第玖幕
アイレスは部下五十名のうち十名を伴ってエルフィアの館、玄関ホールへ侵入を果たした。
残りの四十名は陽動として、この館の警備をしている帝国軍の一小隊を引きつけている。その隙を見計らって、部下たちの中でも精鋭を連れてデルヴィス伯のいるこの館へ入ったのである。
ルーリックは館に入る前から別行動であった。伯と決着をつけるのはルーリックの役目である。自分たちは館に残っている敵兵を引きつけるという陽動の役割を、今度は自分たちが果たさなければならない。
部下たちはアイレス自らが訓練を施し育てあげた、まさに精鋭である。帝国軍の兵士たちを相手にして負けるはずがなかった。
ただ一つの例外を除けば。
その姿を見た時、体が震えた。部下たちもその様子を見て緊張を走らせていた。まさかアイレスが驚愕する場面に立ち会えるとは思ってもいなかったであろう。
「おや、これは妙なところでお会いしますね、アイレス殿」
「……ヴァール」
何故、ここに。
ヴァールの強さはアイレスと比較してなお上回る。自分の部下たちが束になってかかったところで傷一つつけられるはずもない。そう、まさに親衛隊こそは自分たちの天敵。
「アイレス殿はこんなところで何をなさっているのですか?」
帝国兵の死体が転がった広いホールを見渡して、それでも笑顔で問いかけてくる。状況は当然相手も分かっているはず。それでいてこういう態度を決め込むことで、自分たちに圧力をかけている。
(心理戦にも長けているということか)
それともヴァールの場合、これが天然なのかもしれない。だが、恐ろしい敵であることには何ら変わりはない。
「おや、黙秘ですか。残念ですね、あなたとこうして話をする機会というのは滅多にあることではないのですが」
(たしかにこうして話をするのは、最初で最後だろうな)
今回は、あまりにも状況が非常だ。もっともたしかにヴァールの言う通り、片言の会話ならばともかく、話し合うという機会は今までになかったのだが。
「ボクの方はですね、ちょっと伯爵に用事があったのですよ。まあたいしたことではありません。どうも今夜、賊がこの館に侵入してくるという気配があったので、少し細工をね、していたのです」
「…………」
この場合、優位に立っているのは間違いなくヴァールの方だ。力がある、というだけで自分は圧力を受けている。こちらの動揺を悟られないためにあえて無言を通しているが、それすらもこちらの不安を見せつける結果となってしまっている。
(初めから知っていたんだな、自分たちがこの館を襲撃することを。知っていて、行動させて、ルーリック様と自分をおびき出して……くっ、事を起こす前にこいつの存在を気にかけていれば……)
「それで、アイレス殿はここへ何をしにおいでですか? たしか、反乱軍に対して今夜襲撃をかけるのではありませんでしたか? 討伐軍の総司令官であるルーリック殿を放っておいて、副官兼参謀であるあなたはここで何をしていらっしゃるのか?」
「もう、無意味な話し合いはやめにしましょう」
アイレスはこの心理戦に音を上げた。どのみち、この男に知られた以上、どんなことをしてでも倒さなければならない相手に変わったということなのだ。自分たちはまだしばらく帝国軍に居つづけなければならない。そのために、デルヴィス伯を倒したのが自分たちであるということの証人は、仲間以外全て倒さなければならないのだ。
たとえどれほど、力の差があったとしても。
「それはどういう意味ですか?」
「言葉を取り繕ったとして、この状況から逃れられるはずもないでしょう。分が悪いことは承知していますが、知られてしまった以上はあなたを倒して口を封じなければなりません」
「なるほど、あえて反逆者となりますか。それもいいでしょう。あなたの力はボクも認めていたところですし、よければ親衛隊の一員として推薦したかったのですが」
「ご遠慮、しておきましょう」
「ふむ、残念です。それでは仕方ないですね。ボクはあまり自分の手を汚すことは好きではないのですが、それほど相手をしたいというのであれば」
そして、ヴァールがゆっくりと腰の剣を抜いた。止め金が外れ、鞘が床に落ちる。
部下たちがその音と共に、一斉に襲いかかった。
「ですがアイレス殿、あなたは勘違いをなさっている」
言葉と同時にヴァールは一歩踏み込み、剣を閃かせた。その一動作で二人分の首が宙に舞う。
「!」
人間には考えられないほどの腕力である。しかも驚くべきことには、その動作速度が全く衰えず、まるで素振りをするかのような自然さが見られたということだ。
(人間技ではない)
今のアイレスの三倍の力があったとしても、それは不可能技であっただろう。
ヴァールは最初の一動作で怯んだ相手を次々と葬っていく。剣が一閃するたびに、一つの命が失われていく。自分の大切な部下たちが。
(人間……なのか?)
