「世界の終わりを見たくない?」
「ひどく物騒な話題だな」
【11−D】
その夜は真央とみやこが寝室で遅くまで起きていたのは知っていたが、自分はロフトで早々に眠りについた。話の内容は気になったが、後から聞けばすむことだし、真央が何も言わないならそれでもいいだろう。
翌朝は朝食を食べた後にすぐ出発。続いて向かったのは野付半島。
「世界の終わりを見たくない?」
「ひどく物騒な話題だな」
だが、そのフレーズは真央に興味を抱かせた。
「世界の終わりって、どういう意味なんだ?」
「簡単よ。生き物がいなくなった世界。その縮小版を見ることができるわ。すごく寂しい風景で、すごく悲しい風景」
「見てみたい」
真央はかなりの強い意志を持って言う。真央が何を考えたのかはよく分かる。もしも真央が魔王となってしまったなら『世界の終わり』が現実になるかもしれないのだ。
「それじゃ、一時間くらいかしらね」
そうして宿を出てさらに東へ。運転して一時間もしないうちにオホーツク海に出る。日本海や太平洋と何かが変わるというわけでもないが、オホーツクまで来るとやはり『日本の最果て』を感じさせる。別に景色が特別ということはないはずなのだが。
車は野付半島に入る。他に車はぽつりぽつりとしかいないが、それでも観光ポイントには何台かの車が常に止まっている。
「観光客って少ないのかな」
真央がぽつりと呟く。
「少ないわね。知床の方になるとかなり多いんだけど、そこから南へ来ても見所が少ないもの」
「じゃあどこに行くんですか?」
「知床から西に向かえば摩周湖、美幌峠というところかしらね。あとは旭川まで行って動物園」
「やっぱり広いんですね」
この辺りから旭川まで行くとしても軽く二百キロを超える。
「そうね。でも、だからこそ隠れた見所が多いっていうことでもあるけど」
「野付半島もそうなんですか?」
「ええ。私がとても好きな場所。寂しくて悲しくて、心がつぶれそうになるけれど」
変わった趣味をしている女性だ。彼女の人生にいったい何があったというのか。
「さて、ここよ」
そうして車を止めた場所は、野付ネイチャーセンターと呼ばれる施設だった。
「何もないな」
確かに寂しい原野になっているが、それでも世界の終わりというには程遠い。
「ここから移動するのよ」
「ここから?」
「ええ。馬車があって、それで移動していくのよ。歩いても行けるけど、せっかく来たなら馬車に乗らなきゃもったいないでしょ?」
そうしてみやこが自分たちを連れて建物脇の場所へ向かう。そこには黒、白の二頭の大型馬、いわゆる道産子がつながれていた。
「乗りたいけどいいかしら。出発は?」
「もうすぐだよ」
馬につながれた馬車には十人以上が軽く座れるスペースがあった。みやこが乗っていくので、自分たちもそれに続く。
「大きな馬だな」
先頭に座った真央が、窓から見える馬を見つめる。
「帰りに写真を撮りましょうか」
「うん、そうする」
真央はあまり表情には出さないが好奇心は強い。見たものからいろいろなことを考えるのは初めて出会った頃から変わらない。
やがて出発の時間となったが、他に乗客がいなかったため、三人だけの乗車となった。
「貸切だ」
「私も初めてよ。たいていは二、三組乗っているんだけれどね」
そうして馬車がゆっくりと動き出す。あまりスピードは早くないが、それでも歩いている人よりは充分早い。
「それで、何という場所なんだ?」
落ち着いたところでようやく尋ねる。
「トドワラ」
「トドワラ?」
「ええ。寂しいところだからあまり観光客も少ないけれどね。昔、この辺りは針葉樹の原生林だったのよ。そこに海水が流れ込んできて浸食されていった。トドワラは、トドマツ原生林の成れの果て。植物の墓場よ」
それを聞いただけでも確かに寂しそうな感じがする。
「怖いな」
真央がまったく怖がらずに言う。いや、怖いのかもしれないがそれを表情に出すような真央ではない。
「大丈夫よ。ただの、枯れ木だもの」
そうして馬車が徐々に目的地に近づく。遠くからだとよく分からないが、徐々に枯れ木の数が少なくなっていくのは分かる。
「これは」
「なるほど、墓場だな」
あちこちに倒れて、白く枯れてしまっている木。ほとんどはその場で朽ちてなくなり、そこにかつて木が生えていたという跡だけが残っている。
