第伍幕






 ウルバヌ山地は大陸の南西部から中原にまっすぐとのびている。その中原に最も近いところ、それがラヴラン山である。ウルバヌ最東の巨峰、という二つ名で呼ばれることもあるが、その勇名は地理学上ではともかく、歴史上で一度も登場したことはない。ウルバヌは中原の歴史にこれまで関与したことはない。人がいないのだから、仕方のないことであったかもしれない。
 とはいえ、その重要度は低くはない。ラヴランと、その西にそびえるもう一つの巨峰、ヴェルフォア山。この二つの間に位置するテシャス峠。ここは交通の要路であった。南の港町プルネアから北の帝都まで、この峠を通るか、ラヴランを迂回するかでは行程がざっと二日は異なる。それほど道も険しくないため、商人たちはこの道を好んだ。盗賊が巣くっているわけでもない安全な道である。忌避される理由はどこにもない。
「これだけ活気があって、盗賊が出ないというのもおかしな話だ」
 帝国はここに兵を駐屯させているわけではない。盗賊にしてみればこれほど商売に適した土地もないのではないか。だが、現実としてはそううまくはいかない。
「……ここに、反乱軍の連中がいるのなら、な」
 ラヴランは反乱軍の拠点。近辺の領主や帝国軍を蹴散らしては難攻不落のラヴランに引き上げる。兵士たちの腕がいいのか、それとも統率するリーダーの手腕か。いずれにせよ、帝国にとってはそろそろ容易ならざる敵という認識ができあがりつつあった。
 アイレスは峠を帝都から港町の方へ、つまり北から南へと下っていった。
 これまでラヴランを攻めるにあたってこの道が活用されたことはない。この道の存在は誰もが知りながら、反乱軍を正面から撃破することにこだわり、背後から急襲するということをしなかった。
(実際、どちらが正面なのかは想像がつかないが)
 これまでの手際を見る限りでは、背後に対して、つまりこの要路についても充分に監視の目がいきとどいているのではないか、とアイレスは考えている。だからこそ帝国軍の鎧兜は全て国元に置いてきた。身分を証明するための紋章だけは胸につけたままではあるが、それも外套を脱がなければ見えはしない。
 反乱軍と接触するのに、無意味に相手を警戒させる必要はない。そう考えたうえでの処置であった。
「茶屋か」
 峠の途中に、一軒の茶屋が見えた。
 これから、どうにかして反乱軍と接触しなければならない。ここからラヴランへ向かって道なき道を進んでいくのは無謀なだけであろう。地理に聡い者にいろいろと教わることも重要だ。
 アイレスは茶屋へ足を向けた。太陽の熱で乾かされた喉を潤すためにも、休息は必要であった。






「いらっしゃい」
 中に入ると、アイレスは複数の視線を一度に集めた。顔をしかめて周りを見返すと、それぞれ何もなかったかのように視線を逸らしていく。
(意外に人が多いな)
 座りながら、周りの人間たちの様子を鋭く観察する。とても商人とは思えないような者も中には交じっていた。明らかに戦士の体格をした者が、だ。
(ここは反乱軍の連中の溜まり場か?)
 ありえないことではない。帝国軍がここを通過することなどまずありえないから、適当な場所に拠点なり溜まり場を設けていたとして、何の問題があろう。それに軍がこの道へ進んできたのなら、改めて峠を封鎖すればいいだけのこと。
(だとしたら、都合がよかったのかもな)
「注文は?」
 機嫌の良さそうな女将が注文をとりにくる。アイレスは剣を隣の椅子に置いた。
「茶を。熱めにしてくれ。それから何か軽く食べるものを」
「あいよ。すぐできあがるから待っててくれ」
(この女将も、反乱軍と関係があるのでは?)
