「私はずいぶんとレアな魔王らしい。サインをしてやろうか?」
「それを誰に見せびらかせと」






【12】







 日曜日になって真央を連れて出かけることになった。二人で外に出かけるのは連休以来だったこともあり、真央もいつになく嬉しそうだった。昨日はマンションにいつもの境さんと木ノ下さんが遊びに来た。真央にとっては楽しい週末だ。
 さいたま市を出て西に。川越、日高と来てそのまま毛呂山町へ入る。以前から真央が興味があって来たがっていた場所だった。
「静かなところだな」
 関東でもこうして自然の残っている場所はある。都内ですら自然があるのだから、埼玉までくればけっこういろいろと見所があるものだ。
「着いたぞ」
「うん。ずっと楽しみにしていたんだ」
 鎌北湖。戦争前に作られた農業用貯水池である。
 かの世界恐慌の際の対策として、アメリカではテネシー川のダム開発など公共事業を大量に行うことで不況を乗り切った、いわゆるニューディール政策を行っていたのだが、日本も規模は小さいながらも公共事業によって労働者の救済を行っていた。鎌北湖はその中の一つだ。
「湖面が静かだ。すごくいい景色だな」
「そうだな。何も着飾っていないのがいい」
「あそこに人がたくさんいるけど」
「釣りをしているんだろう。ヘラブナがいると書いてあった」
「そうか。一度釣りもしてみたいな」
 それは意外だ。釣りに興味があるとは思ってもいなかった。
「なら、今度準備をしてやってみるか」
「いいのか?」
「一式そろえても二人で二、三万円というところだろう。趣味にかけるお金はいくらかけても有意義だ」
「悠斗の信条だな。自分を喜ばせるものにお金を惜しむな」
「本当にほしいか、必要かを考えることは大切だが、本当に望んでいることができないのは残念なことだ」
 別に信条と言われるほどのものではないが、やりたいことをやるのにお金を惜しむ必要はない。だいたい、この生活が始まってからお金などたまる一方だ。最高級の棹を買ったところで懐は痛まないだろう。
「悠斗は釣りをしたことがあるのか?」
「一度だけな」
「二回目をしようとは思わなかったのか?」
「そのときは道具を借りてやった。買っていたらもう一回くらいは行っていたかもしれないな」
「じゃあ、面白くないわけではない?」
「釣り上げるのは一瞬で、待つ時間の方が長い。それを楽しめるかどうかだな」
「それならDSでも持っていった方がいいのかな」
「そういう奴もいるだろうが、ほとんどの釣り人は海や湖と会話をしているよ」
 その言い方は分かりづらかったか、真央は首をかしげた。
「海も湖も何も言わないぞ」
「海に向かうことで、自分の心の中と話をするのさ。すると自然と落ち着いて、心が凪いでいくのが分かる。自分と対話をするのが苦手な人間、釣ることだけを楽しみたい人間は、釣りは向いていない。いろいろと考える時間を楽しむのが釣りだ」
「そうか。私はやらない方がいいかもしれないな。自分のことを考えると、悪いことしか頭に浮かんでこない」
 真央は時折こうした自分をさげすむところを見せる。もちろんいい傾向ではない。人間を好きになるためには、まず真央が自分自身を好きにならなければいけない。自分を好きになれない人間が、どうして他人を好きになることができるだろうか。そして自分を好きになれなければ、結局この世界に満足することはできないだろう。それは魔王の復活と同義だ。
「自分と会話ができないなら、手始めに俺と会話をすればいい」
「悠斗と?」
「ああ。一人でいるのが苦手なら、誰かが傍にいてくれればいい。だいたい、釣りに行くのに俺が一人でお前を行かせるはずもないしな」
「悠斗と一緒なら、どんなことでも楽しくなるだろう」
 大人びた笑いを見せる。
「行くなら朝、日が昇る前だぞ」
「大丈夫だ。私は多少のことで体調を崩したりはしないだろう? まあ、悠斗ほどではないが。悠斗はこの二年間、一度も体調を悪くしたことはなかったはずだ」
「病気知らずで、ほとんど病院に行った記憶がない」
「健康なのは幸せなことだ。悠斗はそれが普通だと思っているかもしれないが、それが普通に手に入らない人間はたくさんいるんだからな」
「未来の魔王に言われるのは複雑な心境だ」
 そう言って笑いあう。
 これまで真央が体調を悪くしたのは、自分の覚えている限り二回だ。一度は受験の年の正月明け。もう一度は高校に通い始めて間もなくの頃。なれないことをしすぎたせいで体調を崩したのだろう。
「風邪をひく魔王というのも前例を聞かないな」
「私はずいぶんとレアな魔王らしい。サインをしてやろうか?」
「それを誰に見せびらかせと」
 自分以外の誰にもそのサインの価値が分からないだろう。というか、魔王のサインというのも過去に例があるのだろうか。これだけ日常的に接していると何が普通で何が普通ではないのかの境目が分からなくなってくる。
「それじゃあ悠斗、写真を撮ってもいいか」
「誰に断る必要もない」
「ありがとう」
 そう言って真央は愛用のデジタルカメラ・サイバーショットを取り出す。
「そろそろ古くなってきたんじゃないのか?」
「まさか。まだまだ最新──ではないと思うけど、それでも充分に高性能機種だぞ。それに使い慣れてしまっては、他のには手を出せない」
 確かにデジタルカメラも携帯電話と同じで、機種を変えると途端にどこに何の機能が隠れているのかが分からなくなってしまうが。
「自分が行ったところの記録が残る。自分がこの世界にいたことの証が残せる。だから私はカメラが好きだ」
「自分が映ることは少ないのにな」
「自分は少しでいい。それよりも自分が何に感動したのかを残しておいて、その一部でも誰かに伝わればいい」
「ブログでも作るつもりか?」
「ブログはやらないが」
 言いながら真央は携帯でも写真を撮る。
「『鎌北湖なう』と」
「ツイッターか。いつの間に」
 無論、ツイッターが最近の流行であることは分かっている。だが、まさかこんな身近にやっている人がいたとは。
「今週から始めてみたんだ。麻佑子がやれというからな」
「ユーザー名は?」
「amano_mao」
「そのままだな」
「かまわないだろう。良かれ悪しかれ、三年後にはいなくなる予定の人間だ。私は変なハンドルネームより、悠斗につけてもらった本名で覚えていてもらいたい」
「ネットの世界では誹謗中傷も多いぞ」
「この二年間でそれはもうよく分かっている。安心しろ、不満のはけ口にインターネットが使われているからといって、人間を嫌う理由になんかならないさ」
 どれどれ、と自分の携帯から真央のアドレスを探る。
「これは昨日のツイートか」

