八章 それぞれの空の下で






『マリーさん……』
 優しい殿下の声。私はずっと、その声だけを幸せと感じて生きてきた。
 この任務がどれだけ危険を孕んでいるかも承知の上だった。それでも、私はあの方のためにその望みをかなえてさしあげたいと思った。
『システィーナ殿下。私に行かせてくださいませ』
 まるで鏡を見ているかのように、全く変わるところのない二人。双子でもこれだけ似ることはきっとないと思う。けれど、その内面は天と地ほどに違う。
 あの方は三女だけれど、恐れ多いことながら、五人兄弟の中で最も優れていらっしゃる。
 他の方々に見るべきところがないというわけではない。ただ、国王としての器量を備えているのは、あの方だけ。
 だからこそ、パルス王子の妻としてふさわしかった。
 あの方の器量があれば、エルフィア国内においてクラヴィナ擁護論を押し進めることができると思われたからこそ、あの方に白羽の矢が立ったのだ。
『ですが……』
『私一人がいなくなったところで、クラヴィナは何も困りますまい。とにかく、今のクラヴィナにとってはエルフィアとの同盟関係だけが唯一の命綱。私ごときでは少々不安かもしれませんが』
『そんな、そんなことはありません』
『でしたら、ぜひ私にご命令あそばしくださいませ。たとえこの命果てても、必ずパルス王子の生死を確認してまいります』
 最近殿下のお命を狙って現れるようになった黒装束。彼らの目をこちらに引きつけ、なおかつあの森を抜けていかなければならないのだ。
『あなたがいなくなったら私が悲しみます』
 思いもかけない言葉だった。
『……私が、悲しみます』
『そのお言葉だけで充分です、殿下』
 そう。私はあの方のためならどんなことでもできる。
 自分の手が汚れることなど厭わない。
 自分の命がなくなることなどためらわない。
『クラヴィナの王家に連なる者として恥じない行動をとってまいります』
 あの方とお話したのは、その日が最後となった。





「……システィーナ」
「あ、はい」
「何ぼやっとしてるのさ。しっかり捕まってないと、落ちるよ」
「す、すみません」
 ジャンヌの声で我に帰る。
 王子宮は目の前だ。期せずしてこういう形となったが、これでようやく王子の生死をこの目でたしかめることができる。
(待っていてください、王女)
 例え自分が死んだとしても、事情を全て把握しているルファーならば、きっとその情報を国元へ届けてくれるだろう。
 それでいい。自分が捨て石になることなど百も承知だ。そして自分はあの方のためだけに、この命を捨てるのだ。
 自分の命を捨てることなどためらわない。
 ためらわない……。
「ニーダ。そろそろ、下降して」
 悪魔はゆっくりと高度を下げていった。人がいないところを見計らって、誰にも気づかれないように降り立つ。
「ご苦労さま、ニーダ」
 三人が大地に足をつけたその時である。
 異変がおこった。
 悪魔が膝をつき、ばったりと倒れてしまったのだ。
「ちょ……ニーダ、もう?」
 ジャンヌが慌てている。ルファーは悪魔の傍らに膝をついた。
「ちょっと、システィーナ、あっち向いてて!」
 突然何事か、と思ったがすぐに分かった。
 悪魔の翼が、鈍く発光してから消えた。角も爪もその形を失い、鱗が徐々に剥げていく。黒い体が少しずつ白に戻り、体の大きさも一回り、二回りと小さくなっていく。
 王女はジャンヌの言いたいことが分かり、顔を赤らめてそっぽを向いた。
「ニーダ、ニーダ!」
 ジャンヌが弟を抱き上げ、その頬を軽く叩く。
「ねぇ……ちゃ……」
 弟は弱々しくそれに答えた。
「ニーダ、あんた、体は大丈夫?」
「うん。へいき……ちょっと重たいけど、いつものことだし。ローブ、貸して」
「ああ。ほら」
