Lv.7

他者の存在が自らを育てる








 さらに次の日である。
 就寝が早いルナは必ず朝の三時には目を覚ます。そしていつものように朝日の昇る前に軽く小高い丘までランニングを行い、丘の上からダーマ市を見下ろす。
 それから(私は賢者になる)と言い聞かせて山を下る。
 所要時間、二時間と二十分。それが自分を鍛えるために使っている時間。
 戻ってくるとまた身を清めて、それから朝食。
 食べ終わってまだ時間があったので『魔法基礎理論一』を流し読みし、時間になったころを見計らって、五階へと向かった。
 あれから三日が過ぎた。今日はまたラーガの下でいろいろと教わる日だった。
「ナディアに鍛えられたそうだな」
 昨日、倒れるまで訓練を受けたことをまず言われた。
「はい。とにかく魔法力を鍛えるには全ての魔法力を出し尽くさないといけない、と」
「一度魔法力を空にする。すると魔法力が回復するのに加えて、魔法力の最大値が上がっていく。ナディアはそのことをよく知っている。だからこそ、このダーマでも賢者に匹敵するほどの魔法力を持っているのだ。あの子はあの子なりに、お前を鍛えようとしてくれているようだな。最初は大丈夫かと思ったのだが」
「最初は?」
「うむ。ワシがお主を弟子にしたものだから拗ねてしまってな。自分を教えてくれたことないのにどうしてお主ばかり、とこういうことらしい」
「ですが、ナディア師はこのダーマの教官では」
「関係ないよ。賢者から教わることがどれほど貴重か、お主にはまだ分からぬだろうが、それは大変なことなのだ。お主は少し、自分の身の幸運を考えた方がいいだろう」
「はい。心します」
 その機会を作ってくれている相手から言われるのだ。かしこまらずにはいられない。
「さて、本は全て読んだのだな?」
「はい。分からなかったところは図書館で調べ、昨日は実践してきました」
「よろしい。これから簡単なテストをする。字は書けるな?」
「はい」
 読めるのだから書くことも当然できる、というのは甘い考えだ。そこにあるものを読む能力と、何もないところに書き出していく能力は根本的に異なる。その能力は五歳から十歳くらいの時期がもっとも隔たりが大きい。それは言葉を自在に操れるかどうかの差だ。語彙の多いものは文字を書けるが、語彙の少ないものは文字を書けない。
「まず簡単な知識を問う問題だ。これは大丈夫だろう」
 パス、スイッチ、マジックポイント、さらにはセクションやその数、セクションごとの特徴、そして正しい呪文など、初級魔法に関する問題がずらりと百問、ペーパーテストになって存在していた。
「ワシがこの本を一冊読み終わるまでに片付けること。では、はじめ」
 そうして宣言すると、ラーガは分厚い本を一冊めくる。パラ、とめくってものの数秒でまた、パラ、とめくられる。あの厚さからしておそらく二百ページくらい。とすると、一枚めくるのにだいたい五秒くらいだったので、およそ五百秒=八分少々。
 まさに一問五秒、ページがめくられるのとほぼ同時に問題を一問解く。それくらいのスピードを必要とした。
 そして全ての問題を解き終えた瞬間だった。
「ふむ」
 ぱたん、とラーガは本を閉じる。
「たいして面白みのない本だったな。エジンベア学者の本ということだったが、たいした才能のある学者ではなさそうだ」
 興味を失ったかのように、本をわきによけた。たいした才能のある学者ではない、と言いながらも全部読み終えたというのはどういう理由があるのか。自分が全部とき終わるまでの時間つぶしだったのか。
「さて、できたか」
「はい。ちょうど終わりました」
「よろしい。この場で採点をするから見ていなさい」
 正しい解答にチェックをつけていく。次々にチェックがつけられ、最後に正しいパスルートを描く十題をつけていくところで手が止まった。
「このパスルートはどういうことだ?」
 それは解毒魔法キアリー。初級魔法の一つではあるが、第一セクションで四つ、そのうちの二つが第二セクションで三股に分かれるのがマニュアルに載っている方法だ。
 だがルナの回答では第一セクションで三つ、そして二つの分岐のうち三股になっているのは片方だけで、残りはそのままスルーされている。
「はい。基礎理論を読んで実践したときに、何か違和感があったんです。今まで自分が使ってきたキアリーと、ルートが複雑な気がして。それで不要なパスルートがないかどうか確かめてみると、これで充分に唱えられました。複雑なパスルートを描くより単純なルートの方が詠唱が速くなります」
「なるほど。よく自分で気づいたものだ」
 それは褒め言葉なのか分からなかった。ラーガの顔は相変わらず厳しいものだったからだ。
