奇跡。
 全ては、聖夜から始まった。
 あの日、私は人と一緒に暮らすことを願った。
 そして、かなった。

『もしも玲微名の一族とラビリンスの住人、両者の関係を明らかにできれば、
 そのときこそ、あなた方が戦わなくてすむ未来が切り拓けるでしょう。
 あなたが私に話してくれた、楽しい学校生活に戻って平穏な日々を。
 私も、学校に通ってみたかったな。
 あたたかい。
 これが、人と触れ合うぬくもり。
 ラビリンスの住人である私にも、こんなぬくもりを感じることができるのですね』







クレセントノイズ、外伝



ベレト、学校へ行く





最終翼

『ありがとう』







「高宮さんっ!」
 私は、その後姿に向かって叫ぶ。相手も自分に気付いて、振り返った。
「如月くん」
 当然、彼女は驚いている。だがそれと同時に安堵の笑みも浮かべていた。
「よかった。学校をお休みなされていたから心配していたんです」
「違う」
 私が断言すると、高宮さんは少したじろぐ。
「高宮さんは、不安だったんだ。どうして私が高宮さんから逃げたのかが分からなくて」
「如月くん」
「私も昨日、同じ思いをしましたから」
 息が上がっているのが自分でもわかった。
 本来、この世界でなら際限なく力を使えるはずなのに。
 私も随分人間らしくなってきたものだ。
「私は高宮さんにそんな思いを少しでも長くしてもらいたくなかったから、ここに来たんです」
「……」
「私も、好きです」
 勇気をふりしぼって、言う。
「高宮さんのことが、好きです」



 その瞬間、私の中で何かがはじけた。



「……始まったな」
 タルシュシュはグラスをテーブルに置いて立ち上がる。
 薄暗い部屋に電気もつけず、窓から外を見つめる。
「頼む……」
 ぐっ、とタルシュシュは拳を握る。
「弟を、救ってやってくれ……」



 まず感じたものは衝撃。そして灼熱の痛み。
 そしてこらえきれないほどの虚脱感だった。
「あ……」
 耐えられず、私はその場に膝をつく。
「この、感覚は……」
 確かに覚えがある。
 あれは、聖夜に起こった惨劇。
 私の体を貫いた業火。
「そう、か……」
 これは奇跡。
 私の身に起きた、かすかな奇跡でしかなかったのだ。
「如月くんっ!?」
 高宮さんが跪いて私の肩に手をかける。
「高宮さん……」
 あのときもそうだった。
 私の体を気づかってくれた響さんが、私の頬に手をあててくれた。
「お別れです」
 私は最後の力で笑った。
「私の願いは、全て聞き届けられました。学校生活を送ることもできましたし、たくさんの思い出をいただきました。そして何より、一番大切なあなたに出会うこともできました」
「何を、言っているんですか」
「私は、一度死んだ身なのです」
 体を支えることができなくなり、そのまま高宮さんに向かって倒れる。
 彼女は、しっかりと私を抱きしめた。
「如月くんっ」
「温かい……私が求めていたのは、このぬくもり。あなたのことを好きだというこの気持ち。もう、何も思い残すことはない、全ての願いはかなった、はずなのに……」
 体が、溶けていく。
「おかしなものです。願いがかなったら、次の願いを持つようになってしまいました。あなたともっと一緒にいたい。あなたのぬくもりをずっと感じていたい……」
「如月くん、いったい、いったい、どうしたんですか。だいじょう──」
 高宮さんの言葉が、止まった。
 それは、私の体が少しずつ羽に戻りはじめているのを見たからだろう。
「私は、人間ではないのです」
 私は目を閉じた。
「そんな私を好きになってくれたあなたに、心から感謝を」
「そんな、そんなものはいりません。だから、そんなことは言わないで」
「ありがとう」



 そして、体の全てが羽へと還元した。



 月が満ちる。
 全ては、始まりの時へと戻る。
「終わったか」
 タルシュシュは、握られた手をゆっくりと開く。
 ずっと力をこめていたせいか、腕が痙攣してうまく動かない。
「……では、最愛の弟を迎えに行くとしよう」
 ふわり、とその体が浮いた。