「一本だけ、立ち枯れのまま残っている」
「あれも近いうちには倒れるわよ。浸食は年々進んでいるもの。でも、木が残っていた方が世界の終わりの感じが強いのよね。ただの原野なら、本当にただの広い場所だものね」
まったくみやこの言う通りだった。枯れた木がこの寂寥感を強くしている。ただの原野に見所はないのだ。
「行ってみましょうか」
そうして遊歩道を進む。少し高いところに作られているのは満潮時にそこまで水が入り込んでくるということなのだろう。つまり、この辺りの枯れ木たちは満潮になるたびに塩水に浸かることになる。それなら浸食も早い。
「それでも、夏になったら草が生えてくるのよ。こんな場所でも自然は育つの」
今はただのむき出しの土だ。
「自然は強いんですね」
「強いわよ。倒れても倒れても、新しい命が生まれてくる。人間と同じね」
「人間と同じ……」
真央がその景色を食い入るように見つめ、そして頷く。
「悠斗」
真央が手を伸ばしてくる。その手をとって強く握った。
「それじゃ、お二人さんごゆっくり」
みやこはまた距離を置く。わざわざ気を使わせているが、これはやむをえないところだった。
「悲しい風景だ。私はこんな世界に変えてしまうんだろうか」
「お前はそうはならない」
「でも、私の中にいる魔王はするかもしれない」
「お前は魔王にならない。何度でも言う。お前は、魔王に、ならない」
もう片方の手で真央の頭を撫でる。いつもはこれで笑顔を見せる真央も、今回ばかりはそうもいかなかった。
「私は自分が怖い」
「そうだとしたら、お前と一緒にいる俺はどうなるんだ」
「悠斗はちょっと変わっている」
「そういう口をきけるくらいには余裕がありそうだな」
「まあ。いずれにしても三年後のことだから」
今はまだ、残された時間をゆっくりと使えるのだから。
「私は魔王になるくらいなら、一思いに殺してくれた方がいい」
「否定はしないが、そうはならないし、させないさ」
「悠斗が約束してくれるんだから、私もそうだと信じている。でも最悪の事態だけは防がないといけないからな。魔王の復活だけは、絶対にさせない」
「同感だ」
「私の意思で魔王にならなくてもいいのなら簡単なのに」
ふう、と真央は息をつく。
「私は誰も殺したくない。麻佑子や笑美は大切な友達だ。みやこさんは私にすごく優しくしてくれる。それに、悠斗も」
「光栄だな」
「悠斗はもし私が魔王になってしまうならどうする? 殺してでも止めるか?」
「そうだな……」
ここで真央を安心させるようなことを言わなければ、深く傷ついてしまうのは分かっている。
真央が望む答は分からないが、それでも自分の今の気持ちを伝えなければならない。
「全力を尽くして、どれだけ方法を探して、それでももし駄目なら、お前が魔王にならなければいけないのなら」
「うん」
「それは俺の責任だ。俺がお前を助けられなかったということだ」
「それは」
「いや、それが最初に乃木とかわした話だったからな。俺はお前を本気で助けようと思ったし、そのために自分の人生を全て費やしてもかまわないと思った。だから俺はお前と一緒にいる。だから、もしお前が魔王になるのなら、その前に俺が責任をもってお前を殺す。月並みな台詞で申し訳ないが、お前を殺して、俺も死ぬ」
「悠斗」
「お前が生きているなら、別れた後でも生きていけるかもしれないが、お前が死んでしまうのなら俺が一人で生きていてもこの先の人生、後悔に満ちたものになるだろう。だから俺は俺のために、そしてお前のために今を全力で生きている」
「もしかして、悠斗。私を引き受けない方が──」
「出会った以上、知ってしまった以上、避けては通れないことだったさ。それから、何度も言わせるな。俺は、お前にいてほしいと思ったから引き受けたのだと。そして今では」
「今では?」
「俺にとって、一番必要な存在だ。失うわけにはいかない」
言い切ると真央がようやく微笑んでくれた。
「あなたは本当に、女を喜ばせるのが上手だ」
「そいつはどうも」
「もし私に期限がないのなら、あなたの恋人になるのもいいと思った」
それにはさすがに顔をしかめた。
「恋愛感情があるのか?」
「分からない。ただ、麻佑子が」
