2.朝

『遅く起きた朝は……』






 ネルの目覚めは早い。朝日が出る前にはとっくに目覚めて活動している。
 シランド城内で、誰よりも遅くまで仕事し、誰よりも早く仕事を始める。
 封魔師団『闇』をはじめ、エリクールの隠密部隊に全て指示を出すのが彼女の役割だ。だから誰よりも早く活動を始め、他の団員がやってきたときには仕事が準備されている状況を作る。
 逆に言えば、昼の時間になってしまえば案外暇になる。だから最近はよく、青い髪の青年を伴ってゆっくりと長めの昼食を取ることもしばしばだった。
 だが、その彼はなんといっても朝が弱い。
 まあ、この時間帯から彼に働かせるつもりは少しもないのだが、ただ、正直寂しい。
 あと一時間もすればアストールあたりがやってくる。それまでに今日の仕事の準備はしておかなければならない。そんなときに彼に言い寄られるのはある意味困る。だから一人で仕事をしていた方がはかどることは間違いない。
(もう一年になるんだね)
 ふと手が止まる。彼と出会ったのも、そういえば寒い冬の、暗い部屋だった。
 ランプの灯りが、あのときの彼を思い出させる。
 今日は随分と感傷的になっているらしい。急がなければ、今日の業務に差し支えが出る。
 止まっていた手をまた動かし始める。各部隊への指示書、女王陛下、執政官、クレアらへの報告書、したためなければならないものだけでも山ほどある。
 こみあげてくる睡魔に、思わずあくびが出そうになる。それをかみ殺して、ふと昨夜のことを思う。
 昨日はペターニで問題が起こってしまい、結局全部片付けるまでに日が変わってしまった。本来なら宮殿は日が落ちて会食かパーティでもやって、それでお開きになる。時間にすればこの時期は八時か九時で宮殿は静まるのだ。
 普段ならそれから全て報告を受け取り、急ぎのものはその場で伝令を走らせ、仕事を振り分けて次の日に備える。そこまでしてだいたい深夜十二時といったところだ。
 それから四時間ほど仮眠を取り、次の日の仕事に入る。そういったサイクルなのだが、昨日は眠ったのが午前二時だった。
 ペターニで以前から問題になっていた『死の商人』の尻尾を捕まえたため、間髪を入れずに一斉摘発という事態に陥ったのだ。もちろん事後処理やら何やらで、結局明け方まで仕事をするはめになった。その件については既に部下の方で手分けして行う段取りができているから、もうネル本人が関わる必要はない。報告を受け取るだけでいい。
 もちろん家になど帰らない。この城に割り当てられている私室で仮眠を取り、いつもどおりの時間に目覚めたのだ。
 さすがに今日は昼の時間に休まないと睡眠不足で動けなくなるだろう。
(あいつと昼食を取りにいくのは中止かな)
 少し残念だ。だが、機会はいくらでもある。
 さて、早く終わらせてしまおう。
 ようやく終わりが見えてくる。そして、ノックがされる。
「入りな」
 アストールが来たかと思って声をかけたが、やってきたのは意外な人物だった。
「やあ、ネル」
「フェイト!?」
 そこにいたのは、青い髪の青年だった。手にはポットを持ってきている。
 驚いて立ち上がる。そして一旦マフラーの中に顔を埋める。
 ゆっくりと近づき、そして右手を──彼の額にあてた。
「……熱はないみたいだね」
「それはどういう意味かなあ、ネル?」
 彼はひきつった笑みで答えた。
「いや、あんたが朝起きるなんて、天変地異の前触れだろう?」
「……ほとんど眠ってないから言いたい放題だね」
 フェイトはため息をついて、手にしていたポットからカップに注いで渡す。そのカップからは湯気が立っていた。
「はい、差し入れ」
「わざわざ悪いね」
 それを受け取ったネルは、ふう、と息を吹きかけて熱を冷ます。
「なに、こういう日だしね。ちょうど一段落ついたのかい?」
「ああ。まだ少し残ってるけど、大事な報告は全部完了さ」
「さすがに手際がいい」
「褒めても何も出ないよ」
 そうしてからカップに入れられた飲み物を口に含んだ。
「ホットココアとは、懐かしいね」
「滅多に飲まないのかい?」
「猫舌なんでね」
 徐々に冷めてきたココアを飲み終えて、ありがとう、とカップを返したところだった。
(え?)
 急に体の力がぬけて、彼に抱きとめられる。
「あ、んた──」
「ああ、ゆっくりお休み、ネル」
(睡眠薬、か)
 フェイトのことだ。自分を強引に休ませるためにこういう方法を使ったのだろう。
 その心遣いは分かる。だが、許されることではない。
 目が覚めたら、たっぷりとお灸をすえなければならないだろう。






