Lv.8

弛まぬ努力が高みへと導く








「ラーガ師」
 ラーガの部屋はいつも書物の匂いに満ちている。他の賢者たちの中にその匂いがないというわけではない。ただ、ラーガは他の賢者の誰よりも研究熱心で、常に書物と共にある。
 賢者と呼ばれる人は世界中にそう多くない。だから、賢者になったものには自然発生的に呼び名がつけられることになる。そのつけられ方はさまざまで、たとえばルザミに住む賢者などは星の運航ばかりを研究しているので『星の賢者』などと呼ばれている。このダーマでも八人全てに呼び名がつけられており、東塔のタイロン師などは、ほぼ全ての魔法を使いこなせるのに、たいてい使うのはヒャド系ばかりということで『氷の賢者』などと呼ばれていたりする。
 ラーガにはこれといった特徴がない。だが私有する本の量は誰にも劣らない。だから尊敬をこめてこのように呼ばれる。『知の賢者』と。
 ナディアは本日の報告をした後で、ルナの話を切り出す。
「ルナに中級魔法の指導をされた、と聞きましたが」
「うむ。まあ、したというよりも覚えて来いと命令しただけだがな」
 紅茶を飲みながらラーガが答える。今もラーガは読書の時間だった。
「何を指導されることにしたのですか」
「何、たいしたことはない。中級魔法二五種全てじゃよ」
 ナディアは絶句した。いきなり中級魔法というのもひどいが、それが二五種全てとは。自分とて攻撃系の魔法は使えても、全ての魔法を組み立てることはできていないというのに。
「期日は」
「三ヶ月。まあ、三日で一つ覚えるというペースだの」
 このときばかりはルナに同情し、自分がラーガに指導を受けなくてよかった、と思う。
 自分が最初の中級魔法を覚えるまでに要した時間は二ヶ月。得意の閃光魔法、ベギラマだった。両腕に魔法を集中させるイメージが自分にはしやすい。だから他の何よりも早く覚えたのだろう。
 初級魔法であれば、正しいパスルート三から、多くても十。それだけ覚えればいいのだからイメージもしやすい。簡単に扱うことができる。だが中級魔法となると突然それが何十倍に膨れ上がる。得意のベギラマでも五六。そのパスルートを正確に通すために費やした時間が二ヶ月。
「無理なことを要求されましたね。ラーガ師は中級魔法を全て覚えるのにどれほどの時間をかけられたのですか」
「そうさな。三年というところかな」
『知の賢者』にしては多く見積もったものだ。この人は一年経ったころにはほぼ全ての中級魔法を使えることができたという噂だ。だが、それにしたところで三ヶ月はない。最初の一つを覚えるまでに必要な時間が必ず存在する。
 それに、ルナの魔法力は有限だ。試しに何度も魔法を放たなければならない。それだけの魔法力が彼女にはない。
「三年を三ヶ月。無茶にもほどがあります」
「そうかな」
 ラーガは本を読む手を止めた。そしてナディアを見る。
「見たくはないかね」
「は? 何をでしょうか」
「自分の考えが及ばぬ程の、圧倒的な才能というものを」
 ナディアは体が震えるのを感じた。つまり、ラーガはこう言うのだ。ラーガ自身以上の存在となれる可能性が、そこにあるのだと。
「天然の賢者というのはそれほどに力を秘めているものなのですか」
「分からんよ。ここ数日、その可能性について書かれた文献を読み漁ったが、どれも推測の域を出ん」
「ですが、ラーガ師はルナにそれだけの可能性を見ておいでなのでしょう」
「うむ。ルナにはこのダーマを代表してもらわねばなるまい。この世界を救う、という大事業の」
「世界を救う?」
 ナディアはバラモスのことを知らない。だが、ここ数年で急激にモンスターが増加しているのは誰もが知るところだ。当然そのことと結びつけて考える。
「後で、これをタイロン師に届けてくれんかの」
 ナディアは一通の封書を受け取った。
「これは?」
「ルナはヒャダルコは唱えられても、ヒャダインは難しかろう。もしつまずくようなことがあれば口ぞえをしてほしい、と書いておる」
「ヒャダインですか。あの魔法は氷の魔法でもかなり特殊な技術が必要です」
「だからタイロン師に頼むのだよ。あの男はダーマの中で誰より氷の魔法が大好きだからの。『氷の賢者』の呼称は伊達ではない」
 西の塔でもっとも力があるのがラーガだとすれば、東の塔でもっとも力があるのがタイロンだ。
 派閥争い、というわけでもないのだろうが、八賢者の中でもこの二人の発言力というのは他を圧倒する。だからこそお互い貸し借りのようなものはしないと思っていたのだが。
「分かりました。それはそうと、師。ディアナを覚えてらっしゃいますか」
「無論。エジンベアの七貴族、フィット家の娘さんがどうかしたのか」
 エジンベア七貴族。すなわち、ナディアの家と同じように、非常に地位の高い家の出身ということだ。もっともナディアのところが分家であるのに対し、ディアナは本流の正妻の娘。将来は七貴族の妻となるか、うまくすれば次のエジンベア王の后すら務まる身分だ。
「いえ、今日私のところにやってきてベギラゴンを教えてほしい、とこういうのです」
「ふふ、ルナに触発されたようじゃな」
