第漆幕






 その、少し前。ルーリックは不愉快な客の訪問を受けていた。
「どうも、ルーリック殿」
 視線──死線は相変わらずだ。いや、会うたびに少しずつ強まっているような気がする。初めてこの人物と出会った時、自分はこれほど敵視されてはいなかったはずだ。
「ヴァール殿。わざわざこのようなところに足をお運びいただき」
「いえいえ、散歩がてら立ち寄っただけですよ。お邪魔でなければよかったのですが」
 口調も表情も、お互い非常に親和的である。だが、ルーリックには、そしておそらく相手にもよく分かっている。
 決して、目の前にいる人物が自分の仲間などではない、ということが。
「そういえば、ルーリック殿とご同行するのは久しぶりですね」
「そうですね。もう三年も前になりましょうか。あの時はまだ第二軍を率いてはおりませんでした」
「第六軍の指揮官でしたね。ボクが初めてお会いした時はまだ大隊長にすぎなかった。それが部隊長になり、そして第十三軍将軍、第六軍将軍と順調に出世なさり今では第二軍の将軍。おめでたいことです」
「恐縮です」
「そう、初めて会ったといえば、覚えてらっしゃいますか? あなたと初めて会った時、ボクが何と言ったか」
「いろいろとお話した記憶はありますが」
「あなたは我が帝国軍の重鎮となられる、と言ったのですよ。ボクの予言、当たりましたね。第二軍の将軍となれば、帝国軍においては三本の指に入る地位だ」
「恐れ入ります」
「ですが、おそらくあなたはこれ以上の出世をなさることはないでしょう」
 ルーリックは表情を全く崩さなかった。
「それはまた、何故ですか?」
「さあ、そういう気がするだけですから。でもね、ルーリック殿」
 妖しい微笑みを絶やさず、ヴァールは続けた。
「ボクのこの手の予言は、不思議とあたるのですよ」
(いかさま予言師め)
 心の中で思いつつ、ルーリックは笑顔を返した。
「その予言があたることのないよう、祈っていてください」
「ええそれはもう。皇帝陛下の恩為に、あなたがさらなる武勲をあげることを願っておりますよ」
(この男の言葉は、予言などという代物ではない。単に、皇帝の意に沿うかどうかを見定め、もし翻意あるようならば、自らの手で始末するだけのことなのだろう)
 それを予言と、はたして呼んでもよいのであろうか。つまり、今この場でヴァールはルーリックを完全に敵と認めた。いうなれば敵対宣言、宣戦布告を行ったようなものだ。
(やれるものならやってみるがいい)
 相手の視線を、真っ向から受け止める。
(私はもう初めて貴様と会った頃の自分ではない。そうやすやすとはやられはしない)
 挑発的な表情に、ヴァールの方が折れた。ふっ、と冷笑し、そのままテントを出ていった。
(潮時か)
 一人、残ったテントで疲れたようにため息をもらした。
(だが、まだ早い。私たちが反旗を翻すまでに、帝国軍の戦力をもっと削がなければならない。先の戦いで第八軍、第十二軍は既に軍としての機能を維持しえなくなっている。それでもなお、私たちにはまだ勝ち目はない。あの親衛隊が無傷で存在する限り)
 あの悪魔のような親衛隊が存在する限り、勝ち目はない。
 そして、その親衛隊の一人と五分に渡り合えるような戦士は、自分とアイレスを除いて他にはいない。
 親衛隊は、既に百人にも達するというのに。
「急がなければ」
 親衛隊に目をつけられた、ということがルーリックの焦燥を呼び起こしていた。






「ルーリック様」
 はっ、と首をあげる。周りには誰もいない。声はテントの外から聞こえていた。
「アイレスか、通れ」
「はい。失礼いたいます」
 テントの中に入ってきた人物は、二人であった。一人は無論アイレスだが、もう一人は見たことのない美しい女性──いや、顔だちは女性のものだが男性のようであった。
「この者は?」
「セリア、と申します」
 アイレスの答に、あらためてその人物をしっかりと見直す。
「お前がセリアか」
 出征前に一度アイレスの口をついた名前。参謀としてならば自分をはるかに凌駕するとアイレスに言わしめた人物。剣の腕は若干劣るということだが、それでも対照となる者がアイレスであるならば、自分の部下たちの中で誰よりも強いということを意味するであろう。
「初めてお目にかかります、ルーリック様」
