『久しぶりだね、天野くん』
「じゃあな」






【14−A】







 夏休みも終わりかけたところで、ここのところご無沙汰だったあの男から電話が入った。
『久しぶりだね、天野くん』
「じゃあな」
『いやいやいやいやちょっとちょっとちょっと』
 電話の主は乃木良太郎だった。一年近く電話すらなかったので、すっかりこの男の存在を忘れていた。
『久しぶりでそれはないだろう。真央ちゃんは元気?』
「真央なら元気だ。それじゃあな」
『いやいやいや、今日は真面目な話。というか用事がなかったらかけないよ』
 また面倒な用事なのだろうと思いながら「早く話せ」と促す。
『ええとね、次の土日のどっちかで、一回研究室に来てくれないかな』
「何故」
『真央ちゃんの体の状態を調べるため。ある意味、定期検診みたいなものだよ。三年ほったらかしだったけど』
「それで検診も何もあったものか」
『でも、期限はあと二年なんだ。もしかしたら何か変化が起こっているかもしれない』
「魔王になる、ということか?」
『それもあるね。愛情度がどこまで高まっているかのチェックもしておきたいし、それに』
 それに、のところで声が少し低くなった。
「なんだ?」
『久しぶりに真央ちゃんに会いたい』
「じゃあな」
 今度こそ容赦なく通話を切る。だが、改めてあの男が自分たちの今の『日常』がそうではないということをしらしめてくれる。
「あと二年か」
 少しずつ現実のものになってきた真央との別れ。あと二年で自分たちは、今の関係にどういう決着をつけることになるのだろうか。
「どうした、悠斗」
 部屋から真央が出てくる。
「いや、久しぶりに乃木から連絡があった。週末、顔を出しに行くぞ」
「研究所か?」
「ああ。定期健診だそうだ。三年ぶりの」
「定期の間隔が知りたいところだな」
「俺も同じことを乃木に言ったところだ」
 ふう、と真央がため息をついた。
「問題がなければいいんだけどな」
 いつも真央は真面目で冗談などほとんど言わないのだが、今の台詞はいつにも増して重いものを感じた。
「何か心当たりがあるのか?」
「ほら、私は結構病弱だろう?」
「否定はしないが、自分で言うか」
 確かに普段の様子からは分からないことだが、こう見えても真央は風邪とか病気にかかりやすい。体をこわしやすい、というのだろうか。
「二十歳まで生きられない体というのは案外間違いではないみたいだ」
「真央」
「気にするな、悠斗。それもこれも、魔王の問題が片付けば終わることだ。悠斗が私を助けてくれるんだろう?」
 その言葉に嘘はない。だが、
「あと一年と十ヶ月。生きるも死ぬも、お前が『ここ』にいられる期間だ」
 改めて、真央にはっきりと伝える。
「どうせ別れるなら、生きて別れたいものだ」
「全くだな。そして私としては、私がいなくなっても悠斗が立派に生きていてほしいと思う」
 顔をしかめた。どうしてそんなことを真央に言われなければならないのか。
「俺はそんなに生きることを放棄しているように見えるか?」
「見える。というより、三年も私のためだけに生きてきて、これから二年後、悠斗は何のために生きていくことにするんだ?」
「それは──」
 口ごもった。考えてみれば、それを考えたことは一度もなかった。
 とにかく真央と五年過ごす。その先など考えようにも考えられなかったのだ。
「麻佑子と笑美だが」
「突然話が変わったな」
「二人とも、けっこう本気で悠斗のことが好きみたいだ」
「それは変わった趣味だな」
「そうか? 私はいいと思う。頼りになるからな」
 真央はそういうときに嘘も言わないし脚色もしない。本気でそう思っているからこその台詞だろう。
「だから、悠斗さえよければ今度は二人のことを考えてやってほしい」
「無理だな」
 だが、あっさりと断る。
「どうしてだ? 二人とも可愛い子だと思うが」
「少なくとも、お前がいる間にそんなことを考えることはできない。俺は今、俺のことを考える余裕はないからな。自分のことはお前のことが片付いてからゆっくり考えるとするさ」
「駄目だ」
 だが、珍しく真央はしっかりと自分を否定してきた。たいていのことは自分に任せてくれるのだが、こんな風に明確に否定したのは初めてかもしれない。
「何故だ?」
「安心できない」
「安心?」
「そうだ。私がいなくなっても悠斗には幸せでいてほしい。だから、誰かが悠斗の傍にいてくれれば安心だ。麻佑子や笑美なら信頼できる」
「あのなあ」
 ため息をついた。
「俺はもう二十七歳。お前たちとは十歳違うんだぞ」
「その程度が何だ。この前、四十も下の女をつかまえた芸能人がいただろう」
「そんなのと一緒にするな」
 ため息が出る。
「私を安心させてほしいんだ」
 改めて真央が言う。その目は真剣で、妥協を許さない気迫がこもっていた。
「考えさせてくれ」
「それで充分だ」
 真央はほっとしたように笑顔を見せる。
「悠斗はいつも私のことを心配してくれて、私が少しでも幸せになるように考えてくれている」
 そうして真央は、そっと手をのばしてきて、俺の手を取った。
「私も、悠斗の幸せを考えたいんだ」
 そう言って、再び自分の部屋へ戻っていった。
(やれやれ、妹にそんな心配をさせていたとはな)
 自分のことなど、そんなに考えたこともなかったし、考えようとも思わなかった。
 だが、これからはもう少し考えなければ駄目なのだろうか。






