序:再会の時刻





 ルーク・キルシスがレグニア私立学校の教員になってから3年の月日が流れた。
 レグニア私立学校は夏−秋の前期、冬−春の後期の2期制をとっている。つまり、次の夏からは彼は教員生活4年目を数えることになる。
 この3年、いろいろなことがあった。
 大切な友人だと思っていた人物との突然の別れ。友人と一緒に彼はこの学校で教員をやるはずだったのに、1人で教員になってしまった。そして、1人だけで仕事を続け、3年の月日が流れることになってしまった。
 それも全ては、3年前の春、あの卒業式の日に端を発しているのだ。





 3年前。
 僕たちは3人グループだった。
 いつも明るく正義感強い、3人のまとめ役だったフォトン。
 真面目なだけが取り得だった僕、ルーク。
 そして、あの卒業式の日から失踪してしまった友人、リック。
 フォトンは生来の明るさを発揮して見事地方警察官の職を得ていた。今日も彼は犯罪捜査であちこち走り回っているはずだ。
 僕は本当に真面目なだけが取り得で、ずっとこの私立学校の教員になることを夢見ていた。だからしっかりと学問もこなしていた。1年のときから席次で5番以内から落ちたことは一度もない(レグニア私立学校は5学年制で、半期ごとに全校生徒を合わせて席次が出される)。
 その僕を軽く飛び越えてしまっていたのがリックだ。
 彼は入学したときから10回全て首席。当然1年のときなどは上の学年の先輩方をおしのけて首席となるわけだから、どれだけ知識をもった人間かということが分かる。
 僕は彼を尊敬していた。知識をもっていることだけではない。その知識を手に入れる努力を惜しまない姿勢に心を打たれたのだ。
 彼は空いている時間のほとんどを体力トレーニングと図書館での資料読みで没頭することに費やしていた。
 1年のときからずっと、彼は努力することを1日たりとも怠らなかった。
 彼の席次1位はその成果なのだ。
 どれだけ真面目な僕であっても、やはり友人と遊びに行ったり、趣味・娯楽に興じることはある。
 だが、彼にはそれがなかった。ある意味、娯楽のない人間であるという言い方もできるが、彼の場合は決してそういうわけでもない。街中で行われる演劇のほとんどを彼は見ていたはずだし、クラスメイトとも時には話すこともあったはずだ。
 はず、としか言えないのが寂しいところだ。結局僕は彼のことをほとんど何も分かっていなかったに等しい。
 ただ分かっていることがあるとすれば、彼の生命はある人物によって握られていたということだ。
 僕たちより2年上の先輩。レティア・プレース。
 入学当時13歳の彼は、既に彼女と同棲していた。
 彼が入学するまで、レティアは4回連続で首席を取っていた。だが、彼が入学してからの残り6回は全て次席だった。
 リックがいなければ、レグニア私立学校初の10回連続首席奪取の快挙は彼女のものになっていたはず。それほどの奇才。
 レティアのことは、よく知っている。
 リックが彼女と同棲しているということを聞いたのは、確か僕たちが3年目のときだった。彼女が卒業する直前だったから、間違いない。
 レティアは魅惑することに長けている女性だった。
 リックが彼女と同棲していると聞いたとき、僕は「すぐにやめた方がいい」と言いかけた。だが、理性を総動員して、なんとか口にすることを避けた。口にしたが最後、二度と彼と口をきく機会は失われてしまっただろう。それほどにリックは彼女に傾倒していた。
 普段全く無表情なリックが、彼女の話をするときだけ途端に幸せそうな表情になる。
 それを見たとき僕も、リックが幸せであるならやむをえない、と納得せざるをえなかった。
 それから、2年。
 僕たちの、つまりリックの卒業式の日に彼女は死んだ。
 自宅で、首を吊って亡くなったのだ。
 そのときの彼の様子は、今でも目にしっかりと焼き付いている。
 その日フォトンは用事があったのですぐに帰ったが、僕はリックと一緒に彼の家まで行ったのだ。
 あの日の会話まで、僕は覚えている。

