五月十九日(日)、午後〇時五六分。スタジオ『ミュー』。
「まだ来ないな」
ヤスさんが言う。まだ彼、TROYの新ボーカルに迎えようと考えている相手、ソウはやってこない。
「時間どおりに来るって言ったってなあ……もう時間になるぜ」
ユキも苛々しながら相槌をうつ。
「別にそれなら先に始めていればいいだけのことでしょ。どうせお金払うのはユキたちなんだから」
「そりゃそうだけど」
「ぐだぐだ言わない。ほらほら、もう時間。さっさと準備しなさい!」
私の言葉で、三人が動きはじめる。
最初にスタジオに入っていったのはドラムのヨシキさん。そしてユキとヤスさんが続いた。
「あ、っと」
私もそこに入ろうとしたとき、店のドアが開く。
「こいつ、時間ぎりぎりかよ」
時計を見ると、五八分と三六秒。
「一時からだろう。遅刻はしていない」
ソウは表情を崩さずに言う。
「その前に準備ってもんがあるだろーが」
「俺はまだあんたたちのメンバーじゃない。今日はセッションだけのはずだ」
有無を言わさぬ口調でユキを黙らせると、彼は私の前にやってくる。
「よう」
挨拶をしたのは、彼の方からだった。
「う、うん」
私は何故か、緊張していた。
彼女──瀬波裕香と同じ、私に『何か』を感じさせる人。
「詞はできたか?」
「え?」
心臓をわしづかみされたような、驚愕を覚えた。
「できてるんだろう?」
私は頷くのみだった。
そして、やけにスローな動作で例の詞を取り出す。
「見せてもらうぜ」
彼はそれを奪うように取った。
「おい!」
「ユキ!……いいの」
私は苛立つユキを言葉で制する。
そして、その詞を読んだ彼は、かすかに鼻を鳴らせた。
「やっぱりな……お前、よくこんな売れない詞が書けるな」
売れない詞、という言葉にメンバーの表情が固まる。
「そう、思う?」
「思うね。これはある一人の人間のために書かれた詞だ。そいつを悦ばすことはできても一億人が悦ぶことはない」
「正直ね」
「分かってて書いたんだろ?」
「違うわ」
何故か、勝手に言葉が出ていた。
「私の意識じゃない。それは、あなたの意識が書かせた詞よ」
そうだ。
そう考えればしっくりくる。
最初のトランスした詞。あれは、裕香の意識が書かせた詞だ。
そしてこの詞。これは目の前にいる、颯。彼の意識が書かせた詞だ。
まるで、彼らの意識が自分に乗り移ったかのように、一瞬で全ての詞が頭に浮かんだのだ。
「なるほど」
その紙を彼は二つ折りにする。
「お前、人間か?」
ぞくり、と悪寒が走る。
「おい、お前いくらなんでも」
「ユキは黙って!」
声を張り上げてしまう。店員が何事か、とこちらを見ている。周りの人たちもだ。
でも、今は他の人の言葉は聞きたくなかった。
目の前にいるこの少年だけが、自分を分かっている。
「分かった」
そして、彼は言った。
「お前に最高の曲をプレゼントしよう」
彼はその二つ折りにした紙を胸のポケットにしまった。
そして彼は固まっている三人の間を抜けてスタジオに入る。
「やるんだろ?」
どこまでも不敵な態度だった。
「ちっ。本当にこんな奴と一緒にやるのかよ」
ユキがぼやく。
「ま、とりあえずは一回あわせてみてからだな」
ヤスさんがなだめるように言う。ふう、とヨシキさんもため息をつく。
「君は彼をどう思う?」
ヤスさんが私に声をかけてきた。
「どう……とは」
「なんだかすっかり、いつものレイらしさがなくなってしまったな。いつもはもっと大胆で明るいのに、彼がいるときはすっかり萎縮している」
「そう見えます?」
「ああ。それだけ君にとって、影響を与えた相手なのかと思うと、興味は大きいね」
