終:未来





 お願いします。リックを、リックを助けてくださいっ!
 大丈夫です、すぐに治療を施します。必ずリックさんは助けてみせます。
 お願いです、どうか、どうか──
 分かっています。リーシャさんはここに。ルシアさん、彼女をお願いします。
 はい。お兄ちゃんをよろしくお願いします。
 リックを、どうかリックを!



 リーシャによって連れ帰られたリックは早急に処置がなされたものの、その後2日間、目覚めることはなかった。だが命に別状はないということは既に分かっており、リーシャとルシアがその間ずっと付き添っていた。
「あんまり、心配かけさせないでよね」
 ぽつり、と呟く。ルシアは少しだけ顔を曇らせたが、ふとあることに気付いて立ち上がる。
「水、取り替えてくるね」
 そう言って花瓶を手に取る。リーシャはその姿を見て首をかしげた。
「さっき取り替えたばっかりだよ?」
「1日くらい前にね」
「そうだっけ?」
「時間がたつのって、早いよね」
 そう言い残して、ルシアは出て行った。
 リーシャもまた立ち上がり、窓から外を眺める。
 誰も知らない。古い時代の悪魔が蘇えったことなど。そしてその悪魔によって国王と宰相が殺められたことなど。
 国王崩御の裏で起こっていた、悪魔と1人の傭兵の戦いのことなど。
 でも、それでいいのかもしれない。
『いつでも真実はほんの一握りの人間しか知らないものだ』
 リックはそう言う。
『真実は常に危険と共にある。真実が知りたいのなら、命をかけることが必要になる。誰もそんなことはしなくていい。真実を知るのは一握りの人間で充分だ』
 あれはいつのことだったろう。自分が『SFO』に入って最初の任務だっただろうか。
(私が知っていればいい)
 リックの戦いを。
 リックの苦しみを。
 リックが抱えている全てのものを、自分が半分引き受けていきたい。
 いつまでも。



『……久しぶりだな、レティア』
 豊かに波うつ金色の髪。
 雪よりも冷たく白い肌。
 見る者を魅了し、かつ裁きをくださんとする意思を秘めた瞳。
 口もとに浮かぶ、微かな笑み。
 そして。
『そういえば、死体にその首飾りはかかっていなかったな』
 自分の前では一度もはずしたことはなかったのに。
(知りたい?)
 直接頭の中に声がかかる。
 どうなのだろう。
 知りたかった。ずっと。あの日から6年間、リーシャと結婚してからも、ずっとそれだけが頭の中に残っていた。
 知ることはできないものだと思っていた。
『教えてくれるのか?』
(あなた次第よ)
 自分次第?
 言われて、この6年間のことを振り返る。
 無気力だった最初の3年間と、人としての感情を取り戻してきた3年間。
 正直、特にこの1年間は──
『……いや、いい』
(そう)
『俺は卑怯者なんだよ、レティア』
(そう)
『お前が俺の前からいなくなったんじゃない。俺がお前から逃げていたんだ』
(そう)
『もう手遅れなんだよ』
(そうね)
『俺には──』
(そう。もういいわ)
 綺麗な微笑み。
 ずっとその微笑みに包まれていたかった。
 ずっと甘えていたかった。
 だが、現実は甘くない。
 それをレティアは教えてくれた。
(……ありがとう)
『何がだ?』
(あなたのおかげで、助かったわ)
『……?』
 ああ、そうか。
 そうだったのか。
(それじゃあね、リック。幸せに)
『ああ。もう会うこともないだろうな』



 目が覚めると一面の赤。
 夕陽が窓から差し込んで、部屋を赤く染め上げていた。
 そして隣には付き添いに疲れて眠っているリーシャの姿。
「……眩しいな」
 右手で光を遮り、ゆっくりと起き上がる。
「ただいま、リーシャ」
 優しくその髪を撫でる。整った寝息が聞こえてくる。
(──リーシャがいるから)
 そう言おうとした自分を、レティアは無理に止めた。
 聞きたくなかったからだろうか。きっとそうなのだろう。
(俺が甘えられる人間は少ない)
 自分に好意を持つ者は過去に少なくなかった。だが、誰もレティアのかわりになどなれなかった。
 リーシャだけが、自分の甘えられる相手だった。
 そしてもう、自分たちは1つとなったのだ。
 自分の半分を切り捨てることはできない。
 レティアの誘いにのらなかったのは、何よりもこの世界に光が満ち溢れていたから。
 太陽のように明るい光が。
「う……ん……」
 ゆっくりと目が開く。
 その瞳に、自分の顔が映る。
「おはよう、リーシャ」
「リッ……」
 がばっ、と飛び起きて自分の胸に飛び込んでくるリーシャ。
 怪我は痛かったが、右腕でしっかりと抱きとめた。
 自分の半分を。