『次の夏からは、お互いここの教師なんだな』
『ああ』
『これで君も、レティアさんを食わせてやれるな』
『……ああ。夢、だったからな』
『夢?』
『レティアと、ずっとこの街で暮らしていくことが』
『そうか』
『それがかなって、俺は嬉しい。これからもずっと、レティアと一緒に研究しながら生活していきたいと思っている。ずっと……』

 そして、扉を開けた先には彼女が天井から吊り下がっていたのだ。
 僕も驚いていたが、彼の比になるようなものではなかった。
 リックは目を見開き、1分、全く身動き一つ取らなかった。瞬きすらしなかったのではないだろうか。
 そのまま、前に倒れた。
 現実を受け入れることができずに、彼は世界を拒絶したのだ。
 僕が警察と病院に連絡し、彼女と彼とを見てもらった。
 僕は、他殺に違いないと信じていた。
 彼女が死ぬ理由が全く見当たらない。自殺などするはずがない。
 ……と同時に、最初に彼女を見たときからずっと胸の中にあった不安。これが首をもたげてきた。

『彼女は、彼に絶望を与えるために自殺してみせたのではないか?』

 それもただ、彼を苦しめるためだけに。
 自らの命を使って。
 馬鹿げた考え方だ。分かっているのに、僕の思考は止まらなかった。
 そして解剖の結果、彼女は明らかに自殺だと判定された。
 争った跡はどこにもなかった。
 死亡時間は、午前10時頃。ちょうど、リックが卒業証書をもらっているころだった。
 何故死んだ?
 何故リックを残して自殺したのだ?
 遺書すら、残さずに!
 僕は、ずっとリックに付き添っていた。
 彼は1日たってから目を開けたが、全く口を開かなかった。それは、何も言わない、という意味でもあったが、何も食べない、という意味でもあった。
 注射で栄養剤を注入してはいたが、日毎にやつれていくのがはっきりと分かった。
 目をあけているときは、無表情のまま絶えず涙を流しつづけていた。渇くことはなかった。
 そして、10日目。
 僕が看病に疲れ、うとうとしていた間に、彼は失踪した。
 全ての痕跡は残っていなかった。僕が気づいたときには、既に街から外に出ているようだった。もちろん、追いかけることなどできなかった。
 僕は、大切な友人の力になることすらできなかったのだ。
 僕が守るべき、大切な友人。
 僕は、守りきれなかった。
 今生きているのか、死んでいるのかすら分からない親友。尊敬すべき友。
 もし、もう一度会えることがあったら、僕は二度から目を離すことはないだろう。