 周りにいる連中が反乱軍と無関係であるなどということはあるまい。だとすれば、茶屋自体が拠点の一つなのか、それとも単なる溜まり場か。それを見極める必要がある。
「お待たせ」
「早いな。それはそうと、女将。一つ聞きたいことがあるのだが」
「なんだい?」
「ここからラヴランの山に入っていくのに、いい道はないだろうか」
 店の雰囲気が、わずかに変わった。先程まで単に余所者を疎ましがっているにすぎなかったものが、今では明らかにこちらの様子を伺っている。
「ラヴランねえ。あんた、あんなところ行ってどうするつもりだい?」
「あるのか、ないのか。それを聞いているのだが」
「さあ、知らないね。それにラヴランには反乱軍が溜まっているっていう話じゃないか。近づくなんて考えただけでも怖いさ」
(嘘、だな)
 ルーリックの副官として目を鍛えられていたアイレスは、こういうことには敏感であった。
(最初に会った時は優しそうな女将を演じていた。だがこの話題になると誤魔化し、話を終わらせようとする……まあ、関係があるのであれば、いくらでも手段はある)
「そうか、残念だな。すまなかった」
「いや、役に立てなくて悪かったね。ゆっくりしておいき」
(ゆっくり、か)
 その間に裏で何を画策つもりなのか。
(ダイスは振られた。後は、目が出るのを待つだけだな)
 しばらくこの茶屋にゆっくりしていこう。そう、心に決めた。






「怪しい人物?」
 ウィルザとセリアにその報告がもたらされるまで、あまり時間は要さなかった。
「はい、帝国側から、傭兵とも兵士とも判断がつかない男が一人、現在峠の茶屋に逗留しています」
「となると、もういなくなっているのではないか?」
 ウィルザの疑問はもっともである。だが、無視するには危険な情報であった。もしその男が帝国軍の者だとしたら、この辺りの情勢を探っているという可能性が高い。
「俺が行く。とりあえず様子を見てこよう」
「セリア、私も行く」
「いやウィルザ、お前は残っていてくれ。もしものことがあれば直接ここへ連れてくる」
「ここに? それはまずい」
「いや、帝国軍の人間なら監禁する。向こうの情報を教えてくれるかもしれないしな」
「拷問でもするのか?」
「俺の趣味じゃないな。だが、場合によっては仕方がないだろう。まあ、その男の正体を確かめてからのことだ」
 セリアはそう言って立ち上がった。
「セリア、気をつけてな」
 部下の手前、自分をからかえないからだろうか、その背に言葉が投げかけられた。が、セリアは答えなかった。






「まだいる、だと?」
 茶屋の裏手に回って、セリアは中の様子を部下から確認する。
「あいつは一時間以上ここで休んでいます」
「妙だな。麓の村まで行くのであればいいかげんに出発しないと夜までにつかないだろう。それとも……」
「その男は、女将にラヴランに入る道を聞いていました」
「ますます怪しいな。分かった、俺が直接聞いてみる」
「お願いします」
 部下たちが短慮に出ず、自分の到着を待っていたのは賢明であった。数年がかりで部下たちの教育を続けてきた成果ともいえるであろう。
 とにかく、裏手から茶屋に入り、その男が座っているというテーブルに目を向ける。だが、衝立の影になってその人物の姿は見えない。
(嫌な予感がする)
 それは予感というほどあやふやなものではない。冷静に考えれば分かることだが、戦士風の人間が、このような茶屋で、たった一人で一時間以上も滞在しているという事実があまりにも奇妙なのだ。
 おそらくは帝国軍。この辺りを探っているのであろう。女将にラヴランのことを尋ねていたとなると、反乱軍の拠点を見つけ出すつもりか。
 その衝立の裏にいる人物が、いったい何者なのか。とにかく話しかけて探ってみるしかない。
セリアはゆっくりと近づき、衝立に手をかけた。
 相手も帝国軍の人間なら、ここにいる連中が反乱軍のメンバーだと気づいているのではないだろうか。
 だとすれば、下手な会話をすれば警戒されるかもしれない。知らない人間が話しかけることが既に不自然ではあるが、極力平静を装わなければならない。
 そして、きわめて自然になるようにその男の傍らに立った。
「すまないが──」
 相席してもかまわないだろうか、と話しかけようとした。
 だがその体が、びくん、と硬直した。
 その瞳に、真紅の髪が飛び込んできた。
 その目が見開かれ、その喉がごくりと音を鳴らした。
(赤い……髪)
 その体格、その姿、その雰囲気。
 動悸が高まり、体が震える。
