ポンペイの秘宝


ヘルクラネウム地下





 79年のヴェスヴィオ噴火によって埋没した山麓の集落は13に及ぶ。その中でももっとも有名なのがポンペイであり、ヘルクラネウムである。
 この地域に目が向けられたのはだいたい15世紀に達してからのことであり、少数の先覚者たちがこの時期にポンペイなどの町を発掘しようと試みている。だが、本格的な発掘の開始は18世紀を待たねばならない。
 1709年。レジナという村に住む1人の農民が井戸を掘り下げていたとき、その下から大理石が発掘された。1701年から始まっていたスペイン継承戦争においてイタリア占領軍を率いていたオーストリアの将校、通称をデルベフ公というが、彼がこの地域を調べたところ、畠の下に古代の建造物を発見したのである。ここがすなわちヘルクラネウムであった。
 つまりポンペイとヘルクラネウムを比べた場合、ポンペイがあまりに有名すぎるので忘れられがちなのだが、発掘する段階においてはヘルクラネウムの方が先だったのである。
 ポンペイの発掘が開始されたのが1748年。それに比べてヘルクラネウムはそれよりも10年早い1738年から発掘が始まっている。時に発掘の命令を下したのはスペイン・ブルボン王家のカルロス王子で、彼はナポリ公国の王位についていた。この時期の発掘は地下に埋もれた貴重な秘宝が目的であったため、縦横に掘られたトンネルはまさに無秩序という言葉につきた。その後場所を変えたところがポンペイとなるのだが、それは発掘の行き詰まりから偶然に見つかったに等しかった。
 こうしてみるとヘルクラネウムはポンペイよりも先に発掘されていたにも関わらず、その知名度は格段に劣っている。その要因はいくつかあるが、まずやはり死者の数があげられる。ヘルクラネウムが脚光を浴びたのは1980年からである。この時期まで死者は十指に満たない数であったものが、たてつづけに発見されたのである。また都市発掘の困難さから町の一部しか発掘されていないということも要因なのだろう。なにしろ、ヘルクラネウムの上には今ではレジナの町があるのだから。
 両市の規模はどの程度のものだったかというと、ポンペイで人口が2万、ヘルクラネウムだとせいぜい5千といったところか。国際市として発展したポンペイとは異なり、ヘルクラネウムはネアポリス(現ナポリ)などの大都市に住む貴族たちの郊外別荘地として適していたようだ。
 発掘された遺跡はかなり見事な幾何学的パターンを示していて、さらにポンペイよりも完備された排水設備があり、上水道もかなり普及していたようだ。浴場にはスチーム発生装置やパイプ、ボイラー室などを備えていて、かなり高度な技術が用いられていたことが分かる。
 さて、何度も繰り返すがこのヘルクラネウムが脚光を浴びたのは1982年、ギィセッペ・マギィ率いる発掘団がナポリ湾に臨むヘルクラネウムの海浜に面した建物を発掘したときのことである。ヘルクラネウムの浜辺に立ち並んでいた一連の岸壁の部屋を発掘したとき、150体もの人骨が発見されたのである。
 わずか長さにして85メートルたらずの海浜地帯である。さらに北と南に発掘を進行すればいったい犠牲者の数はどれほどになるだろうか。一平方メートルあたりの死者が3人という過密ぶりである。まさにこの地域一帯はサージの襲来とともに地獄絵図と化したのだろう。



 ヘルクラネウムの地下には縦横に無数のトンネルが掘られている。発掘初期に財宝を求めてひたすら奥へ掘り進めた結果である。現在そのトンネル群は全てイタリアが管轄している。
 だが無論、それで全てというわけではない。このヘルクラネウムで18世紀に乱掘された時に出入り口だけが塞がれたままになっている未だ知られていないトンネルというものがいくつも存在する。そしてその奥にはかつて貴重な財宝が眠っていた地下室がいくつも存在している。
 由紀が捕らえられているのはまさにそこであったのだが、もちろん眠らされてここまで連れてこられた彼女にそんなことが分かるはずもない。いつでも脱出できる準備だけは整えたものの、そこから先がどうしようもなくなってしまった。
 仕方なく状況の変化を待つが、今が昼なのか夜なのかもわからない。お気に入りの腕時計を奪われていたので、ここに連れてこられて何時間になるのか、今が何時なのか、全く分からない。

「……響、どうしてるかな……」

 じっと待っていればきっと響は助けにきてくれるだろう。最悪、ポンペイの秘宝を渡すことになったとしてもだ。
 それだけ大切にされているという自覚はある。だが、自分はそれにあぐらをかいていつもいつも頼っているわけにはいかない。

(やっぱり、自力でどうにかするべきかしら)