最後の一人が倒れ、返り血で真っ赤に染まったヴァールがにっこりと笑った。
「分が『悪い』のではありません」
その倒れた部下の頭の上に足を置く。そして、なんとも表現の仕方がない音がアイレスの耳に届いた。
「分が『ない』のです」
アイレスはこの時、生まれて二度目の絶望を味わっていた。
「さて、終わりにしましょう」
ヴァールがゆっくりと近づいてくる。戦ったところで勝ち目がないことは明らかであった。だが、アイレスはそれでも剣を構えた。
「抵抗するのですか?」
たとえ意味のないことだとしても、アイレスは抵抗せざるをえなかった。ルーリックの真意を他に漏らすわけにはいかない。どんなことをしてでも、たとえ最悪の場合相討ちになったとしても、ヴァールだけは止めなければならない。
ヴァールはゆっくりと近づいてくる。その剣の速度、力、共にはるかに自分を上回る。特攻したところで返り討ちにあうだけだろう。であれば、相手の剣を見極めなければならない。それは少なくとも不可能ではないはずだ。
そして回避しつつ、逆撃の機会を狙う。勝ち目の薄い勝負になるが、これが、これですらもっとも確率の高い戦法であった。
「まだ、分かりませんか?」
そのアイレスに、再び魔の微笑みが投げかけられる。
「勝ち目は、ないんですよ?」
戦慄を覚えた。こちらの考えが見透かされている。だが、動揺を表すわけにはいかない。動揺をしているわけにはいかない。少しの迷いが集中力を乱す結果となる。これは相手の作戦なのだ。それにむざむざとのるわけにはいかない。
一歩、大きくヴァールが踏み込んだ。瞬間、大きく飛び退く。少し遅れて、アイレスがいた場所を剣が凪いでいった。
見えた。
はっきりとではないが、ヴァールの腕の振り、剣の軌道、いずれもアイレスの目に映った。これが本気というわけでもないだろうが、これを基準に考えれば回避しつづけることは決して不可能ではない。
「ほう」
ヴァールは感心したような声を上げる。
「やはりボクが見込んだだけのことはありますね。多少の手加減をしていたとはいえ、今の一撃を見極めるとは。ぜひ上に推薦したいですよ。あなたを親衛隊に抜擢するようにとね」
多少の手加減。それがどれほどのものなのかは分からないが、少なくとも完全に手を抜いたというわけではないらしい。
「多少、分は出てきましたか?」
安心したせいか、アイレスも軽口を叩いた。だがヴァールは首を横に振る。
「ありませんよ。あなたの動きはボクには手に取るように分かる。このまま戦ってあなたが勝てる可能性は、ゼロです」
余裕の表情は全く崩れない。だがヴァールがそう言うのだとしても、それを信じるわけにはいかなかった。
「本当に親衛隊に入る気はないのですか?」
「ない」
「ふう。嘘でもあると言っておけばこの場は逃れられたでしょうに。分かりました、そういうことなら」
少し間を置いて、再び剣が走った。剣で受け止めよう、と一瞬思うがすぐに取り止めて回避行動を取る。一振りで二つの首をはねることができる力の持ち主である。下手に合わせては剣をはじかれるか折られるかのどちらかであろう。
「剣で防がなかったのは正しい選択です」
「ヴァール殿の剣を受け止めて無傷でいられるとは思えなかったので」
続く二撃目を、円を描くようにステップを踏んで避ける。さらに喉をめがけてくる突きを、大きく後方に飛んで逃れる。いずれの攻撃もこれまでアイレスが目にしたこともないスピードで行われている。回避はぎりぎりのところで行われている。もうあと少し速かったなら、もう逃げきれないであろう。
「なるほど、では」
ヴァールは続けて、二歩、目に止まらないスピードで踏み込んできた。
「なっ」
気がついた時には目の前にヴァールがいた。剣を振り上げて、にっこりと微笑んでいる。
(この、悪魔は)
