第捌幕
行かせるべきではなかったのかもしれない。
セリアにとって、アイレスという人物がどれだけ大切な存在であるかはよく分かっているつもりだ。自分など、比べものにならないということ。それだけ二人の絆は強固だ。
行かせたのは、単なる強がり。本当は行かせたくなかった。そんな気持ちをセリアに知られたくはなかった。知られたらきっと『俺はお前のものじゃない』と怒りだすだろうから。
でも、自分にとってセリアは唯一信頼できる仲間、友人。誰にも渡したくはない。傍にいてほしい。自分を助けてほしい。
「はあ、なんか片思いしてる気分」
そんなことをセリアの前で言ったら、また殴られるだろう。いつものやり取りを思い出して頬が少し上がる。
あれから四日。順調にいけば、今日には帰ってくるはずだ。とにかく今は信じるしかない。セリアが戻ってくることを。
「信じる、か」
『信じる』とは、疑念や不安をかき消す行為。自分自身にそう言い聞かせる行為。そうしなければ、今の自分は押しつぶされてしまう。
「だめだだめだ、こんなことじゃあ」
今は考えることをやめよう。セリアがもしも今日中に帰って来なければ改めて考え直せばいい。
もっともその考えないということも、不安を打ち消す行為に他ならないことは承知しているのだが。
ウィルザは改めて山頂から眺め下ろす。既に帝国軍はラヴランを包囲している。後背のテシャス峠の方にまで兵がいないのは、自分たちに逃げ道を作ってくれているのだろう。
「そこまでしてもらわなくても、逃げ道なんていくらでもあるのになあ」
それとも伏兵をしかけているのだろうか。だがこちらの哨戒網に引っ掛からないということは、別働隊の存在は皆無であろう。ルーリックからの使いであるミレーヌも、そのようなことは何も言わなかった。
準備は整っている。ラヴランに足を踏み入れた者には容赦はしない。
「ラヴランは、聖地」
少なくとも自分にとっては大切な場所。唯一帰るべきところ。妹の眠る土地。
ラヴランを汚すことは許さない。
「兵の動きからすると、これは夜襲をかけてくるかな。いや、もう数日このまま膠着するかもしれない」
天才的な戦略・戦術家であるセリアがいるためにあまりその能力を発揮する機会は少ないが、ウィルザもまた稀なる戦術家であった。その知識のほとんどは実戦で身につけたものと、セリアからの受け売りになっているものであり、教師であるセリアが舌をまくほど戦術家としての能力は高い。特にその状況判断能力にはめざましいものがある。自軍と敵軍の双方を合わせ見て、負けないためにどのような策を用いればいいかを講じることに非常に長けている。
言うなれば守勢に強いというわけであるが、そのウィルザから見てもラヴランを捨てなければならないと決断させるほど今回の戦いは劣勢である。五つの砦を全て放棄して、道連れにできる敵の数はおよそ五千といったところであろうか。それでも第二軍、従軍しているのが今回第四軍と第十三軍であるということであるから、五千がなくなってもほんの一部にすぎない。正面から戦うだけ無意味なのだ。
「まあ、ラヴランのことは部下に任せても大丈夫だけど」
ルーリックからの報告で気掛かりなことがある。それをどうするか、早くセリアと相談したかった。
セリアが目の前に現れたのは、それからたった三十分後のことであった。
「セリア……」
感極まって、ウィルザは抱きついていた。
「こら、ウィルザ! 帰ってくるなり……ったく!」
ごつん、という音がする。ウィルザは両手で頭頂部を押さえてうずくまった。
「痛いよ、セリア」
「お前が抱きついてくるからだろう、気色の悪い!」
「僕としては体全体で喜びを表現しただけなんだけど」
「口で言え口で!」
「そう? じゃあ、帰ってきてくれて嬉しいよ、セリア、愛してる──」
今度はセリアの足が腹部に入った。がふっ、と呻いて両膝が大地に落ちる。
「やっぱり帰ってくるんじゃなかったぜ……」
心からうんざりしている様子がはっきりと見てとれた。ウィルザは苦笑しつつ、腹を押さえて立ち上がる。
「そ、そんなこと言わないでよ、セリア。ずっと君のことを待ってたんだよ?」
