弥生、その過去
それは、今を遡ること三年。
「弥生ーっ!」
少女は、ぴたり、と立ち止まり、ぐるん、と勢いよく向き直った。その勢いのよさに、思わず声をかけた方がびくっと後ずさる。
「……なに?」
無表情で、何を考えているのかが全くよめない。しかもその特異な行動と異様な雰囲気が重なり、誰もが彼女、神楽弥生のことを敬遠する。だが、
「あ、あはははは、やっぱりあんたって、ちょっと変わってるよね」
弥生に声をかけたのは、同級生の秋山由香。いたって普通という感じの少女で、笑顔を浮かべて弥生の隣に並んで歩き始めた。
「んー、一緒に帰ろうと思って♪」
弥生に唯一近づいてくるのが、この由香であった。由香は特徴というほどのものは持っていないのだが、誰にでも声をかけるという性癖がある。そしてなにより、この一風変わった弥生に声をかけられる勇気と度胸は、人並みはずれたものだと言わなければならないだろう。
「……いいけど……」
弥生は無表情のまま答えた。弥生は別に、人と話したり一緒にいたりすることが嫌いというわけではない。単に、自分に近づいてくる人がいないというだけのことで、話しに来る者を拒んだことは一度としてない。無論、緊急の場合を別として、であるが。
「今日、理恵がさぁ」
由香の方も弥生とどうやって付き合っていけばいいのか、ということは既によく理解しているようであった。とにかく一方的に喋る。弥生はそれに対してきちんと返答してくるから、それで会話が成立する。といっても、弥生の返答はこれ以上ないくらいの正論か、辛辣で毒を含むものがそのほとんどで、彼女と付き合うには気力と体力が必要ではあるのだが。
「それじゃあ、またね!」
別れ道で、由香は手を振って挨拶する。弥生はそれをいつものように、ぼうっとして見送った。
「…………」
弥生は、ゆっくりと家路についた。なんとなく、いつもと気分が違うのは何故だろう、とかすかに疑問に思った。
「おかえり、弥生ちゃん♪」
家に帰るなり、一つ年上で同じ中学に通っている高野響が声をかけてきた。この二人は現在訳あって同じホテルの一室を使って共同生活をしている。
弥生は、がくん、と上半身を九十度倒し、かくっ、と首だけ上げて「……ただいま」と答えた。響もいつもの挨拶だと理解してはいるのだが、どうにもこらえきれずに苦笑してしまう。
「今ご飯できるから、もうちょっと待っててくれ」
既にエプロン姿の響はにこにこと笑いながらキッチンへと入っていった。その後ろ姿に向かって、弥生は声をかける。
「……聞きました」
「ん、何をだい?」
響はフライパン片手に、振り向きもせずに答える。
「……東京の高校へ、通われるそうですね」
「ん、ああ。なんでも向こうの方が人材不足らしいからな」
「……それだけ、ですか?」
繰り返して尋ねたが、響からの返答はない。おそらく、それが答えなのだろう、と弥生は判断した。
響は、奈良から出たがっている。おそらく、奈良でさえなければ、いや、奈良の勢力が及ばない土地でさえなければ、どこでもよかったに違いない。
「着替えてきなよ、もう、晩ご飯できるからさ♪」
弥生は、声に出しては答えずに自分の部屋へと入っていった。
何故、響は沙里様をあそこまで嫌うのか。いや、嫌うというより、父親に反抗する子供であるかのようだ。
シュルリ、とリボンを解き、ブレザーとワイシャツをハンガーにかける。そして、クローゼットの中から黒のトレーナーとズボンを取り出す。
着替えが終わりキッチンへ向かおうとした時、弥生は一瞬自分の目の高さに備えられていた鏡に目がいった。
そこに、自分の顔が映っている。
紺色の髪と、緋色の瞳。
それは、自分が『普通』ではないものの証であった。
「ねえねえ、弥生?」
翌日。相変わらず由香は弥生に声をかけてくる。席が近いということもあるが、時々どうして自分にここまで関わろうとするのか、分からなくなる時が弥生にはあった。
「ねえ、聞いてる、弥生?」
がくん、と勢いよく頷く。それを見て、由香はまたくすくすと笑った。