アイレスはやむなく剣を掲げた。だが、その剣が触れ合ったと同時に体全体に衝撃が走り、甲高い音と共に剣が遠くへ弾かれてしまった。
(人間のふりをした、この悪魔たちは)
その唇が、さよなら、という意味の言葉を紡いでいた。目には見えたが耳には届かなかった。
(自分の考えが間違っていなければ……ああ、自分はなんという愚かな)
ルーリックの理想が破綻してしまうことが悔しかった。
愛するティアラに最後に一目だけでも会いたかった。
セリアとの再会の約束。どうやら果たすことができそうにもなかった。
(セリア……お前なら、自分の意思をついでくれるか?)
圧倒的な力の前に、アイレスの魂は屈してしまっていた。
だが、その剣は振り下ろされることなく、ヴァールはその場から横に飛びのいていた。
(?)
何が起こったのか、アイレスには全く分からなかった。そしてヴァールの影から現れた人物を目にして、目を丸くして驚く。
「よう、アイレス。手こずっているじゃないか」
「……セリア?」
いつの間にかセリアの手に握られていた剣が、アイレスに投げ渡される。放心状態で受け取り、改めてセリアを見つめる。
「何故ここに?」
「おいおい、その前に何か言うことがあるんじゃないか?」
呆然としながら首を傾げ、思いついたように答える。
「助けてくれてありがとう、セリア」
「よし。ま、俺がどうしてここにいるかは後に置いて。先にあいつだな」
二人の視線の先に、笑顔を消したヴァールが様子をうかがっていた。
「たしか、ボクにリュシアって紹介した人でしたね」
「お前はヴァールだったな。見てたぜ、人間技じゃないな、今のは」
あの後。セリアはヴァールを追ってこのホールまでたどりついていた。そしてそこで、アイレスに悪いとは思いながらも、戦いの一部始終を見学していた。その結果分かったことがある。
「アイレス。あまり早くに諦めるなよ」
「……?」
「勝てるぜ。俺とお前、二人でならな」
セリアは笑ってヴァールを見返した。
「そうだろ?」
「否定はしませんけどね。分は悪いですよ、相変わらず」
「無いよりはましさ。それに、言葉で言うほど悪くはない。四分六分といったところか」
その言葉が正確であることを示すように、ヴァールの顔が歪んだ。形勢は相変わらず不利ではあったが、アイレスにとっては完全にセリアの方が優位に感じられた。
「アイレス、手は大丈夫か?」
「手?」
「さっきの一撃。まともに受けて痺れてないかって」
言われて気がついた。既に時間が経過していたので、ほとんど残っていないが、確かに手が痺れていた。二度、手を握りなおして「大丈夫だ」と答える。
「それならよかった。あいつを倒すのにお前が万全じゃないと無理だからな。期待してるぜ」
「ああ」
「それなら、始めるか」
セリアがそう言い、いち早く自ら動き始めた。先手必勝、というわけではないのだが先程のアイレスのように守勢に回るのは好みではなかった。
昔からそうだった。稽古をしている時でも常にセリアが先手を討ち、自分が守勢に回って反撃の機会を狙っていた。結果としてそれは、二人が戦士となった時のスタイルに大きな影響を与えることになったのだが。
「なるほど」
ヴァールは頷いて、その剣を軽く受け止め、流す。軽々とそれができるあたりやはり恐るべき相手だが、攻めているかぎり相手の攻撃は最小限に抑えられる。息の続くかぎり、全力で攻撃を続ける。それがセリアの戦法であった。
アイレスもそれにのることにした。守勢のままでは、先程のように先手をうたれるだけだ。こちらが何もしないまま、ただなぶり殺しにされる。こちらが攻撃をしかけなければ相手を倒すことは永遠に不可能なのだ。
「こっちだ!」