 セリアもまたしっかりとルーリックの人物鑑定を行っていた。ウィルザとは違う覇気、威厳を感じる。能力のほどは話し合い、その腕前を見なければ何とも言いがたいが、少なくとも王者としての最低限にして必要不可欠な素質は持ち合わせているようだ。
 だがはたして、ウィルザと比べてどちらの方が優れているのか。それは容易に判断がつかない問題であった。なにしろ自分はウィルザを贔屓目で見てしまうという危険性がある。いくら客観的になろうとしたところで、その傍らで卓越性を見せつけられたセリアにとって、ウィルザを特別視しないことの方が難しい。
 だがウィルザのことさえ考えなければ、ルーリックは自分の上に立ったとしても許容できる人物であることは間違いあるまい。
「俺は反乱軍の副リーダー、参謀を務めているセリアといいます」
「ほう、反乱軍の」
 優雅な仕種も、それでいて相手に思考を読ませない表情。たしかに見栄えのする人物である。飾り物としての主君だとしても充分に役に立つ。だが、この人物がそれだけであるはずがない。それではアイレスが仕えている理由にならないし、何よりこの気迫がそのようなことがありえないことを示している。
「今回は反乱軍の代表として、ルーリック様に会いにきました」
「なるほど」
 つまり、自分の部下として忠誠を誓いにやってきたわけではない、ということである。優秀な参謀だと聞いていただけに、その言葉は残念であった。
「今回の作戦遂行にあたりこちらの意図を詮索しつつ、今後の協力体制を整えるための親善をかねているというところか。いや、それだけではあるまい。セリア、お前の目的は、なんだ?」
 単刀直入な言い方である。だが、セリアにしてみると駆け引きの必要ない話し合いというのは好むところであった。セリアは駆け引きにおいては非常に優秀であるのだが、じれったくて肌に合わないのだ。
「あなたと会うこと」
 透き通った声で、セリアは答えた。
「あなたがこの大陸の未来を託せる人物であるかどうかを見極めるために、やってきたというわけです」
「ほう、面白いことを言う。ではお前から見て、私はどう見える?」
「少なくともアイレスが忠誠を誓うに足りる人物であることは疑いないでしょう」
 安心した、というのがセリアの本心であったかもしれない。
 目の前にウィルザという、真に優れた主君たりうる人物がいるのに、どうして帝国軍へ戻ろうとするのか。アイレスの目を疑うわけではないが、本当に優れた主君に仕えているのかどうか、それを確認したかった。それがここに来た最大の目的ではないだろうか。
「ふっ、くっくっく、なるほど、友人思いだな」
 その考えはルーリックには見通されているかのようであった。だが、不思議と悪い気はしなかった。
「まあ、親友がくだらない主君のもとでその才能を押しつぶされるなど、見るにたえませんから」
 アイレスが慌てて止めようとしたが、ルーリックが手で止めたので引き戻った。
「ぬけぬけと言う奴だ。だが気に入った。私に向かってそれほど言い切る奴は今までいなかった。アイレスにしても、どこか遠慮があって気軽に話してくれなくてな」
「ルーリック様」
「ま、アイレスじゃそうでしょう。こいつは昔から堅物で善人で純粋だった。そのくせ悪党と付き合うのを好むという悪癖があるのが問題でして」
 一瞬、目を丸くして二人はセリアを見つめた。そしてアイレスが我に返ってセリアを怒鳴りつけようとした──が、それはルーリックの高笑いによって押し止められた。
「いや、失礼。お前とはなかなかウマが合いそうだ。反乱軍にいるのがもったいないな」
「正直自分でもそう思いますよ。あなたが主君だったら自分も今より気苦労が八分の一くらいに減っているかもしれない」
「お前のような奴でも気苦労するというのか。なかなかの人物のようだな、反乱軍のリーダーとやらは」
「あいつは人をからかうのが趣味でね。俺はその恰好の相手というわけです。だが、あなたなら少なくとも俺をからかうようなことはしなさそうだ」
「なるほどな。だが、転向する気はないのだな?」
「ありませんね」
 苦笑して、セリアは答えた。
「たしかにうちのウィルザよりはるかにあなたの方が好感が持てる。ですがあいつには俺が必要なんですよ。ここで必要とされるよりも、はるかにね」