「ええ。ただまあ、なんといいますか、あまり指導したいと思わなくなる物言いだったので、その場では突っぱねたのですが」
「想像がつく。おそらく『あなたは私より身分が低いのだから教えるのが当然でしょう』というようなことを言ったのだろう」
「はい。一言一句、違えておりません」
 ラーガは喉の奥で笑う。
「あの娘に指導する必要はない。捨て置け」
「分かりました。ですが、ラーガ師はディアナには厳しいですね」
「何を言う。ワシが厳しいのは自分の教え子だけじゃよ。まあ、その意味ではディアナもワシの教え子には違いないが」
「は?」
 ナディアは意味が分からず尋ね返す。
「あの娘は、他の誰の意見も聞かぬ。自らの道を進む性格、気質の持ち主じゃ」
「はい。それは分かります」
「ならば徹底的に無視し、自分で研究させ、調べさせる。そうしなければ絶対に身につくことがない。だからこそワシは最初に見たときから完全に放置することにした。その結果、ダーマ最年少でメラゾーマも唱えられるようになった。教えるより無視する方が成長が早い、きわめて稀有な例というものだ」
 そこまでの考えがあって無視していたのか、と感心する。
 ラーガは時折学生を指導することもある。ナディアとて、まるっきり無視されたことはない。何かに行き詰っているとき、悩んでいるときはさりげなく解決の糸口を提示してくれる。そこから自分で考えて解答にたどりつくことができる。
 だが、あれだけの才能の持ち主であるディアナにはまるで見向きもしない。それは、その方が彼女のプラスに働くと考えた上での指導だというのか。
「おそれいりました」
「何、お主もあと十年もすれば分かるようになる。お主は教官役としては非常に優秀だ。賢者にはなれぬがな」
「はい。そのことは自分でもよく分かっています」
 ルナにディアナ。あれだけの才能の持ち主を見ると、自分がいかに凡人であるかということがよく分かる。
 だが、凡人だからこそできることもある。人を指導し、高みに押し上げるのは、躓くことの多い凡人の方が上手なのだ。
「ルナを頼むぞ。あれはダーマの希望。世界の希望だ」
「分かりました」
 そうしてナディアは部屋を出る。ふう、と息をついた。
 ラーガの言う、世界の希望、という意味はよく分からない。だが、ルナを育てることが世界にとって何か役立つのであれば、ちっぽけだと思っていた自分の存在はとてつもなく大きな役割を果たせることになる。
 自分が、世界のために何かできることがある。
(やれやれ、何かあなたに助けられてるみたいね、私は)
 ナディアは苦笑して首を振った。次に魔法訓練場で会うときはこれでもかというくらいしごいてあげよう。






 それから二週間。
 ルナは必死になって二五冊の本を一気に読み上げた。もちろんただ読むだけではない。必要な呪文、そしてパスルートは別途メモし、暗記しながらの読破だ。一日に最低二冊を読むようにしたのだが、それでも一冊読むのに一日かかるものもあった。
 そして今日は久しぶりに魔法訓練場に向かう。最初に唱えるのはメラミ。それが一番簡単だったからだ。
 メラミのパスルートは三六。パスルートを体になじませるには実践が一番だというのはどの本にも、そして教官からも言われているところだ。
 だが、パスルートを暗記するのはそれでは時間がかかりすぎる、とルナは判断した。何しろ自分の魔法力は有限だ。一々使っていてはすぐに魔法力切れを起こしてしまう。
 だからイメージトレーニングを行った。全身のパスルートを思い描き、どこに魔法力を通すのかを考え、正しいルートを瞬時に思い浮かべられるようにする。
 最初はルートの構築に二分くらいかかっていたのだが、今では十秒くらいで思い描けるようになっている。実戦ではこれが五秒まで短縮できなければ使い物にならないだろう。
 だが、今はまず使えるようになることが先だ。スピードの問題は使っていくうちに慣れることができる。それこそ本でいうところの『実践』というやつだ。
 まだ朝の早い時間だったせいか、魔法訓練場にはまばらにしか人がいなかった。だが、見知った顔もある。
「早いわね、ルナ」
 ナディア師だった。
「いえ、ゆっくりしてたわね、と言うべきかしら。一つくらい中級魔法は使えるようになったのかしら」
「すみません。今日が最初の実践なんです」
 三日で一つ覚えなければならないのに、もう十五日も経ってしまっている。だがナディアは顔をしかめて頷くだけだった。
「相手をしてあげるわ。使ってみなさい」
「はい」
 ルナは支給された魔導師の杖をナディアに向かって構える。
(炎の精霊よ)
 パスルートを描く。最初はまっすぐに、それから第一セクションで六ヶ所に分岐。第二セクションではそのうち二ヶ所を三つに、三ヶ所を二つに、一つはそのままに、そして第三セクションで──
(パスルート三六、確認)
 パスルートに魔法力が通っていく。今までとは比べ物にならないくらいの圧倒的な火力を感じる。
「中級火炎魔法──」
 杖の先端に炎が宿る。
「──メラミ!」
 メラのときよりもはるかに大きな火球が飛び、ナディアに迫る。