 弟を立ち上がらせてから、ジャンヌはローブを手渡す。下着類が何もなかったので、仕方なくそれをそのまま着ることになった。
「本当に大丈夫かい?」
「うん。体は重たいんだけど、いつもと違って胸のあたりが楽だし」
「へえ、珍しい。元に戻る時間も今回妙に早かったし、なんなんだろうね」
「僕に聞かれても……」
「ま、そりゃそうか。あ、システィーナ、もういいよ」
 呼ばれて、王女は振り返った。そこにはもう、いつものニーダがいた。ただ少しだけいつもと違っていたのは、若干顔が赤らんでいたこと、だろうか。
「ニーダさん……」
 王女は近づくと、ニーダの左手をとった。
 暖かい。人としての温もり。
「あ……その……」
 ますます顔が赤くなってしまったニーダは、照れ隠しなのか空いた右手で顔をぽりぽりと掻いた。
「ごめん。その、黙ってて……」
「いいえ」
 王女は首を振って答えた。
「何度も命を助けていただいて、本当に感謝しています。ありがとうございます」
「え、あっと、その……」
 慌てふためくニーダを、姉が小突いた。
「こら、あんまり色気づいてるんじゃないよ、ニーダ」
「そ、そんなんじゃないよ」
「どーだか。顔真っ赤にして言ったって説得力ないぞー?」
「か、からかわないでよ!」
 いつもと変わらない姉弟のやり取りに、王女はようやく笑みをこぼし、ルファーはいつものようにため息をついた。
「じゃれあってないで、行くぞ」
 ルファーは先頭に立って歩き出した。三人は気を引き締めなおすと、その後を追った。





 気配を絶ち、そっと背後に忍び寄る。
 殺す必要はない。ただ、しばらく眠っていてくれればいい。急所をつけば、しばらく目が覚めることはない。手刀をいれるだけで事足りる。
 無性に血が騒いだ。やはり自分は、こういう仕事の方が向いているのかもしれない。
 ロイスダールは五人目を眠らせたところで、ふう、と一息ついた。王子宮はさほど厳重な警戒というわけでもなかった。
 この奥に国中、大陸中の噂になっている人物がいるとは思えないほどである。
 足音を立てずに奥へと進む。この先におそらく、王子はいるはずだ。
 一番奥の扉の前にぴたりとはりつく。鍵はかかっていないようだ。それにしても見張りの兵はおろか、近衛の一人もいないとは、かえって不気味だ。
 それとも近衛にすら知られてはならないようなことが、この中にあるとでもいうのだろうか。
 ほとんど、王子の死は分かりきっているようなものなのに。
 音を立てないようにして、そっと扉を開く。中から何も反応がないことを確認して、さっと身を翻して、入る。
 暗い部屋だった。廊下にはまだ松明が各所に設けられていたものの、この部屋には窓から差し込む星明りしか、つまりはほとんど光がない状態であった。
 だが、ロイスダールは夜目がきく。ダークエルフの血だ。呪わしい血ではあるが、こんな時くらいは自分の能力に感謝する。
 大きなベッドに、一人、横たわっている。あれが王子か。ロイスダールは周りに誰もいないことを確認してから、静かに王子に近づいた。
「……これは」
 ロイスダールは目を見張った。
「そこまでだ。それ以上王子に近寄らないでもらおうか」
 はっ、と振り向く。たしかに誰もいなかったはずなのに、いつの間にか扉が開いていて、そこに見知った顔があった。
「副宰相閣下」
「ほう、覚えていてくれたかね。君はたしか、クラヴィナ王女システィーナ殿下の護衛をしていた者だったな……名は、なんといったかな」
「ロイスダール」
 答える必要はなかっただろうが、相手の真意がよめなかったので会話を続ける方が利口だろうと、相手の質問に答える。
「ロイスダール……私の覚え違いでなければ、たしかエオリアの王宮でその名前を見た記憶があるが、間違いではなかったかな」
