「私をラブホテルに連れ込むつもりね」
「俺は青少年保護育成条例で捕まりたくはない」






【2】







 猛暑日。
 首都圏ではエアコンがなければ生きていくことができないと言われているが、実際にはそんなことはない。どうしても我慢ができない日は涼しいところへ移動すればいい。問題は熱帯夜になったとき。さすがに夜になって涼しい場所を見つけるのは一苦労だ。昼ならスーパーでもカラオケでもいくらでも方法があるが、夜はどうにもならない。
 二人がこのマンションに引っ越してきて一ヶ月が経つ。今年の七月下旬は尋常ではない猛暑日が続いた。三十五度を超えるとさすがに溶ける。そんな日が連日続く。
 悠斗は流れ出る汗をぬぐうのも億劫で、ただ椅子にじっと黙って座っている。まだ午前九時。既に気温は三十三度。今日は危険だ。
「今日はどうするつもりだ?」
 涼しい顔で、汗だくになっている真央が正面から尋ねてきた。
「お前、顔だけは涼しそうなのな」
「暑いときに汗をかかないのは健康上問題があると思うぞ?」
「その通りだ。だから今、こうして俺たちは大量に汗をかいている」
 このままいけば正午になる前に三十五度を超えるだろう。そうすると午後からはおそらく地獄。
「一つ聞きたいのだけれど」
「なんだ」
「どうしてそこのエアコンは動かないんだ?」
「壊れたからな」
「理由は?」
「知るか。業者もここ数日、あちこち借り出されてうちに来るのはまだ当分先だ。うちの修理は明後日」
 そう。
 エアコンがあるからこの夏は大丈夫と思っていたのも七月中旬まで。それまで快適に動いていたエアコンは、二十日を超えてからぱたりと止まって動かなくなった。
 すぐに修理を依頼したのだが、あいにく二十七日まではどこも業者がうまりきっているらしい。一週間休みなし。業者も大変だ。
「今日はどうする?」
「家にいたら死ぬ。あと少ししたら出かける」
「出かけるといってもどこへ?」
「いいところだ」
 そう言うと、真央はこの暑さの中、冷ややかな視線を向けてきた。
「私をラブホテルに連れ込むつもりね」
「俺は青少年保護育成条例で捕まりたくはない」
 どっと疲れる。暑いときに疲れるやりとりはしたくない。
「いいところというのはそういう意味ではないのか?」
「どれだけ間違ってもお前とだけはいかないから安心しろ」
「それはそれで、私のプライドが傷つく」
 むぅ、と頬を膨らませる。
「あなたがあまり露出の多い服を着るなというから、こうして服も肩が出ないものを着ているのに」
 そんな彼女の今日の服装は、首まわりがぴったりしているピンク色にイラストがプリントされているTシャツに、下は膝丈の薄緑色のズボン。
「涼しいところに行くからな。下は足首まであるズボンに、上はそのままでもいいが長袖を用意しておけ」
「着なくてもいいの?」
「今着たら死ぬ。まだ慌てる時間じゃない」
「その言葉はよく聞くのだが、あなたの口癖か?」
「いや、最近はやっている言葉だ。あとそれから」
 おそらく持っていないことは分かっていて尋ねる。
「手袋は持っているか?」
「手袋?」
「ないか」
「当然」
「軍手でもいいんだが……まあ、現地で買うか」
 そう言って立ち上がる。自分は手袋を持っている。それを準備しなければ。
「あなたは手袋を持っているのか?」
「そりゃ、二十四年も生きてればな」
 真央の顔が険しくなる。
「おそろいがいい」
「は?」
「あなたと一緒のがいい、と言っているんだ」
 なかなかわがままな娘だ。が、まあそれくらいのわがままなら可愛いものだ。
「いいぞ。なら現地で二人分買おう。どうせ高い買い物じゃない」
 そう言うと真央はあっさりと破顔する。
「ありがとう」
 素直に『ありがとう』を言える純粋な娘は最近珍しいだろうな、とそれを見て思った。






