誰だって、その日、いきなり自分の人生が変わるなんて思うことは滅多にない。
 進学とか、就職とか、そういう人生の節目に存在する『イベント』ならともかく、地震や津波といった自然災害、さらには戦争。自分たちの生活とは関係のないところで突発的に起こるもの。そういった『予測できない出来事』に対して、俺たちはいつだって無防備だ。
 あれは今から三年前の秋。この国の北の方にある町で、いまだに原因不明の『事故』が起こった。
 朝、学校に行く途中、少し曇っていたものの、いつもよりは冷え込んでいなくて温かさすら感じるほどだった。部活も終わり、まわりの空気は受験勉強一色。自分も市内の進学高に行こうと思って、毎日勉強に一生懸命だった。
 友人たちと登校し、学校に行ったら彼女と顔を合わせて挨拶。付き合い始めてからまだ一ヶ月だが、二年半の片思いが実は両思いだったことを知ったのが夏休みの時だった。その日も他愛ないことを軽く話してから授業開始。
 軽くめまいがした、と思ったのは一時間目の授業が終わったときだった。保健室に行って少し休ませてもらおうと思ったら、突然倒れた。らしい。自分では思い出すことができないので、後で病院の先生から聞いた話だ。
 救急車ですぐに病院に運ばれ、検査をしたが問題はなし。受験勉強で疲れやストレスがたまったのか、という診断がされたが、別にストレスに感じたことは一度もなかった。
 気がついたらすっかり元通りだった。気を失っている間に点滴が終わっていて、今日は帰って休むように言われた。
 そうして病院を出た、まさにそのときだった。
 何か、赤黒い『闇』が自分の周りを支配した。
 それはとても広い範囲にわたっていた。世界が暗転して、全ての色が赤と黒の濃淡だけで表されていた。
 よっぽど具合が悪いのか、とすぐに家に帰ろうと思った。
 が、次の瞬間、自分の目の前で信じられない光景を見た。
 何か『人の形をしたモノ』が少し前まで『人だったモノ』を食べている。
 直後、自分の近くで何か爆発が起こった。何が起こったのか分からないが、ここはまずいと思って走り出した。
 裏路地をぬけて、人通りの少ない方へ来る。あのわけのわからない『バケモノ』に見つからないように。
 物音がして、近くの家の壁に隠れた。こっそりとうかがうと、また同じ光景だった。
 逃げ惑う何人かの人と、それを追いかけるたくさんの『バケモノ』。
 いったい何が起こったのか。もう自分には何も判断できなかった。世界はどうしてしまったのか。この場所で何が起こっているのか。
 携帯を取り出して情報を探ろうと思ったが、圏外になってしまっていた。
 どこかに隠れるか、脱出するかしなければいけない。といっても、この赤黒い空間の中ではどこまでいけば脱出できるのか、まったく分からない。
 それにしても、いったい何が起こったのか。地震や津波なんていう自然災害とは全然違う、かたや戦争なんていうものでもない。
 この三次元世界で、あまりに非科学的な現象。
 だいたい、あのバケモノは何なのだろう。形は人間だが、見た目は人間とは程遠い。何しろ、肌というか鱗というか、表面はごつごつと岩のようで、にぶく赤黒く光っている。いや、光を吸収しているといった方がいいだろうか。
 父や母、妹、それに友人や恋人。みんなはどうしているだろうか。無事に逃げられただろうか。
 ここから家までは、走れば十分。だが、その間にあのバケモノたちに見つかる可能性は相当高い。
 誰もいなくなったのを見計らって走り出す。
 急がなければ、とにかく一人でいるのは危険だ。見つかったが最後、あのバケモノに食べられる。
 途中、隠れたりしながら家の近くまで帰ってくる。もう少しで家。自分の家の中ならひとまずは安全。
 赤黒く沈んだ不気味な住宅街。誰にも見つからずに、ようやく自宅に飛び込む。
 その、家の中に入った瞬間、すさまじい血の匂いに思わず吐きそうになった。
 だが、それをこらえてゆっくりとリビングの扉を開ける。
 そこにバケモノと、母親の死骸。
 叫びそうになるのをこらえたものの、バケモノは確実に自分を視認していた。
 後ろ足で戻り、扉を開けて家から飛び出る。叫びたいのをこらえるのに必死だった。
 直後、向かいの家で爆発。また爆発。
 だが、いったいどこへ逃げればいいのだろう。自分の家で駄目なら、中学生の自分には行くところなどどこにもない。
 走って、走って、走って、ひたすら逃げ続けた結果、うずくまっている一人の女性を見つけた。無事な人間を見るのは初めてのこと。大丈夫ですか、と近づこうとする。
 が、直後、その『女性が爆発』する。人間が爆発? 何の冗談だ? いったい自分は何を見ているんだ?
 その爆発の中から、バケモノが生まれていた。そのとき自分は理解した。ああ、なるほど、だから頻繁にあちこちで爆発が起きていたのか、と。
 それなら自分はどうすればいいのか。爆発が起きるまで逃げ続ければいいのか。それともバケモノに食われればいいのか。