「いえ、おそらく間違いではありません、閣下」
「なるほど。君があのロイスダールだというのか。なかなかに信じられない事実だ」
「証拠をごらんにいれましょうか?」
「いや、かまわんよ。ここでそのような嘘をつく必要はないからな」
「閣下は今エオリアの王宮と言われましたが」
「それがどうかしたかね」
「エオリアに行ったことがおありですか」
「私はもともと外交官でね。大陸で足を運んでいない王宮はないよ。さて……」
 ダールは一歩近づいた。ロイスダールは何が起こるのかと身構える。
「王子から離れてもらえないかな」
「その前に、聞かせていただけませんか」
「何だね」
「本当に、この方がパルス王太子殿下なのですか?」
「無論だ」
「では何故。何故、この方は眠っていらっしゃるのか」
 そう。
 眠っていたのだ、王子は。その端整な顔を少しも歪めず、規則正しく寝息をたてている。
「王子も人の子だよ。眠られていてもおかしくはないだろう」
「違う。これは、この眠り方は普通の睡眠とは異なる」
「ほう」
 ダールは面白そうに笑った。
「どう違うのかね?」
「これは……これは、呪いだ。覚めることのない眠りの呪いだ」
「随分詳しいな。ダークエルフの一族に伝わる、門外不出の秘呪なのだが……」
 そう言って、ダールはロイスダールを見つめた。
「ふ、そうか。この暗闇でも目がきくということはお前、ダークエルフの血を継いでいるのだな」
「そしてあなたもだ、ダール副宰相閣下」
 ぴくり、とその眉が動いた。
「私がか?」
「違うのですか。かなり血は薄まっているようには見えますが」
「まあ、違うとは言わないが。五代も前になるとほとんど血などないようなものだ。エルフとしての寿命も受け継がれていないしな」
「何故、王子をこのような目に?」
 ダールは苦笑した。
「質問の趣旨が分からないが」
「この呪いはまさしくダークエルフの秘呪。これはあなたにしかかけることはできないはずだ」
「ダークエルフがこの世の中にどれだけいると思っているのだ? ウッドエルフとの戦いに敗れた時にほとんどが滅びたとでも?」
 ロイスダールは言葉に詰まった。
「さて……余興は終わりだ。暗殺者には速やかに退出していただこう」
 ぱん、とダールは手を打った。すると、扉の向こうから何人もの兵士たちが部屋の中に押し寄せてくる。
「くっ」
「自分の行動が見張られていてなお、ここまで来ることができたことは敬意に値する。だが、王子を殺されるわけにはいかないのでね」
「王子をこのような目にあわせた張本人が何を言うか」
「かかれ」
 だがダールは答えず、兵士たちに突撃を命じた。ロイスダールは何とかこの場を逃れようとするも、多勢に無勢、あえなく剣を奪われ捕らえられた。
「くうっ」
「王家の者を狙ったのだ。未遂とはいえ、その罪は重い。死刑ですむことを期待しておくのだな」
「俺は王子を生死を確かめにきただけだ。暗殺などしない」
「武器をもって、見張りの兵を昏睡させ、ここまでやってきたのだ。状況がお前を許すことはないだろう。連れていけ」
「くうっ」
 抵抗しようとしたが、すぐに顔を殴られて押さえつけられる。
(せめて……あと少しだけ時間を稼ぐことができれば……)
 だが、その方法は見つからなかった。もはやロイスダールにはできることは何もなかったのである。
「その手を離せ」
 声は、ダールのさらに背後から聞こえた。
「リュート!……貴様」
 初めてダールが動揺を見せた。明らかに彼の存在に驚いていた。その傍らにいる血まみれの王女や仲間たちのことなどまるで眼中にないようであった。
「お久しぶりです、ダール副宰相閣下」
 ルファーは、礼儀正しく述べた。ジャンヌやニーダ、ロイスダール、そして王女が驚いたようにルファーを見つめる。
 ──記憶、が?