 その考えにたどりつくと手足の縄を取り外す。シシュポスに会う前にこれは既に解かれていた。石の削れている部分を拾い上げてひたすら擦り続けたのだ。作業の途中、何度も自分の手首に傷跡を残してしまったが、あのまま拘束されているよりはずっといい。
 そしてそれからゆっくりと扉に近づく。外から鍵がかけられているのは分かっている。内側からでも開けられるものならよかったのだが、残念ながらこれは南京錠の類だ。内側から鍵を開けるのは不可能だ。
 ではどうするか。この部屋には他に出口はない。石の壁で完全に覆われている。通風孔らしきものもあるが、完全に土砂で埋まっている。

(掘って出る……のは無理ね)

 とても1日やそこらで掘りきれるようなものではない。その考えを却下した。
 となると、方法は1つしかない。

(何か……)

 護身用に持たされていたスタンガンも当然取り上げられている。手元にあるのはせいぜい髪ピンといったところか。他の道具は鞄ごと取り上げられている。

(……仕方ない、か……)

 髪ピンを一本抜く。長い方の先をくるくると回し、取り外す。その先は針になっている。髪ピンを伸ばして、一本の長い針が完成した。

(まさか本当に使うことになるとは思わなかったけど)

 針一本でもないよりはましだ、首筋にあてるだけで充分効果がある。そう言われて響から持たされた『彼自作の』髪ピンであった。

(……ホント、器用な奴……)

 そのまま扉の横に立って誰かが来るのを待ち続けた。扉が開くと同時に襲い掛かって、後ろを取って髪ピンを押し付ける。そしてその相手から武器を奪い、縛り上げてこの部屋に閉じ込める。
 護身術は響から嫌というほど教え込まれている。この4ヶ月で素人相手なら充分以上に通じるようになっていた。さっきのシシュポスほどだとかなわなさそうだが、その部下ならば通じるのではないかと思っていた。
 その機会は意外にも早く訪れた。
 壁に耳をあてていると、向こう側から足音が聞こえてくる。少しずつ大きくなり、この部屋の前で立ち止まった。

(……来た……)

 食事を運んできたのか、それとも響に関することで聞きたいことがあるのか。いずれにしてもこの機会は有効に利用するべきだ。
 じっと待つ。だが、足音はそれきり、全く聞こえなくなった。だが、気配はする。扉の前で何かしているようだ。

(……?)

 やがて、カチリ、という音と共に鍵が開いた。ごくり、と唾を飲み込む。そして、ゆっくりと扉が開いた──

(何か、おかしい……?)

 ZEROの人間なら、こんな開け方をするだろうか。まるでこそこそと忍び入るかのように。
 そのためらいが彼女を動かさなかった。そして驚愕した。
 ゆっくりと開いた扉の向こうには、なんと何もなかったのだ!
 どういうことなのか彼女には全く分からなかった。たった今、ここで鍵を開けて扉を開いた人間がいるはずなのに、そこには誰の姿もなかったのだ。
 目を見開いてじっとその場を見ていると、その扉が開いた場所から──

「お〜ば〜け〜だ〜ぞ〜」

「……」

「……」

 彼女はしばらく無言であった。
 間の抜けた声が扉のあたりから聞こえてきた。その声には当然聞き覚えがあったが、今目の前で何が起こったのかはまだ分からなかった。

「……響……?」

 とりあえず声の主を確認する。すると声が聞こえてきた場所から返答があった。

「なんだ、意外に驚かないんだな」

 すると、徐々にその場所がぼやけて、人の姿が現れた。それはもちろん響の姿であった。
 当然、由紀はまだ混乱していた。いったい何が目の前で起こったのか全く分からない。

「ええっと……」

「戸惑ってるな。ま、当然か。見ろよ、これ」

 響は頭の上にのっている帽子を示した。旅行中には見かけなかったものだ。いったいどこで手に入れたのだろう。

「これはハデスの帽子だ。前にペルセウスの神話を教えたことがあっただろう?」

「……」

 もちろん知っている。ギリシャ神話は専門分野だ。
 だが何故響がそれを持っているかが分からなかったし、それ以上に──

「……響……」

「なんだ?」

「私を驚かせようとするためだけにそんなものを使うのはやめてください」

 もちろんこの場所に侵入するために使ったのだろうが、この扉を開けた時まで姿を隠している必要はないだろう。

「意外に冷静だなあ」

「本心を言うと、こんな馬鹿なことはしないでください、と怒鳴りたいところなのですがここは敵地ですから」

「敵地、か。つーことはある程度の事情は聞いたのか?」

「ZEROという組織があることをシシュポスという実行部隊の長から聞きました」

「シシュポスか。やれやれ、よく会う奴だ。ま、それはともかくさっさと脱出するとしようぜ。帰り道はアンリが確保してるから」

「いろいろと聞きたいことが山のようにあるのですが、それは後回しにしましょう。ただ1つだけ先に教えてもらいたいことがあります」

「何だ?」

「ポンペイの秘宝は?」

 自分はポンペイの秘宝と引き換えだったはずだ。だが、この様子だとおそらくは忍び込んできたか正面突破してきたかのどちらかだろう。だとすればポンペイの秘宝はまだ響の手元にあるに違いない。だからこれは確認であった。

