第弐幕






 高いところに立っていると、不思議と体がぞくぞく震える。まして、これほどに景色のいい崖の上だと、全てのものが自分の目の下にある。それだけで自分の中から強い躍動感が生まれてくる。
 自分の後ろにはさらに高い崖。あの上まで登るとどんな景色が見えるのだろう。もちろん自分はそこまで何度も登っているので景色そのものは知っている。だが、その景色を眺めるたびに覚える躍動感はいつ味わっても新鮮なものだ。
 ここはウルバヌ山地、大陸でも屈指の高峰が並ぶところ。その高峰の一つ、ラヴラン。この崖の上まで登ればここよりもさらに高い山々が見渡せるが、ラヴランは最も中原に近いところでもあり、ここからはるかかなたまで広がる草原を見渡すことができる。
 茶色の髪が風になびく。その絶世といってもよいであろう美貌に微かに憂いの色が浮かぶ。ため息まじりに右手で優雅にその髪をかきあげると、蒼い大きな瞳に映っていた草原が光を失った。
 再び目を開けた時、視線は崖の上に戻っていた。そして再び崖を登りはじめる。切り立った崖、といっても多少は斜面となっている。そこをすいすいと登っていく。何度もそこを登っているということが、その動作からもよく分かる。
 やがて、一番上まで到達した時、そこで剣を振るっている一人の青年の姿を発見した。微かに額に浮き出ていた汗を拭うと、小さい声で呼びかける。
「おい、ウィルザ」
 その美人から発せられた言葉は太くくぐもっているので、おそろしく違和感がある。彼は間違いなく男であってその声はれっきとした男のものだ。だが、声をかけられた人物は振り返るとその彼に向かって悠々と言ってのけた。
「やあ、セリア。今日も綺麗だね」
金色の長髪が太陽の光を浴びて輝く。その碧眼に、先程まで真剣に稽古をしていたとは思えない喜色が現れており、自分を心から出迎えてくれているのが分かる。だが、セリアは顔をひきつらせていた。そして歯を噛みしめ、彼にゆっくりと近づくと、おもいきりその頬を叩いた。彼は避けようともしない。
「痛いよ、セリア」
「お前が毎度同じことをほざくからだろうっ!」
「怒ると、体によくないっていうよ」
「それ以上俺を怒らせたくなかったら、今すぐ黙れ」
 ウィルザは悲しそうな表情を浮かべた。まったく、自分とほとんど年齢は変わらないはずなのに、どうしてこうも子供なのだろうと舌打ちする。
 初めて会ったときからウィルザは変わらない。いつも自分をからかう。会う度に「綺麗だ」とか「可愛い」とか言う。何度殺してやろうと思ったことが、数えきれない。
 だが、実行に移すことはできなかった。理由は二つある。一つはウィルザは決して反撃して来ないということだ。それどころか避けようとすらしない。殴れば素直に殴られる。蹴れば素直に蹴られる。剣で斬ろうとすれば、素直に斬られるかもしれない。まさかそこまで馬鹿正直ではないとは思うが、万一のことを考えると実行することができない。
 そしてもう一つは、これだけ子供っぽくて、ことあるごとに自分のことをからかうとはいえ、まがいもなく彼は真の『王者』であり、自分の主君であるということだ。その体から発する覇気、威厳。それは他の誰も持ち合わせることのない資質である。
 普段の彼は常時そういう態度をしている。だが、いざ二人きりとなると子供のように自分に甘えてくる。それだけ自分が信頼されているということか、単にからかわれているだけなのか、そのあたりは未だに判断がつきかねる。
「帝都から連絡があった。いよいよ、俺たち反乱軍に対して討伐軍を派遣することになったようだ」
「ふうん、それは大事だねぇ」
 緊張感の破片すら、その笑顔と言葉には見当たらなかった。もう一度ひっぱたこうか、と頭の隅をよぎるがとりあえず連絡を続ける。
「敵は第二軍だ。将軍はルーリック、なかなかの切れ者らしい」
「それは困った。どうしようか」
「とにかく、この件で仲間たちが本部に集まっている。戻るぞ」
「せっかく二人きりになれたのに?」
 反射的に自分の拳が出てしまっていた。ウィルザはいつものように、馬鹿正直に顔面でその拳を受ける。だが、笑顔は絶えない。
「……謝らないぞ」
「うん。ごめんね、セリア」
 苦いものが心の中に沸き上がってきていた。いつも、こうだ。意図的にならば叩くことの方が多いが、反射的に手が出たときはどうしても殴ってしまう。その度に罪悪感を覚える。
 どうして、こんなにも自分をからかうんだ、こいつは。
