかった。
 それは、生まれて初めてできた友人を守りたいという衝動にかられたからに他ならない。
 それが人間の素直な、自然の感情。
 自分にもまだ人間らしい心が残っていたとは、正直驚きだ。
(まあ、それも全部終わった)
 戦場を奪われたときに。
 全ての戦いは終結を迎えたのだ。
(もう、俺の知ったことか)
 何があろうと。
 もうネルフで戦うことはないだろう、と祐一は誓っていた。





「祐一」
「祐一くん」
 ネルフ本部を出ると、そこに見知った、二つの顔があった。
「名雪、あゆ。どうした」
「こっちの台詞だよ……」
 名雪も心配そうに見つめてくる。無理もない。
「北川のことは悪かったな。助けられなくて」
「ううん、祐一のせいじゃないし」
「それから、この間は悪かった。痛かったか?」
「ゆ、祐一……」
 ぽん、と名雪の頭に手を置く。
「ま、短いつきあいだったけど、それなりに楽しかったよ。がんばれな」
「祐一」
「祐一くん」
 二人が『やっぱり』と表情に出す。
「どうしても、行っちゃうの?」
「ああ。もうここで戦う理由が完全になくなったからな」
「祐一くん」
「あゆ。もう守ってやることできなくなるけど、がんばれな」
 二人は、祐一を引きとめるつもりだった。
 だが、祐一を前にして言葉が何も出てこなかった。
 祐一が本気で、誰に何を言われても自分の考えを曲げないだろうことが分かったからだ。
「ゆ……」
「名雪。七年前の約束は、なかったことにしてくれ」
「え」
「正直、まだ思い出せないけどな。でも、俺はお前に会ったとき、もう死んでたんだよ。美凪をなくして、俺もなくなっていた。無駄に七年間生きてきた。本当はお前とも出会わずに、死んでいたんだ、俺は」
「祐一」
「だから、悪いな。お前にとってどんなに大切な約束だったとしても、もう守ることができそうにない」
「そんな」
 自分を助けようとした少女。
 心を閉ざした自分に、何度となく話しかけてくれた少女。
 今なら思い出すことができる。
 だが、たった一つ、その約束を除いては。
「どうして」
「悪い」
 名雪の顔に、絶望の色が浮かぶ。
 だがそれに、祐一は応えることはできなかった。
 もはやこの少女を救うことは自分にはできない。
「じゃあな。二人とも、がんばれよ」
 がんばれ。
 なんと無責任な言葉だろうか。
 自分は戦場を離れ、後を全て二人に押し付けて。
(北川には、自分のプライドのために戦っているなんて言ってたのにな)
 不思議なものだ。
 そのプライドを砕かれた今、二人を守ろうという意識もほとんどなくなっていた。
 祐一は歩き出す。
 二人は、それを止めることができなかった。





「祐一さん」
 次に声をかけてきたのは、佐祐理。
 不安げに、心配そうにこちらを見つめてくる。
「佐祐理さん」
 佐祐理は祐一に近づくと、右手で優しく祐一の頬に触れる。
(あたたかい)
 人の温もり。
 いつも優しく見守っていた女性。
 傍にいて心安らぐことができた女性。
(案外、この人と離れることが一番辛いのかもな)
 真剣に考えたことはなかったが、自分が戦ってくることができた要因の一つに佐祐理の存在があったことは事実だ。
「すみません。佐祐理さんの心の支えになるって約束したばかりなのに、こんなことになってしまって」
 佐祐理は黙って首を振る。そして、振るえて俯く。
「佐祐理、祐一さんに謝らないといけません」
「何をですか?」
「ダミーシステムに回路を切り替える作業をしたのは、佐祐理なんです」
 祐一は、ああ、と呟いた。
「気にしないでください。実行したのが誰であっても同じ結果になったことは間違いないですから。許されないのはあの男一人ですよ」
「それでも」
「佐祐理さんは自分を責めすぎます。この件に関しては、悪いのは往人だけにしておきましょう。少なくとも俺はそう思ってますしね」
「祐一さん」
「佐祐理さんと会えてよかった。それは掛け値なく、本気で思ってますよ」
「……」
 佐祐理は肩を震わせ、うつむく。
 引き止めたい言葉があるのに、それを口にすることができない。
 しても、意味がない。
 それが分かっていたから。
「それじゃあ、また会うことがあったら。舞と仲良くな」
「祐一さん」
 だが、言葉はそれ以上出てこず、祐一は微妙に笑ってその横を通り過ぎた。