 まずは買い物。高温状態の車はキーレスエントリーとスターターがついている。家の窓から駐車場に向かって無線スイッチを押すときちんとエンジンがかかって冷房がつく。それから歩いていって、少し涼しくなっているくらいだ。
 いつものように真央を助手席に乗せて発進。ここ数日はたいてい十時に出発して、あちこち涼しいところを捜し求めてさまよっている。それでも夜は暑くて安眠できずにいる。
(今日あたり、研究所に襲撃をかけてもいいかもしれないな)
 あの研究室なら冷房が入っているだろう。今日の夜はそこに泊り込むことに決めた。
 さて、車は近くのデパートに入る。さすがにデパートの中なら充分涼しい。既に夏休みに入ったこともあって、子供連れの家族などもいる。さすがに七月中旬までは真央を連れて出歩くのも大変だったが、この時期はそういうことを気にしなくてもいいので助かる。
「海、山、キャンプ、バーベキュー、花火。面白そうなものがたくさん」
 涼しい顔できょろきょろあちこちを観察している。ここ最近デパートに来れば彼女はいつもこんな感じだ。
「そういえば明日は隅田川の花火大会だな」
 真央の耳がぴくんと跳ねた。
「花火大会?」
「ああ。隅田川の花火大会は有名だからな。かなりの人手になる」
「行きたい」
「そうだな。どうせ家にこもっていても暑いばかりだ。それなら──」
 ふと、そこで名案が浮かぶ。
「浴衣でも着てみるか」
「ゆかた?」
 普段、無表情な真央が目を輝かせている。
 この一ヶ月一緒に暮らしてきて、ここまで興味を示したのは初めてかもしれない。
「浴衣というのは、こう、綺麗な絵柄で上下セットになっているあの着物のことか」
「そうだ。帯で留めるやつだ」
「そしてあなたが帯を引いて、私が『あーれー』と言うんだな」
「お前に時代劇を見せたのは失敗だった」
 ため息をつく。
「俺も詳しい着付けとかを知っているわけじゃないからな。ちょうど今日研究所に行くし、環に聞いてみるとするか」
「いいのか」
「日本人として、祭も花火も参加するのは当然だからな」
 そう言いながらもあまり本気というわけではない。そうあるべきだ、という観念だけがあって、積極的にそうしたいという意欲まではない。
「そのかわり、今日のテストでいい点数が取れたらだ」
「む。でも、悠斗が暑いから勉強はしなくてもいいと」
「今日は涼しいところに行くんだからできるだろう。国語、数学、英語の三科目で全科目百点中八十点が基準」
「ふふ、中一レベルのテストならもうそれくらいは取る自信はある。社会と理科はまだまだだけど」
 自信ありげに真央が笑う。なるほど、それなら中一レベルの少し難しい問題を集めてもいいかもしれない。
「三科目はもう中二を教えてもよさそうだな。たった一ヶ月でよくできるようになったものだ」
「悠斗の教え方がうまいんだろう。正直、ここまで要点を教えてくれると私も理解しやすい」
「大学のときのアルバイトが役に立ったな」
「アルバイト?」
「塾講師。だいたいどの科目も教えていたから、受験知識は無駄に持っている」
「なるほど。あなたの説明が上手なのは、そこに理由があったのか」
 うんうん、と頷く真央。納得したところでさらに足を進める。
 結局何を買うというわけでもなく、地下の食品街でソフトクリームを買って、食べながら駐車場へ戻る。戻る途中でスターターをかけておいたが、やはりそれでも車内は暑い。
 時間は十一時過ぎ。今から移動して、食事でもすればちょうどいい時間か。
「到着するころには十二時前後だな」
「どこに行くんだ?」
「いいところだと言っただろう」
「それでは分からないもの」
 むぅ、とまた膨れる。
「悠斗は秘密主義すぎる。ずるい。ひどい」
「いきなり株価が急落だな」
