真の中央と書いて真央。俺は、これからの五年間を、お前のためだけに使う。

 ──うん、悪くない。






【17−C】







 六月二十日。夜、帰宅。

 誰もいない家に入る。
 もう、ここに真央が帰ってくることはない。
 そう感じた瞬間。

 その場に、崩れ落ちた。






 六月二十三日(日)。

 真央さんからの小包が届いたのは、この日の午前中だった。
 指定日配達で、投函されたのは誕生日の前。
 そう。三日前、真央さんは二十歳の誕生日を迎えた。いつものように電話をしたのに、彼女は出てくれなかった。出ないどころか、折り返し電話もくれなかった。
 何か、不安なものは感じていた。でも、直接行くようなことはしなかった。何か行くことがためらわれた。別に今までも連絡を取らなかった時期がなかったわけではない。
 だが、この手紙は違った。読んだ瞬間、自分の体は自動的に動いていた。
 今すぐ、行かなければ。
 何が起こっているのかは分からないが、取り返しのつかないことにだけはなってほしくなかった。

 真央さんのマンションのロック番号は手紙に書かれていた。チャイムを押しても反応がないので勝手に入らせてもらうことにした。
 いまだに自分には何があったのか、よく分からない。ただ、この先に何か自分では予想もできないものが待っているというのは分かった。
 小包に入っていた鍵を使って扉を開ける。
 玄関は、男物の靴が多少雑になっているだけで、一見何も変なところは感じなかった。
 だが、それが余計に不安を駆りたてる。そのままリビングの扉を開いた。
「──」
 片づけられた部屋。自分がよく知っている通りの部屋だった。
 だが、部屋の主である悠斗も真央もいない。外出中というわけではないはずだ。何しろ男物の靴はあったのだから。問題は、真央の靴がなかったということ。おそらくこの家には今、悠斗しかいない。
(いなくなってしまったというわけですか)
 理由は分からない。だが、送られてきた手紙とこの部屋の様子を見ると、それが一番納得いく答のように思われる。
 悠斗はどこにいるのだろう。
 最悪のことを考えて、先に風呂場をのぞいてみた。自殺──ということが頭をよぎったが、そこは使われた形跡がまったく見当たらなかった。
 となると、まだ見ていないのは二か所。悠斗の部屋か、真央の部屋かだ。
 先に悠斗の部屋をのぞいてみた。何となく、ここにはいないような気がした。案の定、誰もいなかった。部屋はもぬけのからで、ただ悠斗の匂いがそこに残っていた。
 最後に残った、真央の部屋の扉に手をかける。
 この扉を開けば、もう自分は引き返すことができなくなるのだろう、ということがなんとなく分かった。だが、大好きな悠斗と真央のためなら、自分は何を犠牲にすることもできる、と心を落ち着かせて、扉を開けた。
 悠斗はいた。ベッドの手前の床に座り、ベッドに背と頭をもたれさせて、そのまま天井を見上げている。
「お兄さん」
 近づいて様子をうかがうが、ちゃんと息はしているし、目も開いている。ほっと安心したが、それにしてはこの状況で悠斗がまったく反応しないということが奇妙だった。
「お兄さん。真央さんはいらっしゃらないのですか?」
「……ま……お……」
 かすれた声が聞こえた。
「お兄さん。お兄さんはいつからここに?」
 だが、悠斗の反応はない。
「もしかして、真央さんが二十歳になった、三日前からずっとここに?」
 そうすると、三日も飲まず食わずということになる。それは餓死へといたる緩やかな自殺。
 急いでリビングに戻る。まずは水だ。それから三日も食べていなければ、相当胃が小さくなっているに違いない。おかゆが一番いいだろう。
 水をコップに入れて戻る。だが、悠斗はまったく飲もうとしない。上を向いていることもあって、ゆっくりと注ごうとしたが、悠斗はそこで初めて反応を見せた。横を向いて拒否したのだ。
「悠斗さん」
 そんなわがままは許さない。
 今度は自分で水を含む。それから悠斗の頭を両手で持って口移しをした。
 こくん、と確かに水を飲みこむ音が聞こえた。
「……ま……お……」
 だが、それを拒絶するどころか反応すら見せない。もう一口飲ませる。今度は、悠斗がむせ返った。
「ひとまず、何かを食べましょう」
 すぐに命の危険があるというわけでもない、と判断して今度はおかゆを作ることにした。その間に自分も冷静になることができそうだった。
 いったい、悠斗はどうしてしまったのか。真央はどこへ行ってしまったのか。よく真央は言っていた。自分が二十歳になるまでは待ってほしい。二十歳になったら、あとは悠斗のことは自分にまかせるから、と。
 そして、この手紙。



『境 麻佑子 様

 こうして手紙を書くのは何か変な感じがするけど、率直に書こうと思う。
 私はもうすぐいなくなる。この世界からいなくなる。
 私は二度と麻佑子にも悠斗にも会えなくなる。それは、五年前から決まっていたこと。
 私はこの世界からいなくなっても、きっと生きていけると思う。悠斗に救われた命だから、絶対に粗末にするつもりはない。
 心残りは悠斗のこと。
 きっと悠斗は、私がいなくなったら絶望してしまう。もしかしたら自分から命を落としてしまうかもしれない。
 麻佑子は悠斗のことを好きなのは知っている。もしかしたら私より、悠斗のことが好きなのかもしれない。
 その麻佑子に、心からお願いする。
 悠斗を助けて。
 絶望してしまった悠斗を助けられるのは、私は麻佑子しかいないと思っているし、麻佑子以外の誰にもそれを譲ろうとは思っていない。
 麻佑子にしてみれば、突然の話で納得がいかないかもしれない。
 でも、もし、悠斗のことが好きなのだとしたら。