「よ。待ってたよ」
 ネルフ本部入口。そこで待っていたのは柳也であった。なかなか面の皮の厚い人物のようだ。
「よく俺の前に顔を出せませたね」
「なに、祐一くんはそこまで俺を恨んでるわけじゃないだろう。俺は正々堂々、君と戦った。そのことについてはお互い了承済みのはずだ」
「俺が気に食わないのは、あなたが俺の気持ちを知っていながら、俺の行動を阻んだことですよ」
「分かっているさ。だが、君が一番気に食わないのは、自分の戦場を奪った往人に対してだろう。俺じゃない」
 祐一は唾を吐く。明らかに挑発的な行為であった。
「聞きたいことがある」
「いいぜ。今日もサービスデーだ」
「往人は何がしたいんだ?」
「こりゃまた唐突だな」
「だが、あんたはそれを知っているはずだ」
「確かに、何がしたいのかっていうことは知っている。何をしようとしているのかは分からないにしてもな」
 祐一は次の言葉を待つ。ふう、と柳也は息をついた。
「人類補完計画。それがゼーレが行おうとしていることだ」
「人類補完計画?」
「人類の心の隙間を埋め、人類を単一種にしようと企んでいる、らしい」
「単一種? 何十億っていう人間を一つにするってことか?」
「そう。ゼーレは人類が互いに争い憎みあう現状を憂い、全ての人間を一つにすることによってそれを防ごうとしている」
「大きなお世話だな」
 どんなに崇高な理想でも、それは祐一にしてみるとその一語に尽きる。
「俺は誰とも一緒になるつもりはないぜ」
「君は強いからな。だが、それを求める弱い人間もいる」
「だがそれはゼーレの思惑であって、往人の考えではない」
「そういうことだな。往人司令は人類補完計画の過程で得られる結果を必要としている、らしい」
「なんだよ、その結果っていうのは」
「人を生き返らせること」
「夢物語だな」
 どんなに強い願いでも、それは祐一にしてみるとそう表現される。
「生き返らせたいのは、俺の母親っていうわけか」
「ああ。碇観鈴。二〇〇四年に死亡。当時君は、三歳か」
「何も覚えてないな、母親のことは」
「結局、往人司令は自分のためだけに、使徒と戦い、犠牲を払っているというわけだ」
「くそ親父」
 祐一は足を踏み鳴らす。
「あんたはどうなんだ?」
「俺?」
「ああ。あんたは何を目的に動いている?」
「ま、往人司令と同じもの、かな」
「生き返らせたい奴がいるのか?」
「ああ。俺と、俺の相棒と、そのなくなった人。三人で過ごしていたころが俺にとっては一番幸せだったからな」
「くだらないな。死んだ人間は生き返らない。仮に生き返ったとしてどうするつもりだ? 自分たちだけ年をとって、生き返った人間はそのときのまま。時間の差だけが確実に残る」
「美凪が生き返ったとしても、君は同じことが言えるかな」
 思わず手を握りしめる。その人物名は、彼にとっては禁忌であった。
「あんた、今度こそ殺すぜ」
「だが、君にも分かるはずだ。いや、認められないかもしれないが、そういう気持ちを知ることができるはずだ。君だって、生き返ってほしい人間の一人や二人、いるだろう」
「同意を求めてどうする? 俺にまたカノンに乗ってほしいのか?」
「乗ってほしいのは事実だな。カノンが使徒に敗れれば、その時点で人類は滅びる。俺は滅びたくない。だがまあ、決めるのは君だ。強制なんかしないさ」
「強制するならぶっ殺す」
「だろうな。俺もそう思うよ。ただ一つ分かっているのは──たとえ抹消されたとしても、君はサードチルドレン、碇祐一であるということだけだ」
 柳也は懐から手帳を取り出すと、祐一に向かって放る。それを祐一は左手で受け取った。
「これは?」
「おそらくは必要になるだろう。もっていけ」
 中を確認する。ぱらぱら、とめくって、ぱたん、と閉じた。
「使う機会はないと思うぜ」
「使わないなら使わないでもいいさ。だが、情報はあるに越したことはない。そうだろう」
「道理だ。ありがたくいただいておく」
「それを使う日がくることを祈ってるよ」





