「この女の子は魔王。現在十四歳。君にはこれから五年間、この子を育ててほしいんだ」
「すまん、日本語で頼む」






プロローグ・A







 彼、天野悠斗はごく普通の会社員だった。つい三週間前までは。
 何の理由もなく突然の解雇。退職金という名の手切れ金は尋常ではない金額をつけられた。まだ二十四歳。再就職はいくらでもできる。それでこの金額──五百万円、は確かに嬉しい。たった二年働いただけで正規の給料の他に五百万もらえるのなら、もう一度やってもいいくらいだ。
 ただ、しばらくは再就職する気にもなれなかった。賃貸マンションの家賃はそれほど高くない。貯金もある。雇用保険も出る。何もしないでもしばらくは生きていける。
 そんな彼のところに届いた一通の手紙。
『あなたにしかできないことがある。どうか、協力をお願いしたい』
 内容はそれだけ。後は日時と場所だけが記載されている、ひどく怪しい手紙。いったい何をされるか分かったものではない。
 それでも彼がその場所──普通のコーヒー喫茶なのだが、そこへ向かったのは他でもない。彼の行きつけの店だったからに他ならない。
 もしかして店のマスターが、ひいきにしている客が職を失ったと知って、ウェイターのアルバイトでもさせてくれるつもりなのだろうか、などということも考えた。が、それをすぐに打ち消す。何しろその話をマスターにしたつもりはない。
「やあ、今日は朝からかい。仕事はどうしたんだ?」
 開店と同時に店に入った自分にマスターが尋ねてくる。
「会社はやめた」
「あれ、せっかく一流企業に入れたのに?」
「解雇になったらどうしようもない」
「何かヘマしたのかい」
「いいや。どうやら上の人たちに嫌われたらしい。そのかわりたっぷり手切れ金もらった。ちょっと尋常じゃないくらい」
 普通、退職金というのはどれくらいもらえるものなのだろうか。二年分の退職金なら、十万か二十万ももらえるのだろうか。
「ふうん。まあ、二年間ほとんど休みなく働いたんだから、少しは休んだらどうだい」
「そのつもり」
「よかったらうちでバイトするかい?」
「そう言ってくれると思ってたよ。少し考えさせて」
「君はルックスがいいから、ウェイターに来てくれたら女性客が増えると思うんだけど。別れたばかりなんだろ?」
「傷口抉るねえ」
「いや、これはごめん。でもよかったら考えてみてくれないかな。常連客の中には可愛い子もたくさんいるよ」
 一ヶ月前に彼女に別れを告げられ、三週間前には会社から解雇にされ。
 全く、今年は大殺界か何かだろうか。
 と、そこへ。
「いらっしゃいませ」
 マスターが声をかける。
 店に入ってきたのは壮年の男性。別に何ということはない、ごく普通の男だった。
「どうぞ、空いている席へ──」
「ここでいい」
 その男は、彼の隣に座ってきた。
「おや、お知り合いですか」
「知り合いじゃないけど、関係はあるってところかな」
 彼が言うと、男を見る。
「コーヒーを」
「かしこまりました」
 男は平然と注文してから悠斗を見た。
「来てくれるとは思っていなかったよ」
「あんたが手紙の主かい? あまりにもそっけなくて、どうしたもんか迷ったけどな」
「それでも来てくれたのは、ここが馴染みの店だからかな?」
「分かっててここに呼び出したんだろう?」
「まあね。君の現在の状況もよく分かっているつもりだ」
 相手を確認してから、続けて正体の判別にかかる。
「あんた、名前は?」
「僕は乃木良太郎。君は天野悠斗くん、だね」
「ああ。で、その乃木さんとやらは、どうして俺に妙ちきりんな手紙を寄越したんだい?」
「君の力が必要だ。協力してほしい。そう手紙に書いてなかったかな」
「書いてあったけど、何をしてほしいのかが全く書いてなかったぜ」
「ああ。それは、実際にモノを見てもらわないといけないんだ。正直に言うと、君がこの依頼を引き受けてくれるとは思っていない。僕ならとてもじゃないけど、この手紙自体を無視したと思う。それでも君は来てくれた。僕としては嬉しいけど、君のホームグラウンドであるこの喫茶店から別の場所に移動することは、とても抵抗があると思う」
「そりゃそうだ」
「でもついて来てほしい。決して君に危害とかを加える気はない。ただ、一つだけ依頼をしたい。でもそのためには、僕の家まで来てもらわないといけないんだ」