 日曜日。真央を助手席に乗せて郊外の高級住宅街へと向かう。
 何度か足を運んだ場所ではあるのだが、やはり行くのはいろいろとためらうところもある。あの場所は真央と出会った場所でもあるのだが、同時に自分たちの最後を司る場所でもある。既に三年と二ヶ月が過ぎた。あと一年と十ヶ月しか自分たちに残された時間はない。
 研究所に入っていくと、相変わらず上品そうな女性、白坂環が出迎えてくれた。
「お久しぶりです、天野さん、真央ちゃん」
「お久しぶりです」
 真央が一礼する。
「乃木は?」
「旦那様は奥でお待ちです」
「そっちへ行けばいいのか?」
「いえ、少し準備に時間がかかっているようですので、待合室へどうぞ。ライチジュースを準備していますので」
 準備のいいことだ。そういえば最初にこの研究室に来たときも、きちんとライチジュースがあった。
「真央ちゃんも同じものでいい?」
「他に何かあるなら」
「そうね。お茶もジュースもあるけど」
「ジュースはどんなのが?」
「オレンジとグレープ、グレープフルーツもあるけど」
「他には?」
「今日はそれだけ」
「ふうん」
 真央がこちらを見る。
「どうした?」
「ううん。それならグレープフルーツで」
「分かったわ」
 そうして待合室でジュースを飲みながら待つこと十分。ようやく白衣のまま乃木が現れた。
「やあやあやあやあ久しぶり! 元気にしてたかい二人とも!」
 暑苦しい男だった。いつも変なことばかり言う男だと思っていたが、今日はいつにもましてテンションが高かった。
「いやあ、今年は僕の出身地の高校が甲子園で勝ち抜いていてね! 三回戦進出してくれたから嬉しくて嬉しくて!」
「去年は?」
「初戦二桁失点で負けましたが何か」
 いきなり落ち込んだ。「だがしかし!」とすぐに立ち直る。
「今年は違うよ。去年の雪辱を晴らし、必ずベスト8に残ってみせる!」
 どうでもいい話だった。早く本題に入ってほしい。
「そういえば悠斗くんの出身高はどうなんだい?」
「知らん。だいたい、甲子園に出てくるようなところじゃない」
「出身高の状況くらい見ておけばいいのに」
「さっさと始めろ。でなければ帰るぞ」
 わざわざ貴重な時間を削ってきているのだから、無駄話で時間を削りたくない。
「やれやれ、今日も悠斗くんは機嫌が悪いなあ。さて、真央ちゃんの方はどうだい? 具合が悪かったりとかはないかい?」
「はい」
 一言。何かを話そうというつもりがあるのかないのか分からない返答だった。
「それじゃ、診察は環の方がやるから。装置はもう準備してあるから、後は頼む」
「分かりました。それじゃあ真央ちゃん、こちらへ」
 そうして二人が部屋から出ていく。残ったのは自分と乃木だけ。
「不満そうだね」
「当然だな。貴重な休みを一日つぶされた」
「今年は旅行には行かなかったの? 去年は二週間かけて東北旅行だったよね。今度は西日本でも行けばよかったのに」
「真央が『こんなときに旅行なんかいけない』って言うからな」
「へえ。真央ちゃん、そんなところもあるんだ」
「ああ。だが、そうやって自粛ばかりしていると、観光産業に従事している人たちが困るのではないかと言うと、かなり悩んでいた」
 乃木が吹き出して笑う。
「かわいいなあ、真央ちゃん」
「まだ子供なだけだ。結局、八月上旬に三泊四日で厳島神社を見てきた」
「へえー。いいところだよね。それにしても魔王が神社とか、なんて冗談?」
「真央に言え。今回はあいつが選んだ場所だからな」
 本当にそれは自分でも思った。
「それにしても厳島神社ってことは、広島かあ。ん、ということは次の三回戦の相手じゃないか!」
「知るか。野球の話はもういい」
 本当に、何をしにここまで来たのかが分からなくなる。
「それで、定期健診ということだったが、いったい何を調べるんだ?」
「決まってるだろ。愛情度の測定。三年前はマイナス五十九だった。プラス百まで上げてほしいって言っただろ?」
「そういえばそうだったな」
「後で数値が分かる。すぐに教えてあげるよ」
 それからしばらく他愛もない会話を続けて、三十分後。真央と環が戻ってきた。
「お疲れ様」
 乃木が声をかけるが、真央は頷いただけですぐに自分の隣に腰かけてくる。
「気分が悪いのか?」
 だが真央は首を振った。真央らしくない様子だった。
「はい、これ」
 そうして乃木から一枚の紙を渡された。そこには今日の真央の測定結果が書かれていた。
 ああ、なるほど。だから真央の機嫌がよくないわけだ。