 苦笑した。まったく、自分を飽きさせない娘だ。
「すぐに分かる。到着すればな」
 そうして車が発進する。真央は膨れたままだ。機嫌を直すために、最近購入したばかりで真央も気に入っているB’zのベストアルバムをかける。
「そういえば、一昨日のカラオケ、お前随分歌うまいんだな」
「そうか? 比較対象がないからよく分からないが、確かにあなたよりは上手い自信がでたけど」
「俺は歌は好きじゃないんでな。気に入ったならまた連れていってやる」
「ありがとう。歌うのは楽しいから好きだな。歌詞に自分の気持ちを込めるともっと楽しくなるし、せつなくもなる。音楽というのは、いいな」
 なかなか詩人なことを言う。
「お前くらいの美形なら、芸能界デビューしてもうまくやっていけるだろうな」
「芸能界というと、あのテレビの中のような?」
「そう」
「正直、私の入っていくような場所ではないだろう」
「ま、そうだろうけどな。でもお前なら人気出ると思うよ」
「知らない人からの人気なんていらない」
 そうしてようやく彼女は機嫌を取り戻したようだった。
「悠斗が私を見ていてくれたら、それでいい」
「そりゃまた、光栄すぎる告白だな」
「本気だ。私は悠斗のおかげで自我を持つことができたし、こうして楽しいことをたくさん教えてもらって、毎日楽しんでいられる。何もかも悠斗のおかげだ」
「こっちも同じだ。お前のおかげで毎日楽しんでいられるからな」
 ようやく機嫌が直ったお姫様を連れた車は、郊外の敷地に入り込んでいく。そこに一つの建物があって、その駐車場に止まった。時間は十一時四八分。この敷地内にレストランがあって、そこで食事をすればちょうど開園時間の十二時半になるだろう。
「……スケート?」
「そうだ」
「悠斗はおかしい」
 いきなりおかしい呼ばわりされる理由はない。
「何故」
「スケートというのは、冬にやるスポーツではないのか?」
「それは認識の違いだな。冬にやるやつは多いだろうが、俺は冬にスケートはしない。スケートは夏するものだと思っているからな」
「そうなのか? でも、私のデータベースにはウィンタースポーツとして登録されている」
「お前、自分が機械みたいな言い方するのやめろ」
 こつ、と頭を軽く叩く。
「とにかくやってみればわかる。その前に、ちょっと暑いが食事にしよう。開園が十二時半だからな。ちょうど昼飯の時間だ」
「全面的に賛成。外食になるがいいのか?」
 実は今日になるまで、外食は一切していない。全て自分の手作り。必要があれば握り飯を作って用意していくほどの周到さだった。
「いかに俺の料理が上手いか、身をもって知れ」
「……そう言われると、食べる気がなくなるな」
「大丈夫だ。けっして食べられないほどの味じゃない」
 そう言ってレストランに入る。申し訳程度のクーラー。出される氷水は既にコップに水滴がついている。
 適当にメニューを頼んで食事。案の定、真央は顔をしかめた。
「味が濃すぎる」
「そういう味付けだからな」
「悠斗の方が美味しい」
「そう言ってくれれば作ってる甲斐があるな。そろそろお前も料理ができるようになれ」
 そうして食事が終わる。八分目といったところだ。
 同じように時間まで食事をしていた他の客たちも、徐々に動き始める。とはいえ、せいぜいカップルが何組かと、子供づれの家族が一組という様子だった。
「さ、行くぞ」
 長袖のシャツはお互い体にしばりつけている。
 建物の中に入ると既にひんやりとしていて、さっきのレストランより涼しい。
「うわ、寒い」
「これから二時間、ここにいるからな」
「凍えるんじゃないのか」
「だから長袖が必要なんだよ。というか、長袖は転倒したときの怪我防止の意味もあるけどな」
 入館料を払い、シューズを借りる。そして無地の手袋を二つ買う。自分が青、真央は赤だ。