「ここのパスルートが複雑化しているのは、魔法の効果を正しく導くためのものだ」
「正しく?」
「そうだ。お前が三股にしなかった部分は毒素を体外に放出する効率を高める部分、そしてお前が削除したルートは毒素の再吸収を防ぐ効果を生み出すための部分だ」
「放出効率と再吸収防止」
 それはルナも考えていなかった。
 いわゆる解毒というのは、体内の毒素を中和した後に体外に放出する作業をいう。したがって、毒素中和だけならばルナの描いたパスルートで充分に足りる。そして毒素を体外に放出するのは自然治癒できることなので、中和さえできればほぼ問題はない。
 だが、自然放出されるまで毒素の元は体内に残っている。一時的に毒素が中和されたとしても、何らかのひずみで再び毒素が回復することもあるし、体内に異物があるのだから完全に治癒された状態とはいえない。
 しかも自然治癒の場合、体外に放出した毒素の数%は必ず体内に返ってきている。これを何度か繰り返した後に、ようやく毒素は完全に消え去る。当然、毒状態が完全治癒されるまでには随分時間がかかる。それを防止するための効果が再吸収防止だ。
「確かに効果を生み出すためだけならばお主の描いたルートで充分。だが、それは完全治癒となっているわけではない。魔法を唱えるときは相手の体調が完全に回復することを考えねばな」
「はい。申し訳ありませんでした」
「いや。責めているのではない。むしろ感心したのだよ」
 ラーガは全く表情を変えないので褒められているようには感じない。
「お主は与えられるもの全てを無条件に正しいと考えているわけではない。あるときは疑い、あるときは自分で試しながら確認していく。賢者とは知識を吸収するものではない。知識を生み出していくものだ。お主にはその素養が充分にある」
「ありがとうございます」
「ただ、ダーマの賢者がこれだけそろって作り上げたマニュアルを疑われたのではな。さすがに我々も無駄なパスルートの開発を行っているわけではない。もっとも効果を高めるために最適なパスルートを常に研究しつづけている。それこそ話せば長くなるが、あのメラゾーマなど最初にパスルートを考案したときなど、通るルートは五千もあったのだよ。それを単純化、明快化して今ではようやく六九二本まで減った。マニュアルを疑うのであれば、それを削除するのではなく、それが残っている理由まで考えられるようだとよかった。責められるとすればそこだな」
「はい。申し訳ありませんでした」
「うむ。もし自分でマニュアルのパスルートに疑問を抱いたのならば、まずは自分で考えることだ。何故必要なのか、何故不足なのか。そして実践。それでも納得がいかなければ、まずはナディアなり、教官に聞くがよい。彼らでも話にならなければ、そのときは我ら八賢者の出番だ」
「分かりました」
「よろしい。それを差し引けば満点か。さすがによく勉強しているな」
 ラーガはそう言いながらも、心の中では満点『以上』の評価をしている。ただ学びに来るだけの生徒が多い昨今、自分から知識を生み出していこうとする者のなんと希少なことか。それも天然賢者としての素質がある人物が『そう』なのだ。年甲斐もなく感心していても何の不思議もなかった。
「さて、今のお主の学習量ではまだワシが直接指導することなどほとんど何もない。初級魔法をほぼ全て使いこなし、中級魔法が一通りできるようになってはじめて必要となるだろう」
「はい」
「ナディアから報告は聞いているが、三日でギラ、イオまで覚えたと聞いた。成長が早くてワシも将来が楽しみだが、いかんせん、上級魔法を覚えるとなれば一つ覚えるのにも一ヶ月から二ヶ月はかかると考えねばならん。だから中級魔法を覚えるまでの期日を課そう」
「はい」
「三ヶ月だ。これらの本の魔法について全て覚えたときに、またここへ来るがよい」
 そう言ってラーガは別の机を指さす。そこには山積みになった本が一、二、三──
「二五冊。中級魔法の全てだ」
「分かりました」
 これは厳しい試練になりそうだ。ペースだけをいうのなら三日に一つは覚えないと間に合わない計算になる。それをこなすとなれば、どれだけの訓練を積まなければならないのか。だが、放り投げるつもりはない。自分が決めた道だ。最短で賢者になれるのならば、自分はどんなことでもする。
「自由に持っていくがいい」
「はい。まとめてお借りしてもよろしいですか?」
「まとめて?」
 さすがにラーガも顔をしかめた。
「かまわんが、運ぶのも面倒だろう」
「何回かに分けていきます。まずは全て一読したいと思います」
「そうか。ならば自由にするがよい」
「はい」
 よいしょっ、とルナは手始めに五冊、その本を持ち上げた。結構な厚さで、全部自分の部屋まで運んでいくのはなかなか時間がかかりそうだった。