「本当、面白いよね、弥生って。ところでさ、今日、暇かな?」
弥生は怪訝な顔を浮かべた。今まで由香は弥生に声をかけてきたことはあったが、何かに誘おうとしたことは一度としてなかった。一体何があったのだろう、とそれくらいは疑問にも思う。
「実は、相談したいことがあるんだ」
一瞬、由香から微かに不協和音が響いた。それはほんの一瞬だったから、どれだけ深刻なものなのか、弥生には分からなかった。だが、由香が本気で悩んでいることだけは理解できた。
「……分かったわ……」
由香は、ぱっと顔を輝かせた。
「ホント? ありがとう!」
その笑顔を見た時、弥生はどきっとした。無論、顔は無表情のままだが。
「それじゃあ、五時に、公園でいい?」
弥生が頷くと、由香は「それじゃ、待ってるね!」と言って、また別の人のところへ行ってしまった。
それを見送りながら、弥生は自分の気持ちに気づいていた。どうして今まで気づかなかったのだろう、と自分に問いかける。
自分は、由香が話しかけてくれること、由香がかまってくれることが嬉しかったのだ。
公園にはもう先に由香が来て待っていた。由香は微笑んで「来てくれてありがとう」とまず先に言った。
「……それで?」
弥生は躊躇うことなく、本題に迫った。由香は一瞬詰まったが、すぐに気を取り直して、「うん」と頷く。
「三浦君のことなんだけど……」
三浦敏弘。サッカー部所属で、クラスで一番人気のある男の子である。もっとも、弥生にしてみると同年代の男子など子供にしか見えないのだが。
由香の話の概要は、三浦君のことが好きなのだが他に好きな子とかいないかどうか、というものであった。
実は、由香のその気持ちについては、弥生は前々から気づいていた。何度となく淡い恋心が音となって弥生に聞こえていたし、それはとても澄んだ、綺麗な音色だった。思えば、その音色が好きだったから、由香が話しかけてくれると嬉しかったのかもしれない。
だが、三浦の方は現在特別好きな人はいないようであった。少なくとも三浦からそういう心の音を聞いたことはない。
一体、どう答えればいいだろうか。
「……多分、好きな人はいないと思う……」
素直に、答えてみた。すると由香は少しだけ安心したように「そうかあ」と呟いた。もちろん、ほんのわずかに残念そうな音が弥生の耳には届いていたが。
「今日は、ありがとう。相談にのってくれて」
「たいしたことは、してないから……」
弥生がそう言うと、由香は首を横に振って「それじゃ、また明日学校でね!」と微笑んだ。
「ええ。また明日」
弥生がそう答えると、由香はびっくりしたように目を瞬かせた。
「初めて答えてくれたね」
弥生の体が、びくんと揺れた。
「そう……だったっけ」
「なんか、やっと友達になれたって気がする」
少し、顔が赤らんでいたかもしれない、と弥生が気づいたのは由香と別れてからのことであった。
「お帰り、随分とゆっくりだったな」
やはりエプロン姿の響が迎えてくれた。弥生は普通に「ただいま」と言い、自分の部屋へと向かう。だが、すれ違う時に響が意外そうな顔をしていることに気づき、無表情のまま響の顔を見つめた。
「……何か?」
「いや、いつもと雰囲気が違うなって思ってさ♪」
「そう……」
弥生は、それ以上何も答えず、さっさと自分の部屋へと入っていった。その後ろで「いやはや、青春だねぇ」と呟く響の声が聞こえたが、あえて無視した。
翌日の放課後。弥生が忘れ物を取りに教室へ戻ってきた時のことであった。クラスの中から笑い声がどっと聞こえてきた。同時に、クラスメイトたちが奏でる嘲りの音色も弥生の耳に届いた。
何事だろう、と疑問に思いながら弥生は教室の扉を開けた。
全員の視線が、一瞬弥生に集中した。
弥生はその視線を受けながら冷静にクラスを見渡した。まず、絶望的な表情で立ちすくんでいる由香の姿が目に入った。そして、男子生徒が集まって、一人の男子、三浦をからかっているところも見られた。そして、黒板に書かれていた『由香LOVE敏弘』の文字。
