「あまりの精神的暴力に、顔を上げることもできない」
「それだけ口がきけるなら大丈夫だ」
【3−C】
次の目的地は多和平展望台。道東を回ることにして二人で決めた目的地の中、絶対に外せないと決めたのがこの場所だ。
三百六十度、地平線が広がる大地。
その圧倒的なスケールを見るためにこの旅行が企画されたと言っても間違いはない。
「けっこう遠いね」
目的地に向かう車の中で、緊張しながら真央が言う。
地平線を見るためには、まずその中心部までいかなければいけないわけで、それはもう長い道をドライブしなければたどりつくはずがない。
「さ、見えてきたぞ」
二人の目指す先に、とうとう展望台と駐車場が見えてくる。
「わ、バイクがいっぱい」
「まあ観光スポットだし、学生はまだ夏休みが続いてるだろうから、北海道巡りをする奴もいるだろ。キャンプ場もあるからテントを立てれば好きなだけいられるし、周りに何もないからきっと夜は星の海が見られるな」
「すごい」
わくわくとその表情が訴えている。駐車場に車を停めると、いつもより少し早い動作で車を降りる。
「早く行こう」
真央が手を取って歩き出す。
「少し落ち着け。景色は逃げない」
「私の気持ちが逃げる。落ち着いていられるか」
やれやれ、と思いながら足を早める。そして展望台に上った。
「うわぁ」
真央は、ぐるり、とまず自分が一回転。本当に見ていて飽きない。
北には摩周岳や藻琴山といった起伏が少し見えるが、その稜線も地平線の一部のようなもの。特に東から南にかけては、本当にただ一本の直線。
「すごい。すごい、すごい、すごい」
目を輝かせて、せわしなくあちこちに目を向ける真央。
(連れてきて良かったな)
これだけ素直に感動されたら、北海道まで来てよかったと本当に思える。
「写真取ろう、悠斗。写真!」
「分かったから、あまりはしゃぐな」
とはいえ二人で映るには当然、誰かにシャッターを切ってもらわなければならない。
「よし、いいか、真央。教えたとおりにするんだぞ」
「うん」
昨日の夜、多和平で最初の記念写真を撮ることに決めた。
その際、一つだけ真央にやってもらうことがあった。
それは。
「あ、あの、すみません」
緊張で、少し声が上ずっているのが分かる。
「はい?」
話しかけた相手は、若い女性だった。学生だろうか。
「写真を撮ってもらえますか」
緊張でいっぱいの真央を見て、女性はにっこりと微笑んだ。
「ええ、いいですよ」
女性は真央からデジカメを受け取る。
「どちら側にしましょうか?」
「えーと、こっちで」
地平線が直線に見える東側を選択。
「ほら、悠斗、早く」
こうした、見知らぬ人との触れ合いが、少しずつ真央を育てていく。自分以外の人間と話すことで、コミュニケーションの取り方を覚えていく。
「いきますよ……はい!」
真央は自分の腕を組んで、綺麗に笑っていた。
「どうですか?」
撮った写真をその場で確認し、真央は笑顔でありがとうございますと答える。
「仲が良いんですね。ご兄妹ですか?」
「はい。お姉さんは一人なんですか?」
真央から積極的に話しかけている。そこまで昨日、指示してはいない。
「ええ。本当は恋人と二人で旅行する予定だったんだけど、ふられちゃって」
くす、と笑いながら女性が言う。
「あなたのお兄さん、見た目もいいし、もし付き合ってくれるなら嬉しいけど」
「って言ってるけど、どうする?」
真央が振り返って尋ねてくる。苦笑して答える。
「すみませんが、妹の面倒を見るので精一杯なんです」
当たり障りのない言葉で言う。すると女性もくすっと笑った。
「妹想いのいいお兄さんですね」
「それほどでも」
「でも、分かります。いい妹さんですから」
すると女性は真央の頭を優しく撫でる。
「お名前は?」
「天野真央です。真実に中央で、真央」
「真央ちゃん、か。いい名前ね」
「ありがとうございます。お姉さんは?」
「私は藤代みやこ。ひらがな三つでみやこよ」
「みやこさんは、これからどうするんですか?」
「今日は釧路に泊まる予定よ」
「それだと、完全に逆方向ですね」
「じゃあ、このまま北上?」
「はい。摩周湖に行って、今日は網走に泊まります」
「そう。今日の摩周湖は霧がかかってなくて、良かったわよ」
「楽しみです。ここもすごくいいところだったし、北海道の自然ってすごい」
「そうね。私も、純粋に景色だけを楽しめたらよかったんだけど」
そう言ってみやこはもう一度景色を見た。
「ここは私にとって、思い出の場所なの」
「多和平がですか?」
「ええ。人には、決して忘れることのできない場所っていうのがあるのよ。それは景色がいいっていう理由じゃない。そこにどんな思い出を置いてきたか、それが大事なのよ」
「思い出……」
みやこは笑うと、真央の頭を撫でた。
「いい女になりなさい」
そしてさらに口を耳に近づけて、何やら言う。自分には聞こえてこなかったが、それを聞いた真央が驚いて声を上げた。
「え、いや、私はそんな」
「いいのよ。お姉さんからのちょっとした忠告だと思ってくれれば」
そしてみやこが自分の方を見つめてくる。
「本当にいい妹さんですね」
「どういたしまして」
「もう会うことはないでしょうけど、もし会えたら私、真央ちゃんとお友達になりたいわ」
「真央も喜ぶと思います」
「ふふ、ありがとう。あなたのお名前は?」
「天野悠斗」
「悠斗さんですね。またお会いできる日を楽しみにしています」
そう言ってみやこはぺこりと頭を下げると、展望台を降りていった。
「何を言われたんだ?」
「え、いや、たいしたことじゃないんだけど」
だが、真央にしては珍しく言いよどんでいる。
「なんだ?」
