もう、この世界に真央はいない。






【17−B】







「行くぞ、真央」
 と、最後の日曜日、真央を連れて車を走らせる。
 まあ『最後の』とつけたものの、自分たちは一年中が休みなのだから、別に曜日はどうでもいい。
「結局、どこに行くのかは教えてくれないんだな」
 兄妹から恋人となっても、別に今までと何が違うということもない。自分たちの関係は最初から特別で、確定されたものだ。呼び方を変えたのは、ただの意識の違い。
 精神の昇華のためだ。
「俺がお前にしてやれることはもう、それほど多く残されていないからな」
「否定はしないが、私としては残りの日にちを、何も考えることなくただずっとあなたと肌を重ねていたいと思うのだが」
「あまり生々しい話はやめてほしいが、それだけでお前が満足するというのならそれでもいいだろうさ」
「それ以上の幸福があるのか?」
「さあな。それはお前でなければ分からない」
 結局これは、自己満足にすぎないのだろう。自分が真央のために最後まで何かをしてやりたいと思う、その気持ちを満足させるためだけに自分は真央を利用しているにすぎない。
 もっとも、それで真央が喜んでくれるのならそれが一番なのだが。
「もう、悠斗と一緒にいられる時間は百時間もないんだぞ」
「お前以上によく分かっているよ」
「む。だが、本当に私を満足させてくれなかったら、今すぐ魔王となってこの町を消し炭にしてやるからな」
「いっそ、その方がお互い気楽かもしれないな」
 引き離されるのが辛いのは分かっていたこと。それなら全てを台無しにしてしまいたいという欲望は、少なからずある。
「まあ、今まで悠斗が私を満足させなかったことなど一度もなかったわけだが」
 ソファから立ち上がった真央が、自分の腕にしがみついてくる。
「おい」
「恋人と腕もつながないのか? 悠斗は淡白だな」
「靴もはけないだろう、それでは」
「気にするな」
 まあ、少し変わったことがあるといえば、今まで以上に真央が甘えてくるようになったこと、くらいだろうか。






 日曜の東京は相変わらず混んでいて、それだけでも真央は不機嫌そうだった。余計な時間を使いたくないという様子がありありと分かる。
「どうして車なんだ? いつもみたいに公共交通機関を使えばもっと早いのに」
「決まっている。電車では、お前に愛の言葉をささやくことができない」
 瞬間、真央の顔が紅潮する。最近まるで見なくなった様子だったが、まだこういう感情が残っていたか。
「悠斗はずるい。いつも私が一番喜ぶ言葉でせめてくる」
「まあ、もうすぐ到着だ。そんなに気をもむな」
 言っている間にも、目的地が近づいてくる。
「着いたな」
 車を駐車場に停めて外に出る。今日も暑い。
「フォトスタジオ?」
「そうだ。二週間前に予約を入れた。無理を言ってな」
 二週間前は真央と婚約の誓いを交わした日。当然分からないはずがない。
「結婚式はできないと言ったな」
「う、うん」
「そのかわり、写真撮影だけならできる。最後の記念にウェディングドレスで撮っておこう」
 真央は顔をしかめた。そして一度肩を落とし、がくがくと震わせる。
「真央」
「ず、るい。そんな、そんなの、何の話も、してなかっ、くせに」
「こういうのはいきなり驚かせた方がいい」
「泣き顔で写真なんか撮影できるはずないだろっ!」
 ごもっとも。
「まあ、目薬でも入れておけ」
「準備良すぎっ! 悠斗、最初から私を泣かせるつもりだったな!?」
「いいから早く入るぞ。時間がもったいない」
 中に入ると、入口から白を基調とした華やかな装飾がされたロビーで、店員たちが礼をしてきた。
 予約者であることを伝え、簡単にプランの打ち合わせをする。その間にも真央は既にドレスのところへと連れていかれる。
「今回はこの一番高い、クリスタルアルバムでよろしかったですか?」
「ええ。ご無理を言って申し訳ありません」
「いえ。何分、今日を逃したらしばらく日本で撮影する機会がないとまでおっしゃられては、優先するのがわが社の姿勢です」
「良い会社ですね」
「ありがとうございます。今日はたくさん、写真をお撮りください」
「ええ。ただ、お願いがあります。一枚だけでいいので、プリントアウトしたものをいただけますか。妻に先に一枚だけ持たせてやりたいと思いますので」
「新婦様だけ、海外に行かれるということでしたね。分かりました。時間はかかりますが、何とかいたしましょう。別途料金をいただく形になりますが」
「お金はいくらでも大丈夫です」
「承りました。ありがとうございます。それでは新郎様もご準備をお願いいたします」
 最高級のアルバム作成となると、費用だけでも二十万を超える。安い婚約指輪でも買えてしまいそうな金額だ。