「あえて苦境に身を置く、と? 残念だな。私が苦労して集めた百人からの精鋭を率いることができる人物だと見込んでのことなのだが」
「それはどうも。俺もあなたの現実主義的なところは非常に合っていると自分で思いますよ。だが、俺はウィルザの理想主義的な甘ちゃんなところが気にいっているんですよ。ともすれば理想を求めて足元をすくわれそうになるところを、俺がしっかりと支えてやらなければなりませんしね」
 セリアはこれまでにないほど、素直な気持ちで話ができていた。こうして会話しているだけで、ルーリックに惹かれていく自分がはっきりと分かる。
 しかし、だからといってルーリックの下に転向しようという気がまるで起きなかった。それは不思議でもあったが、何となく説明ができるような気もする。
 あえて言うなれば、ルーリックとは気が合いすぎる。こうして話しているだけで相手の考えていることがだいたい理解できる。相手もおそらくは同じであろう。自分のパートナーとしてこれほどの人物はいないかもしれない。だがそれゆえに、自分の存在価値が高まることがないということが分かるのだ。
 ルーリックと自分の視点がほぼかわらないということは、意見を求められたとしても違う視点から提示することが難しい。ルーリックの全権代理は務まるであろうが、ルーリックの参謀にはとうていなれそうになかった。
 ルーリックには、理想主義的な一面を持つアイレスの方がふさわしい。
 そして自分は理想主義を追求するウィルザの下にいることがふさわしい。
 ……まあ、ウィルザと共にいる限り、苦労は絶えないだろうが、これはやむをえまい。
「でも一度俺とアイレスを取り替えてみるのは面白いかもしれないですね。アイレスはうちのウィルザとも相性がいいようだし」
「そうなのか? では期間を定めて実行してみるのもいいかもしれないな」
「ルーリック様、それにセリア。くだらないことで時間を──」
「分かっている、アイレス。本当にお前は固いな」
 セリアが声を押し殺して笑う。アイレスは憤慨したが、ルーリックの手前押し黙った。
「ルーリック様に一つ聞きたいことがあるのですが」
「どうぞ」
「帝国軍というのはつまるところ組織だ。組織である以上、各地にひび割れが起こっているのだと思う。その間隙をつけば、反帝国軍が一同に集えば充分に勝ち目があると俺は思っているのです」
「それで?」
「ですが、ルーリック様とアイレスの様子を見ていると、問題は帝国軍ではない、というように見受けられます」
「何故そう思った?」
「二人がやろうとしていること。それは反帝国の志を持つ勇者をひそかに懐に招き入れ、きたるべき戦いに備えているということでしょう。だとすれば帝国軍は問題にはなりません。なぜなら、帝国軍同士が相討つような状況を作り上げることは不可能ではないからです」
「正しい」
「未だ帝国に服属しない諸外国、そして反乱軍、さらには帝国軍の同士討ち。このような状況で帝都を空にして、ルーリック様は一挙本丸をつく。だがそれならば何故、それほどの精鋭部隊が必要なのか。それほどの敵が、皇帝の周りにはいるということなのか」
「……わずかな情報でそこまで洞察できるとはたいしたものだ」
 アイレスはとても信じられないというふうに、セリアを見つめた。だが納得はできた。だからこそ、自分はセリアにはかなわないのだ、と。
「私たちが恐れているのはたしかに帝国軍ではない。帝国軍など今日明日にでもその勢力を瓦解させることはできる。もっとも、それは皇帝に気づかれないように、少しずつ行う方がのぞましいのだがな」
「では、問題は何だと?」
「親衛隊だ」
「親衛隊。先程の、ヴァールとかいう男の所属する部隊ですか」
「会ったか。奴はどう見えた」
「アイレスと同じことをお聞きになるのですね。まあ、自分ではかなわないでしょう。あれほどの武将、戦士が帝国にいたのかと驚いたばかりですよ」
「やつはあれでも下っぱだ。親衛隊のほとんどはあいつよりも実力のある戦士が揃っている。その数が百人弱」
「なるほど。精鋭が必要になるわけですね。分かりました」
「分かった、とは?」
「ルーリック様が皇帝を殺しに行く時は是非ご連絡を。自分とウィルザ、反乱軍で最高の戦士二人がかけつけますので」
「その言葉、信じていいか?」
