月下の夜想曲
(エリクールに月があるかどうかなんて知りません/笑)
無事に部下二人を救出して戻ってきたネルを待ちかまえていたのは相棒であるクレアであった。
シーハーツの総司令官である彼女はネルにとって上司にあたる。だが、この二人の間には上下関係というものは存在しなかった。昔馴染みである彼女たちにとって、地位というものはあくまで儀礼的なものにすぎない。本質は、最も大切な親友に違いなかった。
お互い、普段は冷静で滅多に感情など見せることはなかったが、この日のクレアは違った。
納得ずくで送り出したとはいえ、十中八九、命を落とすと分かっていた救出作戦に賛成できようはずもなかったのだ。
クレアはネルを抱きしめていた。その体は震えていた。ネルははじめて、自分を大切に思ってくれている人がいるということを実感した。
いや、初めてではない。
(何故だろう……)
今まで自分にとって、最も大切な人物といえば間違いなくクレアだった。
だが、今はそう思えなくなっている。
いや、今までと変わらずクレアのことは大切だ。だが、それ以上に自分の心の中を占める存在が現れたことにネルは気が付いていた。
事後処理が終わった深夜。ネルは屋敷の外に出て草むらに座り込んだ。
見上げるとほの白い月光が降り注いでいる。
シーハーツ軍における自分の役割は、月、であった。
太陽のように誰からも存在を認められ、その存在なくしては成り立たないクレア。
月のように闇の中に潜み、その国を影から支えるために活動してきたネル。
この二人がシーハーツ軍の誇るクリムゾンブレイド。女王に最も信頼され、また女王の名代としていかなる命令をも発することができる最高指揮官。
だが、月が夜空になくても地上には影響がないのと同じように、自分の存在もまたこの国にとっては何があっても必要な存在というわけではなかった。
ネルはそんな自分を誰よりも慕い、ついてきてくれた二人の部下たちを命がけで助けることを決めた。
それは彼女にとって当然の選択だった。自分が死んでもこの国にとっては大きな痛手にはならない。だが、自分のためだけに全力を注いでくれた部下には、自分も命をかけて応えなければならないと考えていた。
昔であれば、クレアは自分についてくると言い出しただろう。
彼女はどんなときでも自分の味方だった。クレアは自分のためならどんなことでもしたいと思っている。その自信がネルにはある。その根拠は非常に単純だ。自分がそうだからだ。
だが今の彼女に頼むことはできない。彼女はこの国の太陽なのだ。彼女は女王の名代としてこの国の軍隊を率いる使命があるのだ。
だから自分は一人で救出に向かった。
他に頼る者を、誰も持たなかったから。
いや、たとえいたとしても頼ることはしなかっただろう。
ネルにとって、グリーテンの技術者をこのアリアスにまで連れ帰った時点で、この国での自分の使命は全て果たされたのだと、ある種の満足感を得ていたのだ。
技術者たちのことはクレアに任せればいい。
だが、あの子たちは私以外の誰が助けにいくというのか。
アリアスに帰ったその夜のうちに、ネルは救出に向かった。
命を落とすことを半ば覚悟の上で。いや、奇跡でも起こらない限り彼女の命はなかっただろう。
はたして奇跡は起こった。
隠密の能力を使って潜入したまではよかったが、カルサア修練場は巧妙に罠が張り巡らされていた。
何人もの敵兵を倒したが、ついに突破しきれなくなった。数名の敵兵を前に、完全に足が止まってしまった。
自分の命はここまでだったのか、と思った。
その瞬間、彼女の脳裏に思い描いたもの。
それは、この先に捕らえられているであろう部下たちでもなく、幼い頃からずっと一緒に育ってきた親友でもなく、この上なく敬愛する彼女の主君でもなかった。
「ネルさん!」
その声が聞こえたとき、彼女は信じられないといったように目を見開いた。
(何故、ここに)
脳裏に描いた人物。
いつも優しそうに、そして困ったように笑っていた彼。