そして、ゆっくりと振り向いたその顔に、驚愕の色が走った。
「あ……あ……」
 先に言葉にならない呻きを漏らしたのはセリアであった。
 予想もしなかった事態に、目元が熱くなる。
 体が震えて一度、がくり、と膝が笑う。しかし、しっかりともう一歩を踏み出して、叫んだ。
「アイレスッ!」
 座っている相手に向かって、思わず抱きついていた。






「セ……セリア、君、なのか……?」
 戸惑いはアイレスも同様であった。思いもかけない再会──いや、本当に再会したといえるのか、この人物が本当にセリアなのか、抱きついてきた相手を離し、もう一度その顔をまじまじと見つめた。
「セリア……」
「アイレス……お前なんだな、アイレスッ!」
「セリア……セリア……ッ!」
今度は、アイレスがセリアを抱きしめていた。
 間違いない。
 たった一人の親友。誓いの相手。
「まさか、こんなところで会えるとは思わなかった」
「それはこっちの台詞だっ! なんだよ、お前、心配かけさせやがって!」
「すまなかったな。国が失くなってから、連絡の取りようもなかったから」
「でも、でも本当に、本当にアイレスなんだな? 生きてるんだな? 嘘じゃないな?」
「おいおい。本物だよ。でも信じられないのは自分も同じだ」
「ったく、お前変わらないぜ、その口調。堅苦しいな」
「君こそ、悪餓鬼のままだな。変わらない君に会えて、嬉しい」
「あ、あの……」
 その時、再会を邪魔する無粋な男、セリアの部下が声をかけてきた。
「なんだ」
「その方、セリアさんの──いい人で?」
 部下としては、滅多なことで冷静さを失わない上司をからかったつもりなのかもしれない。だが、その言葉は感動の絶頂にあったセリアを一瞬で激怒させた。
 まずい、とアイレスが思ったが間に合わず、セリアは部下を殴りとばしていた。
「てめえっ! まだこりねえかっ!」
「す、すす、すみま──」
「俺がいつ──」
「やめろセリア。自分が止める筋のものでもないかもしれないが、せっかくの再会に君が怒っているのは悲しく思う」
「アイレス、でも!」
 すっかり、セリアは昔の自分に戻ってしまっていた。アイレスといたころの、安心して激情に身を任せることができる自分に、である。だがそれは部下たちにとって信じられない場面の連続であった。部下がこのような態度に出たことも無理からぬこと、と言えよう。
「やれやれ、本当に変わらないな、君は」
「ちっ、仕方ない。せっかくの再会だしな。おい、お前。二度と俺をからかうなよ」
 部下は何も言葉にできずに頷く。それを見て、アイレスは苦笑した。
「全く、でも君らしいよ」
「そうでもないぜ。俺だって──そうだ、アイレス。お前を探していたんだよ、俺」
「探して?」
 それはアイレスも同じであったが、こうも目を輝かせてセリアが話しかけてくると、何も言い返すことができない。それもまた、昔のままであった。
「俺、反乱軍にいるんだよ。お前をうちのリーダーに会わせたい。うちのリーダーは最高なんだ。あいつは王者だ。この大陸を救う器量の持ち主だ。見つけたんだよ、俺にとって最高の主君をな!」
「君が、反乱軍に」
「誓っただろ? いつか一緒に帝国軍を倒すって。あいつならそれができる。帝国を妥当することができる、唯一の人間なんだ。だから──」
 と、アイレスの両肩に手を置いて説得しようとした。
 その時、外套がわずかにずれた。
「──……だか……ら…………」
 瞬間、のぞいた光に、目がいく。
そこにあるものを、見てしまった。
 アイレスの胸に輝く、帝国軍の紋章を。
「セリア」
「何だよ、これ」
 外套をはぎとり、紋章を引きちぎる。
「…………」
「セリア、実は」
「どういうことだ」
「説明するから、話を聞いてほしい」
「どういうつもりだよ、てめえ」
「だから、今」
「ふざけんじゃねえっ!」
 引きちぎった紋章を、セリアはアイレスの顔面に叩きつけた。
 はあ、はあ、と肩で大きく呼吸し、紋章を叩きつけられて俯くアイレスを見つめた。
セリアが冷静でいられるはずもなかった。七年ぶりの、たった一人の──もはやこの時ウィルザのことなど念頭にはなかった──親友との再会。それだけで三日は上気していられたであろう。
 だが、それと全く正反対の事実を浴びせられたのである。セリアの頭のなかにはもはや思考と呼べるようなものはかけらも残ってはいなかった。目の前の事象をそのまま受け入れる以外、頭が働かなかったのである。
 冷静でさえあれば、アイレスの言い分を聞くくらいの頭は働いたであろうに。
「許さねえっ!」