「とにかく戻るぞ。仲間たちは緊急にお前を呼び出せと言っているんだからな」
「分かったよ。久しぶりに来たからもう少し訓練したかったけど、そういうことならしょうがない」
 残念そうに言うウィルザを残し、さっさと崖を下りようとする。
「あ、待ってよセリア!」
 慌ててその後を追ってきたウィルザが、いつも以上に不快な気持ちにさせた。






 出会いは一軒の酒場であった。今から四年前、どこにでもありそうな酒場に入っていった時のことだ。
 一人でカウンターで酒を飲んでいると、ごろつき風の男が三人、自分に言い寄ってきた。自分が女のような顔をしていることはよく分かっている。こういうことはよくあることだ。もっとも、自分に言い寄ってきた相手に対しては自分が男であることをはっきりと教えてやっているが。
 あっという間に三人を床に倒した時、店の中にいた男たちがほぼ一斉に立ち上がった。どうやら、全員が仲間だったらしい。さすがに多勢に無勢かとも思ったが、そこでおとなしく引き下がるほど気弱でもない。腰の剣に手をかけ、一触即発の雰囲気が酒場の中に流れた。自分の身を守るためとはいえ、酒飲みの場で剣を使うことはさすがに躊躇われた。だが、万一の時はやむをえまいと覚悟を決めた、その時である。
『待てっ!』
 奥の方から一喝する声が響くと、男たちは全員直立して動かなくなった。どうやらリーダーがいたらしい。その男はゆっくりと立ち上がり、自分の方へと歩いてきた。
『お前ら、ここの決まりを忘れたか。外の人間には手を出さない。忘れたやつはいるか』
 男たちはリーダーの声に従って、自分たちの席へと戻った。どうやらなんとか助かったようだと思い、一安心した時のことだ。
『だいたい、こんなに綺麗な女性に手を上げようなんて』
 反射的に手が出てしまっていた。頬をはる心地よい音が酒場に響く。男たちは呆気にとられたようにその場に硬直していた。
『俺は男だっ!』
 勢い、そう言うしかなかった。だがその言葉で硬直が解けた男たちがまたしても一斉に立ち上がり、今度こそ乱闘になろうとした。
 だが、リーダーが左腕を伸ばして手を後ろに向けて開く。それだけで後ろの男たちが統括されてしまった。このリーダーがよほど信頼されているということが象徴されていた。
『私が悪かった、間違えたのは謝ろう。ところで、君は傭兵か?』
 突然、ざわつき始めたので、いったい何事だろうと警戒を強める。
『そうだ』
『どこへ行くつもりだ?』
『この先の、バルティア帝国軍とアリシア王国軍との戦場へだ』
『どちらに、つくつもりだ?』
 張り詰めた空気がその場を支配した。つまり、敵は叩け、ということだ。自分が彼らにとっての敵となるならば、この場で殺してしまおうというつもりなのだろう。
『金を出してくれる方に』
『なるほど、傭兵らしい台詞だ。逃げ方もうまいと見える。だが』
 目つきが厳しくなり、気迫が満ちる。
 ここにきて、ようやくこの人物が真にただものではないということを理解した。自分も剣の腕には自信があるが、おそらくこの人物にはかなわないということを肌で感じた。どうやら、覚悟を決めるしかないようである。
『──アリシア王国軍につく』
『誓えるか?』
『自分の、たった一人の親友に誓おう』
『どこにいる?』
『どこか、遠い空の下にいる。いつか二人で帝国を打倒しようと誓った奴だ』
『それなら話は早い』
 リーダーは先程までの気迫が嘘のように穏やかな笑顔を浮かべて、手を差し出した。
『私たちはアリシア王国軍の、傭兵部隊。私はリーダーの、ウィルザだ』






 あの時に見せた気迫と笑顔。そのどちらもが常人には作りえないものである。そのことをセリアは分かっていた。この人物は、それができるだけの人物なのだ。
 結局アリシア王国は滅びたが、傭兵部隊の活躍によって王家の人間は隣国へ逃れるだけの時間と余裕を作ることができた。あの時傭兵部隊を率いていたのが、ウィルザだ。
 リーダーとしての手腕、指揮管理能力だけにとどまらず、覇気と威厳を兼ね備え、それでいてどこか人好きのする人物、ウィルザはまさにセリアが探していた『王者』であった。この人物ならば、この混乱の世界を救ってくれる、帝国軍を打倒する軍を率いることができる。そう信じて疑っていない。
 疑っていない、が──
「ねえねえ、セリア。今度の戦いが終わったらまた魚釣りに行こうねっ♪」
 自分と二人でいる時は何故こうも脳天気なのか!