「ああそうだろうな。だがもう一度同じことを言ってみろよ? 今度こそお前を見捨ててやるからな」
「そんなあ。偽らざる本心なのに」
「じゃあな、ウィルザ」
「ああっ、じょ、冗談っ! 本気にしないでよセリアッ!」
セリアはかなり本気で怒っている様子であった。あまりに嬉しかったとはいえ、少しはしゃぎすぎていたかもしれない、と深く反省する。
「それはさておき。で、どうだった? ルーリック第二軍将軍閣下に会った感想は」
「まったく、初めからそう真面目でいろよな。まあそうだな、この大陸を任せられるという点では、お前と五分ってところかな」
「へえ? それでよく」
こっちに帰って来る気になったね、と言おうとしてウィルザは止めた。
自分とルーリックが五分だというのなら、親友がいる分、セリアがこちらに帰ってくる可能性は薄かったのではないだろうか。それでもなお帰ってきてくれたのは、自分に義理を立ててくれたのか、それとも自分を主君と認めてくれたからなのか。
そのどちらなのか怖くて聞けなかった、というよりは質問することでセリアの機嫌を損ねることが怖かったというのが本音であった。
「アイレスがあいつを選んだ理由がよく分かるよ。お前みたいに不真面目じゃないからな。それに極めて現実的で、目的のためには手段を選ばないって感じだな。そう考えるとアイレスがあいつを選んだ理由が分からなくなる。あの男についていくのは骨が折れるだろうな。逆に俺の方が、ルーリックには合うだろう。考えていることがあまり異ならないからな。あとは……そうだな」
「随分高く評価しているんだね」
「お前さえいなければ即、忠誠を誓っていたな。まったく、お前に出会ったのは俺の人生で最大の失敗だったかもしれない」
「ひ、ひどい言われようなんですけど」
「事実だからな。ま、そんなわけで充分に信頼できる相手だということが分かった。今後は俺とアイレスとで、ミレーヌを介して連絡を取り合うことになっている」
「了解」
「なんだよ、むくれやがって」
「それは当然だよ。自分よりも高く評価されて嬉しいはずがないだろう」
「お前、むくれたふりをして、俺に言いたくもない台詞を言わせたいだけなんだろう?」
挑発的に、セリアは微笑む。それを見てウィルザはため息をついた。
「お見通しか」
「そういうこと」
それだけの能力と可能性を秘めたルーリック、そしてセリアの親友であるアイレス。その二人を振り切ってまでここに帰ってきたという事実。それはセリアが二人よりもウィルザを選んだということに他ならない。
義理を立てるためだけにそこまでするほど、セリアは情に熱い人物ではない──アイレスとの友誼を除けば。しかもその友誼を捨ててまで自分のもとへ戻ってきてくれたのだ。
つまり、自分の可能性にセリアは賭けてくれたのだ。
「ありがとう、セリア」
「最初から素直にそう言えばいいんだ」
会心の笑みを見せる。セリアには、その笑顔が一番似合う。
「それで、俺がいない間こっちで変わったことはなかったか?」
「特別何も。もう準備は全部整ってあるし、敵さんが出てくるのを待っているところかな。それよりちょっと、いやだいぶ気になっていることがあるんだ」
ウィルザの珍しく真剣な表情に、セリアは少し驚きつつも態度を変えずに問い返す。
「へえ、お前がそんな風に言うなんてな。相当ヤバいことか?」
「例のアリュシア伯領。僕らが倒したアリュシア伯爵の後任に、デルヴィス伯爵が登用された。もう既にこちらに向かっているらしい。二、三日後には到着するはずだ」
「デルヴィス伯? あの、帝国きっての人でなしがか?」
「さすがに、今回ばかりはやられたって感じだよ。こんなことならアリュシア伯を倒すべきではなかったかもしれない」
「帝国領内で奴の悪名を知らない者はいない。奴一人のために、いったい何万人が血を流したか」
「そう。旧デルヴィス領の人間はそのほとんどが虐殺された。僕の妹を含めて」
「……それは初耳だな」