『今日のお昼はパスタ。きっと麻佑子たちがいろいろお菓子を持ってくるだろうから軽くしてみた。悠斗には少しボリュームアップ』

「他人の実名を出すな!」
 真央の頭にチョップを一撃。うぐっ、と変な声が出る。
「でも、麻佑子と笑美にはちゃんと許可もらってる」
「俺には一言もなかったな」
「駄目だったのか?」
「許可を求めれば頷いただろう。事後承諾は失礼だ」
「ごめんなさい」
「素直でよろしい」
 そうしてツイート内容を全部見ていくが、まあ、ありきたりというか、何というか。
「フォローしたりしないのか?」
「今のところは何も。ただあったことを呟いていればいいからと言われた」
「興味があるのかないのか」
「どちらとも言えないな。ただ、笑美と麻佑子は必ず感想を言ってくれるぞ」
 その木ノ下さんはテストの点数が悪いことを大々的に言われてしまっている。不憫だ。
「というか、このプロフィールもなかなかすごいな」
 それを見た木ノ下さんと境さんはどういう反応をしたのだろうか。

『魔王が覚醒しないように日々を生きています』

「思ったことをそのまま書いてみただけだ」
 ため息をついた。そんなことまで書かなくてもいいだろうに。
「二人は何て?」
「変わったことを書くんだなと言われた。書くこともなかったから適当に書いたと伝えてある。別に私の正体のことが勘繰られるようなことはしていない」
 というか文章だけ読むなら軽く中二病だ。邪気眼レベルかもしれない。
「まあ、私のツイートに興味持つ人間もそうそういないだろう。安心しろ」
 確かにインターネットの世界ならどんな設定でもありだろう。心配はしていない。
「さて、そうしたら次の目的地へと向かうか」
 充分に景色を堪能してから再び車に乗る。真央は「また来たい」と言った。確かにいい場所だった。今度また一緒に来よう。