「もちろんあるさ。いくらお前のためだからって、危険な兵器をおいそれとZEROの連中にやるわけにはいかないんでね」

「それを聞いて安心しました。ではやはり──いえ、後にしましょう。脱出、ですね」

「ああ、こっちだ」

 そう言って響は先に走り出そうとしたが、私はその服の裾を掴んで止めた。

「……由紀……?」

「すいません。少しでいいですから、このままで……」

 今になって、ようやく安心することができて気が抜けてしまった。
 気を張り詰めていた時は感じていなかった、あるいは考えようとしていなかった恐怖が、ここにきてこみあげてきたのである。
 身体がかすかに震えた。それを感じ取ったのか、響が一歩近づいて、その肩を優しく抱いた。

「……怖い目にあわせちまったな……すまない」

「いえ……私の油断ですから。それに、助けに来てくださいました。ありがとうございます」

 いつもと変わりない口調だと自分では思っていたのだが、かなり震えていたようだった。響が私の頭を優しくなでると、私もようやく落ち着きを取り戻した。

「もう大丈夫です」

「よし、行くぞ」

 今度こそ、私たちは脱出するためにこの部屋を出た。
 通路は細く狭く、そして低かった。走ろうとしてもそれほどのスペースがあるわけではない。2人が横に並ぶことがまず難しかった。ここで挟み撃ちにあったら間違いなく捕らえられるだろう。
 だが、幸いそうはならなかった。アンリが陽動で敵をひきつけているのだそうだ。

「だからって奴ら、特に相手がシシュポスっていうんだったらそれが陽動だって気付くはずだ。それまでにここを脱出できれば……」

 そう言いながら通路を抜けた。そこはどこかの家のポルティコ(柱廊式玄関)であるようだった。人が3人くらい横に並んでもまだスペースがある。奥行きも10メートルからもう少しはありそうだ。

「やれやれ。やっぱりナイフマスターは陽動でしたか、ロード」

 その奥に、一人の男性。現実離れした容貌の東洋人、シシュポス。

「よう、久しぶりだなあ、シシュポス。1年ぶりか?」

「それくらいになりますか。全く、あなたとはあまり会いたくないんですけどね。なにしろあなたが係わると他のトレジャーハンターたちに勝ち目はありませんから」

「才能の差があるからなあ」

 ぬけぬけと言う。だがこの2人、意外にもさほど仲が悪そうではなかった。実際に良いかどうかはともかくとして。

「その女性。随分大切になさっているみたいですね」

「こいつか? まあバイトだからな。関係ない奴はあまり巻き込みたくないだろ」

「私は一向に。あなたがそう考えているから手を出さないだけです」

「それには感謝するぜ。だが、秘宝は渡せない」

「でしょうね。かまいませんよ。もともとこんな方法、私は反対だったんです。ここの管理責任者というわけでもないですから、ご自由にどうぞ」

 先程とはうってかわって、秘宝に対する執着心がなくなっているようであった。その変わり身の早さが、由紀には理解できなかった。

「諦めがいいな」

「あなたと正面から戦うくらいなら、考課表でマイナスをつけられる方がましです」

「どうせお前のことだ。ポンペイの秘宝を手に入れたら、早速この場で試しに使ってみるつもりだったんだろう」

 突然に言われて驚いたようだが、シシュポスは微笑を浮かべて「そうですね」と肯定した。

「ナポリ方面へ向けて火砕流を起こしたら死者はそれこそ6桁の単位になるだろうな。そんなことをさせるわけにはいかないんでね」

「ええ、あなたの考え方は分かっていますとも。ですからご自由にどうぞ。ただし、もう1人の現場責任者には気をつけてくださいね。あの人は僕と違って諦めが悪いですから」

「誰だ?」

「タンタロス」

「げえっ」

 響が心底いやそうな顔をした。

「あの狂い猿、まだ生きていやがったのか」

「ええ。あいつに任せておくとそちらのレディにも危害を加えかねなかったので、私が近づけないようにしていたんです。感謝してくださいね」

「感謝はするけど礼はしないぞ」

「六花亭のチョコレートでかまいませんから」

 これが本当に敵味方の会話なのだろうか、と一瞬由紀は思ったがあえて尋ねなかった。

「じゃ、またな」

「ええ。またいつかどこかでお会いしましょう。それから、レディ」

 そして最後にシシュポスは由紀に向かって微笑みかけた。

「あなたのことは忘れません。またお会いしましょう」

「……できれば2度と会いたくないです」

「や、これはつれない。ですがあなたがロードのものでなくなった時、私は必ずあなたを迎えに行きますから」

「迷惑です」

 一言で拒絶するとシシュポスは滝のような涙を流していた。いったいどこまでが本気なのか分からない男だ。

「行くぞ」

 響はシシュポスの横を通り抜けて地上へと向かう通路に入っていった。その後を由紀も追った。
 シシュポスはそれを見送ると、再びトンネルの奥へと姿を消した。



かくて物語は……

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