「ま、妹の話をしたことからして、つい最近のことだからね。そう、僕が住んでいた村は、デルヴィス領に属していた。奴が帝国軍を利用して、次々と小村狩りを行った。奴のために滅ぼされた村は全部で十四。残った村に住んでいた人々も他領、他国へ逃れていった。今では旧領は無人の荒野と化している。僕の村も、今では……」
ちょうどその時、二人の間を突風が駆け抜けていった。
「……僕にとっては、奴こそ妹の仇だ。実行犯もいただろうし、奴の所業を認めた皇帝ももちろん許さない。だが、奴さえいなければ妹は死ななかった。あの豚だけは何としてもこの手で殺す」
ウィルザにとって、その冷静さを失わせることがあるとすれば妹に関わることでしかない。セリアは前に妹の話を聞いた時からそのことを分かっていたつもりだった。だが、その憎悪がここまで激しいものだとは思ってもいなかった。
山頂から帝国軍を見下ろすウィルザの顔は、鬼相、とでも言うべきものであった。単なる怒りや復讐心では、もはやありえないものであった。それほど、ウィルザが妹を思う気持ちは強いものであったし、それを奪った仇に対する激情は、決してセリアには計り知れないものであったのだ。
(もしかしたら、俺よりもずっと帝国を憎んでいるんじゃないか?)
今まで、セリアは自分が一番帝国を憎んでいると思っていた。だが、こういうウィルザの姿を見ると、その気持ちも浅薄なものであったのかもしれない。
(俺には、まだアイレスがいたからな)
唯一を失った者と、唯一がその手に残った者。ウィルザの気持ちはきっと自分には分からないのだ。
「その情報、どの筋から流れてきた?」
「ルーリックからの連絡さ。皮肉を言われたよ。僕らがやったことは事態を悪化させることになった、てね」
「そうか」
「何か、気になることでも?」
「いや、もしかしたら罠かもしれないと思っただけだ」
「罠?」
「反乱軍にはデルヴィス伯を憎む奴は多い。帝国軍がせまった今、目の前に伯という撒き餌をちらつかせて、俺たちに正面決戦を挑ませようとしたのか、と思っただけさ」
なんといっても時期がよすぎる。何故このタイミングで後任を定めたのか。しかも伯は既にこちらに向かっているという。戦場がすぐ隣だというのに。まるでこちらを誘っているかのようではないか。
「考えられなくもないね。でも罠だろうとなんだろうと、僕は行くよ」
「ウィルザ」
「反乱軍はセリアに任せる。現場を統率する者が必要だろうし、それにこんな危険なことにセリアを巻き込むつもりはないんだ」
「まあ待て」
「止めても、僕は」
「誰も止めるつもりはない。少し落ちついて、確実に奴を仕留める方法を考えようと言っているだけだ」
「……セリア?」
大きな目がますます大きくなって、セリアを見つめてくる。綺麗な碧眼が、不思議そうな色をたたえていた。
「俺も行く」
「ちょ、ちょっとセリア」
「俺はお前を選んだんだ。むざむざ死なれたら困るんだよ」
「でも危険だし」
「一人で行くより二人の方がいいだろう。それに、お前が怒りで暴走した時に抑える人間が必要だ」
「……僕、まるで信用されてない?」
「信用されるようなところが破片でもあればよかったんだがな」
苦笑しつつも、内心ではそのことが一番気掛かりであった。
ウィルザが妹の死を悼み、仇を憎む気持ちは半端なものではない。セリアが止めたとして、はたして静止するかどうかは疑問であった。その結果、取り返しのつかないことにならなければいいのだが。
「でも、反乱軍はどうするの? 誰も指揮統率しなかったら」
「お前のことだ。どうせ俺たち二人がいなくても対応できるように指示してあるんだろう。あいつらなら大丈夫さ」
「だといいけど」
「だいたいお前、俺に一緒に来てほしいんだろう? 素直にそう言えよ」
軽く、ウィルザの頭を小突く。
「……ありがとう、セリア」
「なに、そうと決まれば早速悪巧みの相談しようぜ」
「そうだね。あ、でもその前に、ちょっと寄りたいところがあるんだけど」
「それはかまわないが、どこへ行くんだ?」
ウィルザは、笑顔を浮かべた。だが、その笑みはあまりにも悲しいものであった。
「妹の墓。もう来ることはないだろうから」