「ウィルザ。とにかく、そういう話は次の戦いが終わってからにしろ」
「つまんない」
「そういう問題じゃないだろ。だいたいお前、釣りなんてからっきし下手じゃないか」
「下手の横好きってね」
「自分で言うなよ」
 大きくため息をつくが、ウィルザはにこにこしているばかりだ。
 どうしてこいつはこうなんだろう。どうして自分にばかりこうなんだろう。
「セリア」
「なんだ」
「そう恐い声出さないで。みんな来たみたいだよ」
 すると、音もなく扉が開いたのでセリアは表情を元に戻した。
 まったく、とぼけているかと思えば周りの状況もきちんと確認している。なんて奴だ──いつもながら。
「全員、揃っているようだな」
 こういう時のウィルザは真にリーダーとしての威厳に満ちたものである。常にこうしていればいいのにと何度思ったか数知れない。そしてその部下たち、ウィルザの前に集まっている反乱軍のメンバーは、ウィルザが実は脳天気な一面を持っているということを全く知らない。
(この、詐欺師)
 心の中で呟くも、セリアもまた表情は副リーダーとして真面目なところを演出している。部下たちの手前、こちらが威厳を崩すわけにはいかないのだ。
「ウィルザ、どうするんだ」
「どうする、とは?」
「正規軍が来る。それは前から分かっていたことだ。だがまだ俺たちの戦力は正規軍と戦える程多いわけじゃない。しかも敵は第二軍、全軍で出撃してくるそうだ」
「なるほど。それではゆっくりとはしていられなくなったな」
「ウィルザ」
「安心しろ、私に考えがある。とにかく全員落ちついて、座れ。セリア、ラヴランの地図を用意してくれ」
 あまりにもリーダー二人が落ちつきすぎていたので、慌てていた部下たちも冷静さを取り戻したようだ。一人、また一人と会議室の指定されている席に座り、セリアが用意した大きな地図を眺めた。
「結論からいって、現在の戦力差では第二軍と戦っても勝ち目はない」
「なんだって!」
 部下たちが一斉にざわめいた。だがウィルザは皮肉げな笑みを浮かべて両手で静まるように部下を統制した。
「よって、我々はこのラヴランにある反乱軍五つの砦、全てを放棄する」
「なっ!」
 今度こそ、部下たちはいきりたった。セリアにしても前もって相談されていたわけではない。苦い顔で、静かにウィルザに近寄る。
「ウィルザ、どういうつもりだ」
「まあ、聞け」
 こういう、自分だけが何もかも分かっていて他人をあざ笑うようなところは、ウィルザのおそらくは唯一の欠点だ。
「最初から、ずっと考えていたことだ。帝国軍と互角に戦える戦力を手にする前に自分たちが掃討される危険が生じた時、我々はどうすればいいか」
「解決策があるんだな?」
「ある。このラヴランを放棄して別の山に拠点を張る。つまり、拠点を移動する」
「拠点を移動する?」
「そうだ。ヴェルフォアに別の拠点を既に用意してある。俺たちはそこに拠点を移動して、地下活動に移る。俺たち反乱軍の行動は二年、いや三年は早かった。今帝国軍と戦っても勝ち目はまるでない。三年すれば今の帝国の支配力は必ず弱まる。その時まで俺たちは表立った行動は控え、大陸中に根を張りめぐらし、軍としての規模を巨大化する。帝国軍と正面から戦うのは、それからだ。
 そして今回の戦いで帝国軍の戦力はできるだけそぎ取っておく。戦力差は縮めておくにこしたことはない。奴ら、帝国軍の連中が侵入してきたところで砦を爆破し、下敷きにしてしまう。五つの砦全てがそううまくいくとは思わないが、幾つかは成功するだろうし、うまく成功させる策は私の頭の中にある。安心していてくれ。