「あれから、3年か……」
 黒い髪の青年は、つい、過去へと旅立ってしまった自分に苦笑する。
 吹っ切れていないのは、自分の方ではないだろうか。彼はときどきそんなことを思う。
 あのとき、自分が親友を助けることができていたら。
 あのとき、目を離さずにずっと見守っていることができていたら。
 今、ここに彼は存在していたかもしれないのだ。
(……君はまだ、生きているのか?)
 せめて消息が知りたい。生きているのか、死んでいるのかだけでもいい。
 でも、彼はきっと戻ってくることはないだろう。
 彼の人生の中で、レティアほどに影響を与える人間は絶対にいまい。
 だからこそ、この街に戻ってくることはない。それどころか、絶対に関わろうとすらしないだろう。
(僕は、君を待っているのに)
 たった一人の尊敬できる友人。
(もう、帰ってくることはないのだろうか……)
「ルーク」
 年長の先生が声をかけてくる。ルークは「はいっ」と立ち上がって振り返る。その先生が嫌そうにルークを見上げる。
「学校長がお呼びだ。すぐに校長室へ」
「分かりました」
 突然の呼び出しに不安を感じながらも、ルークはメモ帳と筆記用具を持って校長室へと向かう。
 仕事、となると頭の切り替えは早い。ちょうど春が終わって現在は学校も休業中。だが、教職員は次のシーズンへ向けて既に動き始めている。
 営利を追求しなければならないので、当然募集活動にも力が入る。学校見学、体験学習など、いろいろなことを行っている。
 とはいえ、ルークはほとんどそういう仕事には携わらない。彼は5年B組のクラス担当となることが既に決まっている。次の学期の下準備をするのが今の役目だ。
 具体的に言うと、全学年の時間割作成。人気のある講座が重ならないように工夫して作らなければならないので、これはかなりの労力を要する。
 生徒からの要望も取り入れ、できるだけ不満が残らないようなものを作ろうとすると、当然1日や2日で終わるような作業ではなくなる。
 その時間割の作成と教員の配置がだいたいすんでいたのが、今日の段階だったのだ。
「ルーク、入ります」
 ノックをしてから校長室に入る。
 相変わらず、煙草の匂いが充満している。換気くらいすればいいのにとも思うが、この煙に包まれているのが校長は好きらしい。
「ああ、ルーク君。かけたまえ」
 校長に言われ、部屋の中央にあるソファに腰掛ける。校長もその前に座った。
「今日は、何のご用でしたか」
「いやいや。教員配置に変更があったから伝えておこうと思ってね」
「配置、変更ですか」
 レグニア私立学校は当然学問を享受する場である。入学にもあらかじめ、読み書き算はできることが前提条件として掲げられている。
 とはいえ、生徒が修める学問は一分野に留まらない。政治、経済、法律、歴史、地理、科学技術、文学、音楽、芸術、武芸一般。数えればきりがない。
 半期ごとに修めなければいけない科目は全部で10。1日に3つ、講義を受講することができ、週に5回、学校は開かれているので、半期で15の科目を受けることができる。15のうち10の単位を取らなければいけない、ということだ。
 だが中には必修単位もある。教養総合と運動総合がそれだ。この2つは5年間欠かさず常に受けつづけなければならない。2つの単位のどちらか1つでも落としたら、その時点で留年が確定する。
 そして全員がこの2つを受講しなければならないため、教養総合と運動総合の講義は週に1回だけではなくいくつも設けられている。受講者数が極端に多くなるため、人数の振り分けが必要なのだ。
 そして、それに応じて職員の配置が決められていく。教養総合と運動総合を教えられる先生はあまり多くない。なにしろ、総合講座を専門に扱う先生がいない。たいてい何かの講座とかけもちでやることになる。従って他の講座も受け持たなければならないので、時間割もそれが重ならないように注意しなければならなくなる。
「ああ。上半期だけ、教養総合講座で特別に臨時講師を雇ってね。まあ、もしかすると途中でいなくなるかもしれないが、そのときは仕方が無い。別の人間を雇うとするよ」
「教養総合ですか。それは助かります」
「だろう。ま、もしかしたら2ヶ月、3ヶ月でいなくなってしまうかもしれないが、とりあえずは教養総合で5回分全部の授業に入ってもらうことになったから、彼を使ってやってくれたまえ」
「分かりました。それで、お名前の方は」
「今来るから紹介しよう……といっても、紹介の必要はないと思うがね。君の知っている人物だ」
「僕のですか?」
 尋ね返したとき、部屋の外からノックをする音が響いた。
「来たようだ。入りたまえ」
 しずかにドアが開き、そこから一人の男性が入ってくる。

「……え……」

 最初、そこにいた人物を判別することがルークにはできなかった。
 いや、判別はとっくにできていた。それを信じることができなかったのだ。
 立ち上がり、よろよろと二歩、近づく。
「……久しぶりだな、ルーク。心配をかけた」
 彼の口から、懐かしい響きが聞こえてきた。
「リック、なのか……本当に」
「ああ」
「リック……リック!」
 思わず、ルークは彼に抱きついていた。
 かけがえのない、大切な親友。
 生きていた。
 戻ってきてくれた。
 それがどれほど、嬉しいか。
 彼にはきっと分からないだろう。
 彼はそれを求めていない人間だから。
 だが、ルークにとっては何よりも大切なもの。
 自分の目標であり、憧れ。
 そして、自分の不注意から失われてしまったもの。
 戻ってきた。
 もう二度と、離さない。
 そう誓った。





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