「おそろいだな」
 本当に嬉しそうに言う。これが恋人とかに言われるのだったら相当嬉しいだろう。
 シューズをはいて、ヒモをしばって立ち上がる。
 が。
「おい、何してる」
「おかしい」
「何が」
「人間はこんな薄いものの上にどうして立てるんだ?」
「バランス取ってるからだよ。ほら、教えてやるからさっさと立て」
「う、うん」
 おもいきり力を込めて立ち上がる。膝ががくがくと笑っている。
「五歳の子供でも、もう少しバランスがよさそうだな」
「はじめてなんだぞ」
「はじめてやる子供でももっとバランスがよさそうだと言ってるんだ」
「私は魔王なんだから、スケートなんかできなくてもいいんだ」
「都合のいいときだけ魔王になるな。自覚もないくせに」
 リンクに先に降りて、真央の体を持ち上げて、氷の上におろす。
「うわ、わ、わ、わ、わ」
 両手をぐるぐると回す。完全に動揺している。面白すぎる。
「ほら、手、出せ」
「わ、わ、悠斗。これは、これ」
 両手をつかんで、ぜーぜーと息をついている。この調子で大丈夫なのか。
「すごい。氷の上に、二枚の刃で立っている」
「刃言うな」
「右は雷鳴の剣、左は吹雪の剣だ」
「お前しばらくゲーム禁止な」
 買い与えたDSが失敗だったか。まあ、ゲームばかりしている真央ではなかったが。
「じゃ、まずは壁に沿って一周歩いてみるか」
「傍にいてくれるんだよね。私を置いていったりしないよね」
「すぐ隣にいてやるから安心しろ」
「う、うん」
 そうして真央は左回りにゆっくりと歩き出す。滑り出す、という段階まではまだいかない。
 壁にはきちんと手すりがついていて、それに捕まりながら歩いていくことができる。まったく、初心者に優しいリンクだ。
「どうだ?」
「涼しいな。この猛暑にこんな涼しくていいんだろうか」
「それに空いてるだろう」
「うん。こんなに涼しいんだから、みんなくればいいのに」
「俺もそう思う。でも、普通はみんな夏といったら夏にしかできないことをしたがるんだ。海とか山とかな」
「確かに冬に泳ぐのは難しいだろうな」
「でも毎日泳ぐ必要もない」
「同感」
「なら一日二日、スケートをしても問題はないだろう?」
「まったく悠斗が正しい。あなたは賢いな」
「いや、ただここだと有意義に涼めるっていうのを大学時代に知っただけだよ。そして世の中では意外にスケートを夏にやる人はいない。おかげでこれだけ広いリンクを使い放題だ」
 客などせいぜい二十人ちょっと。貸切に近い。
「午前中の時間は小学生のアイスホッケーチームが使ってるんだが、午後からは定休日以外、一般開放してるんだ」
「うん。すごい。これは夏のレジャースポットとしては穴場だ」
「そこで質問。スケートは夏と冬、どちらにやればいいと思う」
「夏。涼しいし、何といっても空いているから誰かにぶつかる心配をしなくていい」
「そういうこと。納得してくれて嬉しいよ」
 すると真央は足を止めて見つめてきた。
「なんだ?」
「悠斗が嬉しいと言ったのは、初めて聞いた気がする」
「そうだったか」
「そうか、なるほど。悠斗は自分の考えを認めてくれる人が好きなんだな」
「それは人間、誰でもそうだと思うが」
「いや、あなたはその傾向が他の人より強い。それは強く自分を持っているからだ。なるほど」
 深く頷いている真央。
「何だ?」
「いや、あなたにもっと好かれるにはどうすればいいか、検討していたところだ」
「そんな無駄なことはしなくていいからさっさと進め」
「了解」
 真央は言ってまた歩き出す。滑れるようになるまでは、まだ時間がかかりそうだった。







【3−A】

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