 リックの怪我は確かにひどかったものの、数日のうちには歩けるほどに回復していた。だがしばらくはリーシャとルシアに『絶対安静』と声をそろえて言われ、リックは渋々ベッドの上にいることになった。
 ある日のこと、フィラスが見舞いにやってくると、リックはリーシャとルシアの2人に席を外してもらい、フィラスと2人きりになった。まず、リックが今回の事件の顛末を記した報告書を、2種類提出した。
「フィラス隊長。失意のあなたにこう言うのもなんですが、判断を間違えましたね」
 リックはまず最初にそう述べると、フィラスは深々と頭を下げた。
「リックさんの言われる通りです」
「最初から、知っていたんですね?」
 フィラスが自分に対して何を隠していたのか、事件が終わってからようやく気がついていた。
 初めにフィラスは『今回の事件で知りえた秘密についてはあまり口外しないでいただきたい』と言った。つまりは、それが全てだったのだ。
「犯人がクレメント宰相だということも、そしてクレメント宰相がキュドイモスを復活させたのだということも、あなたは全て知っていた」
「仰る通りです」
 フィラスは全てを知っていたのだ。そして、王族が犯罪を起こしていることに対してどう対処すればいいのか悩んでいた。だから捜査能力に富んだ『SFO』のファイターを呼んで、事態をうまくとりもってもらおうと考えたのだろう。
 おそらくは、いざとなれば王族の犯罪を告発した者は、警備隊とは無関係の人物であると切り捨てることすら考えて。
 だが、自分たちに真実を打ち明けなかったことがカルロス2世を殺し、またクレメント宰相をも殺す結果となった。キュドイモスは封印されエリオット王子が無事だったとはいえ、フィラスの判断ミスは大きな代償を生む結果となったのだ。
「私は、小心者なのです。もし、私がクレメント宰相を告発したら、おそらくはクレメント宰相は逆に私を犯罪者にしたてあげたでしょう。そうすれば私も、私の家族も命がありません。私は自分の命と引き換えに、尊敬する国王陛下の……!」
 フィラスは体を震わせていた。おそらくは辛い決断であっただろう。しかし、おそらくはこれが普通の人間というものではないだろうか。自分や家族の命がかかっていて、どうして自分の職務を遂行することができようか。確かに公職に就いている限り、そういった怠慢は許されないのかもしれない。だが、リックは自分と家族の命を守ろうとしたフィラスを、これ以上責める気にはなれなかった。
「フィラスさん」
 リックは目に涙を浮かべているフィラスに向かって声をかけた。
「この報告書は、片方はクレメント宰相のことが書かれていますが、もう片方は犯罪の実行にあたった者のことだけが書かれています。どちらを採用するか、あなたに任せますが」
 リックはそこで一度言葉を切った。
「事件が解決したことですし、最初のフィラスさんのお願い通り、クレメント宰相のことについては伏せておかれた方が、国家としての体面上もよろしいのではありませんか?」
 その言葉は、フィラスの心を救ったようであった。フィラスは何度もリックに感謝の言葉を述べ、そして同時に謝罪の言葉を述べた。リックに向かって、フィラスは懺悔をしたつもりでいたのかもしれない。
 真実は、一握りの人間さえ把握していればそれで充分だ。無理に全てを暴いて、全ての人間が不幸になる必要はない。
 とにかく、これで事件の全ては解決した。もう、王都ヒュペリオンで誘拐事件が起こることはないだろう。



