21.ひとりじゃない
『あれから』
ネルは久しぶりに一人でアーリグリフまで来ていた。
理由はシーハート27世からの手紙を届け、今後の両国の関係改善を求めていくためだ。そのためにシーハーツ側から食糧援助を申し出ている。
女王の考えは分かっている。取引として資源、特に銅や鉄をアーリグリフから手に入れるつもりなのだ。友好関係を築きつつ、国力をアーリグリフまで引き上げていく。それが狙いなのだ。
特に、もうすぐ冬も終わる。春からは食糧援助の必要が当分なくなるのだ。だから今のうちに次の冬の援助について確約を得ておく必要があるのだ。
だがもちろん、それだけが理由ではない。予想通り、ネルはアーリグリフ方面を直接指揮することがなくなった。顔が割れているため、現地への潜入操作は厳しいということになったのだ。
ここにはそのかわりにアストールを派遣することになる。その前にあらかた仕事の整理をしておこうと考えたのだ。
尾行がつけられていないことを確認して隠れ家に入る。ファリンもタイネーブもいない今では使う者もない廃屋の状態だ。だが、手入れは行き届いている。おそらくカルサアの部下が時折来ては掃除などをしてくれているのだろう。
(ここも久しぶりだね)
クリムゾンブレイドとなった後すぐに空位だった封魔師団『闇』の長となり、二つの仕事を同時にこなさなければならなくなった彼女だったが、もともとクリムゾンブレイドという仕事についてよくわきまえていた分、それほど混乱もなく業務をこなすことができるようになっていた。
とはいえ、封魔師団の活動は現地に来なければ実際の業務量など少ない。それを彼女は初めてここに来たときに感じた。
もう三年も前になる。封魔師団長を拝命してから一年たった秋のことだった。彼女はこのアーリグリフに部下とともに潜入し、諜報活動を始めたのだ。
諜報活動に慣れるに従って、この仕事の裏面も見え始めた。始終回りに気を配らねばならず、神経は尖り続け、余裕がなくなっていく。諜報とはそんな仕事だ。
フェイトと出会ったのは、そうして自分が一番ピリピリしていた時期だったのだ。
今考えれば、どうしてあんな物言いしかできなかったのか、と不思議に思うくらいだ。だが、それが『環境が人を作る』ということなのだろう。諜報を専門に扱っていた自分には、もうあのような言葉づかいしかできなかった。
それこそ、あの時点でフェイトやクリフを殺したところで、自分は何とも思わなかっただろう。禍根を断って安心した、くらいにしか思わなかったはずだ。
(ここに来ることも、もうないだろうね)
あの日。
アーリグリフにイーグルが落ち、そしてシーハーツから伝書鳩が届いたあの日。
自分は、運命の出会いを果たした。
あのときは何も考えることなく、ただ任務を遂行することだけを考えて、アーリグリフ城へともぐりこんでいた。
そう、あのときはひとりだった。
大切な親友がいても、信頼できる部下がいても、尊敬する国王陛下がいても。
あのときの自分は、ひとりだった。
今は違う。
戻れば自分のことを待っている人がいる。いつも自分のことだけを考えてくれる人がいる。
「ネル」
そう。この声で呼んでくれる人がいる。この声……この声?
「ネル、どうしたのさ。ぼーっとして」
「……フェイト? あんた、どうしてここに?」
どこまで神出鬼没なのだろう。アーリグリフに来ることは伏せておいたはずなのに。
「またファリンから聞いたっていうのかい?」
「いいや、今回の情報の出所はクレアさん」
「どうしてみんなして」
彼女は頭を押さえる。守秘義務をなんだと心得ているのだろう。
「大丈夫。尾行はなかったし」
「そういう問題じゃないよ。簡単になんでもあんたに話しているのが問題だって言ってるのさ」
「それは多分、みんなが僕のことを認めてくれているからじゃないかな」
フェイトはそう言ってネルを抱き寄せる。
「フェイト、こんなところで」
「こんなところも何もないよ。僕はネルをひとりにしたくなかった──いや、違うな」
彼は苦笑した。
「僕がひとりでいたくなかったんだ。驚いたよ。いきなり君の姿がなくなっていたときは。もう四方八方、どこにいったんだって聞いて回ったんだからね。見るに見かねたクレアさんが行って来いって教えてくれたのさ」
「……今度から可能なかぎり、あんたに行き先は教えておくことにするよ」
とても大きなため息をついて、ネルは疲れたように言い放った。
「ぜひそうしてほしいな。一緒に行くことができるかぎりはネルと一緒に動くし、もちろんいつも一緒にいられて困ることはお互いあるだろうから、一定の距離は置くよ。でも、こんなふうに突然目の前からいなくなるのは勘弁してほしい」
「考慮するよ」
「よかった。突然いなくなられたとき、どんな気持ちになるか、想像したことがある?」
想像──それは確かにない。
だが、突然フェイトが何も言わずにいなくなったとしたら。
それは、あまりに怖いことだと認識した。
「ごめんよ」
「分かってくれればいいよ」
ネルも改めて腕を背中に回す。
「もしかして、それを言うためだけに来たのかい? カルサアの時みたいに?」
「まあね。僕は思い込んだら一筋だから」
「極端すぎるんだよ、全く」
だが、悪い気はしない。
自分が思っていたように、本当に自分のことを一番に考えてくれる人。
(ずっと傍にいてほしいよ、フェイト)
何度言葉にしても、伝えきれないこの想いをどうすればいいのだろう。
幸せに包まれながら、その100%伝えきれないもどかしさを、ネルは感じていた。
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