クレセント祭
05:夜明け
深夜。
もうシランド城の中で一番の働き者でも休んでいるような時間帯。
仕事の忙しいクレセントは、仮眠室で休憩を取っていた。
フェイトはもう、シランドの中にある自宅へ戻っていっただろう。
その、暗い仮眠室の中。
他に誰もいない部屋の中で。
クレセントは、がば、と飛び起きる。
はあ、はあ、と自分の息が荒い。それは飛び起きる前から分かっていることだ。
カーテンの隙間から、かすかに射す月の光だけで、彼女の目は部屋の中を見通すことができる。
誰もいない。
ここには。
自分を虐げる者も。
自分を守る者も。
誰もいない。
たった一人。
彼女は、フェイトと一緒に寝る時でも、先に眠ったことはない。
そして彼よりも後に起きたこともない。
一緒に寝ていても、可能な限りその寝姿は見られていない。はず。
見られるわけにはいかない。
自分が、毎晩。
悪夢を見ていることを、知られたくなどない。
彼は、自分のことを、施術が使えるかどうか気にしない人間だ、と言った。
それは確かにそうだ。施術が使える、使えないは単なる個性にすぎない。それで差別されようと何をされようと、自分の魂がくじけることはない。
だがそれは、施術が使えないことを何とも思っていないわけではない。その逆だ。
幼い頃の衝撃。
そして、それから何度も執拗に行われた迫害。
一部の貴族の子弟は、施術が使えない者は奴隷と同じようなものだという考えを持っている。
自分を犬か何かのように考えている者すらいた。
施力を持っているだけで、自分より秀でているところなど、他に何もないくせに。
だから自分は、施術が使える、使えないなどということを何かの基準とすることは全くしなくなった。
だが、迫害の記憶は残る。
暴力やセクハラは当たり前。露骨に自分に迫ってくる者もいた。暴力で自分を従わせようとする者もいた。
そうした者たちの全ては、自分の力で黙らせてきた。
だが、彼らの口は止まることを知らない。力で叶わないとすぐに「施力が使えないから腕力だけは人一倍だ」と罵る。
その腕力がないから、先のアーリグリフ戦では敗北を喫するところだったのだ。そんなことも分からない能なしが、自分に何を言うのだろうか。
言葉で傷つけられる度に、一人、夜中に涙を流した。
アドレー様の「挫けるな」という言葉だけを心の支えに、ずっと生きてきた。
だが。
施術を使えないということが、次第に自分の心を蝕んでいった。
眠るたびに「施術も使えないくせに」という言葉が夢の中で自分を傷つける。
一年ごと、一月ごと、一夜ごとに、自分の体が壊れていく。
──それは、フェイトと出会った今でも、変わることはない。
(どうして、こんなにも弱いのだろう、自分は)
心が挫けそうになる。
毎日、朝起きるたびに自分の心が弱っていくのが分かる。
それでもまた一日は始まり、終わればまた夜はやってくる。
自分を傷つける、夜がやってくる。
(助けてください)
泣きそうになりながら、心の中に彼の顔を思い浮かべる。
(助けてください、フェイト)
自分が弱くなってしまった理由は単純。
彼の優しさが、自分の弱さを認めてくれているからだ。
甘えるということを、自分が知ってしまったからだ。
暗闇の中、ベッドの上で自分の膝を抱えて、顔を埋める。
施術が使えないというのは、そんなにも悪いことなのか。
施術が使えない自分には、彼の傍にいる資格がないとでもいうのか。
施術が使えなければ、人並みに幸せになることすら許されないというのか。
自分が光牙師団の人間から何と言われているか知っている。
クレアからフェイトを奪った、施術の使えない『泥棒猫』。
分かっている。
自分はフェイトとクレア、一つのカップルを壊した『悪女』。
そんなことは、誰よりもよく分かっている。
それを自覚して、それでもなおフェイトを望んだ。
自分がいるせいで、フェイトが悪く言われているのも知っている。
自分たちのせいで、『鋼』が悪く言われているのも知っている。
どうすればいいのだろう。
この悪循環から逃れることはできないのだろうか。
結局どこまで行っても、施術が使えないということが自分の行動を縛る。
今まではそれを不満に思ったことなどなかった。自分一人の問題だったからだ。
だが、今はフェイトがいる。
フェイトに迷惑をかけるのは、いやだ。
(夜は思考がマイナスになるわね)
あまり考えない方がいい。
考えていると、打開できない現実に絶望してしまうから。
いや、もう既に絶望した後なのかもしれない。
それならば、フェイトは希望か。
突然、扉が開く。
扉の向こうから、光が射し込んでくる。
「クレセント?」
優しい声が、自分の体に染み込む。
「フェイト」
立ち上がろうとするが、近づいてきたフェイトが自分の肩に手を置き、またベッドの上に座らせた。
「どうしたのですか、こんなところに」
「いや、クレセントがさ」
フェイトは暗闇の中だというのに、視線を逸らして頭をかく。
「私が?」
「うん、クレセントが苦しんでいるかもって、思ったから」
──この人は。
「私がですか」
「ああ。クレセント、寝る時いつも、苦しそうにしてるから」
「ご存知だったのですか」
「あ、うん。ときどきだけど、苦しそうな表情をしてた」
「そうでしたか。ご心配をおかけして、すみませんでした」
「そんな、他人行儀にしなくてもいいよ」
フェイトは自分の隣に腰掛け、そしてベッドの上にあがってくる。
「フェイト?」
「クレセントには、少し休息が必要だよ」
彼は自分の頭を抱きかかえると、そのままごろりと横になる。
「フェイト、ここは仮眠室──」
「大丈夫。鍵はかけたから誰も入れない」
「そういう問題ではありません」
「いいから。とにかく、今日は僕がずっと傍にいるから、クレセントは安心して眠るんだ」
──本当に、この人は。
「フェイト」
「なんだい?」
この人は何も気づいていない振りをして、あらゆることに敏感だ。
助けてと願ったら、すぐに助けに来てくれる。
まるで、この人は。
「あなたは本当に、私にとってはすぎた人です」
「どういう意味だよ」
「私にはつりあわないという意味です。でも」
フェイトに抱きつく。彼の温もりに触れる。
「私はどんなことがあっても、あなたから離れたりはしません。たとえあなたの重荷になったとしても、絶対に傍にいます。可能な限り、重荷にはならないようにします。私にはもう、あなたしかいないのですから」
「当たり前だよ。僕は今ではもう、クレセントのためにここにいるんだから」
「ありがとうございます。今日はゆっくり、眠れそうです」
やはり疲れていたのか、彼に抱かれたまま目を閉じると、自然と睡魔が襲ってきた。
「今日は僕がずっと君を守っている。だから、安心して眠るんだ」
「はい。おやすみなさい、フェイト」
そのまま、彼女の意識は暗転した。
朝の光が彼女の頬を射す。
目が覚めたとき、まだ自分は彼の腕の中にいた。
心地よい目覚め。
彼の言った通り、自分はずっと守られていたらしい。
彼に、悪夢から。
(……まったく、あなたは本当に、私のナイトなのね)
あどけない彼の寝顔が、たまらなくいとおしい。
(ありがとう、フェイト)
もう一度、彼女は目を瞑った。
(私はあなたを、愛しています)
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