 愛情度、プラス13。

(もっと高くなっていると思っていたわけだな。確かにこれだけ感情豊かで、俺や友人たちに対する感情も高くなっているはずなのに、この数値ではどうしていいか分からないだろうな)
 まして、既に半分以上の時間を使ってしまっているのだ。本当に百を超えることができるのかどうか分からない。
「まあ、数値についてはすぐに結果に結びつくものばかりでもないからね」
 乃木が慰めるように言う。
「何かきっかけがあれば一気に上がる。そういうものだと思うよ。二人は今まで通りの生活を変えないようにしてほしい」
「そうして一年十ヵ月後に、目標に到達しない数値を見せられるのか?」
「そうなるかどうかは君たちの心の問題。僕はもう、君たちが何をしたところでこの数値は大きくは変わらないと思うよ。むしろ、よく三年でプラスの数値にまでもってきてくれたなと感心している。冗談ぬきで」
 乃木の言葉はどこまでが本当なのか分からない。
「大きく数値が変わるのは、きっとこれから君と真央ちゃんがどういう関係を築いていくかによると思う。お互いがお互いをどう考えるか、ということも含めてね」
「人間を愛するというのは、簡単なことではないのだな」
 個人を愛することと、種族全体を愛することとは大きく違う。そういうことだろうか。
「ま、時間はまだたっぷりあるし、焦っても仕方がない。いろいろと話し合うことが一番だと思うけどね」
 乃木の言葉を聞いてため息をつく。
「了解。それじゃあ真央、帰るぞ」
「うん」
 そうして研究所を出る。今日も暑い。
「悠斗」
「なんだ」
「すまない。悠斗は私のためにこんなにしてくれているのに」
「謝る必要はない」
 ぽん、と真央の頭をなでる。
「お前はお前のやりたいことをやっていればいい。その方針は変えない」
「悠斗」
「とりあえずはあと半年で卒業だな。卒業式、楽しみにしている」
 真央は、少しだけ涙目になって顔を背けた。
「やっぱり、悠斗はずるい」
「久しぶりに聞いたな、その言葉」
 そう、焦る必要はない。
 真央がもっと、人を好きになるようにしていけばいいだけのことなのだから。







【B】

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