 とにかく、今回の戦いでお前たちが考えることは『生き延びること』だ。こんなくだらない戦いで死んだりするな。罠をしかけ、敵軍を消耗させ、こちらは風のように消え去る。お前たちなら、それができるはずだ。連絡は個別に追ってする。今は拠点移動と罠をはりめぐらせる準備だけ進めていてくれ」
 部下たちは異論もあったようだが、それぞれが考え、納得した上で引き上げたようであった。セリアはほっと安心すると共に、別の感情がこみ上げてきていた。
「おい、ウィルザ」
「なに──って、怖い顔してるね、セリア」
「何故俺に黙っていた」
「黙るって、何を?」
「とぼけるな。別の拠点とかいうやつのことだ」
「ああ、あれ」
「それに、どうして部下に説明することを引き延ばした? 今説明できるならすればよかったじゃないか」
「うーん……ま、いろいろあってさ」
「はっきり言え。でないと」
 殺気がみなぎったことに、ウィルザも気がついたようだ。慌てて「言うよ、言います」と両手でセリアを宥めようと必死になった。
「賢明だな。それで?」
「裏切り者がいる。いや、スパイというべきかな」
「なんだと?」
「随分前から感じていたんだ。どうもこちらの情報が部分的にだけど漏れている。おそらくは部下たちの、それもかなり信頼あるところから漏れていると思う」
「そうか。それで俺にも黙っていたのか。お前、俺を信用しなかったな」
「それは違うよ! セリアだけは違う。僕はそう確信している」
「じゃあ何故、俺に拠点のことを黙っていた」
「いや、それは……その……」
「言え」
「……怒らない?」
「聞いてから決める」
「じゃあ、嫌だ」
「…………」
「ああっ、そんなに眉をしかめないでっ!」
「言え」
「分かったよ。でも、怒らないでね。その……」
「何だ?」
「……てっきり言うの忘れてた。てへっ」
「……………………っ!」
 がつん、と拳が頭を打った。これは当然の報いというものであろう。
「いたーい。頭ぶったー」
「何が『てへっ』だ……。野郎がそんなこと言って許されると思っているのか」
「口ではそう言っても許してくれるセリアが好きだよ」
「てめえっ!」
「ストップ。それより、ちょっとつきあわない? これから、もう一回頂上に行ってくるつもりなんだけど」
「頂上? 何だ、まだ稽古が足りないのか?」
「いや、そうじゃない。でも大事な用事なんだ」
「用事? あんなところに?」
「うん。セリアに来てほしい。信頼、しているから」
 ということは、よほど重要なことなのか。今回の計画に関することか、それとも別の拠点に関するものか。いずれにせよ、こう言われては断るわけにもいかなかった。
「いいだろう」






 ラヴランの頂上からの眺めは絶景だ。ここから見える景色だけが、セリアの心に落ちつきと安らぎを与えてくれる。
 常に戦場で血の赤と死臭にまみれていると、次第に自分が壊れていく感じがする。人として、何か大事なものをなくしてしまいそうになる。
 それをまともに引き戻してくれるのが、この大地の緑と空の青であった。加えて自分の体を飛ばしてしまうかのような、時折吹き上げてくる突風。その中にいると、自分が普通の一人の人間に戻れる気がする。
「なにを考えているの?」
 こういう時だけは、ウィルザの笑顔も少しはましに見えてくる。自分の心が穏やかだと、いつもは腹立たしい存在にすぎない相手にも笑顔で応えられる。
「いや、何でもないさ」
 この景色を見ることはもうなくなってしまう。拠点を放棄するということは、つまりそういうことだ。
 ウィルザは毎日ここで稽古を行っている。それを毎日連れ戻しに来るのはセリアの役目だ。そしてその度にここからの景色を眺め、自分の心を落ちつけていた。人間のままでいられた。