 ルファーはまだ立って歩くことも辛かったはずなのに、それでも毅然としていた。そして、明らかにうろたえているダールを睨みつける。
「貴様……何故ここに」
「私を謀殺しようと企まれたようですが、残念でしたね。私の優秀な仲間たちと、そしてシスティーナ王女のおかげをもちまして、なんとか命を救われましたよ」
「リュート、貴様いつからクラヴィナの手先になった!」
 兵士たちが驚いてルファーを見つめた。
「私がどれだけパルス王太子に傾倒していたかはご存じでしょう。主を変えることなどできはしませんよ」
「現に、貴様は王女を護衛してきたではないか!」
 ルファーは、ふっ、と鼻で笑った。
 先程以上に、仲間たちが驚いていた。ルファーが、笑ったのだ。
「何故、それを知っているのです?」
「何?」
「私は王女殿下を確かに護衛していた。だが、それは王都に入る前までのことだ。私が王女殿下の護衛をしていたということを知っているのは、王女殿下の命を狙った者と、それを命令した者だけのはず」
 はっ、とダールが顔色を変えた。
「あなたは、何故私が王女を護衛していたことを知っていたのです?」
「い、今こうしてここにいるではないか!」
「私は先程正確に説明したはずだ。システィーナ王女のおかげをもって謀殺されずにすんだ、と。それだけの情報で私が王女の護衛をしていた理由にはなりますまい」
「ぐ……」
「つまり、あなたが全てを企んでいたということですね、ダール副宰相閣下」
 兵士たちの中に、動揺の波が起こった。
「な、何のことだ」
「王子に眠りの呪いをかけ、邪魔者のシスティーナ王女を暗殺しようと企み、私の口を封じようとした。さらに王女が連れてきた護衛の戦士たちを王子暗殺の実行犯にしたてあげ、それを理由としてエルフィアとクラヴィナの同盟関係を破棄させようとした」
「言いがかりだ! だいたい、私がそのようなことをする理由はどこにもない!」
「いや、ある! 私はその確証を掴んだ。そして、その秘密を知ったがゆえに、命を狙われることになった。戻ってくるまでに二年もの時間がかかってしまったが、私はお前の正体を知っているぞ、ダール!」
「や、やめろ」
「お前は、エオリアのスパイだ!」





 部屋が完全に凍りついた。もはや正常な思考能力を有する者はルファーの他に残っていなかった。
「き、きさま、やはりあの時……」
「ダール。お前はラウネル塔に投獄される。そして、国王陛下の審判を仰ぐがいい。王子に呪いをかけ、隣国の王女を暗殺しようとした罪がどれほど重いか、その身をもって味わうのだな」
「ぐ……」
「兵士たち、ダールを連れていけ! それから、国王陛下に事の次第をお伝えせよ!」
 凍りついていた兵士たちが、ようやく夢から覚めたかのようにのろのろと動きだした。ダールは観念したかのように、がっくりとうなだれている。
「ここはいい。お前たちは通常の警備に戻るように」
 ルファーの指示に従い、兵士たちは全て部屋から出ていった。そうしてようやく、ふうー、とジャンヌが長い息をはいた。
「お見事」
「ああ」
 ルファーはジャンヌの言葉に短く答え、まだ倒れていたロイスダールに手を貸して立たせた。
「やれやれ、驚いた。どうやら記憶が戻ったようだな」
 ロイスダールが若干寂しげな様子がうかがえる苦笑を見せた。だが、ルファーは首を横に振った。
「いや、戻っていない」
「……は?」
「記憶は全く戻っていない」
 四人は目を丸くした。
「記憶が、戻って、ない……?」
「ああ」
 ロイスダールの確認の言葉に、ルファーは仏頂面で答える。
「ま、待ってください。ルファーさんは、どうしてダール閣下がエオリアのスパイだと分かったのですか?」
 王女の質問に、ルファーは変わらない無表情で、答えた。
「推測だ」
 四人は愕然とした。と同時に脱力してその場に座り込んだ。
「……恐れ入るよ」
 ロイスダールが力なく呟いた。
「教えてくれるとありがたい。いったい、どういう推測をしたんだ?」
「そんなに難しいことではないが」