アリュシア伯領は帝国においてそれなりに重要な場所であると言えるであろう。帝都から南方へ向かう場合、ウルバヌ山地のテシャス峠を抜けるか、それともアリュシア伯領を通過するか、そのいずれかとなる。貴人が輿に乗って移動するとなれば、険しい峠を抜けていくよりは平坦な道を行くことになるだろう。従って領内を南北に縦断する道は、帝国において要路の一つとなっているのである。
よって、ここを統治するアリュシア伯は決して領民を死滅させてはならなかった。それは別段難しいことではなかったが、決して人道的とはいえない人物にしてみるとそうでもなかったらしい。領土は荒廃の一途を辿っていた。領民は次々に虐殺された。反乱軍が伯を倒す決意を固めたのはそういう事情による。
だが、その後任に選ばれたのはその伯を上回るほど残虐きわまりない男であった。領民が安堵したのも束の間、新たな暴君が現れたということになる。デルヴィス伯が統治する以上、このアリュシア伯領は死滅したも同然であった。皇帝は何故、このような人為を行うのか。まともな神経の持ち主であればデルヴィス伯の登用には二の足を踏むであろうに。もっとも殺傷権などというものを創設する皇帝にまともな神経というものを期待する方が間違っているのかもしれない。
だからこそ、剣をとって戦わなければならないのだ。上が殺傷権などというものを振りかざして自分たちを虐殺しようとするのであれば、自分たちは武器を持ち、抵抗する権利があるということを示さなければならない。自らそれを実行しなければならない。人として、生きる権利を認めさせなければならない。
ウィルザたちがやろうとしていることは、まさにそういうことだったのである。
二日が経ったが、まだ戦端は開かれていなかった。ウィルザとセリアにとっては少しでも遅くなる方が都合がよかった。速やかに目的を実行して、ラヴランへ、もしくはヴェルフォアへ戻る。今後の展開しだいではそれが充分に可能なのである。
「エルフィアの館。奴は今日、あそこに泊まっている」
星空の下、暗闇の中にウィルザとセリアの二人がいた。二人の視線の先には巨大な建物がそびえ立っている。
「案外警備は薄いな」
「帝国軍が反乱軍を抑えているから、安心しているんだろうな」
「そうでなければ君が言う通り、罠、か?」
「ルーリックが俺たちを罠にかける必要はない。罠を張るとしたら皇帝だろう。だが向こうだってこっちが二人で襲撃をかけるなんていう推測はしないはずだ。だとしたらこれが罠である可能性は薄いな」
「うん。じゃあどこから侵入する?」
「裏手が王道だな。見張りが少なければそのまま侵入、多いようなら塀を乗り越えるしかないな」
「そうしよう」
二人は頷いて素早く、音を立てずに移動する。いくら見張りが少ないとはいえ、用心をするにこしたことはない。
「見ろ、ウィルザ。敵は一人だ」
「本当に? 隠れているのではなくて?」
「襲撃を警戒していないのだったらそんなことをする必要はない。逆に警戒しているのだったら一人で見張りに立つことはないだろう」
「なるほど」
「行くぜ」
「うん」
二手に分かれ、その見張りの兵士にゆっくりと、タイミングを合わせて近づく。
そして、一気に飛び掛かる。
「な、うっ」
ウィルザが兵士をはがい締めにし、セリアが片手で口を塞ぎ、もう片方の手に握られたナイフを首筋にあてる。
「静かにしていれば、殺しはしない」
兵士は小さく、震えながら頷く。セリアは手を離して相手の口を自由にした。
「よし。館の鍵はお前が持っているな?」
「こ、腰のベルトに」
空いた手でベルトを探ると、そこにキーホルダーがかけられている。ベルトを外し、鍵束を手にする。
「どれだ?」
「ここの扉は、真ん中の赤色の鍵だ」
「なるほどな。それじゃああとは、分かるな? 少し眠っていてくれ」
ごくり、と喉がなる。次の瞬間、セリアの当て身によって兵士は昏睡した。
「ったく、男を脱がせるなんてこれで最後にしてほしいぜ」
それにしては随分手慣れていたみたいだけど、とはウィルザは言わなかった。それを言うと、おそらく絶交ではすまなくなるだろう。セリアが兵士の手を縛っているので、口の方をタオルで縛っておく。
「足も縛っておいた方がいいな」