 大量の羽が舞う。
 その中で、高宮由梨絵は目の前で起こった現象を信じることができずにいた。
 如月ベレト。
 突然自分の前に現れて、そして目の前で消えてしまった少年。
 自分が本当に好きだった少年。
「……どうして」
 いったい何が起こったのか、まるで分からない。
 突然声をかけて呼び止められたかと思ったら苦しみだし、そして羽へと変わってしまった。
 現実にありうることではない。だが、あのときの彼の表情。
 助からないことを悟って、それでも自分に会いたくてここまで来たということなのだろうか。
「なんで、こんな気持ちにさせるんですか……」
 震える声で、舞い降りる羽を握り締める。
 そして、その羽の中に1つの小さな石があるのに気付く。
 ゆっくりとその石に手を伸ばす。
「やめたまえ」
 後ろから声がかけられ、びくっとして振り返る。
 そこにいたのは、タルシュシュであった。
「架羅間先生……」
「その石はベレトの魂をこの世界につなぎとめておくための楔だ」
 タルシュシュはゆっくりと歩みより、銀色の石を拾い上げる。
「……なるほどな」
 その石を左手で握りしめると、タルシュシュはゆっくりと高宮に近づく。
「お前は何を望む?」
「──え?」
「お前の望みをかなえてやろう。いったいお前は、何を望む?」
「わ、私は……」
 望み。
 それは、たった1つ。
「それが、お前の望みか。ならばかなえてやろう。代償は、お前の記憶──」
 タルシュシュの右人差し指が、跪いたままの彼女の額に触れる。
 瞬間、彼女の体が崩れ落ちた。
「目が覚めたときには、ベレトのことは忘れている」
 そして、左手をゆっくりと開いた。
「これでよかったのか、ベレト?」
 ふわり、とその石が宙に浮く。
 そして徐々にその石が発光をはじめ、やがて人の姿をたどる。
『ありがとう、兄さん』
 声が聞こえる。
 その光は、ベレトの姿を形づくり、そして。
「……なんとか、なったようだな」
 タルシュシュは愛しい弟が完全に元の姿に戻ったのを確認し、抱きしめる。
「兄さんが助けてくれたんですね」
 ベレトの手の中には、銀色の石があった。
「私が人間界で暮らせるために」
「ああ。お前の思考、感情、行動は全てその石の中にコピーされている。お前が最後に感情に目覚めてくれてよかった。そうでなければ、手遅れになるところだった」
「私は死んだのですか?」
「厳密に言うならばそうだ。今のお前は、生前の記憶をペーストした存在にすぎない。だが、同一人物であることには変わりない」
「……そうですか」
 ベレトは倒れている高宮に近づくと、優しく抱き上げる。
「記憶を奪って、どうするつもりだったんだ?」
「私は、彼女の前にはもう現れません」
「なぜだ?」
「ラビリンスの住人である私が一緒にいても、彼女が不幸になるだけですから」
「それがお前の選択か」
「はい」
 ふっ、とタルシュシュは優しい笑みを浮かべた。
「これを見るがいい、ベレト」
 タルシュシュはベレトの左手を手に取り、ベレトに見せるように持ち上げる。
 ベレトは自分の左手を見て、目を見開いた。
「こ、これは……」
 そこには、血が滲んでいた。
 昨日、高宮の前でシャープペンシルを突き刺した左の掌。
 その傷痕に、血が滲んでいる。
「俺はお前を、以前と同じように生き返らせたわけではない」
 タルシュシュは手を放すと、ベレトの頭を優しくなでた。
「お前は、お前が望んでいた人間になれたのだよ、ベレト」
「私が、人間に……」
 本当だろうか。
 今までと何も変わりがないように思える。ラビリンスの力とて、普通に使うことができるのが分かる。
「サリエルを知っているか?」
 頷いて応える。
「七大纏子のひとり。邪眼を持つ者。ですが、ここ1千年は行方が知れておりません」
「あの方は地上にいるのではないかといわれている」
「地上に……」
「お前と同じように、人間の器を持ってな」
「私と同じ」
「そうだ。お前は玲微名の一族の長とやらに会うがいい。そうすればお前が進むべき道も見えてくるだろう。そして、人間として生きるがいい。お前の望みどおりに」
 人間として。
 それはずっと自分が望んでいた願い。
「にいさ……」
「もう俺とお前は兄でも弟でもない。その名で呼ぶのはやめるがいい」
 ふ、と笑ってタルシュシュは翻る。
「だが、俺にとってお前はいつまでも誇りに思える弟だよ」
 そして、タルシュシュは去っていった。
「……ありがとう、兄さん……」
 小さくなる背を見つめて、ベレトは呟く。
 全て自分のために労力をつくしてくれた兄。
 あの人の弟でよかったと思う。
 確かに冷酷な面はある。だが、自分にとっては優しい兄だった。
 いつでも自分のことを見ていてくれた。
 もう、自分はあの人の弟ではない。体は人間のものになってしまったし、所属する場所も異なることになる。
 だがそれでも。
「私にとっても、誇りに思える兄です」
 その声が届くはずもなかったが、それでも言わずにはいられなかった。



 そのとき。
「う……ん……」
 高宮さんが目を覚ました。
 まずい、と思う間もなく彼女は私の腕に抱かれていることに気付き、じっと私を見つめる。
「きさらぎくん……?」
「え──?」
 ベレトは、腕の中の高宮を見つめた。
 ──何故?
 記憶は、兄が全て抜き取ったのではなかったのか?



 月が欠けゆく。
 あの日もそうだった。聖夜、ベレトが殺された日が満月。
「抜き取った記憶は、お前が死んだというものだけだ」
 黒い羽を弄びながらタルシュシュは呟く。
「一ヶ月遅れのクリスマスプレゼントだ、ベレト」












全ての現象は、偶然と奇跡の上に成り立っている。



私が存在するという奇跡。
感情を持ったという奇跡。
人間になったという奇跡。
貴女に会ったという奇跡。



私は、全てに感謝している。



この私の存在を気にかけてくれた『あなた』にも。



──ありがとう。







Fin.











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