ヤスさんはそう言ってベースを持ちあげた。
ヨシキさんがそれに続いて、私も中に入った。
中では既にユキが音合わせを始めており、彼──颯は楽譜を見て曲を確認している。
「今から見ただけで覚えられんのかよ」
その彼に向かってユキが声をかける。が、全く反応はない。
「無視かよ」
違う。集中して聞こえていないのだ。
彼の目は、ずっと瞬きすらしていない。次々に楽譜を見てそれを暗記していっている。
おそろしいことだと思う。
彼は最初の一曲目を、楽譜だけで覚えようとしているのだ。それも、自分が歌えるレベルで。
そして、その歌のタイトルは『追憶の愛』。そう、私が『トランス』したときの歌。
最初の音合わせは先週の日曜日にやったと聞いた。
今日はお互いのパートを微調整して、完全に曲を仕上げることも一つの目的だということだ。
「よし、それじゃあ始めるか。ソウはまず一回──」
「いや覚えた。大丈夫だ」
彼はマイクを手にとって、あーあー、とマイクのテストを行う。
「イヤミなヤツ」
ユキが聞こえるように言った。
「じゃあ始めよう」
スタジオの中が静まる。
そして、スティックの音が鳴る。
「ワン、トゥ、ワントゥッ!」
スネアの連打から、ベースとギターの音が重なる。
ギターが二人から一人に減ったせいか、私が聞いた他の曲よりも音が軽い気がする。でもユキのテクニックは尋常じゃない。むしろ一人になったせいで、レベルが高くなった感じがする。
そしてなんといってもこの“TROY”を支えてきたのはベースのヤスさんとドラムのヨシキさん。要するに、リズム隊の力がぬきんでているから、ボーカルが弱くてもパワーのあるバンドという感じがするのだ。
ヨシキさんが叩くドラムは、一音ずつ魂がこもっている。
ヤスさんがひくベースは全ての音を支えて調和を醸している。
そして、ボーカル。
彼はいったい、どんな声を出してくるのか。
そして。
スネアが再び連打され、ギターとベースの音が一拍とまる。
彼が、口を開いた。
『胸の奥に潜む 突き上げるこの衝動
伝えられない気持ちを ただひたすら押し込める』
震えた。
なんて綺麗な音色。そして力強さ。
男性とも女性ともつかない中性的な声色に、体中が痺れるような力強さ。
普通人間の声はどんなに綺麗な声を出しても地声や震えが入るが、彼は電子機械で出したかのような全くノイズの入らない音色で歌う。
いや、これは歌っているのではない。
演奏している、と言った方が正しい。
この声に、ヤスさんも、ヨシキさんも、そしてユキも、驚いたまなざしでボーカルを見つめる。
『何もかもをなくし 僕はただ愛を叫ぶ
もう二度とこの気持ちを 伝えることできなくて』
(この人、なんで)
でも私が震えたのはそれだけが理由じゃない。
彼は、私が詞を作ったとき、トランスしたときの浮遊感をしっかりとした形で表している。
そう。
彼は、私が裕香から受けた『違和感』をあますことなく『形』にしている。
彼は『裕香』という人間を『理解』して歌っているのだ。
(私には、分からないのに……)
彼は分かっていて歌っている。
そうでなければ、どうしてこんなにも彼の歌には『説得力』があるのだろうか?
『魂がきしむ音が聞こえるか?
僕はただ 君だけを求めているのに』
(そうだ。雨……)
彼女は雨を嫌っていた。
この歌詞を見たとき、がたがたと震え、目をそらし、そして言ったのだ。
『……雨は、嫌い』
何故?
いったい、何が彼女をそこまで傷つけているのか?
『冷たい雨が僕の心を凍らせていく
追憶の愛……ただ君だけを抱きしめたくて』
(……なんて、なんて!)
なんて苦しそうに歌うのだろう──!