 この状況の、悠斗を助けて。

 最後に。
 麻佑子。私の、この世界で一番の友達。あなたに悠斗を任せることができてよかった。
 さよなら。

真央』




 もう一枚の紙には、マンションの入り口の暗証番号や、その他必要になると思われる情報がいくつか書かれている。
 それにしても、何てひどい手紙だろう。
「いなくなる理由も、何も書かれていないなんて」
 そのあたりは回復した悠斗から聞けということなのだろうか。
「真央さん」
 手を止めてつぶやく。

「早く戻ってこないと、私、本気でお兄さんを取っちゃいますよ……?」

 涙をぬぐおうとは思わなかった。






 おかゆができると、私は悠斗さんに一口ずつ食べさせる。
 全く反応がないかと思っていたが、口の中に入れるとそれでも噛んで飲み込んではくれた。吐き出されたりしたらどうしようかと思っていたので、少し安心する。
 それからそのまま、真央のベッドに悠斗を寝かせた。手で目を閉じさせると、すぐに寝息が聞こえてきた。
 おそらく、食べていないどころか寝てもいなかったのだろう。

 いつから?
 当然、三日前から。

「いったい、何をしているんですか」
 それは悠斗に言ったのか、真央に言ったのか。
 いずれにしても、真央はここにはいないし、戻ってもこないというのは理解した。
 そのことを悲しむのは後だ。今はやらなければならないことがある。

『この状況の、悠斗を助けて』

 いいだろう。真央がそう望むのならそうする。そして、真央の愛する人の傍に自分がいてもいいというのなら、もう遠慮はしない。
(だから、帰ってきてください。真央さん──)
 携帯を取り出して電話をかける。
「お父さん。すみませんが、お願いがあります」
 自分にとって、この選択はきっと間違いなのは分かっている。
 だが、真央以外で悠斗を助けることができるのは、きっと自分だけなのだ。
「いつまでになるかわかりませんが、しばらく大学を休ませていただきます」






 七月七日(日)。

「本当に、境さんには迷惑をかけた」
 二週間後。まだやつれてはいるものの、すっかり以前の様子に戻った悠斗が頭を下げる。
 最初の三日は何も反応がなかった。
 次の四日は声をかけたら反応があったり、自分からゆっくりと動いたりすることができた。
 次の五日で少しずつ会話ができるようになっていった。
 昨日は、もうほとんど正常に戻ってきていた。
 長い二週間だったと思う。ただ、自分がつききりで看病したおかげで回復してくれたというのなら、これに勝る喜びはない。
「いいんですよ。私がやりたくてやっていることですから」
「大学まで休ませてしまったな」
「明日からは普通に通学します」
「ああ」
 とはいえ、家に戻るつもりはない。悠斗の体調が完全に戻るまでは傍にいるつもりだ。
 ソファに座り、ライチジュースを飲んで一息ついた悠斗に尋ねる。
「真央さん、どうしたんですか」
 今まで二週間、真央の話題は避けていた。だが、さすがにここまで元通りなら尋ねても問題はないだろう、と思った。
「そうだな。これだけ迷惑をかけて何も話さないのは失礼というものだな」
「別にそんな。私はただ、真央さんのことが知りたいだけで」
「ああ。境さんが真央のことを強く思ってくれているのは分かっている。ただ、何から話せばいいのか」
 悠斗はしばらく考えていたが、何も言わずに待っているとやがて口を開く。
「真央がどうしていなくなったのか、また真央がそういうことをにおわせる言動をしていたことを、境さんは以前も聞いていたね」
「はい」
「はっきり言って信じられない話だと思う。正直自分もよく理解はできていない。ただ、自分も真央も、そのことを理解して行動していた」
「それは?」
「真央は異世界の魔王で、この世界の人間の中に封印された。真央が十五歳から二十歳までの五年間、俺は真央を育てなければならなかったんだ」
 それを聞いて、自分は答えた。
「すみませんが、日本語でお願いします」
 自分の返事を聞いた悠斗は、突然吹き出していた。
「悠斗さん?」
「いや、すまない。今の境さんの返事は、俺が最初に説明を受けたときとまったく同じものだったからな」
「そうなんですか」
「それはそうだろう。異世界とか魔王とか、あまりにもファンタジックで俺には無縁の言葉だった。ただ、真央も俺もそれが事実だと認識している」
「私をからかっているわけではないようですが」
 ふう、とため息をつく。
「もう少し、分かりやすく教えてくださらないと、何も理解できません」
「その通りだ。さて、それこそどこから話そうか」
 悠斗がまぶしそうに目を細めたので、ブラインドを下げた。部屋の中が薄暗くなった。
「そうだな──どう説明すればいいか分からないから、最初から説明した方がいいだろう」
 小さくうなずく。が、既に悠斗の目は薄暗い部屋の中をさまよい、かつて悠斗と一緒にいた女性を追いかけていた。






「五年前。俺は、一通の手紙を受け取った。俺と真央との物語は、全てあの手紙から始まったんだ──」






Fin







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