「お前にとっては、どんなことでも難しくないんだろうな」
「俺が記憶を失って倒れていたのがエオリアのローズ大森林だった。あそこは王宮の裏手だ。おそらくは何かの理由でエオリアの王宮に忍び込んでいたのだろう」
「それで?」
「俺は元々パルス王太子殿下の親衛隊長だったということだ。そして王子が眠りについた時から消息を絶っている。その理由は二つ考えられる。眠りを覚ます方法を探しに出たか、それとも王子をこういう状態にさせた犯人を探しに出たか、だ」
「……どっちなんだ?」
「さあ。記憶が戻ればはっきりするのだろうが、恐らく前者ではないかな。犯人探しならこの国に残った方がよさそうだ」
「なるほど。それで?」
「エオリアで記憶を失った。ということは、恐らくそこで何らかの収穫があって、それを持ちかえらせないために俺の命が狙われたのだろう。何とか逃げきることには成功したが、おそらく頭を打ったのだろう、記憶が完全に欠落していた。自分が誰で、どこにいるのか、全く分からなかった」
「そうだったな」
「あとは状況だな。俺が王女の護衛をしていて、黒装束にその正体がばれた。黒幕は俺の口を封じるために、もしくは俺から何らかの情報を引き出すためにラウネル塔に投獄した。ラウネル塔を私物化できる人物はそう多くない。そこでこの王子宮にいたのが副宰相だ。最も怪しいと見るべきだろうな」
「……では、聞いてもいいか?」
「なんだ?」
「推測はしていても、証拠があったわけでも確証があったわけでもないんだな?」
「ああ。ダールは観念したみたいだったが、証拠があるのかと開き直られたらまずいところだった。だが、あの場面ではああするしかなかったからな」
「……お前の度胸には本当に恐れ入るよ」
 ロイスダールは右手で頭を抱えた。
「私からも聞いていいですか」
 王女がかすれた声で尋ねる。
「ああ」
「ダール、いえエオリアは、いったい何を目的にこんなことを?」
「さあ。ただ、クラヴィナを落とすにはエルフィアとの同盟関係を断ち切ればいいと思ったことは間違いないだろう。あとは、エルフィアも世継問題で倒れてくれれば一石二鳥とでも思っていたのではないかな」
「パルス王子を殺さなかったのは……」
「まずクラヴィナを落としてから、と考えていたのだろう。そうしないとクラヴィナの第二王子を迎えることで王家が安定してしまうかもしれない」
「慧眼、恐れ入ります」
 王女ももう、それしか言葉にならなかった。
「じゃあ、あたしからも質問していいかい?」
「今度はなんだ?」
「王子を目覚めさせる方法は?」
「そこまでは分からないな。それこそ専門の知識が必要だろう」
「案外、お姫様のキスとかだったりして」
 ニーダの言葉に、一同がシスティーナを見つめた。
「馬鹿、何言ってるの、あんたは」
「だって、眠れるお姫様を起こすのは王子様のキスって相場が決まってるじゃない。今回は立場が逆だけど」
「あのねえ」
「待て、ジャンヌ」
 ロイスダールがこめかみを押さえながら、妻を宥める。
「なにさ」
「……それ、あながち間違いではないんだ」
 ルファーも含めた四人共が目を丸くした。
「どういうこと?」
「この呪いはダークエルフの一族に伝わるものなんだが、その起こし方がな……」
「なに、本当にお姫様のキスなの?」
「いや『汚れなき乙女の唇』と伝わっている。俺も実際この呪いを目にしたのは初めてだから、どこまでが本当なのかは知らないが」
 一同は押し黙った。
「……ねえ、ロイスダール」
「……なんだ?」
「まさか、システィーナが狙われてたのって、王子に唯一キスできる立場だったから、とか」
「……あながち、否定できんな……」
 四人は、じっとシスティーナを見つめた。
「え、ええっと」
 王女は慌てて、その場をとりつくろった。
「お、王子が目覚めて私がこのような恰好だと、非常に驚かれると思うのですが……」
「タオルや着替えくらい、この館にいくらでもあるでしょ。ちょっと探して来るよ」
「あ、僕も」