 セリアの瞳から涙が溢れていた。その悲鳴は涙声であった。
 信じていた親友、その親友が帝国に与している。
 その事実はセリアに衝撃を与えた。これほどの衝撃は生まれてから二度目であった。
 アイレスは殴りかかってくるセリアをなんとか落ちつかせようとしたが、もはや手がつけられる状態ではなかった。
(これは、いつものセリアではない)
 怒った時でもどこか冷静なところが残っている。心底怒った時は、こちらには目もくれない。
 これは、激情にかられているだけのことだ。おそらくは、母親を失ったあの時以来のことであろう。
「早とちりするな、セリア」
「うるせえ裏切り者っ!」
 信じていたのに、信じていたのに、信じていたのに。
「信じていたのにっ!」
 にぶい音がした。セリアの拳が、アイレスの顎をとらえていた。だが、一歩後退するだけで、それを受け止める。セリアの両手首を掴み上げ、壁に押さえつけた。
「離せ、離せぇっ!」
「落ちつけセリア」
「うるせえっ! お前なんか──」
「落ちつくんだ、誓いはまだ失われていないっ!」
 ぴたり、とセリアが止まった。一瞬前まで激情にかられていた瞳が、一転して憂いを帯びた。涙が零れていたが、そのことに自身が気づいていなかった。
「……本当、なのか……?」
「当たり前だ。自分と君と、二人の誓いだ。一日たりとも忘れたことはない。自分は今でも帝国を打倒するために動いている」
「…………」
 震えた吐息を漏らし、俯いた。
「……疑って、悪かった」
「仕方ないことだ。君のせいじゃない」
 落ちついたようなのを見て、アイレスはゆっくりと手を離した。セリアの右手が、左の手首をさすっている。
「馬鹿力」
「君が暴れるからだ。それに、こっちだって痛かったぞ」
「ああ、ごめん。大丈夫か? 口の中、切れてないか?」
「大丈夫だ。あまりしおらしくするなよ、君らしくない」
 いや、セリアが罪悪感に苛まれたときは、いつも必要以上にしおらしかった。そのあたりも、どことなく女性的であったのだが。
「……なあ、アイレス」
「分かっている、説明するよ。どうして今、自分が帝国軍に属しているか。でも、安心してくれ。自分は決して君に恥じるような行為は、していない」
「信じている」
 セリアは、ようやく美しい笑みを浮かべた。
「お前のことだ、考えあってのことなんだろう?」
「もちろんだ」
 アイレスもまた、微笑みで返した。






 いずれにせよこの場でアイレスと話し合うことはできなかった。もはや帝国軍に属しているということは明らかである。場合によっては帰すわけにはいかなくなる。それに重大な話であった場合、反乱軍の末端まで情報を筒抜けにするのは好ましくない。
 それに、アイレスの方からも提案されたのだ。
『できれば、反乱軍のリーダーと直接話したい』
 セリアにしてみれば打算もあった。今アイレスが何をしているのかは分からないが、ウィルザに会いさえすればその力を認めてくれるはずだ。このまま反乱軍に加入してくれるかもしれない。
「アイレス? 君の親友の?」
 ウィルザも目を丸くして驚いた。そんな偶然があるのだろうか、と疑っているようでもあった。
「ああ。とにかく、会ってくれないか。向こうもいろいろと話したいことがあるらしい」
「どうしようかな」
 セリアは大きくため息をついた。
「……ウィルザ」
「分かったよ、そんなに怖い目つきで睨まないでよ。美人が台無しだよ」
「…………」
「…………?」
ウィルザは驚いた。てっきり殴られると覚悟していたのだ。だが、セリアは鼻で笑ってこう言ったのだ。
「嫉妬か?」
 セリアにしてみればいつもからかわれてばかりで、仕返しがしたかっただけにすぎなかったのだろう。だが、その言葉にウィルザは顔を赤らめていた。
「……何を赤らんでるんだよ」
 言った本人が逆に照れて赤らんでしまう。
「小悪魔」
「殴るぞ」
 いつものようなやり取りをしてから、二人はアイレスが待つ部屋へと向かった。






 扉が開いて、まずセリアが入ってくる。
「待たせたな。こちらが、反乱軍のリーダー、ウィルザだ」
 アイレスは、その人物をしっかりと見定めた。
 そして、目を見開いた。
(……この、人物は……)
 セリアが自慢するだけのことはある。
 表面的な気迫にとどまらない。その内に潜む気質はまさに王者のもの。
(この人物ならば、ルーリック様と互角、いや……)
 若干、何かが足りない。
 たしかにセリアが全てをかけられる存在であるということは理解できる。だが、ルーリックを知ってしまうと、どこか物足りない感じがする。
