death wish
(初めてネルが感情を露にするシーンですね)
はあ、はあ、はあ、はあ。
息が上がってきた。そろそろ限界かもしれない。
どれだけ苦しい戦闘でも弱音を吐いたことはなかったが、さすがにこれだけ戦闘数が重なると有限の体力では厳しい。
後悔はしていない。どれだけ残虐な仕打ちを受けたとしても、どれほどの辱めを受けたとしても、自分は自分らしく振舞った。そのことを後悔することは絶対にない。
「こっちだ!」
また来たか。
奥へ奥へと逃げ込む。何とか逃げ回ってはいるが、いつまでもつかは正直疑問だ。
もう倒した【漆黒】はどれだけの数だろうか。十までは数えていたが、その先はもう覚えていない。
カルサア修練場は、思っていたよりも敵兵は少なかった。
最初は、到着した途端に圧倒的な数に封殺されるものと覚悟していた。
なまじ敵兵が少なかっただけに、ここまで足掻くことができたようなものだ。
(ふう……)
また敵が来る。
今度は何人だろう……足音で分かる。一人、二人……。
(三人か)
正直、厳しい。
だが、この敵兵を倒さなければ自分もここまでだ。
──もっとも、この敵兵を倒しても、死地が少しだけ変わるだけにすぎないのだが。
「タイネーブとファリンが?」
カルサアの町で、二人が捕らえられたということを聞いた。
二人を返してほしいのなら、グリーテンの技術者を引き渡せという。
もちろん、そんなことを承諾できるはずがない。彼らは自分たちの国の運命を背負っているのだ。
まずはアリアスまで二人を護衛する。
そこまでいけばクレアがいる。クレアならきっと彼らを説得してくれる。
「彼女たちも覚悟の上なのです。きっと本望でしょう」
そうに違いない。自分が同じ立場でもそう思う。
だが、あの子たちをあそこまで育て、鍛えてきたのはやはり自分なのだ。
自分に課せられた任務で、もちろん彼女たちにも課せられたものには違いないのだが、自分が助かって彼女たちは捕まっている。そんな不合理なことが許されるはずがない。
たとえ、彼女たちが望まなかったとしても、自分は自分の思うとおりにやる。
彼女たちを、自分の手で助け出す。
──そう、決めた。
三人目の【漆黒】が床に倒れる。
手傷がまた増えた。返り血をたっぷりと浴びて、完全な『赤』に染まった。
(どうせつくなら美人の方がいいだろ)
グリーテンの技術者の一人はそう言った。
(アタシは美人なんかじゃないね)
こんな夜叉を美人だなどと評する必要はどこにもない。
戦い、敵を倒し、返り血を浴びる。生と死が隣り合わせの戦場で、自分はずっと生きてきた。
祖国、親友、部下、大切なものを守るため、自分は精一杯生きてきた。
そのことを後悔したりはしない。
「クリムゾンブレイドの名にかけて、簡単にくたばったりはしないよ」
彼女は笑った。
戦いを前にして、その戦いを待ち望んでいるかのように。
また新たに三人の【漆黒】が沸いて出てくる。
倒しても倒してもきりがない。
(全く……タイネーブとファリンを見捨てたバチがあたったね)
その彼女たちを助けるために死ぬのなら本望だ。
彼女は、剣を握る手に再び力をこめた。
「はああああああっ!」
【漆黒】の中に【真紅】が混じる。
赤と黒が織り成す戦場。
彼女はまさに、戦場で死を紡ぐ紅の戦女神。
精神が高揚し、誰も彼女の前をふさぐことはできない。
「死ねっ!」
鎧の継ぎ目から、曲刀をねじ込む。
心臓を貫く確かな手ごたえを感じた。
最愛の親友との別れが住んだあと、早速出発しようと思ったのだが、何故か足が止まった。
そして、彼女は別の場所へ向かった。
グリーテンの技術者。
二人が寝静まった部屋は、暖房によって炎色と夜色のコントラストを成していた。
彼女は、入り口で立ち止まった。
二人とも完全に寝ているようだ。
もし起きていたとしたら、自分は何を言っただろうか?
そんなことは分からない。その場になってみないことには。
きっと、これから自分が何をしようとしているかということは言わないだろう。おそらくは、別の任務に就くことになったから、後をクレアに任せることになったとでも言うだろう。
だが、その一言だけでも交わしたかった。
たった数日限りの、自分にとって今までにないほどの充実した日々。
何故こんなにも、自分の心は躍っていたのか。
ゆっくりと、中に踏み入る。
なんともアンバランスな二人だった。
明らかに知識も力もある金髪の青年と、何故か決定権を握っている線の細い青年。
不思議と心が惹かれていた。
信頼しあっているようで、意見が統一されていないようでもあって。
この二人を見ていると、何故だか心が安らいでいた。
(……二人、か)
彼女の視線は、線の細い方の青年に落ちた。
健やかに眠っている。今までが辛い道のりだったのだ。これからもきっと、大変な道を歩むだろう。せめて今くらいは、何も恐れることも苦しむこともなく、安らかに眠ってほしい。
(この国を……そして、みんなを、頼む)
彼女は深く一礼した。
この国を救うには、彼らの力が必要なのだ。
たとえ自分がいなくなったとしても、彼らさえ無事に聖王都にたどりついてくれさえすればいい。
(そして、無事に生き延びてくれ)
彼女は顔を上げると、迷いがなくなったかのように振り返った。
彼女は完全に追い詰められていた。
後ろには開かない扉。そして前にはまた新たな三人の【漆黒】。
(……ここまで、かな)
さすがに体力も限界だ。剣を握る手に力が入らなくなってきた。
一人で【漆黒】を何十人も殺したのだ。少しは戦力差が埋まっただろう。
タイネーブとファリンを助けることはできなかったが、それも仕方のないことだ。
(これで、死ねるのか)
何故だか安らぎを感じた。
もうこれ以上戦わなくてもいいのだと。
生まれてからずっと、ただひたすら戦い続けてきた。
次第に心が冷たく、固く閉ざされていくのが自分でも分かっていた。
もうこれ以上、自分の心を失くさなくてもすむ。
死ぬのなら、人間の心を少しでも残したまま、死んでいきたい。
国のために命をかけ、部下を助けるために命をかけ……。
それが自分の心。
大切なものを守ろうとする、人間らしい心。
(ただ……)
最後に、一つだけ。
『自分の命をかけるほど、回りが見えなくなってしまうものなのか』
恋。
その感情を、一度だけ味わってみたかった。
(詮無いことだね)
そんな感情が自分に生まれるはずもないということは百も承知している。
ただ、それほどに『焦がれる』気持ちというもの。
死を目前にして、それが少しだけ気にかかった。
(……さよなら、)
最後に、彼女の目の裏に浮かんだ人物。
それは、敬愛する女王でも親愛なる友人でもなかった。
蒼い髪の、青年。
「ネルさん!」
彼の声が、何故か聞こえたような気がした。
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