アイレスはヴァールの背後に回り込んで、声を上げて襲いかかる。それは無論セリアから注意を逸らすためであるが、同時に相手に気を散じさせる効果も狙っていた。このあたり、セリアよりもはるかに心理戦に長けているといえた。
「ふむ」
ヴァールはアイレスの剣をかわし、わずかに遅れて攻撃を仕掛けたセリアの剣を受け止めた。今度は受け流さず、そのままの体勢でアイレスの行動を監視するように睨みつけている。
(さすがに、簡単にはいかないな)
だが勝機はあるはずであった。とにかく攻撃を繰り返していくことが必要だ。アイレスはセリアとは反対側から斬りかかった。
「残念でしたね」
それを見計らっていたのか、ヴァールは上手に剣を受け流してアイレスと衝突させるようにセリアの体を泳がせた。
「甘いのはどっちかな」
だがそれは二人とも承知していた。アイレスはセリアの体が自分の正面にくることを予測済みであったし、セリアも相手がそうしてくるであろうことは頭の中にあった。セリアは大きく足を踏み込み、その反動で振り返りヴァールの右胴を斬りつける。同時にアイレスはその軌跡と反対方向に回り込んでヴァールの左肩口を狙って突く。
ヴァールの目が見開き、慌てて後方に飛び退こうとする。だが二人の追撃は苛烈であった。体勢も不安定であろうに、セリアはさらに二歩踏み込んでその足元を狙う。アイレスは上段に剣を構えなおして、相手の頭上から振り下ろした。
「くうっ」
初めて、その顔に動揺が生まれる。再び後方に逃れようとするが、既に遅かった。セリアの剣はその場に取り残された左足を直撃し、アイレスの剣は前髪を払ってその隻眼を斬り裂いた。
「かああああっ!」
血飛沫が舞い、ヴァールの左手が目にあてられていた。そして左足に体重がかかり、それが堪えきれずに膝をついた。
「目が、ボクの目がああっ!」
やった、と二人は同時に思った。足を負傷しては今ほどの動きはもはや不可能である。両目を失ってはこちらを確認することすらできないであろう。これで決着はついた。
「とどめだ!」
セリアが勇んで最後の一撃を放とうと、のたうちまわるヴァールに斬りかかった。
だが、アイレスはその時、何か不吉なものを感じていた。あまりにもうまくいきすぎている。こんな簡単にヴァールを倒せてもいいものなのだろうか、という不安と同種のものであったのかもしれない。
その予感は、的中した。
セリアの動きが止まり、その背から血に濡れた細身の剣が飛び出す。
「あ……あう……」
その呻き声が、当然のことながらセリアのものであったとは、アイレスは簡単に割り切ることができなかった。そんな声を聞きたくはなかったし、そんな所を見たくはなかった。
「セリアッ!」
剣が抜かれて、後方に二、三歩よろめいたところでその体を受け止める。さきほどまで血気に満ちあふれていた顔が、今は蒼白と化している。傷口からは、どうやら致命傷ではなかったようだが、どくどくと血が流れている。
そして、ゆっくりとその向こうで、奴が、立ち上がった。
「き、さ、ま、ら……殺す……殺す殺す殺すっ!」
ヴァールが吠えた。そのあまりの変容に、腕の中のセリアのことすら一瞬忘れてしまっていた。だが、相手は足の怪我に加えて目が見えないというハンデがある。今なら、自分一人でも倒せるはずだ。
だが、セリアをこのままにしておくことがはばかられた。一刻も早く止血しなければ、致命傷ではなくても失血死する虞がある。放っておくわけにはいかない。
「アイ……レス……」
腕の中で、セリアが呻いた。
「俺なら……大丈夫だから……」
強がりだということは、長い付き合いからよく分かっている。だが、このままセリアを抱えていても意味がないことを、アイレスも理解していた。
「分かった」
断腸の思いでそう答えるしかなかった。なるべく早くヴァールを倒し、そして手当てをする。それしか二人が共に生き残る道は残されていないようであった。
