追憶の破片
(むしろあのシーンでアルベル・ロジャーが出てくる方が変)






『さよなら』という言葉とともに、フェイトたちはディプロへと去った。
 そして、後には一人だけが残された。
 もうここには、マリアも、ミラージュも、クリフも、フェイトもいない。
 ここに残ったのは、彼女だけ。
 共に戦った仲間。
 アーリグリフの地下水脈を抜け、カルサア修練場まで部下を助けに行き、ベクレル鉱山まで銅を取りにいき、ヴォックスと戦い、カナンでセフィラを守り、侯爵級ドラゴンを仲間に迎えもした。
 全ての追憶が、今、走馬灯のようによみがえる。
 そして、彼女は旅に出ることを決意していた。





「暇がほしい、と?」
 その日のうちに、ネルは女王にその旨を申し出ていた。
 今の気持ちのまま、職務に精励することはできない。自分の気持ちにケリをつけるためにも、今は時間がほしい。
 女王は頭を下げたままそれだけしか言わずに黙り込む部下を見てため息をついた。
「ネル」
「はい」
「そなたは、それほどまでにあの異世界の者を愛していたのですか?」
「よく、分かりません」
 これはネルの正直な気持ちだった。
 好きには違いない。だが、どれほどの気持ちだったのかは今でもよく分からない。
 ただ、彼がいなくて。
 せつなくて。
 じっとしていられなくて。
 ……一人で待つには、ここは寂しすぎて。
「気を落ち着かせるためにも、自分の気持ちをはっきりとさせるためにも、しばらくの時間がいただきとうございます」
「止めても行くのでしょう。であれば仕方がありません。ですが、クリムゾンブレイドを返上する必要はありません」
「陛下」
「そなたは、そなたの思うままに行動なさい。そして答が見えたら帰ってくるのです」
 ネルは顔を上げた。
 女王は背筋を正したまま、自分の部下を愛しげに見つめている。
「忘れてはなりませぬ。そなたがたとえ、異国の者と結ばれたとしても、異世界の者と結ばれたとしても、そなたの故郷はここ、シーハーツなのです。そなたの帰ってくる場所はここなのです。わらわはそなたをいつまでも待つことにいたしましょう」
「陛下……」
「死んではなりません。そなたはこの国にとってもわらわにとっても必要な人材。必ず、帰ってくるのです。分かりましたね」
「はっ。ありがとうございます、陛下」
 彼女は、自分の涙をこらえるのに必死だった。





 そうして、ネルはその日のうちにシランドからペターニへと向かい、アリアスへと到達した。
 クレアは既にアリアスで前線の立て直しを行っていた。あまり自分が長居しては邪魔になると考え、少しだけ話をしてからアーリグリフへ向かうことを決めた。
「そう、暇をもらったの」
 クレアは少しだけ哀しそうだった。
「でも仕方がないわね。あなたは思い込んだら一途な人だもの」
「それはどういう意味だい」
「言葉通りよ。私にはちゃんと分かってるんですから」
「だから、何を分かってるんだい」
「フェイトさんのことを、どう思っているかとか」
 ぐ、とネルは言葉につまる。
「フェイトさんからもらった花束の花言葉。あれを聞いたときのあなたの表情、可愛いったらなかったわ」
「それ以上言うと、あんたでも許さないよ、クレア」
「おお怖い」
 おどけたようにクレアが舌を出して肩をすくめる。
「フェイトさんのこと、好きなんでしょう」
「どうだろうね」
「じゃあ、今度会ったときは私が恋人に立候補しようかしら」
 あまりにも険しくなった親友の表情に、クレアは素直に「ごめんなさい」と謝った。
「あんまり人をからかうものじゃないよ」
「そうね。悪かったわ。それじゃあ、一つだけ真面目なことを話しましょうか」
 ネルは顔をしかめた。
「あなたの気持ちは分かるつもりよ。中途半端な気持ちのまま、突然いなくなってしまった彼。気持ちの整理をすることは大切なことかもしれないわ。それでもよ。彼は異世界の人なんでしょう?」
「ああ。それは分かっているよ。あくまでもこのままだと自分の気持ちが整理できない。そのためにちょっといろいろなところに行って考えてこようと思っているのさ」
「それならいいのだけれど……」
 クレアは不器用な女性に、軽く息をついた。
「あなたに、覚悟はあるの?」
「覚悟?」
「もしあなたがフェイトさんを好きだとして、空を飛ぶ機械兵器を軽く作れるような、星の海を駆け巡れるような、そんな人たちのところで、あなたは他に仲間も知り合いもなく、彼と一緒にいるためだけに、あなたは異世界に行くことができるの?」
「……なるほどね。言いたいことは分かったよ」
 もし、フェイトとネルが結ばれるとしたら。
 それはフェイトのところへネルが行くか、ネルのところにフェイトが来るか、どちらかしかない。
 だが、それはどちらにせよ無理なことだ。ネルはこの世界から出られない。出て、暮らしていける自信も力もない。
 そしてフェイトにしても、シーハーツで暮らすなんていうことはできないだろう。彼には彼の生活がある。
 どれほどお互いのことを思いあっていたとしても、環境がそれを許すわけにはいかないのだ。
「それも含めて、ゆっくりと考えてみるよ」
「そうね。分かってくれて嬉しいわ、ネル」
「あんたには世話になるね」
「それはこちらの台詞よ。必ず帰ってきなさい。私にとって唯一の親友さん」
「約束するよ。私にとっても唯一の親友にね」
 二人は固い握手をかわした。
「最初はどこに行くの?」
「そうだね。やっぱり、あそこしかないと思う」
「あそこ?」
 ネルは少し目を細めた。
「……カルサアの修練場さ」