くだらない、と弥生は心から思った。こんなくだらないことをして、一体何が楽しいのだろう、と思う。そして同時に、これほどの恥辱と絶望を浴びなければいけなくなった由香のことを、心から心配した。
おそらく、このクラスでは初めてであっただろう。弥生が、自分から他人に話しかけることなど。
「……由香……」
すると、由香はびくんと反応し、振り返って弥生を睨みつけた。
「あんたね!」
音色が、変わった。巨大な絶望が、そのまま怒りへと変化したのだ。
「あんたがバラしたんでしょうっ!」
弥生は無表情であったが、心の中では呆然としていた。そんなことを、まさか自分がするはずもない。
「あんたなんかを友達だと思った自分がばかみたいよっ!」
由香は弥生をはねのけて、クラスから飛び出していった。その騒動が終わった後、男子の一人が「なんだ、あいつ」と言って笑った。クラス中が、それに同調して嘲笑する。
その男子が奏でた音色を、弥生は当然聞き逃さなかった。
『あいつ、ばかみたいな勘違いしてるぜ』
許せなかった。
簡単に他人を傷つけ、陥れる。これでは、振夜の来訪者などよりはるかに性質が悪いではないか。
弥生は、ゆっくりとその男子に近づいていった。その雰囲気に、クラスがざわめき始める。そして、その男子もまた「な、なんだよ……」と弥生の気迫に圧倒されながらも、言葉を発する。
「言いなさい」
「な、何をだよ」
「どうして、由香の秘密を知っているのか」
「何のことだか、分からねえな」
だが、人の心の音が聞こえる弥生に向かって、隠し事などできようはずもなかった。
「……そう、立ち聞きしていたのね」
「なっ……」
今度は、明らかに動揺を見せていた。弥生はカッとなってその男子の服を掴むと、軽々と持ち上げて、黒板に向かってその男子を投げつけたのだ。
ドシンッ! と派手な音がした。それ以外の音はクラスから一切消え失せていた。あまりのことに、誰もが何が起きたのか理解できなかったのだ。
「最低ね」
弥生はその男子に目もくれずに吐き捨てると、由香を追ってクラスを飛び出した。もう、由香の音色はどこにも聞こえない。どうやら、学校から飛び出していってしまったようだ。
(どこに行ったの、由香……)
弥生は、全神経を集中させて、由香の音色を探した。
やがて、哀しげな音色が弥生の耳に届いた。
「……公園……」
昨日の公園が、その音源であった。
「由香……」
公園の、一番大きな木。そこに手をあてて肩を震わせている由香。
今もそこからは、様々な音色が聞こえてくる。
憤怒、失望、絶望、悲哀。
正直、弥生には何と声をかけていいのか分からなかった。だが、それでもなんとかしなければ、と思う。
「由香」
もう一度声をかけると、今度はその震えが止まった。そしてかわりにふつふつと由香の中に怒りの気持ちが強くなる。それが弥生には分かった。
来るべきではなかっただろうか。
だが、このまま由香を放っておくわけにもいかなかった。どうにかして、由香を助けなければならない。
「……無様だと、思ってる?」
「……いいえ」
「じゃあなんでバラしたのよ!」
「私じゃないわ」
「嘘! 私、あんた以外に誰にも喋ってないもの!」
「立ち聞きしてた男子の仕業よ」
「ごまかさないで!」
何を言っても、聞く耳を持たなかった。どうすれば、と次の言葉を探している間にも、由香は次々と言葉を放つ。
「どうせ、あんたは私のことなんて何とも思ってないものね。そうよ、私だってあんたのことなんて、何とも思ってなかったわよ! あんたに相談しようと思ったのも、あんたが他の誰とも話さないから、秘密が守れると思っただけなのに。よくも、よくも!」
その言葉は、弥生の心を深く傷つけた。
分かっていた、はずだった。何のために、由香が自分に近づいたのかは。それを、気がつかないフリをして自分に言い聞かせて、由香が自分に近づいてくることを喜んで。
「あんたなんか、あんたなんか!」
その時。
キイイイイイィィィィィィ!
(これは、来訪音?)