「殺すっ!」
叫び声を上げて、ヴァールが突進してきた。セリアをその場に下ろし、自分もまた迎え撃つ。
目が見えないというのに、ヴァールは正確にこちらの位置を察知して来る。これほどの剣士となると目が見えなくても戦えるものなのか。さらに不思議なことには怪我をしているはずなのに、その突進には全く怯むところがない。
相手は怪我をしているとはいえ、あくまでも親衛隊の一人。手を抜くわけにはいかない。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ねっ!」
闇雲にヴァールは剣を振り回す。四振り目をかわしたところで逆撃を加えた。相手の左肩を深く貫き、悲鳴が玄関ホールに響く。
「があっ、あっ、あっ」
だが、その血塗られた顔が凄惨な笑みを浮かべた。猛烈な不安が襲いかかり、剣を引き抜こうとする、が、筋肉で締められているのか、何をしてもびくともしない。
「そこ、だな?」
しまった、と思った瞬間剣を手放して離れようとする。だがそれよりも速くヴァールの剣が閃いた。
左肩に、激痛が走る。反対側まで貫かれたということが感覚で分かった。左肩から発生する熱と、がくがくと震える左腕、そして体中に襲いかかる脱力感、吐き気。それらが一斉に生じ、ふらつき、倒れそうになる。必死に堪えるが、立っているのが精一杯であった。
「死ね、死ね、死ね……」
だが、同じ傷──いや、自分よりもはるかに重傷のヴァールは未だ戦闘意欲を失わずに自分にゆっくりと近づいてくる。自分は立ち向かう気力も、得物も手元にはない。
その足が、ぴたり、と止まった。
ヴァールの腹から、先程のセリアのように不意に突然に、血塗られた剣が飛び出てきた。
がふっ、とヴァールが血を吐き、前に倒れた。
「アイ……レス……」
その向こうに、鮮血に染まったセリアの弱々しい笑顔が見えた。
「セリア……」
「無事、か?」
そう言って、ヴァールを追うようにして前に倒れる。
「セリアッ」
充分に足に力は入らなかったが、その体を何とか受け止めることができた。
「セリア、セリア」
「なんだよ、お前。いい男が泣くんじゃない。俺は……大丈夫だから」
息が既に微弱になってきている。急いで止血しなければ命に関わる。
「待っていろ。今、止血を」
「大丈夫。それより、お前は?」
「自分は、そんなに大きな怪我じゃない。君の方が、ずっと酷い。でも大丈夫だ。すぐに手当てするから」
言いながら、既に止血を初めている。セリアはぐっと歯を噛みしめて、その激痛に絶えている。震える手が、アイレスの腕を掴んだ。爪が食い込み、アイレスの腕からも新たな血が流れる。
だが、それもアイレスには心地よかった。セリアの痛みが少しでも伝わってくるような気がしたから。
「……もう大丈夫だ、すぐに外へ」
「まっ……てくれ」
はあ、はあ、と荒く呼吸しながらも、それでもその声ははっきりとしていた。
「セリア?」
「上に……ウィルザが、いるんだ」
「ウィルザ殿が?」
「俺たち……デルヴィス伯を倒しに、ここまで……来たんだ」
「喋るな、セリア」
「あいつ、自分の妹が伯のせいで、殺されて、いるんだ俺が、いなかったら絶、対に暴走して、周りが見えなくなる。頼む、俺を連れていって、くれ」
「駄目だ。ここから動かすだけでも危険なんだ。そんなことは許可できない」
「頼むよ、アイレス……」
「何を言っても駄目だ。それに、ルーリック様も上に向かわれている。あの方に任せておけば大丈夫だ」
「アイレス」
セリアの瞳に、涙があふれていた。こんなになってまで、なお自分の主君のことを心配している。
その気持ちは痛いほどに分かった。自分もルーリックの危機を知れば、自分のことなど顧みずに駆けつけるだろう。