 祐一は駅へと向かって歩いていく。
 解き放たれた戦士は、もはや帰る場所を失った私生児だ。
 どこに行けばいいのか、何をすればいいのかも分からない。
(……あの街……)
 ふと、祐一の脳裏をよぎったのは、あの、悲劇の起こった街のことであった。
(たまには、行ってみるのもいいかもしれない)
 行ったところで何をするというわけでもないだろう。だが、他にすることもないのなら適当に日本を、世界を飛び回ってみるのも悪くはない。
 時間と金は、いくらでもある。
(……おいおい、随分と豪勢な見送りだな。今度は……)
 駅に着いた祐一を待っていたのは、本来ここにいるべきはずのない人だった。
「こんにちは、祐一さん」
「こんにちは、秋子さん。お仕事の方はもういいんですか」
「これから本部に行くところですけど、その前に佐祐理さんから連絡がありましたので、駅でお待ちしていました」
「そうですか」
「祐一さん、今回の戦いは本当に申し訳ありませんでした」
「秋子さんのせいじゃないでしょう」
「いえ、もっときちんと参号機をチェックできていれば、同じ結果にはならなかったと思います」
「技術部も、美汐も秋子さんも全力を尽くした。それでも見破ることができなかったのは相手が一枚上手だったからです。自分が何でもできると思うのは危険なことだと思いますよ」
 それは。
 先日、秋子自身が美汐に向かっていったものと何ら変わりなかった。
「祐一さん……」
「とにかく、秋子さんも美汐も無事でよかった。知り合いがいなくなるのは寂しいですからね。それに秋子さんは名雪のこともありますし、長生きしてもらわないと」
「そうですね。祐一さんも無事でよかったです」
 秋子は祐一に近づくと、そっとその頭を抱き寄せた。
「あきこ、さん?」
「ごめんなさい……祐一さんに辛い思いをさせてしまいました」
 自分より背の低い秋子に抱きしめられるのは、悪い気持ちではなかった。
 考えてみれば、この人はいつも自分のことを見守っていてくれたのではなかったか。
 出会ったときから。
 今、このときまで。
 ここに来てくれたのだって、自分のことを心配したからに違いない。
 もし。
 もしも、この人が自分の母親だとしたら、これほど嬉しいことは他にないかもしれない。
 温かい。
 久しぶりに、人のぬくもりを祐一は感じていた。
「俺は大丈夫ですから」
 祐一は照れたように、顔をかすかに赤らめて離れる。
「秋子さんも、戦力が少なくなって大変だと思います。本当に申し訳ありません」
「祐一さんが決めたことですから」
 秋子は首を振った。
「無理強いをしたくはありません」
「助かります。正直、戦うことは今回で懲りましたから」
「戦うことが、ですか?」
「無意味な戦いをさせられたり、与えられた戦場を奪われたりすることが、ですね」
 祐一は肩をすくめる。
「往人の下で働くってことがどれだけ大変か、身にしみて分かりましたよ」
「あの人は、自分の目的のためにしか動かない人ですから」
「俺の母親を生き返らせるとかいう?」
「そこまで知っていたのですか」
「さっき柳也さんに聞いたんですよ」
「はい。往人総司令はそれを実現させようと努力しています」
「その努力をもう少し他に向けることができたらよかったんでしょうけどね」
 少し、間が置かれる。
 二人とも、声をかけることがためらわれていた。
「……本当は、引き止めるつもりだったんです」
 秋子がささやくように言った。
「美汐ちゃんからも、引き止めてほしいと言われましたし」
「美汐か。あいつも、辛いことが多そうだな……」
「祐一さんは人を元気に、幸せにする天才なんですよ」
 にっこりと笑った。
「名雪も、あゆちゃんも、美汐ちゃんも、佐祐理さんも、舞さんも、真琴も、私も、みんな幸せにしてくれていますから」
「でもそれも、今日までですね」
「寂しくなります」
「また会うことがあったら、そのときはよろしくお願いします」
「はい。必ずいつかまた、会いましょう」
 最後は戦士として。
 二人は手を交わして別れた。