「境さん?」
「麻佑子は悠斗のことをとても気に入っていた。私がいなくなった後、麻佑子が悠斗の傍にいてくれたら、と思っていた」
「それはまた、急な展開だな」
「麻佑子には言うなよ」
「言わないし、相手もそんなことは期待していないだろうな」
「私はそれでもいいと本当に思っていたんだ。ただ──」
「ただ?」
「みやこさんが悠斗に近づいていたときは、少し嫉妬した。これは恋愛感情だろうか」
「兄を取られる妹の心情かもしれないぞ」
「それは普通、兄を祝福するところではないのか?」
「さあな。俺には妹がいないから分からんが」
「ただ、私はみやこさんが本当に好きだ。だからみやこさんと悠斗が──」
「それはない」
断言した。
「どうしてだ?」
「お前はみやこさんのことを気に入っていても、俺はあの人は苦手だ」
こちらの急所を知っていて、あえて狙ってこない。そんな腹の探りあいのような関係はごめんだった。
「そうか。でも、いずれ私がいなくなったら悠斗も誰かときちんと結ばれないといけない。そこはどう考えているんだ?」
「お前がいなくなるまでは考える必要がない。今の俺にはお前がいるからな」
真央が盛大に顔をしかめた。
「その言い方は卑怯だ。嬉しくて照れる」
「それはそれは」
「悠斗、私をいじめて楽しんでいないか?」
苦笑した。そんなことがあるはずがないのに。
「そろそろ戻るか」
「うん。ありがとう、悠斗」
「どういたしまして」
こうして会話は終わる。真央は安心したようで、機嫌がすっかり戻っている。
(別れがたくなるとは思っていたが、二年でこれから。あと三年もあるのにな)
いや、三年しかないというべきか。これから先、時間が経つにつれて情が深くなり、相手と別れがたくなる。
本当に、三年後の自分たちはどうなっているのだろう。自分にとっての不安は、目下それが一番だった。
野付半島を出てオホーツク海沿いの国道を北上。そのまま世界遺産、知床半島へ到着する。北海道まで来ていて世界遺産を見ないなんて北海道に対して失礼だ、というみやこの不思議な説明のまま運転してきた。
世界遺産といっても見所が多いわけではない。もともと自然環境の要件が満たされて世界遺産認定された場所だ。
「明日は朝からクルージングよ。観光船に乗って一時間くらい」
「楽しみです」
「それより、本当に行くの?」
「はい。みやこさんが嫌じゃなければですけど、駄目ですか?」
「駄目というわけじゃないんだけど」
みやこは困ったように、車内で足を組みかえる。
「まだ時期じゃないとしか言いようがないけど」
「でも、そう何回も来られるところじゃないですから、立ち寄っておきたいんです」
真央が主張しているのはこのまま国道をまっすぐ行ったところにある『ひかりごけ』だ。その名の通りヒカリゴケが生息している。ただ、残念なことにヒカリゴケが生え揃うのは六月を過ぎなければならない。この時期に行ってもあまり見られないのだ。
「悪いな、真央のわがままにつきあってくれ」
「いや、反対しているわけじゃないわよ」
見ごたえがないのは北海道に何度も来ているからこそ分かっていることなのだろう。それでも真央の希望をかなえてやりたい。
「駐車場、分かりにくいから気をつけて。というか、駐車場はないから入口の前にベタ付けして」
「……は?」
「大丈夫よ。ひかりごけは専用の駐車場なんてないから、みんな道に駐車するの。まあ、行けば分かるわ」
到着すると、確かに入口の前に二台ほど駐車していた。その後ろに止める。
「いいのか、本当に」
「すぐだもの。かまわないわよ」
みやこが入口というか、崖のところへ向かって歩いていく。そこに金網があって、その向こうに小さな立て板に『ひかりごけ』と書かれている。
「なるほど、見事に何も光っていないな」
「でも、コケは生えてる」
確かに緑色のコケが残雪の近くに生えている。
「あれが光るんだな」
真央は少し嬉しそうに呟く。
「今は光っていなくても、いつかは光る。なんだか、いいことだと思わないか」
真央の言葉に思わず「そうだな」と答えていた自分に逆に驚いた。
【E】
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