16.足跡
『あなたの傍で』
「こんにちは、フェイトさん」
そう話しかけてきたのはもう一人のクリムゾンブレイドこと、クレア・ラーズバードであった。
このシランド城で彼女の姿を見かけることはほとんどない。たまに緊急の用事があって戻ってくることがある程度のものだ。
つまり、彼女がここにいるということは、何か大事が起きているということでもある。
「お久しぶりです。何かあったんですか?」
「何か? いえ、そうではありません。前線勤務を務め終えたんです。戻ってきたんですよ、ここに」
「ああ、そういえばネルが言ってました。もうすぐクレアさんがシランド勤務になるって」
「ええ。というわけで、これからよろしくお願いしますね、フェイトさん」
にっこりと笑うクレア。だが、次の瞬間にはその顔が翳る。
「ですが、フェイトさんにはあまり喜ばしいことではないかもしれません」
「どういうことですか?」
「私がいない間は、光牙師団については腹心のヴァンが、軍全体についてはネルが私の代行をしてくれていました。ですが、私がいる以上、ネルは軍の仕事は楽になるはずです」
「そうでしょうね」
「ということは、封魔師団の任務を最優先できるということです」
「ええ」
「封魔師団の役割はご存知ですよね?」
そこまで言われて、ようやく気づく。
封魔師団『闇』はアーリグリフ方面の隠密を任務とする。ほとんどの場合は内偵調査が基本だ。つまり──
「ネルがアーリグリフへ?」
「実際、フェイトさんたちがここへ来る前まではずっとアーリグリフ勤務だったんです。戦争があって、私が最前線について、ちょうどネルが帰ってきたので代行をしてもらっていたのですが……」
「代行の必要はない、だからまた任地へ戻る、か……あの馬鹿!」
フェイトはいまいましげに地面を蹴った。
「フェイトさんはどうなされますか?」
「どうって?」
「もしその場合、ネルについていくかどうかということです」
「決まってます。僕はネルがいるからこの国にいるんです。ネルのいないところにいても何も嬉しくなんかありません。僕はネルについていきます」
それを聞いて、クレアはにこやかに笑った。
「こちらへ来ていただけますか?」
クレアはフェイトを誘導して別の部屋へ連れていく。彼は何をされるのかは分からなかったが、そのまま後をついていった。
彼はこの城のことをほとんど知っていたが、それでも入ったことがない部屋などたくさんある。個人の私室はもちろんのこと、どうなっているのか全く分からない部屋などそれこそ数え切れないほどだ。
その中の一つ、みすぼらしい扉の中にクレアが入っていき、少し緊張しながら続いて入る。
中は結構広く、そこにはたくさんの肖像画が壁一面に、何列にも渡って並んでいた。
正面には国王の肖像画。それこそ古代シーフォート王国をつくったシーハート1世から何十人もの肖像画が並ぶ。そして左右の壁には──
「これは、クリムゾンブレイドの?」
「そうです。初代からずっと続いているクリムゾンブレイドの肖像画です」
クリムゾンブレイドはシーハーツ王国の時代になってからできた位である。常時二名で、当然戦死する場合もあるので回転は早い。
最も長くこの位についていた者は二十年ほど。だが、ほとんどは数年で位が入れ替わる。中には一年に満たない者もいる。それほどの激務であり、危険な位だということだ。
そして、一番新しいクリムゾンブレイドは、二人とも女性だった。
クレア・ラーズバード。
ネル・ゼルファー。
二人とも若くしてこの地位についた。貴族として地位が高いこともあったが、二人の実力がそれだけ秀でているということでもあった。
「私たちは、長く生きるということを目的にはしていません」
この中にはネルの父親もいる。ネーベル・ゼルファー。やはり戦場で命を落としていた。
「私たちは任務を第一とし、国のために戦い、国のために生きることを宿命づけられています。クリムゾンブレイドという地位は、それほど軽いものではありません」
「ええ。よく分かっています」
「ネルを支えるということは、彼女とともにこの国を支えるということでもあります。しかも彼女が背負っているものはそれだけではありません。彼女はゼルファー家の息女として子を産み、育てていく義務があります。彼女に課せられる使命は非常に重いのです。彼女はこれまでのクリムゾンブレイドとゼルファー家の足跡を、さらに次の世代へ残していくことが義務づけられているのです」
「はい」
「その彼女を支えていくことに、異論はないんですか?」
「ありません」
フェイトは迷いなく答えた。
「それはよく分かっているんです。確かに最初、この国に留まろうとしたときはそこまで考えていませんでした。とにかくネルの傍にいられればいい。それだけを考えてここに残りました。でも、次第に分かってきたんです。ネルがどれだけこの国のことを好きなのかということが。だから僕もこの国を好きになって、この国のために活動しようと思います。でも、だからといってネルと別れ別れになるようなことは拒否します。彼女がそれを望んでいて、僕がそれを納得しているというのならともかく、ずっと離れたままでいるというのは絶対に了承しません」
「常にネルの傍にいるということですか?」
「そうです。僕はネルと一緒に生きるためにここにいるんです。たとえ国のためとはいえ、僕が了承できないこと、つまりネルと離れ離れになるようなことはできません」
はっきりと言い切る。そう、もしネルと一緒になれないのなら、ネルを連れて宇宙へと逃げてもいい、それくらいのことは考えている。もっとも、そうなると今度はネルの方が許さないだろうが。
「なるほど……」
クレアは唇の端に笑みを浮かべた。
「やはり、ネルの見込んだ方だけのことはありますね。合格です」
合格?
突然わけのわからないことを言われ、彼は困惑する。
「すみません。少しフェイトさんのことを確かめさせていただきました。実は、ネルがアーリグリフへ行かなければならないというのは嘘なんです」
「え?」
「ネルは顔が割れてますから。アーリグリフ方面の隠密としてはもう活動できないんですよ」
言われてみれば確かにそうだ。
「じゃあ、クレアさんが帰ってくるっていうのは」
「それは本当です。ただ、アーリグリフ方面の諜報活動は、おそらくアストール辺りがこの後赴任すると思います。現地できちんと諜報活動ができることが、封魔師団を率いるための条件ですから。この後アストールが出世することを考えると、多分そうなると思います」
「じゃあ、今の話は」
「はい。フェイトさんがどれだけネルのことを考えてくれているのかということ、失礼でしたけど確かめさせてもらったんです」
「ひどいな、それは」
フェイトは苦笑した。
「すみません。ですが、私はあの子のことが心配なんです」
クレアは胸の前で両手を組む。
「あの子はずっと戦い続けてきましたから。だから、幸せになってほしいんです。だからフェイトさん、あの子を泣かせたら許しませんからね?」
ひどく綺麗な笑顔で尋ねてくる。フェイトは強く頷いた。
「もちろんです。ずっとネルの傍にいて、彼女を支えることを約束しますよ。でも」
と、一度区切りを入れる。
「戦ってきたのは、クレアさんも一緒でしょう?」
クレアは一瞬言葉に詰まる。
「だから、ネルだけじゃなくて、クレアさんも幸せになってください」
彼は心からの気持ちとしてそう伝えた。
そして、それを聞いた彼女はクスッと笑った。
「ええ、努力してみます」
「はい。それじゃあ、僕はもう行きますね」
「はい。お仕事がんばってください」
そう言って出ていくフェイトを見送って、ため息をつく。
「私もできれば、あなたの傍で幸せになりたかったのですけどね」
部屋の中の肖像画だけが、その呟きを聞いていた。
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