 さて、肝心の魔王のドレスアップ姿だが、予想以上の出来に衝撃を隠せなかった。
「どうだ、悠斗」
 滅多に化粧などしない真央だが、頭に花飾りをつけ、ドレスで着飾った姿は、それだけで世界征服できてしまうのではないかと思わせるほど。
「プロの仕事というのはすごいな。お前の美しさを損なわず、なおかつドレスや飾りとマッチしている」
「褒めているのか、それは」
「それ以外の何だと思ったんだ。俺は今、世界で一番綺麗な光景を目にしている。今後、二度とこれ以上の景色を見ることはない」
「それは言いすぎだぞ、悠斗」
 言われながらも照れている真央が可愛い。
「悠斗」
 ドレス姿の魔王が近づいてくる。
「五年間、本当にありがとう」
「真央」
「私は幸せだ。こんなにも素敵な人に出会えた。もう、何も思い残すことはない」






 それが、六月十七日の日曜日のこと。
 帰ってきてから二日間、ずっと二人で過ごした。
 ただ、お互いを求めた。
 すべての思い出は、この心の中にある。






 六月十九日。

「やあ、久しぶりだね」
 久しぶりに研究所に行った俺たちを乃木と白坂が出迎える。早速、と言わんばかりに白坂が真央を連れていった。
「五年間、お疲れ様」
 だが、それにどう答えていいのか分からなかった。始まりは突飛だったが、少なくともこの五年は自分が望んだものだというのは他の誰でもない、自分がよく分かっていた。
「真央ちゃん、指輪つけてたね」
「ああ」
「ふうーん、そうかそうか。なるほどなるほど」
「殺されたいか」
「いやいや。真央ちゃんみたいな綺麗で純粋な子がいれば、いくら君でもほだされちゃうよねえ」
「俺、みたいな?」
「ああ、うん。今のは言葉の綾」
 言葉の綾──何が、どう、綾になるというのだろう。
「真央ちゃん、本当に綺麗になったね」
「ああ」
「あれは、人を恋している目だ。そう思うだろう?」
「ぶっとばされたいのか」
「違うよ。感謝しているんだ。僕がずっとできなかったことを君はしてくれた。君以外の誰にもできなかった。ありがとう」
「感謝されることは何もしていない。これは俺が望んだことで、お前とは単なる契約相手でしかない」
「君は五年経っても、あまり変わらないね。変わったのは、人を愛することを覚えただけだ」
 まったくその通りだ。不愉快だが否定できない。
「ん、測定結果が出たみたいだね。先に知ることもできるけど、どうする?」
「まあ、結果は分かっているが、この先不安になるくらいなら聞いておこう」
「うん。教えるまでもないけど高い数値だね。大丈夫。もう、魔王になることはないと思うよ」
 それ自体を心配しているわけではなかったが、こうしてはっきり聞くことができて安心する。
「聞かれる前に言っておくけど、真央ちゃんと一緒にこれから暮らしていくことはできないよ。真央ちゃんの体がもたない。明日までに真央ちゃんを元の世界に戻してあげないと、真央ちゃんの命にかかわる」
「その質問はもう何度もしただろう。今さら繰り返し聞くまでのことではない」
「君のことだから、もう一度聞きたいんじゃないかと思ってね」
「もう何度も話をしたことだ」
 そう。
 このままこの世界にとどまれば、あと一、二か月は生きられるだろう。だが、結局は同じ。どうせ会えなくなるのだ。
 それなら、死に別れるより生き別れる方がずっといい。
「真央が生きていると信じられるから、俺も生きていられる。きっと真央も同じだろう」
「いいね、そういう相手がいるっていうことが」
 五年前、この仕事を引き受けたときからこの日が来るのは分かっていた。
 真央のことが好きになるほど、この日が来てほしくないという気持ちが募っていった。
 だが、そうやって覚悟を決めていたからこそ、今こうしてこらえることができているのだろう。
「悠斗」
 真央が入ってくる。既に病院着になっていた。
「数値、見てくれたか」
「ああ」
「悠斗のおかげだ。これで私は、死なずにすむ」
「お前が努力してきた成果だろう」
「違う。最後に悠斗が私と結婚してくれた。だから私は超えられたんだと思う」
 真央がそっと寄り添ってくる。
「愛している、悠斗。これでもう最後だから言おう。かなうことなら、あと一か月でも一週間でもかまわない。一分、一秒でも悠斗と長く一緒にいたい」
「真央」
「悠斗は正しい。きっと悠斗は正しいことを選択している。でも、気持ちだけはどうしても割り切ることはできない。今すぐここから私を連れ出してほしいと私が懇願したら、悠斗はどうする?」
「お前は俺を買いかぶりすぎだ」
 思わず苦笑した。
「お前が本当にそう願うのなら、俺は今すぐ目の前の男を殺してお前と逃げるさ」
「いや、殺されるのは困るよ」
 乃木が反対するが、白坂に黙ってなさいと小突かれる。
「どうする、お前はそれを望むか?」
「望まない。私は決めた。悠斗と笑って別れるのだと。私の死に目に、悠斗の泣き顔なんか見たくない。私は絶対、笑って別れる。最後は笑顔以外見たくない」
「そうだな」
 俺は、最後に。
 彼女に、優しく。






「愛している。真央。さよなら」
「さよなら。悠斗、愛してる」






 こうして。

 俺の、五年の恋は終わりを告げた。







【17-C】

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