彼は、自らの危険も顧みず、ただ自分を助けるためだけにここまで来たのだ。
あのまま首都シランドへ帰れば身の安全は保障されたというのに。
ただ危険なだけで何も得るものがないこのような場所まで、彼は自分を助けに来たのだ。
(何故……)
何故、自分なんかのために。
自分は助けられるほど価値のある人間じゃないのに……。
「ここ、いいかい」
突然かけられた声に、ネルは飛び上がって身構えた。
「おいおい、オレだよ。そんなに構えなさんなって」
クリフだった。
この男もよく分からない男だ。彼よりもはるかに判断力・行動力ともに優れているというのに、決定はすべて彼に任せている。
この二人の関係はいったいどのようなものなのだろうか。信頼しあっているのは間違いないようだが、兄弟でもなければ仕事仲間という風にも見えなかった。まあ妥当なところでは彼の方が責任者で、この男はその助手か付き人か荷物運びか、その辺りなのかもしれない。
「驚かせるな」
「別にそんなつもりはねえよ。それにお前さんなら人の気配くらい読めると思ったしな。俺のことに気付かないくらいだ。何か真剣な悩み事か?」
「あんたには関係ないことだよ」
図星をつかれたせいか、普段以上に素気なく答える。だがそれは相手にもわかってしまったようだ。
「隠さなくてもいいぜ。フェイトのことだろう?」
フェイト・ラインゴッド。
そう。この短期間に、自分の心の中に入り込んできた男性。
「やめときな」
「……」
「あいつはこの国の人間じゃない。それに知っての通り、父親と幼なじみを取り返すのに必死だからな」
「何の話だい?」
「いやなに、単なる世間話さ」
クリフは肩をすくめた。つかみ所のない男だ。
「あんたはなんでフェイトの傍にいるんだい?」
逆に尋ねてみた。
「あ?」
「あんたはフェイトよりずっと優秀だろう。それなのに、どうしてフェイトに従っているんだい? グリーテンではフェイトの方が地位が高かったのかい?」
うーん、とクリフは唸った。
「ま、いろいろあるんだけどよ。正確にはオレはあいつの部下じゃない。別の人の部下で、オレはその人の命令でフェイトを守ってるんだ」
「別の人?」
「おおっとそれ以上は言えねえぜ。乙女には秘密が多いからな」
「誰が乙女なんだい」
やれやれ、とため息をつく。
「それで、あんたは何をしに来たんだい?」
「いや、この間アリアスに来たときにあんた、オレたちの部屋に来ただろう」
「なんだ、気付いてたのかい」
「育ちがいいもんで、人の気配には敏感なんだ」
ぬけぬけと言う。だが、これだけはっきり嘘をつかれると逆に気分がいい。
「フェイトに挨拶に来たのか?」
「そんなとこかな。でも二人とも寝てたみたいだったからね」
「ったく水くさいよな。オレたちゃ別に協力するとは言ってねえけど、自分のために命かけてくれた人を助けるためにはいくらでも力を貸すんだぜ」
「ああ。さっき知ったよ」
そう。自分のことなど見捨てればよかったのだ。
そうすれば、彼は余計な苦労を背負わずにすんだのに。
「ま、オレとしちゃあ二度とこんなことはしてほしくないもんだな。ったく、あのときのフェイトの表情、見せてやりたかったぜ」
「フェイトが、どうかしたのか?」
「お前さんに言いたいことがあるって、すげえ形相で言ったもんだからさすがのオレもびびったぜ」
「……彼は怒ると迫力があるのか?」
「オレはあいつだけにはかなわねえよ」
自虐的にクリフは笑った。嘘をついている目ではなかった。彼が本気でそう言うのなら、きっとそうなのだろう。
「私は、二人を心配させてしまったのか?」
「当たり前のこと聞くなっての」
「そうか……心配をかけさせて、すまなかった」
「オレは別にどうだっていいぜ。後は心配した本人に言ってやるんだな。んじゃ、オレはもう寝るぜ。さすがに今日は働きすぎた」
そう言い残して、クリフは再び屋敷の中へと戻っていった。
ふう、と息をもう一度ついて再び草むらに座る。
(心配した……フェイトが……私を?)