(でもこれで、中級魔法の勉強ができる)
 まだダーマに来て三日。たった三日でもう中級魔法の学習ができるのだ。これが嬉しくないはずがない。
 そうして一度自分の部屋に荷物を運び、また戻ろうとしたときだった。
「おっ、なんか随分急いでるみたいだな」
 現れたのはソウだった。
「どうしたんですか、こんなところで」
「なに、ちょっと用事。まあ呼び出しとも言うけど」
 肩をすくめた一つ上の少年は、自分よりずっと年上のようにも見える。それだけ自分の行動に余裕を持っている。
「で、お前は?」
「はい。私は今、ラーガ師から中級魔法の書物を貸していただけるとのことなので、運んでいるところです」
「中級魔法? なんだ、もうそんなことまで教えてもらえるのか。さすが賢者志望は違うな」
 感心したように言う。
「何冊だ?」
「全部で二五冊です」
「そりゃ大変だろ。手伝ってやるぜ」
 と言って先に立って歩き出す。
「いえ、これは自分のことですから」
「何言ってんだよ。暇な奴捕まえて動かすのがいい女の条件だろ。それに、お前はこれから勉強する時間が一秒だって惜しくなるんだから、少しくらい楽しておけよ」
 何を言ってももう彼は自分の行動を変えないだろう。ここは言葉に甘えておいた方がよさそうだ。
「ありがとうございます」
「なに。また礼は食事一回でいいよ」
「はい」
 ソウと話すのは楽しい。そんなことでいいのならお安い御用だ。
 そうして二人で一往復し、最後の十冊を運んでいるときのことだった。
 階段のところを曲がったときに、下から全力で駆け上ってきた相手と正面からぶつかり、ルナが本を落としながら倒れる。
「いったぁ! ちょっと、どこ見て歩いてるのよ!」
 別に余所見などしていなかった。突撃してきたのは向こうの方で、自分は何も悪くない。
「おいおい、自分からぶつかっといてそれはねえだろ」
 ソウも助け舟を出してくれる。
「何言ってるのよ、突然曲がってきたのはそっちの方でしょ! まったく、こっちは緊急の用件だからって急いでるのに! アンタ──」
 倒れたルナを上から見下ろして、何かに気づいたような顔を見せる。
 金色の髪。左右で縦ロールにして、それが胸まで降りている。ふわふわのピンクのワンピースと、白い手袋に紅いブーツ。どこから見てもお嬢様の格好だった。
「もしかして、あなた、ルナ、って奴?」
 突然名前を言い当てられて少し驚いたが、自分の名前が既に知れ渡っているのは理解している。素直に「はい」と答えながら立ち上がる。
「そう。あなたがあの突然変異。へえー」
 突然変異? いったい何を言われたのか分からなかったが、その間にもお嬢様がじろじろとこちらを検分してくる。
「おい、失礼だぞ、お前」
「うるさいわよ、でくのぼう。ナイト気取りはやめてくださらない?」
 その言葉でソウもカチンと来たのか、表情を変えて一歩踏み出す。
「ルナ、でしたわね」
 お嬢様は腕を組む。そこでようやく気づいた。
 背が低い。ルナもあまり高い方だとは思っていなかったが、このお嬢様は自分よりさらに拳一つ分は低いだろう。
「精霊魔法と神聖魔法の両方がちょっと使えるからって、いい気にならないことですわ」
「いい気になんて」
「この私、ディアナ=フィットはダーマで最年少の上級魔法使いなんですから。あなたとはスケールが違いますのよ」
「すごいですね」
 掛け値なしにそう言ったのだが、それが伝わらなかったのだろうか、ディアナはその美しい顔を奇妙に歪ませる。
「あなたは賢者を目指しているのかもしれませんけど、私はそんなものになろうなんて思いませんのよ。精霊魔法の奥義を究め、誰もかなわない大魔導師になるのです」
「なんだ、結局賢者の素質がなかっただけじゃねえか」
 ソウが鋭い突っ込みを入れると「おだまり!」と叱責が飛ぶ。どうやら図星だったらしい。
「まあ、いいですわ。あなたが何をなさろうと、私には関係のないことです。上級魔法のなんたるかが知りたいのなら私のところへおいでなさい。教えてさしあげないこともありませんことよ?」
「はい。ラーガ師のところで分からないことがあったら、是非」
 ルナに邪気はない。だが、それは相手の自尊心を大きく傷つけたようだ。ラーガの指導で分からないところがあったとしたら、それを駆け出しの魔法使いに教えられるはずがない。
 無論、そんなところまでルナは気を回しているはずもなく、純粋な気持ちが相手を傷つけることになった。
「覚えてなさい!」
 そう言ってディアナは駆け去っていった。なんだろう、とルナはソウを見る。だがソウは苦笑するばかりで何も答えなかった。






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