(それが何なのか……)
 言葉にはできない。だが、ルーリックと並ぶことはできても追い抜くことはできないと思わせる、何かを感じる。
 ともかく、アイレスは帝国軍式の敬礼を行った。ウィルザもまた、それに答える。
「帝国第二軍指揮官、ルーリック様の副官、アイレスです」
「反乱軍のリーダー、ウィルザです」
 そう言って手を差し出してくる。正直、アイレスは驚いていた。
「何を驚きですか?」
「いえ、自ら反乱軍と名乗るとは、いささか奇妙に思えまして」
「革命軍、とでも言いなおしましょうか? ですが、いくら名前だけ繕ったとしても、それが達成されないうちは、単なる反乱にすぎません」
「道理です」
 アイレスはその手を取った。力強い手。幾多の戦場を駆け抜けてきた、戦士の手であった。
「早速ですが、ルーリック様の提案をお伝えします」
「ちょ、ちょっと待てよ」
 割り込んだのはセリアであった。
「お前、まだどうして帝国軍にいるのか、教えてもらってないぞ」
「そう、だったな」
 アイレスは真剣な表情になって、答えた。
「自分は、いや自分とルーリック様は、時期が来れば帝国に反旗を翻すつもりだ。そのために今は地盤を固めているところだ」
「……なるほど」
 ウィルザも、セリアも、驚愕を覚えていた。アイレスはさらにウィルザに向き直って話しかける。
「ルーリック様は、反乱軍と手を結ぶことを考えておいでです。時が来たなら、必ず帝国に反旗を翻します」
「その、時、とは?」
「三年、と考えております」
「なるほど」
 今度は間を置かずにウィルザは答える。ルーリックという人物が正確な判断能力を持っていることにまずは安心していた。
「反乱軍は、その間地下に潜って活動を続けろ、と?」
「それだけではありません。帝国に与しない諸外国との連携を計るために尽力をお願いしたいのです」
「もし、それを本気で言っているのだとしたら、随分と過小評価されているんだな、我々反乱軍は」
 セリアが厳しい視線をウィルザに送る。アイレスもまた眉をしかめた。
「どういうことですか?」
「我々反乱軍がどうやって物資を手に入れていると思っておいでか?」
「まさか既に、諸外国と連携を結んでいるのですか?」
「ウィルザ、お前」
「セリアは黙っていろ」
 厳しい口調であった。そしてわずかなりともアイレスから視線を逸らしたりはしない。
(なんという気迫だ)
 アイレスが嘘をつき、騙そうとしていたなら、すぐにも見破られてしまうだろう。それだけの人物眼を持っていることが、その瞳からうかがえた。
「それは軍の中でも、最高級の機密。俺たち二人と、他に何人かしか知らない──」
「黙っていろ、と言ったぞ」
 セリアは体をすくめた。これほどの気迫を自分に見せつけたのは、初めてのことであった。
「これが、ラヴランの見取り図だ」
 ウィルザは懐から羊皮紙を取り出す。セリアは驚愕をもはや隠そうともしない。腰を浮かせ、信じられない目つきで自分の主君を見つめる。
「我々の拠点は五箇所。今回第二軍がラヴランに攻め込んでくるにあたって、我々はこれらの砦全てを放棄するつもりでいた」
「なんと」
「我々は崩壊したと見せかけてヴェルフォアへ移る。既に新しい拠点は用意ができている。そして三年、地下活動を続ける」
「なるほど。ルーリック様の考えと同様のものを、お持ちだったのですね」
「同じ視点に立つことができる人間が、まさか私の他にいるとは思わなかった。そのルーリックという人物、アイレス殿が忠誠を誓うだけあって、よほどの戦略眼の持ち主とお見受けする」
 もっとも、アイレスとて戸惑いがなかったわけではない。どうしてこれほど重要な機密を自分に明かすのか、理解ができなかった。
「この羊皮紙はお渡ししよう。それから五箇所の砦に侵入してきた軍は、完全に叩き潰すつもりだ。この情報も、有効に使ってもらえるものと信じる」
「それは──いえ、分かりました」
 つまり、ルーリックにとって邪魔になりそうな人間を処理する、という提案であった。それが分からないようなアイレスではない。何も言葉にはせず、素直に頷いた。
「一つ、お聞きしたいのですが」
「何でもどうぞ」
「どうして、そこまで?」
 最初、ウィルザの表情は何も変わらなかったが、少し遅れてきょとんとした。
「あなたはセリアのたった一人の親友なのでしょう?」
「はあ、まあ」
「それだけで充分あなたの言は信頼に値する。無論、私の目から見てもあなたが充分信頼できる人物だと判断してのことだが」