だが、自分はセリアを危地に向かわせるわけにはいかなかった。例えセリアの気持ちを押し殺したとしても、今は体を大切にすることの方が大事だ。
「ウィルザ殿を信じろ。君が主君として選んだほどの人なのだろう。必ず帰ってくると、信じるんだ」
「頼む、アイレス」
「何と言っても、君を行かせるわけにはいかない」
しかしその信念も、セリアが涙をためていった次の言葉には、逆らえなかった。
「俺、お前を、恨むぞ。もしもウィルザが、助からなかったら、一生お前を恨んで、やるからな」
セリアを失うことと、セリアに嫌われること。
どちらもアイレスには選ぶことはできなかった。本当にセリアのことを思うならば、例え嫌われてでも行かせるべきではない。
それは分かっている。分かりきっている。だが、自分はセリアに嫌われたくはないというエゴのために、それを黙認しようとしている。そんなことが、許されるはずはない。いや、許す許さないの問題ではなく、そんな考え方をする自分が嫌でたまらない。
「親友なら、俺の願いを聞け……っ!」
それが、決定的であった。結局、自分はセリアに逆らうことができないのだ、と実感した。
「分かった」
「アイレス……」
「君は狡い」
「…………」
「自分が逆らえないことを知っていて、自分に一番辛い選択を押しつける」
「……ごめん、アイレス」
「絶対に許さない」
「アイレス」
「許してほしかったら、必ず生き残るんだ」
二人の視線が、交錯する。そしてセリアは、小さく頷いた。
「よし……行くぞ」
アイレスはセリアの頭を傷めていない方の右肩にのせ、痛む左腕でセリアの足を抱え上げた。それだけでもはや立っていられないほどの激痛であったのだが、セリアのために、という一途な想いがそれを何とか支えていた。
「大丈夫……なのか?」
「君が心配する類のことじゃない」
つい、口調が怒っている時のものになる。こういうことは、昔もよく何度かあったことだ。
「……ごめん、アイレス」
「…………」
「でも、これだけは、譲れないんだ」
「……その気持ちは、分かるさ」
口では許さないと言いつつも、結局心からそう思っているわけではない。そのことは二人ともよく分かっていた。
分かっていてセリアの思う通りに動いてしまう自分が、何だか情けなくもありおかしくもあった。
「……なあ、アイレス」
「あまり喋るな」
「聞きたいこと……あるんだ。お前、結婚は、したのか?」
「……いや」
突然何を言いだすのかと思えば、予想もしない質問に内心で大いに驚いていた。
「お前、不器用だから……好きな人に、告白できないんじゃないかと……思ってな」
苦笑が、あまりにも弱々しい。
「もう喋るな」
「なあ。好きな奴がいるなら、放っておくなよ……ちゃんと、しっかりと、その人と……」
「セリア」
「アイレスのこと、頼んでおきたいしさ……俺がいなくても、やっていける、ように」
「縁起でもないことを言わないでくれ。君は、自分が死なせはしない」
「ああ、そうだな……でも、これだけは、言わせてくれ」
呼吸が徐々に、荒くなる。
「失ってからじゃ、遅いんだ。いつ死んでしまうか、分からない……だからこそ、今を、大切にして……」
「分かった。そのことは分かったから、頼むからもう何も……言うな」
いつの間に。
いつの間に、セリアは他人のことを心配できるほど大人になっていたのだろう。
いつでも自分のことしか考えていなかった、あの悪餓鬼セリアが。
信じられないことではある。だが、人は常に成長を続けている。君の本質は変わってはいないのかもしれないけど、君は確実にこの七年間で成長している。
そして、成長した君を、この腕の中で死なせるわけにはいかない。
必ず、無事に、生きて。
第拾幕
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