「私はこの大陸を救うと、昔ある人物と誓ったのです。その誓いを果たすためにも、必ずルーリック様の考えに沿うように行動させていただきます」
「感謝する」
「いえいえ。そもそもこっちはこっちで好き勝手にやってる身分ですからね」
「それにしても、本当に残念だ」
「何がです?」
「お前が、私の部下になってくれなかったということが、だ」
「俺もあなたを主君にできなくて残念ですよ」






「悪かったな、アイレス」
 陣から少し離れたところ、ラヴランへ通じる道の途中に二人がいた。もうじき夜が明ける。今回の作戦についてルーリックと話し合っていたらかなりの時間を費やしてしまった。名残惜しくはあるが、もう帰らなければならない時間だ。
「なに、気にはしていない。君が来てくれて、本当によかったと思っている」
「俺も安心したよ、お前の主君が立派な奴でな。なあ、アイレス」
 セリアの、いつにない真剣な表情にアイレスも身を正した。
「なんだ?」
「俺、もう迷わないよ。本当はお前とずっと一緒にいたかった。でも今はそう思わない。この大陸の未来を託せる二人の人物がいる。俺とお前が分かれてその二人に仕えていることで、結果的にこの大陸を救うことができると思うんだ」
「ああ、そうだな。自分もそう思う」
「だからこれは、別れなんかじゃない。あの時の誓いを果たすために、お互いがすべきことをするだけのことなんだ」
「そうだな」
「なんだよ、素っ気ないな」
「そうではない。そうではないんだが……自分はそれでも、寂しく思う。君が少し大人に見えた」
「アイレス」
「自分はいつでも、君を置いてきぼりにしてしまった。だが今回は自分がそうなろうとしている。君に二回もこんな気持ちを起こさせてしまったのかと、とても後悔している」
「やめろよ、お互いがそう決断しただけのことだぜ」
「セリア」
「たしかに俺、あの時お前に一緒に来てほしかった。でも違うんだ。俺は、お前に遠慮したっていう、それだけの理由であの時何も言わなかったわけじゃない」
「セリア?」
「今だから言うよ。俺、お前に嫉妬していたんだ。お前には父も母もいるのに、俺は母さんを失って、父親は」
「やめろ、セリア。聞きたくない」
「お前だって、うすうす気づいてるんだろ? そう、父親は俺が殺した。あんな奴、父親と呼ぶことすらおぞましいけどな」
「セリアッ!」
「静かにしろよ。見回りの奴が気づくだろ」
「あ、ああ、すまない」
「まあとにかく、俺はそんな嫉妬のせいで、お前を同じ目にあわせたいと思っていたのさ。一緒に連れていけば、お前は家族を失う。その誘惑はちょっとしたモンだったぜ」
「やめろと言っているだろう。自分は……君の懺悔など聞きたくはない」
「懺悔、ね。たしかにそうかもしれないな、悪かったよ。でも、今のは俺の本心だ。だから、お前が悔やむことなんかない」
 セリアは笑顔を浮かべていた。自分をあざ笑っているのは明らかだ。その笑顔が、アイレスには痛々しかった。
「自分は、君のためなら全てを捨てることだってできた。そうだろう? 自分たちは、いつだって二人だった」
「ああ、そうだな。そう思うことにするよ。そろそろ、白んできたな」
 東の地平線が、少しずつ明るくなってきていた。アイレスは大きく息を吐いて頷いた。
「またな、セリア」
「今度は寂しいことなんかないさ。お互い、いる場所は分かっているんだ。会いたかったらいつでも会える。連絡だって好きなときに取れるんだ」
「そうだな。次に会える時を楽しみにしているよ」
 二人は、最後に握手を交わした。次に会う時がいつになるのかは、まだ二人には分からない。だが二人とも、そう遠くない未来なのではないだろうか、というかすかに予感めいたものを覚えていた。






 アイレスは陣に戻るとまっすぐにルーリックのテントへと向かった。セリアとの会話が徹夜の作業となってしまった。今から眠る時間はもうないであろう。お互いこのまま出立まで時間を潰す必要があった。
「遅かったな、アイレス。セリアと一緒に行ってしまったのかと思ったぞ」
 入ってくるなり、ルーリックは悪口を叩いた。アイレスは苦笑するに止めて、近くの椅子にかけた。
「よい友人を持ったな、アイレス」
「恐れ入ります。随分、セリアのことを気に入ったようですね」