「ウィルザ、お前……」
 セリアがようやく呟く。アイレスは一瞬視線を移し、また元に戻した。
「信頼されているのですね、セリアは」
「自分にとって、何があっても信頼できる唯一の人物だ」
 これほど、真面目に。
 これほど真面目にウィルザが自分のことを評価してくれたことがあっただろうか。
 いつもふざけて本心を見せないのに、こんなところで、こんな奇襲を受けるとは。
 胸が詰まった。
『何があっても信頼できる唯一の人物』
 自分もそうだ。
 自分も、ウィルザが唯一絶対の主君だ。
「その信頼、決して裏切りません。セリアに誓って」
「誓いなど必要ない。信じるということは、相手の全てを受け入れることだ。人間である以上、疑念も当然生じるだろう。不安も当然残るだろう。だが、それすらも自分の中に取り込むことが、相手を信じることだと思っている」
「信じるということは不安の裏返し、ということですか?」
「不安も疑念もなければ、信じる行為自体必要ない。私は未完成な人間だ。負の感情から、必ずしも逃れられるというわけではない」
「自分も、同じです」
 アイレスは何となく分かった気がした。ウィルザにとって、何が足りないのか。
 この人物は、あまりにも純粋すぎる。
 リーダーである以上、権謀術数とは逃れられない。目的を達成するために犠牲を用いることもあるだろう。そのような状況に、この人物は耐えられるだろうか。
 純粋であるということと、正義感とは必ずしもイコールではない。
 ルーリックは全ての負債を自ら背負う覚悟ができている。目的を達成する手段として住民をある程度見殺しにすることすら躊躇わないであろう。
 ウィルザにそれだけの覚悟と責任感があるとは判断できなかった。それは人間として、非常に好ましいことではある。だが、リーダーとしてルーリックに遠く及ばないであろう。
「ですが自分は、もしかすると信じてはいないのかもしれません」
 アイレスは哀しげな視線をウィルザに向けた。
「セリアが裏切ることはないと、知っていますから」
「……お前ら」
 セリアは立ち上がり、二人に背を向けた。
「あまり人を過大評価するなよ」
 そのまま、部屋を飛び出していった。
「あれは、照れているな」
「でしょうね。人に誉められることなど、滅多にない人生を送ってきましたから、あいつは」
「アイレス殿」
「アイレスでけっこうです」
「ではアイレス。君に一つ尋ねたいことがある」
 君、という言葉に緊張がほぐれた。
「セリアのことですか?」
「いや、ルーリックという人物のことだ」
 アイレスは目を細めた。
「自分は、ルーリックにどこが劣っている?」
「劣って?」
「たとえセリアが君を反乱軍に勧誘したところで、ルーリックという人物のところに君は帰るのだろう。比べてどこが劣っているのか、教えてほしい」
「なるほど」
 本人も、薄々気づいているのであろうか。リーダーとして、自分にはどこか欠陥があるということを。だが、それが何なのか分からない。もどかしい思いをしているのかもしれない。
「自分がもしルーリック様にお会いしていなければ、今ここであなたに忠誠をお誓いしたでしょう」
「…………」
「それは、ルーリック様の方が優れているから、というわけではありません。たしかに自分の目から見ますと、指揮官としてはルーリック様の方が優れているように見えます。ですが、お二人の差はご本人の気質・性質によるもの。自分がその差を伝えることによって、あなたの良さが失われるかもしれません」
「良さ……」
「自分はこの大陸にはルーリック様、そしてあなたも必要だと思うのです、ウィルザ様」
 そして自分は、この人好きのする人物に心から協力したい、忠誠を誓いたいと考えている。だがそれではルーリック、あの可哀相な人物の傍に誰もいなくなってしまう。自分はあの可哀相なルーリックのため、負債の半分を背負うつもりで忠誠を誓っているのだ。
「あなたにはセリアがおります。ウィルザ様」
 再びセリアと行動を共にできるということも、魅力的な条件であった。だが、自分にはあの方を裏切ることは絶対にできない。
「そして君、アイレスはルーリックのもとに……うまくできているな」
 優秀な二人のリーダー。それぞれの下に、大陸一番の親友が分かれて忠誠を誓う。
「残念です。あなたにお仕えできないことが」
 それは、アイレスにとって偽らざる真実の気持ちであった。










第陸幕

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