「いや、お兄さんのことが好きなら、兄妹であることなんか気にしたら駄目よって」
そう言って、真央がじっと見つめてくる。
「何を馬鹿なことを」
「うん。でも、変わった人だったな」
もう女性の姿はない。が、真央はその女性のことを思い返して言う。
「今度会えたら、ゆっくりとお話したい」
「俺以外の人間に興味を持つようになったか。いい傾向だ」
そして真央の頭をぽんと撫でる。
「さ、行くぞ。次は摩周湖だ」
「うん」
「摩周湖……マイカー制限?」
その途中の道。摩周湖展望台へと向かう道は、交通制限がされていた。それも期間限定らしく、ちょうど二週間だけ環境対策としてマイカー利用に制限をかけたらしい。
「ここで車を停めて、みんなでバスで移動するみたい」
「すっかり団体の観光ツアーだな」
愚痴をこぼしていても仕方がない。バスはもうすぐ出発するということで、二人は急いで車を駐車場に停め、バスに乗り込む。
平日とはいえ、観光客は多い。かつて道東でもっとも有名だった観光地は今でも人気が高い。世界遺産となった知床よりも摩周湖の方が人が多いのではないかと思わせるくらいに。
バスでの移動はそれほど長い時間ではない。だが、バスいっぱいの人間が十台以上の車で展望台に行くよりは、途中からバスで移動した方が環境にいいということは理解できる。だが、問題が残る。
「そういう時代だっていうことだな」
「環境のことか?」
「ああ。本当ならそのまま摩周湖の第一展望台と第三展望台を見て、そのまま北に抜けるつもりだったんだがな。迂回する必要ができたから、余計に燃料がかかる」
摩周湖展望台へのルートは、北の川湯側から来るか、南の弟子屈側から来るかのどちらかだ。途中で車を停めたなら当然、一度そこまで戻らなければならない。Uターンするなら確かに環境に優しいのだろうが、南から来て北に抜けるつもりだとしたら、逆に燃料がかかる。
「一度南に戻って国道に出て、それからまた北上だ」
「無駄なことするんだね」
「摩周湖が寄り道だっていう人間のことを考えてくれればいいんだがな。逆方向に抜ける車はそのまま通行させてくれた方が無駄がない。多和平みたいに展望台へのルートが一本しかなければ効果的なんだろうが、これでは逆効果になりかねないな」
一度戻らなければならないから時間の無駄。さらにそこから国道まで戻るから燃料の無駄。そして余計に自動車を走らせる分、二酸化炭素の排出量も増える。それではせっかく規制している意味がない。しかもバスは一日七百円。高い。
「だから二週間の『実験』なんだな」
「これで問題点が見つかれば、それをどう解決すればいいかを考えればいいってことだよね」
「ああ。実際、摩周湖まで来てそのままUターンして帰る人間と、そのまま通り抜けて次の目的に向かう人間と、どちらが多いのか統計を取った方がいいんだろうな」
と、ぶつぶつ文句を言っている間にもバスは摩周湖に到着する。
「すごい、青い!」
「湖だからな」
無論、ただ青いというわけではない。摩周湖といえばその透明度。かつては世界一位であった透明度も現在ではせいぜい水深二十メートル。四十メートルも見えたのは、はるかな昔のことだ。
とはいえ、水は澄んでいて非常に美しい。
「写真を撮ろう」
「ああ。ほら、誰かにお願いしてこい」
真央は頷いて、三人組の男子学生に声をかけ、写真を撮影してもらう。そのかわりに向こうの写真も撮ることになり、お互い写真撮影をしあうことに。
「みんな、普通に優しいんだな。みやこさんもそうだったけど」
「旅先では誰でも親切にするものだ。まあ、今の三人は明らかに残念がっていたけどな」
苦笑しながら言う。
「残念?」
「ああ。せっかく美少女が近づいてきたのに、男つきだったからな」
「美少女。私のことか?」
「他に誰がいる」
「そうか。私は美少女と悠斗から判断されているわけか」
うんうん、と真央が頷く。
「何を納得している」
「いや、悠斗は私をなかなか女扱いしてくれないから、もしかしたら私の見てくれがそんなに悪いのかと疑問に思っていたところだったんだ」
「思ってもいないことを言うな」
ため息をつく。
「みやこさんが言っていた。忘れることのできない場所っていうのは、そこにどんな思い出を置いてきたかなんだって」
「ああ、言っていたな」
「だったら私はきっとこの景色を忘れない。悠斗が私を美少女と言ってくれた場所だからな」
いい笑顔だった。
出会った頃は、感情の起伏はあってもあまりそれを外に出すことはなかった。だが、最近はどうだろう。よく話すし、よく笑う。もちろん以前の、人形のような能面になることも多いが、自分と話すときはこうしてころころと表情が変わるようになってきた。
「なら、もっと思い出を深くしてやろう」
「え?」
「お前の、笑っている顔は、可愛い」
すると、一瞬で真央の顔が真っ赤になった。効果は抜群だ。
「ま、待った」
手を上げて、真央はうつむく。
「どうした」
「あまりの精神的暴力に、顔を上げることもできない」
「それだけ口がきけるなら大丈夫だ」
さて、ともう一度摩周湖を見る。
「第三展望台に行くバスがもうすぐ出るそうだが、そろそろ行くか」
「次のバスにしてほしい。ちょっと立ち直れない」
もう完全に反対を向いて、こちらに顔を向けようともしない。
(思い出か)
いつか、今日のことが思い出になる。
(五年後。俺たちは笑って別れることができるかな)
異世界に送り返される魔王。それを笑って見送ることができるほど、自分が大人になれているだろうか。
【3−D】
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