「家の場所は?」
 住所を聞くと、高級住宅街の並ぶ場所だった。ここからならタクシーで十五分というところか。
「条丁番号まで」
 乃木という男は名刺を差し出す。そこに電話番号、住所など細かいことが全て書かれてある。
(名刺に住所? 珍しい男もいるもんだ)
 そしてその名刺が極めて怪しい。
「……異世界、研究所ぉ?」
 なんだその中二病みたいな研究所。
「まあ、その研究所は僕と助手の二人だけでやっているところなんだけどね」
「それの手伝いをしろとかそういう話か?」
「手伝いには違いないけど、住み込みとか実験に協力とか、そんなことじゃない。きちんとお金も払うし、君が望むなら他の報酬も考えている」
「他の?」
「たとえば家とかマンション。固定資産税がかかるけど、その分の費用もきちんと出そう」
「おいおい」
「大丈夫だよ。うちの研究所は裕福だから。まあ、代々受け継がれてきた資産のたまものだけどね。おかげで好きな研究を山ほどやれる」
「異世界の?」
「そういうこと」
 男は楽しそうに言う。子供っぽいところのある大人だった。
「変な奴」
「初対面でそういうことを言える君はたいした度胸だよ」
 男は別に気を悪くした様子もなかった。
「さて、もし問題がなければこの後僕の家、つまり研究所まで来てほしいと思っているんだけど、駄目かな」
「暇だから問題はないが、入ったら出て来られなくなる可能性があるところにはいきたくない」
「そんなことにはならないと保障する。もっとも僕の保障では信頼ならないというのなら、話はここで終わってしまうんだけどね」
「ふむ」
 いろいろと気になることはある。最初に聞いておきたいことといえば、
「俺のことをどこで知った? 協力を求めると言ったが何故俺を選んだ?」
「その理由も、研究所に行けば分かるよ」
「なんだそれ、研究の成果とでも言うつもりか」
「当たらずとも遠からず、かな。条件に当てはまる人物を探して、ようやく君を見つけた。君以外に頼める人はいないんだよ」
「どういう条件だ?」
「それも研究所で。そうしないと君が呆れてここからいなくなってしまうかもしれないから」
 素直に言うところがなかなか面白い。
「何をさせるか、概要くらいは教えてくれないか」
「モノを見てもらってから教えるよ。すべては研究所で説明をする。依頼を受けるか受けないかはそこで決めてもらってかまわない。ただ、依頼を受けた場合は、君は五年間拘束される。それは事前に伝えておく。もしもその条件で駄目なら、ここで帰ってくれても仕方がない」
「今から五年費やしたら、俺、再就職の口がなくなるんですけど」
「成功報酬は一億円」
 とんでもない金額に、思わず目が見開かれる。
「その他、引き受けてくれれば一戸建ての家かマンション一フロアを譲渡。もっとも正式に譲渡したら贈与税がかかるから名義は僕のものだけど、君はその家なりマンションなりを自由に使っていいことになる。もちろん五年といわず、一生自由に使っていい。それから五年間分の保険、年金などは全部こちらで負担。給与は毎月手取りで五十万。ただ、それ以上にボーナスを出すことは無理。あと、任務を引き受けてくれたら支度金として二百万」
「太っ腹だな」
「それくらいの価値が、君にはあるということだよ」
「人体実験とかではなく?」
「まったく違う。君の体に危害は一切ない」
「それ以外に困ったことになるということか?」
「それは君次第。ただ、困ることなんてないと思うよ。もし困るとすれば、人とのコミュニケーションをとること、くらいじゃないのかな」
「そんなにたくさんの人間と話したりするのか?」
 だがそれには乃木は答えない。苦笑して首を振るだけだ。
「どうだろう。話を聞きに研究所まで来てくれないかな」
「うまい話には裏がある、と死んだ父がよく言っていた」
「確かに裏はある。でも、それは君にとってデメリットというわけではない」
「五年間働いて一億円。しかも年間手取りで六百万プラス固定資産のおまけつき。それだけの資材を投じてもさせたいこと、それが成功すればあんたはどれだけのお金が手に入るんだ?」
「そうだね。多分、何十万円かくらいじゃないかな」
 あっさりと言う乃木に、ますます眉間に皺が寄る。
