終章




 ファーディルはかっと目を見開いた。
 ふかふかのベッド。あたたかい日差し。唯一汗だくになっている点をのぞけば、いつも通りの朝だった。かなり昼に近い時間ではあるが。
 両手で顔をおさえた。汗ですっかり冷え切ってしまっている。
 夢、か……。
 なんとか気持ちを落ち着けて身を起こし、ゆっくりとベッドから下りた。そして窓の方に歩いていき、カーテンを勢いよく開ける。同時に射し込んでくる陽光の眩しさに目を細めた。雲の1つも見当たらない、とても澄んだ空であった。静かに落ち着いた時間がしばし流れた。
「ファーディル様! いかがなさいました!」
 が、その時間はすぐにその澄んだ空へと吸い込まれていった。バタンッ、と扉が大きな音を立てて開き、その向こうから薄水色の瞳と紺色の髪を備えた美しい女騎士が息をきらせて飛び込んできた。
(ああ、そうか)
 ファーディルは突然のように理解した。
(全部、夢だったのか)
 顔の端に、ようやく笑みの欠片を浮かべ、グレースを見つめた。
「おはようグレース。いい朝だね」
グレースはその様子を見定めると、あきれたように、そしてまた少しだけ安心したように、ため息をついた。
「朝ではありません。もう昼になります。それよりも、それを言うためだけに私をお呼びになったのですか」
 何と答えたものか、笑みをたやさずにしばし考えた。
「違うよ」
 その微妙な言い回しに、グレースはしばし何も答えなかった。が、やがてベッドの傍に掛けてあるタオルを手に取ると、近寄ってきて髪を拭き始める。
「随分汗をかきましたね。悪い夢でもご覧になりましたか」
それが冷や汗であることが、グレースにはすぐに分かったであろう。
「うん。すごく悪い夢を見たよ」
 ファーディルはタオルを取り上げ、首筋と顔を拭った。
「……君を、殺してしまう夢を」
 それを聞いてグレースは「それはまたひどい夢をご覧になりましたね」と短くため息をついて、水差しからコップに水を注いでファーディルに手渡した。どうやら今の話を本気としては受け取らなかったようだ。
「君に、言いたいことがあったんだ」
 ファーディルは穏やかに微笑む。グレースは半ば諦めたような表情で「なんでしょうか」と素っ気なく答える。
「好きだ」
 その顔から、次第に色が失われていった。
「夢の中で考えさせられたよ。僕はずっと、兄上に遠慮していたみたいだ。僕はただ、君のことが大切だったのに──いや、大切だったから何も言えないでいたのかな」
「ファーディル……様」
「答えがほしいというわけじゃないんだ。君の気持ちは、そのう、知っているつもりだから。でもだからこそ知っていてほしかったんだ、僕の気持ちを。僕が今までどれだけ君に救われてきたか、どれだけ君に力になってもらってきたか。とても感謝しているし、それ以上に、本当に君が大切なんだ」
「……」
 グレースは俯く。そして、小声で、ファーディルの耳元になんとか届く程度の声で答えた。
「…………冗談は、おやめください…………」
 ──それが、グレースのどういう気持ちから出た言葉だったのか、ファーディルには分からなかった。本気だ、と言えばいいのか。それともグレースの言葉に従った方がいいのか。
「──今日は、午後2時から父上と国祭の話し合いだったよね」
 ファーディルはグレースに背を向けて着替えを始めた。その向こうでどのような表情をしていたのか。それを見るのが怖かったから、背を向けていたのかもしれない。
「あ──はい。フィナーレ・パレードの件で──」
「その前に食事をしておきたいから、朝御飯、いやもう昼だったね。昼御飯をここに持ってきてくれないかな」
「──分かりました」
 グレースがやや足を早めて出て行ったことにファーディルは気付いていた。
(別に、急ぐ必要はない)
 ファーディルは1人微笑む。
(夢と違って、これからは時間はたっぷりとあるんだから……)
 窓の外に広がる景色はいつもと変わらない街並。これから始まるのはいつもと変わらない日常。
 その幸せを、ファーディルは実感していた。





もどる

 ……そしてファーディルは目を覚ました。
 ふう、と息を吐く。近くにあった水差しからコップに水を注ぎ、それを一気に飲み干すと、今までのことを思い返した。
 ……あの夢か……。
 国が滅び、家族を失い……あの現実からはや10年が過ぎていた。ファーディルは名前を変え、1人の用心棒として何とか今まで食いつないできた。リアナは今ごろ、遠くの修道院の中で自分と家族のために祈りを捧げているに違いない。
(……10年、か……)
 全てが終わって、またあの平和な暮らしに戻る。そのことを、自分はまだ諦めていないとでもいうのか。もしあの時に戻ることができたなら──そう、自分は間違いなく、夢の中の通りに行動するだろう。
 それにしても、何と懐かしい夢であっただろう。
 大切だったグレース、リアナ、兄上──あの頃の自分は確かに幸せであった。これ以上ないくらいに。幸せを幸せと感じることができないくらいに。
 だがあの事件からの自分は、ただの復讐者にすぎなくなってしまった。
 自分の幸せと、大切な兄上やグレースの命を奪い、国を滅ぼした仇、ヒュープーン。自分は奴を殺すためだけに、今まで生き続けてきた。そしてこれからもそれが果たされるまで、繰り返すことになるのだろう。
 そしてこの10年で、ゼルヴァータ王国と同じような運命をたどった国が何カ国も生じていた。夢魔、あのヒュープーンが関わったと思われる形跡も見られた。
 そして、その進路から、自分はこの国に狙いを定めた。
 必ず、奴はここにやってくる。
 久しぶりに見たあの頃の夢。おそらくそれは、ヒュープーンがこの国に来たことの予兆なのだろう。


 ファーディルは立ち上がった。そして宿を出ると、王城に向かって歩きだした。
 夢魔を倒す。
 それだけが今や、ファーディルにとっての存在意義であった。
──fin──