「あれは、私の分身だ」
「分身、ですか」
「何も言わなくても、私のことは全て察するだろう。逆に、私が何を狙っているかを説明する必要もないから、全てを任せることができる。セリアに任せておけば反乱軍は大丈夫だろう。あとは連絡を受け取るだけでいい」
「少し嫉妬しますね。自分よりもセリアの方が優秀であるということは認めますが、こうもあいつを高く評価されてしまうと」
「私がお前を必要とするのは、セリアのそれとは異なる。二人とも手元にいれば私も安心なのだがな」
 ルーリックにとって、自分がどれほど必要とされているかということはよく分かっている。だから本気で言ったわけではなかった。アイレスにしてみると、セリアを高く評価されることは自分が誉められることよりもずっと嬉しいことであったのだ。
「少し、昔話をしようか」
 ふと、ルーリックはそう呟いた。その表情に少し陰りがある。ルーリックのこういうところを見るのは初めてであった。
「それはかまいませんが」
「前から、私はお前に聞いてもらいたかったことがあるのだよ。言うなれば、懺悔、だな」
「懺悔……でございますか」
 先程のセリアとの会話を思い出し、少し顔をしかめた。
「そう、私は帝国を、大陸を救うためにいくつもの罪を重ねてきた。民間人をこの手にかけたことからして、数えきれないほどある。だが、たった一つ、私の心に引っ掛かっているものがあるのだ」
 アイレスはただ黙って聞いていた。これは、ルーリックの独白だ。自分が合いの手を入れる必要はないであろう。
「あれはもう九年も前になる。まだ大隊長だったころのこと、私が小村狩りを任命された時のことだ」
 小村狩り。今でこそもはやなくなってきているが、数年前までで帝国軍の大隊長のほとんどが経験したという。二百人近くの大隊長たちの手によって殺された人の数は、まさに無数といってよかった。当然、ルーリックもその中の一人である。
「私に人を殺す勇気がなかったわけではない。だがまだあの頃、私は何のために人を殺すのか、何のために帝国に属しているのかということに明確な答を持てないでいた。あの小村狩りは、私にそのことを決定づけさせるものだった。私は……罪を犯したのだ」
 罪とは何であろうか。法に触れることであろうか。少なくともルーリックの言葉の意味としてはそれは相応しくない。帝国軍人には人を殺す権利が与えられているのだから。だからそう、ここでいう罪とは、ルーリックの心の中にある罪悪感というものであった。
「私の目の前に一組の兄妹がいた。私は任務を実行するためにその兄を殺そうとした。そこへ妹が飛び出してきた。その時に思ったのだ。私はいったい、何をしているのかと。ただ日々をつつましく暮らしているこの兄妹を殺す権利など誰にもあるはずがない。それが分かっているのに、自分は何をしようとしているのか、と」
 あの時、自分には分かっていた。彼らを殺す必要がなかったことに。結局、兄は殺さなかった。止血はしたのだから、運がよければ今でも生きているはずだ。それならば、妹を殺す必要は決してなかった。だが自分は妹を殺した。
「私は誓ったのだ。このようなことがまかり通る現在の帝国は間違っている。自分の手で必ず変えてみせる、と。そのために、どのような悪行にも怯まない覚悟を持たなければならなかった。いや、それは言い訳にすぎない。私は、自分がその覚悟を持つための生贄に、あの妹を利用したのだ」
 そう、殺す必要はなかった。ただ、自分が生まれ変わるきっかけがほしかっただけなのだ。
「私は帝国を変えるためではなく、自分が生まれ変わるためにあの妹を殺した。帝国のため、大陸のための犠牲ならば私は人を殺すことにためらいはしない。だが、あれはそのような理由があったわけではないのだ。きわめて利己的なもののために、あの妹の命を奪ってしまったのだ。人を殺すことに差異などないかもしれないが、必要のない人殺しであったということを考えれば、この罪は他のどの罪よりも重いだろう」
「兄は、どうなさったのですか?」
 あえて口を挟んだのは、ルーリックの思考を正常に戻すためであった。このまま主観的に話を続けていけば、強い後悔に囚われて帝国を打倒するという決心が揺らいでしまうかもしれない──とは言い過ぎであるかもしれないが、精神に調和が保たれなくなる危険は高い。それを元に戻すためにも、アイレスはあえて声をかける必要があると判断したのだ。