「ヒャダルコ!」
 氷の魔法でその火球を四散させたナディアが顔をしかめる。
「未完成ね。本当の火球なら、火の玉の大きさが人の頭くらいになるはずなのに、今のはメラとメラミのちょうど半分くらい」
「はい」
 だが、放つことはできた。あとは魔法の構築をうまくすればモノにできるはず。
「もう一度、お願いします」
「待ちなさい」
 すぐにもう一回魔法を唱えようとしたルナをナディアが止める。
「まっすぐに立って。それから少し気を楽にしなさい」
 はい、と素直に頷いてその通りにする。
「今のあなたの失敗が何か、分かる?」
「いえ」
「分からないのに続けてやっても、同じ結果しか出ないでしょう? それは魔法力の無駄使いよ。三ヶ月なんていう短い期間で覚えなければいけないのだから、効率的に練習しなさい」
 ナディアの指導は熱が入っている。その通りにすれば間違いないと思わせられる。
「パスルートをイメージして。メラミは第二セクションまでは簡単でいい。問題は第三セクション──そう考えているでしょう?」
「はい。第一セクションはただ六つに分けるだけ、第二セクションはそのうち二つを三つに、三つを二つに変換します。あとは第三セクションで正しいルートを通してあげれば──」
「そこよ。あなたは典型的なメラミの失敗パターンにはまってるわ」
 ルナはびくっと体を震わせる。
「第一セクションで分けた六つのルート。そのうちの一つはただ魔法力を通すだけでいい。六つのルートの中で一番簡単。だからこそ逆に油断が生じる。この最後の六本目、最後まで魔法力が通りきっていない。もしくは魔法力が弱い。そうなると火球の大きさが制限される。メラミの一番の問題は何でもない、この威力をつかさどるルート、ここに魔法力をどれだけ通せるかがポイントなのよ」
 なるほど、とルナは頷く。つまり、難しい方に神経を集中させすぎているがゆえに、簡単な方がおろそかになってしまったということなのだろう。
「どう、イメージできる?」
「はい」
「では、試してみましょう」
 そして距離を置く。ルナは、ふうー、と大きく息を吐いてから集中力を高めた。
(炎の精霊よ)
 パスルートを描く。まず六つに。そして、二つは三つに、三つは二つに、一つはそのままで。そして分かれた十三本に、均等に魔法力を通し、さらに全部で三六に分岐するパスルート全てに魔法力を通していく。
「中級火炎魔法──」
 先ほどの倍はあろうかという火球が杖の先に出る。
「──メラミ!」
 業火が、ナディアを襲う。これはメラミのレベルを超えている。普通に受け流すのではただではすまない。
 瞬時に呪文を唱える。このままでは怪我ではすまない。
「メラゾーマ!」
 人体ほどもある火炎を立ち上らせて、その火球をシャットアウトする。
 だが、ナディアは確かに見た。
(自分の考えが及ばぬ程の、圧倒的な才能というものを)
 たったの十五日。
 そう、彼女は十五日前まではまだメラとかギラとか、その程度しか使うことができなかったのだ。それをたったの半月でここまで来た。
(才能。そう、これを才能というのね)
 大きく息を吐く。全身から汗が吹き出ているのが分かる。
 まばらにしかいなかった魔法使いたちがこちらを見学しているのに気づく。それも当然、メラゾーマなどという上級魔法を拝む機会はそう多くない。
「ルナ。他の魔法は覚えてきたの?」
「いえ、明日にはもう一つ、別のものを」
「やはり、十五日間で全部読み終えたのね」
「はい。それで、一番パスルートの少ないものからと考えました」
 彼女は明日と言った。つまり、一つ覚えるのに時間がかかる中級魔法を、一日一つのペースで使えるようになっていくつもりなのだ、この十歳の少女は。
(天然なんかじゃない。天才少女、といった方がいいわね)
 自分が教えられることなどそう多くはなさそうだ、ということを悟る。このままいけば三ヶ月後には自分が教えられることなどなくなってしまうのではないか。
「明日は何を使うつもり?」
「マヌーサです」
 それはまた、随分変わったものから覚えようとするものだ。それにレベル的にはさほど高くない。パスルートも確か四十本くらいだったはず。
「神聖魔法だと私の手にあまるわね。ラーガ師が腕の立つ教官を用意するとおっしゃってくださっているけど」
 ふとナディアは考える。この段階で腕の立つ教師といえば、だいたい想像がつく。
「その教師には私の方から連絡をしておきます。明日もこの時間に来るのかしら?」
「はい。そのつもりです」
「分かりました。では今日は残りの時間、全てメラミを打ち込んで魔法力がなくなったらあがりなさい」
 ──そうなると思った。魔法力がつきるともう意識を残しておくこともできなくなるのだ。だが、それは賢者として必要な魔法力を手に入れる訓練。逃げるわけにはいかない。
「よろしくお願いします」
 とにかくやれるだけのことはやる。ルナは再び魔法を唱え始めた。






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