弥生が身構えると、その大木のすぐ向こう側から、別の男の声が聞こえてきた。
『お前の願い、叶えてやろう!』
すると、由香から爆風が吹き出し、弥生の体を吹き飛ばそうとしたので、弥生はぐっとその場に踏みとどまって耐えた。
「振夜の来訪者……!」
その男は、大木の影からゆっくりと姿を現した。下品な顔をした、気に入らない感じの来訪者だった。あの、蘭とかいう青年とは大違いだ。
「俺はレイド。このあたりで俺たちにたてついてる連中ってのは、お前だな?」
レイド、と名乗った来訪者は弥生に向かってにやりと笑った。
「……由香に魅入って、どうするつもり……?」
「どうするもなにも、分かってるんじゃねえのか?」
下卑た笑いが、勘に触った。だが、このまま由香に魅入ったレイドを倒してしまっては、由香が助かるにしても心に傷が残ってしまう。
どうするべきか。
「由香っ!」
とりあえず、名前を呼んでみた。由香は既に意識が朦朧としており、呼びかけても返事はない、はずだった。
だが、ゆっくりと右腕が弥生の方に向けられ、はっきりとこう言った。
『あんたなんか、いなくなれ!』
この時、初めて弥生は感情らしい感情を表に見せていたのかもしれない。無表情、というよりは愕然としたような感じが、明らかにその顔に出ていたのだ。
「はははは、はははははっ!」
レイドの耳障りな笑い声が、あたりに響く。
「お前なんか、いなくなれだとよ! ああ、お前の願い、この俺が」
レイドはそれ以上話すことができなかった。それは,レイドの体が業火に包まれたからだ。
「ぐああああっ!」
レイドの悲鳴が響く。それは聞き苦しいものではあったが、笑い声よりはまだはるかにましなものであった。
「我は、火。深淵なる怒りを逆巻く者」
弥生の右手に、紅蓮の炎が生まれた。
「ば、ばかな。人間ごときが、こんな力を……」
「私の力を見た来訪者は、皆そう言うわ」
ゆっくりと弥生はレイドに近づいた。そして、右手をふりかざす。
「消えなさい」
その右手が振り下ろされた時、レイドは完全に焼きつくされ、無数の白い羽へとその体が変化した。
「由香……」
同時に由香の体は束縛が解かれ、力を失って大地に倒れこんだ。
一体、今日の出来事が由香にどういう影響を与えるだろう。
弥生は、一歩由香に近づいたが、それ以上近づくことができず、振り向いて逃げ帰った。
「お帰り、弥生ちゃ──」
響のいつもの出迎えは途中で止まった。響が驚いた顔で弥生を見つめている。
「どうした?」
「いえ……なんでもないです」
「泣いてるぞ」
「はい。分かってます」
自分でも驚いていた。まさか、ここまで衝撃を受けるとは自分自身思いもよらなかったことだ。
由香に、友人だと思ってもらえていなかったこと。もしかしたら思ってもらえるようになったのかもしれないが、それが失われてしまったこと。
辛かった。
哀しかった。
もっと、由香と一緒に話していたかった。
翌日。弥生が教室に入っていくとざわめきが起こった。それは無論分かっている。昨日、あれだけ大立ち回りをしたのだ。異様な雰囲気に加え、とんでもない力の持ち主だと知れ渡り、ますます近寄りがたくなってしまったのだろう。
それ自体は弥生は別段気にはしていなかった。それよりも気になっていたことがあった。
その気掛かりは、向こうから近づいてきた。
「……あの、弥生……」
由香だ。昨日、来訪者に魅入られたおかげで、公園の一件は全て忘れてしまっているはずであった。だが、教室で起こったこと、由香が弥生に向かって言ったことは全て覚えているはずだ。
「昨日は、ゴメン」
由香は、頭を下げた。
「みんなに聞いた。私のために怒ってくれたって……」
だが、一晩経って弥生はすっかり冷静ないつもの自分に戻ってしまっていた。だからこそ、由香が今何を考えているか、はっきりと分かった。
今まで、ずっと自分に話しかけていたことから生じている責任感、後ろめたさ。そういったものが、無理矢理に由香を行動させていたのだ。
「よかったら今日、みんなで遊びに行くんだけど……」
それでもそこまで由香が勇気を持って誘ったことについては賞賛せざるを得ないだろう。だが、弥生は由香に無理をさせてまで自分の気持ちを優先させるような性格ではなかった。
「遠慮しておく」
「そう、分かった」
逃げるように、そして安心したかのように由香は弥生から離れていった。
そして、弥生と由香がこれ以後仲良くなることは、なかったのである。
ふと、懐かしいことを思い出してしまった。あの美術部部長と副部長の信頼関係を目の当たりにして、自分たちはあまりにも上辺だけの付き合いしかしていなかったことを痛感させられていたのだ。
力ずくで解決しても、心の痛みは完全に拭えない。そのことは誰よりも自分が分かっているはずだった。それなのに、自分はあの時以来、ずっと力ずくで物事を解決してきたような気がする。
そして、人の心というものを信頼していなかったような気がする。もしあの時、自分が由香についていったらどうなっていただろう。たとえ最初はぎくしゃくした関係だったかもしれないが、後にはちゃんとした友達同士になれていたかもしれない。
夕陽を見ていると、拓君がやってきて、昨日のことを謝ってきた。
「本当……不思議な子……」
私の今までの生き方は間違っていたのだろうか。
由香と、やり直すチャンスはあったのだろうか。
もしあの時拓君がいてくれたら、私たちはどうなっていただろうか。
「あなたはこれからどんな風に……自分の未来を琴咒で切り拓いていくのかしら?」
本当に、本当に不思議な子。私に、こんな気持ちを抱かせるほどの、不思議な子。
「拓君?」
「は、はいっ」
拓君は畏まって気をつけをしている。弥生は、くすりと笑った。
「帰りましょうか?」
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