やはり彼には分かっているのだ。この歌詞の主人公が、裕香が何を思っているのかが分かっている。
歌詞を作っている私には分からないというのに──
『舞い降りた夜 溶けないココロ 伝わらない愛
せめてこの夜の夢では君の首に接吻を……』
駄目だ。
私には理解できない。
できようはずもない。
私はただ直感で、言葉が勝手にあふれてくるだけ。
理解する能力などない。
(では……では!)
彼はいったいあの歌詞を見て、何を感じたのだろう──?
「すごいな、ソウ」
一曲目が終わると、メンバーたちが賞賛した。
「こんなに綺麗な声が、いや音色があるのかと思った。それでいて力強い。声を聞くことがこんなにも心地よいことだとは思わなかった」
蒸気した顔でヤスさんが言う。
「同感だ。何度聞いてもすばらしい」
言葉少なめだけれど、ヨシキさんも心からそう思っているようだった。
「ユキは?」
ヤスさんが話をふると、ユキは両手をあげた。
「脱帽。言うことねえよ」
まいりました、ということらしい。
「ソウ。ぜひとも“TROY”のメンバーとして迎えたい」
ヤスさんがそう言うと、彼は私を見つめてきた。
そしてゆっくりと近づいてくると、そっと右手をのばし、その人差し指で私の目を拭った。
「泣くな」
「……」
私は、泣いていた。
感動したのも、ある。
でもそれ以上に、苦しかった。
私に理解できない想いがあることが苦しい。
そして、直感的に私はとらえることができているのに、形にならないもどかしさが余計に苦しい。
「お前の才能は、理解することじゃない。感じることだ」
「かん、じる……」
「そうだ。他人の意識に共感して歌詞をつむぐ。記憶じゃない。感情が重なるんだ」
「感情……」
「だからお前に歌詞の中身を理解するのは無理だ。お前はただ、感じていればいい」
彼は私の手を引くと、椅子から引き上げる。
「お前たちのメンバーになろう」
「本当か!」
ヤスさんが喜び、ヨシキさんが頷き、ユキがにやりと笑う。
だが、この次が問題だった。
「ただし、条件がある」
すると、彼は。
取った手を離して、私の首に回した。
抱きかかえられる格好となった。
「こいつをもらう」
メンバーの顔が驚愕色に染まる。
「こいつが俺のものになるなら、メンバーになってもいい」
「てめえ、ふざけんな!」
ユキがキレた。
でも私は、反応できなかった。
「ふざける?」
「同感だな。そういう冗談は歓迎できない」
ヨシキさんも彼を睨みつけて言う。
「……人を物のように扱うのはよくないな。それに、彼女は自由意思を持つ人間だ。我々が決められることじゃないし、決めていいことでもない」
ヤスさんも気分を害しているようだ。
「じゃあこの話は、なしだ」
ぱっ、と腕が解かれる。
そして彼はスタジオのドアに向かった──
「待って」
私は彼の手を取っていた。
「私をあなたにあげる」
メンバーたちが硬直した。
「お前、意味分かってて言ってる?」
彼はからかうように言った。
「そのつもり」
私は意を決して言った。
「私を、あなたに、あげる。それでいいんでしょう?」
ようやく。
少しは『私らしさ』が戻ってきたのかもしれない。
萎縮し、怯えている私ではなく、挑発し、動じない私。
「それなら文句はない」
彼は私を抱き寄せる。
「俺がほしいのはお前だ。お前のその能力がほしい」
「詞を書く?」
「他人と共感し、言葉にする能力だ」
そして、彼の唇が私の唇に重なる。
「!」
ユキが叫び出そうとするけど、ヤスさんがそれを止める。
「お前は俺のものだ。せいぜい、その力を有効に使え」
彼はにやりと笑った。そんな笑みでさえ、冷たく綺麗だった。
黒い瞳が、私の心の奥底まで覗き込んでいるような気がした。
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