 それから埼玉の観光名所をいくつか回り、食事を終えて戻ってきたのが午後九時。真央はテレビドラマ『新参者』を見ている。帰りが遅くなっても大丈夫なように録画はしてあるのだが、やはり生で見るのが楽しいらしい。
「原作を読んでいても楽しいものなのか?」
 CMのところで尋ねてみる。
「もちろん楽しい。原作をどう表現するのかを見るのが楽しい。裏事情を知っている客をどう喜ばせるかを考えたシナリオ作りをしている。視聴率が下がっているのが不思議なくらいだ」
「よく調べてるな」
「学校での話題の中心はテレビドラマだぞ、悠斗」
「今期の一番人気は?」
「私の周りでは火曜日の『チーム・バチスタ』だな。視聴率も徐々に上がっているらしい」
「ほう。女子高生なら『怪物くん』かと思ったが」
「残念だが私の周りには大野くんのファンがいないんだ」
「不憫なリーダーだな」
「私は嫌いじゃないぞ?」
「一番は?」
「今期なら生瀬勝久」
「他に女子高生が熱を上げる相手はたくさんいるだろうに」
「馬鹿にするなよ。私もそこまでドラマをたくさん見ているわけではないが、生瀬の演技力はたいしたものだと思う」
「否定はしないが、演技力を聞いたつもりはなかったんだが」
 真央が見るドラマは基本的に自分も見ている。確かに演技が上手だとは思っていたが。
「演劇もいいかもしれないな。今までにない自分を演じるというのは面白そうだ」
「どんな役をやってみたい?」
「探偵とかは私の性格にぴったりだろうな。私もそういう決め台詞を言ってみたいというのはある」
 意外だった。そんなことを思っていたとは。
「じっちゃんの名にかけて、か?」
「真実はいつもひとつ、とか」
「いずれにしても知的に話を進めてお前が解決するのは確かに似合っている。ワトソン役は笑美さんだな」
「否定はしないが、悠斗でも……いや、駄目だな。悠斗だと探偵役より先に事件を解決してしまいそうだ」
 確かにワトソン役というのは難しい。小説などでもワトソン役をどう作るかが一番難しいのだと聞いた。ワトソン役は常に『読者よりもほんの少し分からない程度の能力』でなければならないらしい。要するに『ワトソンより先に気づいた!』という達成感を出すための役割なのだそうだ。これがあまりにも馬鹿すぎると『何でいい加減気づかないんだよこのキャラ』ということになってしまうので、能力は適度でなければならない。非常に難しいところだ。
「他には?」
「そうだな。恋愛ドラマの主人公でもいい。携帯恋愛小説とかの」
 それはまた、一番似合わなさそうなものを持ってくるものだ。
「ただ、残念なことに私は本気で恋愛するということが分からないから、演技はできないかもしれないな」
「そうか。恋する乙女になったお前を見てみるのも面白いかと思ったんだが」
「悠斗は意地悪だな」
 ふふ、と真央が笑う。
「それから、どうせやるならテレビみたいにシーンごとにカットされるよりも、舞台の演劇で一度に全部を演じきるのが好みだな」
「演劇部にでも入ったらどうだ」
「今からか? まあ、私がいるだけで部が盛り上がるのは間違いないだろうが」
 さすがに自分の人気はよく分かっているらしい。きっと恋人役候補の男子生徒が殺到することだろう。
「もし悠斗が恋人役をやってくれるのなら、恋愛劇もいいかもしれないな」
「魔王の恋人か。恐れ多いことだ」
「私が魔王なら悠斗は勇者だな」
「は?」
「勇者は魔王を剣ではなく愛で倒すんだ。めでたしめでたし」
「また答えにくい返しをする」
 思わず苦笑していた。だが、次の言葉はもっと強烈だった。
「あなたとなら、それもいいかもしれない」

 その目が。

「……なんて、少しは動揺してくれたか?」
「した。今のは立派に恋する乙女の目だった。まいった」
「良かった。いつも悠斗にはやられてばかりだったから、たまにはやり返したかったんだ」
 嬉しそうな顔をして真央は立ち上がった。気づけばドラマも終わっていた。
「話をしすぎていて、すっかり見逃した。また後で見ないと」
「いま見直せばいいんじゃないのか?」
「私も恥ずかしい。少し頭を冷やしてくる」
 真央は視線を合わせないようにして部屋に戻っていった。
(本当にレアな魔王だな、あいつは)
 だが、その心の成長も喜ばしいことだ。もっともっと人間を好きになってくれればいい。









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