「なあ、ルシア」
 その夜、リックはいつもより穏やかな表情でルシアに語りかけた。ルシアはそれに対して驚いていたのだろうか、目を丸くして「どうしたの?」と尋ねてくる。
「この神剣イアペトス」
 リックは再び包帯で巻かれているイアペトスを手に取った。
「トレインのところに、先に持って帰ってくれないか?」
「ええーっ」
 ルシアが心底いやそうな顔をしたので、リックは何か自分は悪いことを言ったかと心配になる。
「その剣、ここの王宮のものじゃないの?」
「どうせここにあったって役には立たないさ。正当な所有者は俺になったんだから」
 事件の一部始終は全てリーシャとルシアには話してあった。当のリーシャといえば、リックの隣に腰かけて2人の話を聞いている。
「うーん、でもなあ」
「持ってきたんだから、持って帰ることだってできるだろう?」
「そうは言っても、中身が何だか分かってないのとそうでないのとじゃ、全然アタシの精神状況が違う」
「それじゃお前、俺が必要だと言って持ってきてもらったのに、これが特別大事なものじゃないとでも思って運んできたのか?」
 ルシアは、うー、と唸った。
「というわけだ。先にトレインのところに持って帰っていてくれ」
「リックお兄ちゃんのイジワル」
 くすり、と端で聞いていたリーシャは笑った。
「でもさ、どうしてアタシだけ先に帰れなんて言うの? お兄ちゃんとリーシャはどうするの?」
 確かに、とリーシャも納得してリックの顔を見つめた。その視線に気づいたのか、リックは優しく微笑み、リーシャの頭をそっと撫でてくる。
「まだ、行くところがあってな」
 リーシャはきょとんとした。何か、まだ仕事が残っているのだろうかと不安になる。
「お前、約束忘れてるな?」
 リーシャはリックに言われて悩んでしまったが、やがて「あ」と間抜けな声をあげて思い出したことがあった。
「海!」
 手を、ぽん、と叩いてリーシャはリックを見つめた。
「覚えててくれたんだー」
「忘れてたのはお前の方だろうが」
 リックは目を細めてリーシャを見つめてきた。少しだけ、リーシャは肩身の狭い思いである。
「それとも、忘れてたんだったら別に行く必要もないか」
「ああああ、そんなことないっ! 覚えてる、しっかり覚えてるからっ!」
 楽しそうな夫婦の会話を見て、今度はルシアの方がくすりと微笑んでいた。
「そっか、夫婦水入らずってわけね。それじゃアタシの出る幕じゃないか」
「そういうことだ。大体、このところ俺たちはずっと働きづめなんだ。たまには長期の休みも欲しい。まあ、2週間くらいで戻るとトレインに伝えておいてくれ」
「分かった。それならまあ仕方ないけど……それ、運ばせてもらう」
 いかにも、しょうがない、というような様子でルシアは言った。それがあまりに面白かったので、リックもリーシャも声を立てて笑った。



 それから5日後。2人は王都ヒュペリオンを後にすることになった。依頼主のフィラスは当然のように見送りに来たが、驚いたのは政務で忙しいはずのエリオット王子までが2人の見送りに来てくれたということであった。
「王子、こんなところに1人で来て、いいの?」
 城の東門の所まで、エリオット王子が見送りに来ていたのである。もちろん城門の外にまで行くわけにはいかないが、せめてここまでなら、とフィラスに連れてきてもらったということである。
「お姉ちゃん、いろいろとありがとう」
「いえいえこちらこそ。キミも、頑張るんだぞ」
 エリオットが手を差し出してきたので、リーシャは笑顔でその手をとった。おそらく、王族と握手するなど、一生で一度の経験であろう。
「リックさん、本当にお世話になりました」
「ま、依頼があれば何でもしますよ。そのための『SFO』ですからね。もっとも、我々が本当に必要になるのは戦争の時くらいしかありませんから、もう会うこともないかと思いますけど」
「いえ、ヒュペリオンに来られたらぜひ警備隊にお立ちよりください。宿くらいは貸与できますから」
「考慮しておきますよ」
 リックは20以上も年の離れたフィラスと最後に1回だけ握手を交わし、それを別れの挨拶とした。
「いろいろ、あったな」
 城門から出て、ヒュペリオンの像を見ながらリックは呟いた。
「そうだね。思えばここが最初だったんだよね。少し前のことなのに、随分昔のことのような気がする」
 リックも同じ気持ちを抱いていた。思えば、最初からずっとレティアの幻影に振り回された日々だったのかもしれない。
 リーシャにしても、リックへの想い、レティアや父親への想いが錯綜し、混乱した日々であった。本当に、なんと長かったことか。
「さて、それじゃあ駅へ向かうとするか。昼の馬車に乗らないと、次の街に行けないからな」
「あ、待ってよリック」
 リーシャは先に歩きだしたリックに追いつき、腕を組んだ。
「ねえ、本当に、そっちの腕、大丈夫?」
 リーシャは反対側を覗き込むように、包帯で巻かれて首から吊られているリックの左腕を見つめた。まだ本来であれば絶対安静であるはずであった。何しろ鎖骨にひびが入っていて、左腕に裂傷を負っているのだから。
「大丈夫だ。3日間馬車に揺られるくらいなら何ともない」
 本当はかなり苦しい旅になるだろうが、とリックは心の中で呟いた。それでも、リーシャに心配をかけさせたくなかったのだ。