 元は同じ人間だったバケモノに。

 バケモノから逃げて、何とか振りきって、どこかの壁にもたれかかって座り込む。
 もうどうしていいか分からない。恐怖と混乱とで頭が限界だ。どこに逃げればいいのか分からない。わかっていてもそこまで行けるとは限らない。
 何が起こったのかは分からないが、世界中がこんな状況になってしまったのだろうか? だとしたらいったい何が原因だというのか?
 また近くで爆発。誰かがバケモノに変わった。もう嫌だ。いっそのこと自分もバケモノになってしまえば何も悩まなくてすむんじゃないか。
 逃げて、逃げて、逃げて、ひたすら走り続けた結果、郊外の大きな公園までやってきていた。公園にもあちこちに爆発の後と、人間の死骸があった。が、このあたりでの虐殺は既に終わった後らしく、バケモノの姿はどこにもない。
 蛇口で水をひねると、赤い水が出てきた。いや、赤く見えるだけで実際にはただの水なのだろう。だが、それは今日一日で見続けてきた血の色にそっくりで、蛇口を止めた。今の自分がそれを飲む気にはなれなかった。
 それからどれくらい逃げ回ったのか。この赤黒い世界の中では昼も夜もよく分からなくなる。携帯を見れば一度夜が来て、また朝になったことだけは分かった。だが、それだけ。相変わらず通信は入ってこないし、この赤黒い世界も元通りには戻らない。そして、そろそろ電池も切れそうだ。
 お腹が空いた。考えてみれば丸一日何も食べてない計算だ。今まで混乱していたが、いざ気がつくともう耐えられなかった。
 隠れていた場所から出て、食事のありそうなところを目指す。
 そういえば、夜になった頃から、もうまったく爆発音も聞こえなくなった。それはいったい何を意味しているのかと考えて、やめた。精神的によくない。
 近くにあるコンビニに入る。血の匂いがしたが、バケモノの気配はなかった。
 適当に食材を手にする。お金を払う相手は当然いない。こういうのも泥棒に当たるのだろうか。緊急避難ということで許してもらおう。
 その場でおにぎりを食べて、空腹を満たす。食べている間も窓の外にバケモノがいないか注意する。
 誰もいないのなら、しばらくこの場所にとどまるのもいいかもしれない。いちいち食材を求めて動き回るのも効率が悪いし、だいたいどの方角に進めばいいのかも分からない。もしかしたら救助が来るかもしれないし、それまでこのコンビニの中にいられれば。
 だが、そんな希望はあっけなくつぶされた。窓の外を見ると、何体かのバケモノが姿を見せ、それが次第にこちらに近づいてきていた。気づかれているのか、それとも単なる偶然か。だが、この場所にいつまでもいるのは危険と判断し、従業員通路を抜けて建物を出る。
 周りにだれもいないことを十分に確認してから、家と家との間を抜けていく。
 どこへ逃げれば大丈夫なのか。大丈夫な場所があるのか。この世界はどうなってしまったのか。この星のすべてがこうなってしまったのだとしたら、もはや自分も永くはない。本当に、いっそ自分もバケモノになってしまった方が楽だ。
 近くで大きな声がした。その方向を見ると、バケモノがこちらを見て叫んでいた。
 見つかった。
 一目散に逃げる。だが、その声に導かれたのか、あちこちの家から飛び出してくるバケモノたち。これほど多くのバケモノがこの赤黒い世界にいるのかと思うと、もう生き残っている人間は誰もいないのだなと、頭の片隅で思った。
 やがて、完全に逃げ場がなくなった、四方をバケモノに囲まれ、どこにも行き場所がない。
 ここまでか。
 じわじわと近づいてくるバケモノたちを見て、首を振る。
 いや違う。
 こんなところで終わってたまるか。絶対に逃げる。逃げ切ってみせる。
 包囲を強引に突破しようとする。バケモノたちのツメが自分の体を裂く。痛い。でもそんなことを気にしていたら殺される。
 逃げる。逃げる。逃げる。逃げる。逃げる。逃げ──た先に、別のバケモノの群れ。嘘だ。こんなに必死に逃げてきたのに、いったいどうして。
 いやだ。死にたくない。こんな理不尽なことで。どうして自分が死ななければいけないのか、そんな理由も分からないまま。
 もはや足も動かない。その場に崩れ落ちる自分に、獲物を求めて襲い掛かってくるバケモノ。
 その時だ。