(俺は、これからも人間として生きていけるのか)
 戦いと、血と、鉄と、それしか考えられない人間になってしまうのではないか。この景色を失ってしまえば。
「セリアは、ここからの景色が好きだったよね」
「ああ、よく分かったな」
「僕も同じだからさ。ここは絶景だ。この景色が見られなくなるのは辛い」
 ……同じことを考えていたのか、ウィルザも。
「この景色を見るためだけにここへ来たのか?」
 セリアは整理をつけて、話を元に戻した。
「いや、もちろん違うよ。でも、せっかくいいムードなんだし、しばらくこうしているのもいいかなーって」
 パン
 頬を張る音。今日は、いつになく叩く回数が多いのはどういうことだろう。
「それで、用件は?」
「容赦ないなあ、セリアは。こっち」
 ウィルザは微笑って崖を少し下りていった。
(いったい、どういうつもりなのか)
 すぐにウィルザは立ち止まった。いつもの場所からは死角になっていて絶対に見ることができないような場所だった。だが。
(ここは……)
 頂上から見ることができる景色とは、どこかが違った。
「いい眺めだろう」
 何が違うとは言えない。だがしいて言うのだとすれば、広がり、であろうか。頂上から全景を見はるかすよりも、少し下って背後に崖があるこの景色の方がはるかに、大地の広がりを感じることができたのだ。
「ここの眺めが一番好きでね。だから」
 ウィルザが振り向く。そこに、小さな墓がひっそりとたたずんでいた。
「これは?」
「墓」
「見れば分かる。誰のだ?」
「僕の、妹さ」
 そういえば、自分の過去の話は何度かウィルザにしたことはあったが、逆にウィルザの過去の話を聞いたということは今までになかったのではないか。妹がいたということも、それが死んでいたということも初耳だ。
「何故?」
 ウィルザは自分に話がしたかったのだろう。セリアは話をしやすくするために促してやった。
「帝国軍に、村が滅ぼされたんだ。セリアの村と同じようにね。でも、ただ違うことがあるとすれば、僕の村は帝国領だった」
 顔をしかめた。何を言いたいのかはよく分かった。
 殺傷権。そういう権利が帝国軍人には与えられている。領内の人間であったとしても、人を殺し、傷つけても罪に問われることはない。その権利が十年前、ラール皇帝の戴冠後すぐに認められた。それから二年間、帝国領内では軍人の暴虐──すなわち、小村地帯での大量虐殺事件が相次いで起きた。しかも、ラール皇帝はそれを推奨するかのような言動を繰り返した。今でこそかなり抑えられてきてはいるものの、軍人が酒に酔ったあげくに店の主人を斬り殺したり、戯れに妙齢の婦女子を犯して殺してしまうというようなことは、日常の出来事になっている。
 こんなことが許されるはずがない。
 自分の村が滅ぼされた時、セリアは誓ったのだ。親友と。いつの日か、必ず帝国を打倒し、住みやすい世の中にしてみせる、と。
「僕の妹を殺した奴は、黒い髪をした、どこかきざなところがある奴だった。僕は帝国を打倒するなんて言ってはいるけど、実のところは妹の復讐をしたいにすぎないんだ。あいつを、必ずこの手で殺す。それだけをこの九年、ずっと思い続けてきた。あいつを殺すことができれば、帝国なんかはどうだっていい。あいつさえ、あいつさえ──!」
 ぞくり、と体が震えた。セリアは初めてウィルザの中に眠っていた怒りの感情を見た。
「……失望したかい?」
「お前は私事と公事とを混同したりはしないさ。復讐を果たす果たさないはともかく、お前はもうこの反乱軍から出ていくことはない」
「そう、だね。僕は良くも悪くも、理性が感情をしばりつけている人間だから」