 カルサア修練場。捕らえられたタイネーブとファリンの処刑が行われるはずだった場所。
 それが実行されなかったのは、実力でそれを止めにきた者がいたからだ。
 ネルはどんなことがあっても部下を救出する覚悟だった。たとえ自分が殺されたとしても、自分の身代わりにつかまった部下だけはなんとしてでも助けようと思った。
 願いはかなった。だがそれは、自分の力だけでどうにかなるようなものではなかった。
【漆黒】を何十人と倒し、完全に力尽きる直前、耳に聞こえてきた声。
『ネルさん!』
 はじめは幻聴かと思った。そして自分の隣に立つ蒼い髪の青年を見て、自分は最後に夢でも見ているのかと本気で思った。
 彼と、そして彼の保護者とが瞬く間に【漆黒】を打ち倒したとき、自分は『大丈夫だ』と思った。何が大丈夫なのかは分からない。自分の命だったのか、部下の命だったのか、それとも他のものなのか。
 だが、その安堵を彼に見せるわけにはいかなかった。
 彼女は、彼を叱らなければならなかったから。
 彼がおそらく自分たちに協力してくれないだろうことは分かっていた。だから王都まで護衛する任務は放棄して、自分の部下を守ることに全力を傾けた。
 それなのに、彼はこんなところまでやってきた。
 もしも捕まったら、自分や部下たちが命がけで救出したことを全部水の泡にすることになるのだ。
 だから、叱らなければならなかった。
 それなのに──彼女は逆に叱られていた。

『どうして、自分の命を犠牲になんてしようとするんですか!』

 彼の純粋な怒りだった。
 自分を心配し、自分の身を案じ、自分のためだけにその命をかけて救出に来てくれたのだ。
 涙が出そうになった。

『ネルさんは、月の女神みたいだ』

 カルサアからアリアスに戻ってきた日、そんなことも言われた。
 自分は美人でもなければ、女神でもないと思う。
 ただ、彼が自分のことを好きでいてくれた、気にかけてくれたということだけは分かる。
 体を重ねることもなく、ただ二度だけ唇に触れた相手。
 時間が過ぎるほどに、彼の不在が身にしみる。
 苦しい。
 苦しい。
 いったいどうして、彼はこんな気持ちを自分に植え付けていったのか。
(あんたへの気持ちは、本物みたいだよ、フェイト)
 修練場から空を見上げる。
 彼が消えていった空は、今日も憎らしいほど晴天だった。
(アタシはどれだけ待てばいい? 一日? 一ヶ月? 一年? 十年? 百年は、さすがに待てそうにないよ、フェイト……)
 彼の胸の大きさ。彼の鼓動。彼の唇のぬくもり。抱きしめる腕の力強さ。
 全てが、彼女を縛り付けていた。
(会いたいよ、フェイト)
 別れるときは、いつか来る再会を期待することができた。
 だが、一人で期待しつづけるには、時間はあまりにも長すぎた。
(どうすれば、あんたに会える?)
 彼女は自分の体を抱きしめる。
 一人しかいないこの場は、あまりにも広すぎて、あまりにも孤独だった。
(死んだってかまわない)
 死と引き換えでもかまわない。
(フェイトに会いたい!)

 その、瞬間。
 空間にゆがみが生じた。
(なに……?)
 そのゆがみは、記憶に新しい。
 転送、と言っていた。
 別の場所へ、移動するときに生じるゆがみ。
「まさか」
 かすかな期待を持ちながら、彼女はものかげに隠れる。
 可能性は、二つ。
 一つは、バンデーンと呼ばれるものが再侵略をかけてきたということ。
 そして、もう一つは……。
(神よ)
 ゆっくりと、彼女は現れた人物を確認した。
 その姿は──





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