「致命傷ではなかった。運がよければ今でも生きているだろう。兄を生かしたことで免罪になるなどとは考えていないのだ。ただ私の罪を清算してくれるものがいるとすれば、あの兄以外にはいない。そう思っている」
 あの兄にならば自分は殺されてもいい。目的を達成したあとならば、だが。
「名前は、ご存じないのですか」
「知らない。あえて調べなかった。名前に囚われることを恐れたからだ。ただ、あの兄の涙と、怒りの表情は決して忘れない。今でも目を瞑れば明確に思い出せる。会えば一目で分かるだろう」
「ルーリック様」
「うん?」
「出すぎたこととは承知しておりますが、今は帝国の打倒だけを考えられますよう。罪を清算することはその後でもよろしいと思います。その時は私もお供いたしますので」
「ばかなことを。お前は生きてティアラと幸せになってもらわなければ困る。唯一、私にできる人らしいことなのだ。これだけはゆずれないぞ」
「ですが」
「本当は、お前に私の罪を清算してほしかったのだが、ティアラのことを考えるとそうもいかないだろう」
「ご自分の死など望まれますな。ルーリック様には、生きてこの大陸を統治していただかなければなりません。それが革命をなしたものの、義務なのですから」
「義務、か」
 ルーリックは鼻を鳴らした。
「よかろう。お前の言葉にのることにしよう、アイレス。ただ一つだけ。あの兄が私の目の前に現れたなら、私でもどういう行動をとるかどうかは分からない。それだけ、覚えておいてくれ」
「かしこまりました」
 答えつつ、アイレスは決心していた。
 決して、その人物とルーリックとを会わせてはならない。ルーリックの決心がぐらつくようなことをさせてはならない。場合によっては、自分の手でその人物を殺さなければならないだろう。いや、その人物が生きていると分かった時点で、始末しなければならない。
(自分も、あなたの毒に汚染されているようですよ、ルーリック様)
 この人物についていくと心に誓ったあの時から、自分はこの人と罪を共有するのだと決めている。そのための覚悟も、既にできている。
「ところで話は変わるが、面白い情報が先程飛び込んできた」
 ルーリックは一枚の紙を取り出し、アイレスに手渡した。その紙をざっと流し読みして、表情が強張る。
「これは、帝都からの情報ですか?」
「ああ、部下がすぐに連絡をくれた」
 その紙には、ざっとこのようなことが書かれてあった。
『反乱軍によって殺されたアリュシア伯爵の変わりに領内を収める者として、デルヴィス伯爵が任命された。伯は既にアリュシア伯領に向かって出発した』
「デルヴィス伯といえば、帝国でも生粋の皇帝派。残忍で人殺しを好む趣味があるという噂がありますが」
「事実だ。あの男は生きていても何の役にもたたない。あの男の存在は大陸を枯渇させるだけだ。早いうちに始末したかった。これは好機というべきなのかもしれないな」
「好機? まさか、デルヴィス伯を暗殺するのですか?」
「そうだ。アリュシア伯も決して優れていたわけでも人格者だったわけでもないが、デルヴィスの豚に比べれば充分に人間だった。奴が統治するとなるとアリュシア伯領の人間は死滅するだろう」
「そこまでのことを、本当にするでしょうか」
「一時期の小村狩り。あのほとんどは旧デルヴィス伯領で行われた。それも伯が皇帝に申請してのことだという」
「それは、聞き捨てなりませんな」
「その結果、旧デルヴィス伯領から人の影はなくなった。逃げだした者が半数、殺された者が半数だ。それ以後伯は帝都でずっと暮らしていたというが」
「新たにアリュシア伯領を手に入れたとなると、同じ惨劇が繰り返されるということでしょうか」 「その可能性は高い。だからこそ排除する必要がある」
「現在『戦士』はこちらに五十名を連れてきております」
「五十か。暗殺するには人数が足りないかもしれないな。だが、やるしかない」
「分かりました。早急に対策を練ります」
「頼む。必要もない殺しは、もうこれ以上したくないからな」










第捌幕

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