 目が覚めたときは、完全に昼間だった。
「おはよう」
 そして、彼はにこやかな笑顔を向けてくる。
「ずっとここにいてくれたのかい?」
 寝顔をずっと見られていたのだろうか。きっと自分は寝起きでひどい顔をしているだろう。そんな顔を見られていたと思うと恥ずかしかった。
「まあ。ネルは、寝ているときも綺麗で見飽きないから」
「よく言うよ。とりあえず出ていきな。寝起きをあまり、見られたくない」
「了解。仕事はあらかた僕の方でやっておいたから。二つだけ僕の権限じゃどうしようもないことがあったから、それは残してある。でもあと一時間もいらないだろうし、それが終わったら少し遅いけど昼食にしよう」
「ああ」
 彼が扉の方を向いた瞬間だった。
 素早くネルはベッドから出て足を払う。完全に油断していたのか、彼はおもいっきり前に倒れた。その背中に乗って、ネルはナイフを取り出す。
「あんたね。やっていいことと悪いことがあるって分かってるかい?」
 刃をぴったりと首につけたが、それがコミュニケーションの一部であることは相手もわかっている。本気でやっているわけではない。
「いや、分かってるつもりなんだけどな。でも非常時だったし。またネルに何を言ってもどうせ仕事するんだろうから、手っ取り早く眠らせるにはどうすればいいかと思ったら、これしかなかったし」
「またエレナ博士から睡眠薬をもらったっていうネタかい?」
「そりゃ、僕には薬の知識はないから」
 全く悪びれていない様子の彼を下に敷いて、やれやれ、とネルはため息をつく。
「全く、そこまで開き直られたら、怒るに怒れないじゃないか」
「一発、けじめとして殴られるくらいは覚悟してたけどね。でも、僕がネルのためにしたことで最後まで怒られることはないと思ってるから。間違いだったかな?」
「間違いじゃないけどね。じゃあ、かわりにきちんとけじめをつけてもらおうかな」
「いいよ、何?」
 簡単に安請け合いしたフェイトを見て、ネルは何かこらしめるためのいい方法はないだろうか、と素早く考えた。
 仕事を与えたところで彼はきちんとこなすだろうし、だからといってお金を奪ったところで彼は何も感じないだろう。
 ああ、いい方法があった。
 ネルは、笑いながら言った。
「今から一週間、あんたは私に会いにくること禁止」
「ええっ!?」
 それが一番フェイトの感情に変化を与えたらしい。
「というわけでさっさと出ていきな。一週間経ったらまたおいで」
「そんなあ」
「ま、感謝してるよ。おかげで一息つけた。じゃ、また一週間後に」
 彼をたたき出して、彼女はまた机に戻った。
 たっぷりと睡眠をとったことで、しばらくは元気に仕事ができるだろう。
 こればかりは彼に感謝しなくてはならない──手段はともかくとして、だが。






 ただ、自分でも失敗したことが一つ。
 それは──自分も一週間、彼に会えないということ。





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