「これは僕の、まごうことなき、趣味でやってること。デメリットは僕に来るだけだよ。ただ、一人の人生を五年間、もしかしたらそのせいで一生何かしらのデメリットを背負うことをさせるかもしれない。たとえば、大金を手にしたせいでギャンブルにはまって堕落するとか、そういうこと。五年経ってもまだ三十歳くらいなら再就職は全然できるだろ? でもそれは本当に君次第ということだから、デメリットとかいうことにはならないと思うよ。ああ、ただ──」
 ただ、という言葉の後に続いたのはけっこう苦しい内容だった。
「五年間、私生活は本当に、可能な限り犠牲にしてもらわなければいけなくなる。だから結婚はおろか、彼女を作るなんていうこともご法度。そういう意味では条件は厳しいよ」
「それは確かに厳しい」
 苦笑する。なるほど、完全にいい話というわけではない。
 ただ、五年間我慢すれば一億円。それはたしかにおいしい話だ。
「成功報酬と言ったが、失敗したらどうなる?」
「金額は半額の五千万。つまり、依頼を受ければ成功、失敗に関わらず五千万が五年後にもらえるということ」
「成功すれば倍額ということか」
「そういうことになるね」
 なるほど。騙されるようなところはないと思うが。
「あとで分厚い契約書を一から十まで説明することになるから、そのときでもいいと思うけど。ただ、この依頼を受けてくれたなら絶対に損はしない。たとえ五年を棒に振っても、それ以上の報酬を払っていると僕は思っている」
「確かにその条件ならそうだろうな」
 問題は何をさせるか、ということだ。五年間、ストレスに耐え続けて最終的に倒れてしまっては意味がない。
「まあ、それなら聞くだけは聞くが、話を聞いてしまうと断れなくなる、っていうことはないだろうな?」
「まずモノを実際に見てもらってから、内容の説明をする。依頼を受けるも受けないも本当に自由で、やりたいと思ったらやってくれればいいし、やりたくなければ断ってかまわないよ」
「分かった。その条件でいこう」
「ありがとう。それじゃあ、早速行こうか」
 二人は飲みかけのコーヒーを後にして、店を出る。
 そのままタクシーを呼んで乗り込むと行き先を告げる。乃木の言った場所は名刺の住所と全く同じだった。
 そのまま十五分タクシーに揺られてついたところは普通の一軒家だった。
 中に入ると、彼の娘だろうか、上品そうな女性が出迎えて一礼する。
「旦那様、この方ですか」
 さすがに娘は『旦那様』とは言わないな、と認識を改める。まだ二十代なのは間違いない。綺麗な外見をしている。
「天野悠斗くんだ。ご挨拶しなさい」
「はい。始めまして。私はここに勤めている白坂環といいます」
「はじめまして。天野悠斗です」
「まだ、これから行う内容はお聞きになってないんですよね?」
「ええ、まあ」
「そうですか。がんばってください」
 不安を駆り立てる物言いだ。いったい何をさせるつもりなのか。
 そうして二人の後についていく。建物の地下が研究所らしい。怪談を下りて、電気をつける。
「ここが『異世界』を研究する場所であるということは言ったね」
「聞いてはいないが、名刺を見れば想像はつく」
「ああ。これを、見てくれるかな」
 大きなカプセルがその部屋の中央にある。上部は透明で、中が見える。
(まあ、予想通りだな)
 中に入っていたのは人。それも女の子だ。大きさは百五十センチもない。
「これが見せたかったモノか?」
「そうだよ。可愛い子だろう?」
 カプセルの中は液体で満たされている。当然オールヌード。少しふくらみかけた胸もはっきりと見える。
「犯罪だろこれ」
「いや、犯罪ではないよ。何しろこの子には戸籍がないからね。戸籍のない者をどう扱ってもこの国では犯罪にならない」
「おい、そういう問題じゃないだろ」
「大丈夫。君の言いたいことは分かる。別に我々は好きこのんでこの女の子を実験材料に使っているわけじゃないよ。こうしておく必要があるからだ」
 必要とは大げさな。
「なんかの病気でここに入れられているとか?」
「かなり遠い」
「クローン実験とかいうわけでもないよな」
「全然違う」
 こほん、と乃木は咳払いを一つして言う。
「この女の子は魔王。現在十四歳。君にはこれから五年間、この子を育ててほしいんだ」
「すまん、日本語で頼む」

 頭痛がした。







【B】

もどる