「そうだね。で、手と足を縛りつけてそのあたりに転がしておこう」
一通り作業が終わると、改めてセリアは手の中の鍵束に目を移した。
「しかし不用心だな。見張りの兵士に鍵束を預けておくなんて」
「本当だね。何もないって思い込んでいるんだろうな」
「ウィルザ。もう一度念を押しておくが、くれぐれも短気は起こすなよ」
「分かってるってば」
最後に目でしっかりと睨む。もし約束を破ったらどうなるか覚悟しておけ、という無言の圧力に、ウィルザは肩を竦めた。
「よし、行こう」
セリアは扉の鍵を開けた。素早く二人が左右に別れる。五秒が経過する。中からは何も反応がない。
目配せをして、ウィルザがゆっくりとノブを回し、少しだけ押し開く。その隙間から、セリアが中を覗き見る。だが、目の届くところには人の姿はない。
再び目を合わせて頷き、まずセリアが、そしてウィルザが中に入った。素早く扉を閉めて物陰に隠れる。
(うまくいったな)
(うん。でも、これからが問題だ)
この館は二階建てになっている。部屋の数も全部で二十からあるはずだ。それらを全て調べていくわけにもいかない。ある程度見当をつけていかなければならない。
(手分けしようか)
(駄目だ。お前は奴を見つけたら暴走する)
(しないよ、誓う)
(絶対に信じられない)
(でも、二人だと何かと動きが取りにくい。逃げるにしても、行動するにしても)
(…………)
ウィルザの言いたいことくらいは分かる。だが同時にその考えも充分すぎるほど読めていた。
こいつは『誓う』などと言っておきながら、それを守るつもりは微塵もない。絶対、自分一人の手でカタをつけるつもりだ。だから自分を傍にいさせたくないのだ。
(いいだろう。お前が二階へ行け)
(了解。居場所が分かったら、すぐに連絡する)
(期待しないで待ってるよ──ちょっと待て、隠れろ!)
通路の向こう側を、一人の男が歩いていくのが見えた。二人はぴったりと壁に体を寄せて、その向こう側を覗く。
(敵かい?)
(当たり前だ。だがあいつ、見覚えがある)
(君に? 何者だい?)
(たしか親衛隊の、ヴァールとかいった)
(親衛隊っていうと、皇帝の身の回りを警護する?)
(普通はそうらしいが、他にもいろいろと仕事があるのだとアイレスに聞いた)
(ふうん)
(気になるな。あいつ、なんでこんなところにいるんだろう。ルーリックの軍にいたはずなのに)
(どうする?)
(俺はあいつを追ってみる)
(僕も行こうか?)
(いや、お前はやることがあるだろう。それを果たしてこい)
(いいの?)
(くどい)
二人は目線を交わし、一度素早く力強く、握手をした。
(またあとで)
(必ず)
別れた後、ウィルザは手頃な階段を見つけて二階へ上っていた。
それにしても、どこにも人影は見当たらない。全く人の気配がない。本当にここに、奴がいるのだろうか。妹の仇、デルヴィス伯は。
さっきのセリアの言葉。あれは自分が単独行動をしてもいいという暗示だろう。その好意に甘えて、自分はしっかりと復讐を果たさなければならない。
「どこにいる」
呟き。だがもちろん反応はどこからも帰ってこない。不気味に静まり返っている館。何故こんなにも、人の気配がないのか。
「行くしかない、か」
覚悟を決めて、ゆっくりとウィルザは歩き出す。この一番奥、もし奴がいるとしたら多分そこだ。
焦る気持ちを抑えつつ、ゆっくりと一歩ずつ奥へと進んでいく。足音を立てないように充分に注意を払い、周りの様子に変化がないか目と耳をこらして、目的の場所へと近づいていく。
(ここか)
そして、二階の最奥、一番豪華なつくりの扉の前にようやく出た。この先に本当に奴がいるのか。それは扉を開けてみなければ分からない。
扉に耳をあて、中から音が聞こえないか確かめる。だが中は静かで、人がいるような気配はない。
(確かめるしかない、か)
そっと扉のノブを触る。別に何もおかしなところはない。ゆっくりと握り、音を立てないようにして半分、回す。そのままの体勢で、三秒待った。
(中からは何も反応がない。気づいていないだけか、それとも誰もいないのか……?)