 そして、馬車に揺られること3日。2人はようやく港についていた。さすがに港だけあって活気があり、人の数も多い。
「なんか、変な匂いがする」
「それは潮の香りだ。気に入らないか?」
「ううん。なんか、気持ちいい」
「そうか」
 リックはリーシャに微笑みかけると、少し離れたところにある小高い丘を指さした。
「あそこなら、きっと眺めがいいだろうな」
「あ、うん。ボクもそう思ってたんだ。行ってみようよ」
 リーシャは初めて見る海というものに、すっかり心を奪われていたようであった。これほど喜んでくれるとはリックは思ってもいなかった。このところ、ずっとリーシャには辛い思いをさせていたから、これだけ喜んでくれるとリックも少しだけ安心することができた。
「ほらっ、早く」
 リーシャがリックの右腕を掴んで走りだそうとするので、リックは左腕の痛みを表情に出すこともなくリーシャの後を追った。
 そして1時間ほどして、ようやくその丘の上に立つと、リーシャはその広大さに何の言葉もなく、ただ水平線を見つめていた。
 リックはそんなリーシャの傍らに立ち、そっとリーシャの頭を撫でる。リーシャはそのリックの胸に、ことん、と頭をのせた。
「本当に広いんだね……」
 2人の耳に響いてくる打ち寄せる波の音。港にはいくつもの大きな船。はるか遠くにうっすらと見える水平線。海の青、空の青。それらを全て照らしだす太陽。
「海って、いいなあ……」
 リックは忍び笑いをするが、リーシャはそれが皮肉られているのではないことが分かっていたので、リックが笑うままにしておいた。本当に、いいものはいいものなのだから。
「ねえリック、お話があるんだけど」
「また、いい天気だね、とでも言うつもりか?」
「あ、うん。それもあるんだけど」
 リーシャはくるりとリックの方を向いて、とても穏やかな笑顔を浮かべた。リックはそんなリーシャの笑顔を見るのは初めてだったような気がした。これは、元気いっぱいの子供っぽいリーシャのいつもの笑顔ではなかった。もっと大人びた、女性らしい笑顔であった。
「ボク……子供、できたんだ」
 リックの顔から表情が消えた。驚いているのか、それとも他の感情なのかはその様子からはリーシャには判断がつかなかった。
「ほら、この前具合が悪いからって見てもらってきた、でしょ?」
「ああ、そうだったな」
「もう2か月、だって。しばらくは『SFO』休職しなきゃだめだなー」
「そうか。子供が」
 リックは少し哀しげな目をしていたようにリーシャには思われた。リーシャはそのリックの表情を見て、少し不安げに尋ねた。
「嬉しく、ないの?」
「いや、少し戸惑っているだけだ」
 自分に子供が。自分のような罪の深い人間に子供ができる。それは、果たして許されることなのだろうか。
 リックはしばしの間考えていたが、やがて1つ大きく息を吐くと、静かに呟いた。
「久しぶりに、レグニアに帰るか」
 リーシャは目を見開いた。
「きちんと子供が産める環境の方がいい。俺も、しばらく『SFO』を離れてレグニアにいることにする」
「ホント?」
「ああ。だから、丈夫な子供を産んでほしい」
「……よかった」
 リーシャは心から安堵してリックの胸にもたれかかった。もしかしたら、リックは子供ができたことを喜んでくれないのではないか、という不安があったのだ。何しろ、自分はレティアではないのだから。
「絶対、丈夫な子供を産むよ。だから」
 リックは、次のリーシャの言葉を待った。
「いつまでも、傍にいてね?」
 その言葉を聞いて、リックはこれまでにないくらい優しく微笑んだ。そして、ゆっくりとリーシャに顔を近づけていった。



 空には雲1つなく、ただ水平線を目指して飛んでいく2羽の海鳥がいるだけであった。






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