 駅構内。
 北へと向かう電車の時刻表を調べていたとき、肩にぽんと手が置かれた。
(まだ他に誰かいたか?)
 やれやれ、と思い返しながら振り向く。
 そこには。
「……」
「言葉もないって感じね」
「香里……どうしてここに?」
「名雪に聞いたのよ。祐一がいっちゃうって」
 そこにいたのは、洞木香里。祐一の大切な友人の一人であった。
「いろいろ話したいことがあるんだけど、時間、ある?」
「ああ。別に急ぐ理由は何もない」
「よかった。ちょっと付き合ってほしいところがあるのよ」
「遠いのか?」
「ま、それなりにはね」
「どこに行くつもりだ?」
「それは、ついてからのお楽しみ。大丈夫よ、歩いて行ける距離だから」
 香里の言う歩いて行ける距離というのがどこまでを示しているのかは分からない。だが少なくとも二時間や三時間もかかるということはないのだろう。
「分かった。かまわないぜ」
「それじゃ、行きましょうか」
 香里は先に立って歩き出した。
 それを二歩遅れて、祐一はついていった。
 微妙な距離だった。
 その差を埋めることが祐一にはできなかったし、香里もそれを求めなかった。
 どこに連れて行こうとしているのかは分からない。
 どのみち、この先は急ぐことのない生活になるのだから、祐一は一向に構わなかったのだが。
 やがてたどりついた場所は、小高い丘の上であった。
 街を見渡すと、そのちょうど中央部にイチゴサンデルの残骸が横たわっている。
(俺が戦った場所、か)
 カノンに乗ってから、もうすぐ半年になる。
 その間、ずっと戦いつづけてきた。
 いろいろなものと。
「北川くん、死んだの?」
 質問は唐突だった。だが祐一は怯まなかった。
「ああ」
「そう」
 香里はただ街を眺めている。
 第三新東京市。対使徒迎撃用要塞都市。
 山に囲まれ、壁に囲まれた、閉鎖された空間。
「俺が殺したんだ」
「そう」
「制御がきかなくなった初号機が殺した。握りつぶしたんだ」
「そう」
「何とか助けようとしたんだが──できなかった」
「そう」
 香里の答は短い。
「私、中学のときから北川くんと一緒でね」
「ああ。前に聞いたような気がする」
「好きとかいう感情はなかったけど、でもやっぱり、一番大切な友達には違いなかった」
「そうだな」
「突然死んだなんて言われても……実感がわかないわ」
「だろうな」
「まして、カノンとか使徒とかって、説明されてもよく分からないしね」
「そうだろうな」
「そう……もう、会えないのね」
「ああ」
 香里がどういう気持ちでいるのか、祐一には分からない。
 言葉ではなんとでも説明できるだろう。親しかった友人が亡くなったという知らせ。現実感があまりにもないその事実を受け入れることも、拒絶することもできずにいる。
 そういう状況に、祐一は陥ったことがない。
 いつも、大切な人は自分の目の前で失われていった。
 北川にしても。
 そして、美凪にしても──
「祐一くん」
「なんだ?」
「行くの?」
 返答に詰まる。
 だが、決意が変わるわけではない。
「ああ」
「そう」
 単調な会話が続いていた。
 お互い、何を話せばいいのかがよく分かっていなかったようだ。
「昔話を聞いてくれる?」
「ん? ああ」
「私ね。妹がいたの」
「妹」
「ええ。死んだんだけどね。私の知らないところで。私の知らない間に。私は妹が死んだって聞かされただけ」
「それは」
「ええ。今回と同じね。だから、北川くんが死んだっていうことの意味は分かるつもり。もう会えない。それだけのこと」
「だけって……」
「だって、私、今でも妹が死んだなんて信じられないから」
「香里」
「分からないのよ。死ぬってことが。だって、いつも私の前からいなくなるだけなんだもの。分かるわけないじゃない。私は、私はいつだって!」
 香里が、祐一の胸倉をつかむ。その凄まじい形相に、祐一は抵抗することもできなかった。
「祐一くんまで、私の前からいなくなるの!?」
「香里」
「勝手に私の前に現れて、勝手にいなくなるなんて、そんな薄情なことしないでよ!」
「か、おり……」
 ようやく、分かった。
 香里がどういう気持ちで、今いるのか。
 それは失うことへの恐怖。
 自分のどうにもならないところで、自分と関わりあるものがなくなっていくことから生じる孤独と寂寥、そして悲哀。
 それらが混ぜ合わさって、恐怖を生み出している。
「失うくらいなら、初めからいなければよかったのに……」
「香里」
「お願いだからいなくならないで……」
 これほど。
 純粋に、まっすぐに、祐一を引きとめたのは香里だけであった。
 自分が好んでカノンに乗っているわけではないということを、ネルフの関係者は全員知っていた。だから引き止める言葉をもたなかった。
 だが、香里は違う。
 カノンパイロットとしての祐一ではなく、単なる友人としての祐一を引き止めていた──全力で。
 必要とされている。
 それは、祐一の心に凄まじい影響を与えていたことは、確かであった。
「香里、俺は……」
 その、ときであった。

 ウウウウウウウウウウウウウウウ〜

 緊急警報。
 二人の意識が現実に引き戻される。
 そして『それ』が突然姿をあらわした。
「使徒……」









後編

もどる