 だが、その感情が爆発した時はいったいどうなるのか、とはセリアは考えなかった。考えることが恐ろしかったのかもしれない。
「遺体は?」
「ここにはないよ。僕は逃げるだけで精一杯だったから。いつか墓を作ってあげようと思っていたんだけど、ここを初めて見つけた時に『ここだっ!』て決めちゃった」
「無理もないな。これだけの景色だ」
「うん。ここにあいつがいるわけじゃないけど……でも、墓は墓さ。僕は拠点を移したとしても、墓まで移すつもりはないんだ。あいつには、ここでずっとこの綺麗な景色を見ていてほしい」
 ルナ、と名前が小さく彫られているその墓は立派なものではなかった。それでも、人の思いが込められたという点においては、墓石だけ立派な思いの込められていないものよりもはるかに、心を揺さぶられるものであった。
 セリアはその墓の前で手を合わせた。
 この人がいなければ、今のウィルザはいなかったかもしれない。王者の気質を備えた反乱軍のリーダー、ウィルザは。
 それが万人にとってはありがたいことだったとしても、当人にとってはこれ以上悲しい事実もない。
「セリアに、見てもらいたかったんだ」
 突然そのように言うので、顔をしかめて尋ね返す。
「何故、俺に?」
「一番信頼しているし、それに僕が今一番好きな人だから」
「…………」
「眉間に皺がよってるよ」
「妹の前で殴られたいのか、お前は」
「別に変な意味じゃないよ。母親は妹を産んだ時に死んだし、父親も戦場から帰ってこなかった。妹はあの時失ってしまった。もう僕には、君しかいない。君だけは失いたくないんだ、セリア」
「そういう台詞は、女に言ってやれ」
「友達をなくしたくないっていうのは、そんなに変な台詞かなあ」
「気持ちはありがたいが、冗談でもそれを口にするのはやめろ。虫酸が走る。子供の頃からずっとそう言われ続けた俺の身になってみろ。男から言い寄られたことだって、数えきれないほどあるんだぞ」
「ま、セリアは美人さんだから」
「ウィルザッ!」
「それとも、君の友達はやっぱり一人だけなのかな?」
 はっ、と一瞬で怒りの感情が去ってしまっていた。
「アイレス、とかいったっけ」
「昔のことさ。今はどこでどうしているのかなんて全然分からないんだ」
「帝国を打倒する誓いをしたんでしょ?」
「どこかでのたれ死んでいるかもしれない」
「生きてるよ、きっと」
「…………」
「セリアが生きてるんだから、アイレスも生きている」
「……そうだな。そうだといいがな」
「ねえ、セリア」
「何だ?」
「僕が、二人目の友達に立候補することは、許されていないの?」
 セリアは苦笑して、大きくため息をついた。
「好きにしろ」
「やたっ」
「おかしな奴だな。別に俺にそこまでかまうこともないだろうに」
「うん、どうしてかな。最初に会った時から、きっとセリアとはいい関係になれると思っていたよ。ああ、なんだか片思いが稔ったって感じだ」
「やめろ、気色悪い」
 だが不思議と、悪い気はしなかった。誰かに友と思ってもらえること。それがこんなに心地よいことだということを、しばらく忘れていた。
(アイレス、無事でいるのか……?)
 何度、考えただろう。たった一人の友人のことを。
『生きてるよ、きっと』
 そう言い切れる自信が、自分にはなかった。信じようとしても、最後までどこかで死んでしまっているのではないかという疑いが頭を離れなかった。
 だが。
 セリアは、最後にもう一度妹の墓に手を合わせているウィルザに向かって、小さく呟いた。
「……ありがとうな」










第参幕

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