扉は引き戸になっている。覚悟を決め、わずかに引き開く。
(誰もいない?)
いや、いた。椅子に座って反対側を向いているようだ。こちらには気づいていない。そして他に人がいる様子はない。
(チャンス、なのか?)
こうまでうまく事が運ぶと、今度こそ罠の存在を感じさせられる。だが、この目の前の好機を逃したくはなかった。
(あれほどセリアに止められたというのに……!)
だが、復讐心と怒りの方が、それに勝った。いよいよウィルザはその扉を大きく開け放ち、中に飛び込んだ。
「誰だ?」
椅子に座っていた人物が立ち上がってこちらを振り返る。真っ白な髪、深く刻まれた皺、もう随分初老を感じさせる男であった。だが小太りしているというわけでもなく、体中の筋肉はしっかりとひきしまっている。
「デルヴィス伯?」
「いかにも。卿は?」
この男が。この男こそが、憎き妹の仇、デルヴィス!
「妹の、仇だっ!」
答えもせず、ウィルザは剣を抜いて飛び掛かった。伯もまた、突然のことに驚きつつも剣を抜いてそれを受け止めた。
「なるほど、先程のあれは陽動というわけか。狙いは余の首か?」
「しれたことっ!」
相手が今何を言ったのか判断することもできず、ウィルザは激情に身を任せて剣を振りつづけた。
今ここに、自分の目の前に、妹の仇の一人がいる。それはウィルザにとって、我を忘れるほどに感情を高ぶらせていたのだ。
「死ねっ!」
剣を水平に走らせる。だが、伯は軽く身を引いてそれを回避すると、ウィルザの喉もとを目掛けて剣を突き出してきた。
「くっ」
それをなんとか剣で受け流しつつ、思った以上に伯が剣を使うことに戸惑いを覚えていた。単なる貴族だと思い込み、これほどに武芸の心得があるとは考えてもみなかったのだ。伯と対峙することができれば復讐は果たせると思っていたが、それはどうやら相手を過少に評価しすぎていたようだ。
ただ客観的に見ると、この時のウィルザは少々冷静さを失い、判断能力が乏しくなっていたため、いつも通りの実力を発揮することができなかった、ということが言えるであろう。そしてそのことに本人が気がついていなかった。
しかもそのことに伯は気がついていた。それがさらに事態を不利にしたのはこの後のことである。
「妹の仇……か」
伯は意地の悪い笑みを浮かべ、剣を軽く揺すった。
「ということは、卿は余の旧領民というところか。よく生き残ったものだ。それとも、妹の体を楯にして逃げおおせたのか?」
瞬間、体中の血液が沸騰した。目の前が真っ白になって、ただ大きく踏み込んで剣をめちゃくちゃに振り回した。
「……青い、な」
無論、でたらめに剣を振り回したところで、相手の体を掠めることすらできはしない。逆に伯が繰り出した剣が、ウィルザの左肩を貫いた。
「ぐあああっ!」
左肩に膨大な熱が発生する。剣が引き抜かれ、ウィルザはよろめいて、後ろに倒れた。
「所詮は、その程度か」
伯の声が耳に届き、さらに憤慨するが痛みと混乱とで上半身を起こすのが精一杯であった。そして、その目の前で伯が剣を振りかざした。
その時、扉が再び、音を立てて開いた。そこに、一人の黒く長い髪をなびかせた青年が抜き身の剣を片手に立っている。
(あ……)
その姿を見て、ウィルザは大きく目を見開いた。
(あい、つ……は……)
まさしく、そこに立っていたのはルーリック本人であった。
第玖幕
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