「俺も行ってこよう。ルファー、お前は王女が逃げないように見張っていてくれ」
「分かった」
 見事なまでの連携プレーに、王女は逃げ場もなくがっくりとうなだれた。
「不安か?」
「はい」
「あまり深く考えない方がいい」
「ですが、私は」
「お前は今、クラヴィナの王女だ。王女として恥ずかしくない行動をするべきではないのか?」
 不思議だ。
 この人はまるで、自分と王女殿下との会話を聞いていたかのように話をする。
「……でも、私……その……」
 血で赤く染まっていてよかった、とマリーは心から思った。
「は、初めてなんです」
 ルファーは目を二度瞬かせた。
「接吻……なんて、したことがなかったので、その……」
 ふう、と呆れたようなため息。あまりにも子供っぽいことを、とマリーは首筋まで真っ赤に染めた。
「お、王女殿下のためなら、私はどんなことだってできます。でも……」
 ルファーは、表情もなく、ただマリーを見つめている。
「……あなたの前では、イヤなんです」
「…………」
「す、すみません。でも、私……」
 すると、急にマリーは落ち着きを取り戻して、しっかりとルファーを見つめ返した。
「あなたのことがずっと気になっていたんです。初めて助けられた時から、ずっと。あなたのその無表情さは少し怖かったけれど、私が戸惑っている時、困っている時はいつも力づけてくれた。あなたが苦しんでいるところを夢で見た時、私はいてもたってもいられなくなりました。その、好き、なんです。ルファーさんのことが」
 言った。
 自分でも、ぼんやりとしていた気持ちだったが、多分この気持ちに嘘はない。
 好きだ。
 優しく力づけてくれるこの人が、自分は誰よりも好きだった。
「……なるほど」
 ルファーは幾分困っていたようであった。マリーはまたしても、ルファーの新しい表情を見ることに成功したのである。
「……我儘は言いません。ただ、一度だけ……。最初の思い出を、私にください」
 強い、まっすぐな瞳であった。ルファーは視線をわずかに逸らせていた。そのことが、マリーにははっきりと分かっていた。
「……俺は、感情というものを知らない。知らなかった。記憶をなくしてから二年間、笑ったことは一度もない。怒ったことも、悲しんだことも。だが、お前が助けに来てくれたあの時、俺は初めて、嬉しい、と思った」
 マリーは驚いた様子で、目を大きく見開いた。
「元々俺に感情がなかったのか、それとも記憶と同時に失ってしまったのか、それは分からない。だが、お前が傍にいてくれると、感情というものを見つけられるのではないかと思う」
 あくまでも冷静で、落ちついた声であった。だが、今までとは明らかに違っていた。それは、ルファーの心からの気持ちだったから。ルファーが真剣にそう思っていることを誰かに伝えようとしていたから。
「私が影武者を務めなければならないのは、王女殿下が嫁がれるまでです。他国まで私が行くことはできません」
 マリーはゆっくりと、ルファーに近づいた。ルファーもまた、小さな王女の肩を優しく抱いた。
「それまで、待っていてくださいますか?」
「ああ」



 そうして、二人は接吻を交わした。





 明朝、目が覚めた王子は二年振りにその姿を宮廷に現した。そして、改めてシスティーナ王女との結婚を正式に発表することとなった。
 同時に、ラウネル塔に幽閉されたダール副宰相の自害が報告された。おそらく情報を漏らさないための行為であろうとは思われたが、パルス王太子との一件については公表されなかった。罪状は公金横領、ダールは罪の意識からの自殺と公式には報じられた。



 王女は三日間の逗留の後、本国へと戻った。今度は街道を通って、一個中隊に護衛されての帰国である。無論、一行もそれに従った。ほとんど王女と会話をすることはなかったが、一度だけ五人で食事をすることがあった。その時、例の絵が王女の手に渡った。それを手にした王女は、本当に美しく笑った。





 クラヴィナ王宮。