何故だろう。
自分とフェイトは何の関係もない。自分は単に国のためだけに彼を助けた。彼は彼自身の命を守るためだけに自分の誘いにのった。
お互いに相手を利用しようとしただけのこと。少なくとも自分はそう思っていた。
それなのに。
(いったい何だっていうんだろうね、あの人の良さそうなおぼっちゃんは)
自分を助けてもいいことなど一つもない。命を危険にし、国に協力してほしいと頼まれ、そこまでして自分を助ける理由など何一つない。
(だが、私は……)
自分を思ってくれる人間の存在を知った。
フェイトにしろ、クレアにしろ、自分のことを案じ、助けようとしてくれた。
得をすることなど、一つもないというのに。
「ネルさん?」
と、再び声がした。
今度は、別の人物だった。
「フェイト……どうしたんだい、こんな時間に」
わずかに鼓動が強まる。
「いや、その……クリフに聞いたらネルさんがここにいるって聞いたから」
答になっていない。自分のなんでもない質問に慌てている彼が少し面白かった。
「何か用かい?」
「あ、うん。隣、いいかな」
「かまわないよ」
彼は断ってから隣に腰を下ろした。そして両手を後ろについて、夜空を見上げた。
「綺麗な星空だね。このあたりではいつでもこんなに星が見えるの?」
「今日はあまり見えないね。月の光がまぶしいから」
「ああ、そうか。僕のいたところじゃあんまり星は見えなかったから、これでもたくさん見える方だと思った」
「ふうん……グリーテンって星が少ないのかい」
「あ、うん。そうだと思うよ」
そんなものなのか、と納得することにした。
「ところで、何か言いたいことがあるんだって?」
「え?」
「クリフに聞いたよ。今回の件で言いたいことがあるんだろう?」
「あ、うん」
「いいよ。だいたい何を言われるかは想像ついてるから」
言って横を見る。いつの間にか、彼は私の方をじっと見つめていた。
胸が、勝手に高鳴る。
異性が近くにいること自体は別に何でもない。今までもよくあったことだ。でもそれはあくまで『クリムゾンブレイド』としての自分を見ていた者たちだ。
彼は違う。
彼は真っ直ぐに、ネル・ゼルファーという一人の女性を見つめている。
「二度と、命を粗末にするような真似はやめてほしい」
彼はゆっくりと言った。
「僕はネルさんたちに命を救われた。技術の問題で協力できるかどうかはともかく、困っていることがあるんだったら僕もクリフも、必ず恩返しするよ。いや、そんな言い方じゃ違うな。何て言えばいいんだろう……」
彼は少し言葉に詰まった。何も口にせず、そのまま次の言葉を待つ。
「うん、僕はもうネルのことを仲間だと思っている。だから、一人じゃできないようなことなら、いつでも相談してほしいんだ」
「そう……分かったよ」
ネルは穏やかな微笑を浮かべて答えた。
彼の優しさが伝わってきた。
心が安らぎを感じていた。
(クリフも、彼のこのようなところに惹かれているのかもね)
そんなことを思った次の瞬間だった。
「ネルさんは、月の女神みたいだ」
突然歯のうくような台詞が彼の口から出る。
「何だい、突然」
「あ、いや、その……そうやって笑ってるところが、月の光に照らされてすごく綺麗だったから」
彼は顔を真っ赤にして言った。おそらく先ほどの言葉は、それほど意識したものではなかったのだろう。
「ふうん……それがフェイトの口説き文句なのかい?」
「ち、違うよっ! 僕はそんな」
「ま、いいさ」
ころん、と音が鳴るかのように、彼女は自分の頭を彼の肩に預けた。
「ね、ネルさん?」
「ネルでいいよ」
彼女は言った。
「しばらくの間、こうさせていて」
「う、うん」
完全に凍りついてしまった彼がまた面白くて、彼女はくすくすと笑った。
(月の女神か……ま、それも悪くないか)
月は地上を照らし、夜道を行くものたちの道標となる。
隠密という人数の少ない部隊において、彼女の存在はまさに月そのものといえる。
「ありがとう」
小声で、ぽつりと言った。
「え、なに?」
「なんでもないよ」
彼女はそのままの体勢で、彼に見られないように微笑をたたえた。
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