 まばゆい、光。

 赤黒い世界の中で、初めて見た別の色。太陽の光が空から舞い降りてくる。
 その、まったく異なる光の色が、あまりに綺麗で。
「シータ・サンシャイン・スパーク!」
 その声と共に、さらにまばゆい光が一面に降り注ぐ。その光にあてられたバケモノたちは次々に消滅していった。
 そして地上に降り立ったのは、変わった格好をした人間だった。それも自分と同じくらいの歳の少女。黄色いコスチュームに身を包んだ、太陽のように輝いている少女だった。
「よかった、まだ生きていてくれたんだ」
 彼女は泣きそうな顔で、笑顔を見せた。
「君は」
「私は、魔法少女」
 そして、彼女は近づいてくると自分をしっかりと抱きしめる。
「あなたを助けに来たのよ」
「俺を?」
「ええ。本当に、生きていてくれてよかった。もう、誰も助けられないのかと思った。ありがとう、生きていてくれて、本当にありがとう」
 感謝するのは自分の方なのに。
 どうして自分は、感謝されているのだろう。
「生きて」
 彼女の綺麗な声が、今も自分の耳に残る。
「あなたは生きて。それが私の願い。私はそのために、ここに来たのだから」





 目覚めたときは、もとの色のある世界だった。
 どうして助かったのかは分からないが、あのときの少女が自分を助けてくれたのは間違いない。
 彼女が誰だったのかは分からない。そのかわり、いろいろなことをその後のニュースで知った。
 あの赤黒い世界はS市中心部から半径二十キロメートルもの範囲を、上下二キロにもわたる円柱状に存在していること。そう、今もなおあの都市は赤黒い闇に包まれたままなのだ。
 中には誰も入ることができず、中の人間が生きているかどうかも分からないということ。
 それから半年の時間が過ぎて、赤黒い世界は突然消え去った。ただちに救助隊が中に入っていったものの、人の気配はどこにもない、完全なゴーストタウンとなってしまっていた。また、あちこちで建物が爆発している形跡があった。少なくとも一万ヵ所以上。
 それだけの人数がバケモノに変わったのかと思うと、自然と涙が出てきた。
 あの赤黒い世界の中で、彼女は言った。自分は生きろと。生きることが彼女の願いなのだと。
 だが、自分は思う。
「お前にもう一度会いたい」
 あの日から三年。
 彼女を見つけ出す手がかりは、まだ見つかっていない。







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