 他国と比べて決して豪奢とはいえない王宮ではあるが、それでも国の中心部である。美しい庭園に、それを一望できるテラス、綺麗なステンドグラスなど、見るべきところは多い。
 その一室で、鏡に映したかのようにそっくりな二人が再会を喜んでいた。
「お帰りなさい、マリーさん」
「ただいま戻りました、システィーナ殿下」
 手を取り合うだけで、お互いがどれだけお互いを心配し、思っているかが分かる。この二人はまさにそういう関係であった。
「いろいろとご迷惑をかけてしまいました。申し訳ありません」
「いいえ。私は殿下のためなら、どんな苦労でも厭うことはありません」
 マリーは大役を果たしたという誇らしい気持ちでいっぱいであった。そして、そのことをシスティーナが喜んでくれているということが何より嬉しかった。
「エルフィアとの同盟関係が持続することになり、私とパルス殿下との結婚も正式に決定いたしました。話は全てうかがいました。マリーさんのおかげです」
「いえ、私は……」
 一瞬、マリーの頭にしばらく旅を共に続けた仲間たちのことがよぎった。
「私は、ほとんど何もしておりません。ご報告いたしました通り、私に協力してくださった仲間たちのおかげです」
「よい人にめぐり合えたようですね」
「はい」
 そうして、マリーは丁寧にしまわれていた一枚の絵を、システィーナに見せた。
「仲間の一人から頂戴したのです。素敵な絵なので、ぜひ飾っておこうと思いまして」
「まあ……」
 システィーナは目を丸くしていた。
「報告は聞いています。ロイスダール。本当に、あのロイスダールだったのですね」
 マリーは首を傾げた。
「ご存じなのですか?」
「もちろんです。現代美術を代表する画家の一人です。作品数が少ないのであまり目にかかることはないですけど」
 マリーは目を丸くした。
「……それは、本当のことなのですか?」
 マリーだからこそ、この失礼な質問も許されたのだろう。システィーナは笑顔で頷いた。
「ええ。サロンでも二回入選されている、有望な風景画家です。知らずに行動を一緒にしていたのですか?」
 システィーナの説明に、マリーは心底自分に呆れていた。
 サロンで二度も入選した人物に向かって、自分はサロンに出品しろと言ったのだ。彼は自分のことをどう思っただろうか。
「貴重な絵です。マリーさんの宝物ですね」
 言われて、頷いた。笑顔だった。
 本当に、最後の最後まで、別れてからもなおその正体に驚かされる人たちだった。
 またいつか、会うことがあるだろう。それもそう遠くない未来に。
 再び巡り会える日が、心から楽しみだ。





「終わったね」
「そうだな」
 四人は、王女がクラヴィナの王宮に入る前に別れていた。今は王都の酒場で食事をしている。
「ところで、ルファー。あんた、本当にエルフィアに戻らなくていいの?」
 ルファーは「ああ」と興味なさそうに答える。
「全く、あたしたちのことなら別に気にしなくてもよかったのに」
「どのみち記憶がなければ俺に居場所はない。ここにいる方が気楽でいい」
 王子とルファーは一度だけ面会した。二度目はルファーの方が断っていた。その二人がどういう会話をしたのか、一行は聞かされていない。ただ「俺も一緒に行く」とだけ聞いた。それでいいのだと思う。
「これからどうしようか」
「そうだな……」
 ロイスダールが何か閃いたかのように顔を綻ばせる。
「クラヴィナとエオリアの間で近く戦争が起こるらしい。どうだ、傭兵として参加しないか」
 三人は食事の手を止めた。ふむ、とジャンヌが考え込む一方で、ニーダが賛成賛成と声を上げた。
「ま、いいんじゃない? 他にやることもなさそうだし」
「よし、それじゃあルファー、お前はそれでいいか?」
「ああ」
「それじゃあ、どっちにつくかだが」
「それって、わざわざ話し合わなきゃいけないこと?」
 ジャンヌがにやりと笑う。ロイスダールは苦笑して「そうだな」と頷いた。
「それでは、王女様のために一働きすることにしましょうか」










もどる