Lv.10

かつて見た夢と、遠き憧れを








 早朝のランニングを終え、水を浴びて身支度を整える。それからいつものように魔法書と向かい合う。
 普段、訓練場に行くのはよほどのことがないかぎり午後からだ。今のところは本を読むのも訓練をするのも自由にしてよいと言われている。
 だから自分のペースはできるだけ保つようにしていた。体を動かし、頭を動かし、午後から魔法の訓練。それが自分にはよく合っているようだった。
 中級魔法の全取得まであと二つ。残り一ヶ月もあれば今までのペースからいけば取得できるのは間違いない。
 だが、残り四日という期間の中ではどうだろうか。メラミがパスルート三六であったのに対し、既に取得していたフバーハなどは九八、次に覚えるヒャダインはなんと二三三もある。イオラでも一八八。このあたりまで来ると上級魔法といっても差し支えない。
 ヒャダインのパスルートは全て頭に入っている。ヒャダインは中級魔法の中で唯一第六セクションまでの分岐を持つ。これが上級魔法になってくると第七セクションまで全てのパスルートを正確に通さなければ発動しない。ヒャダインは中級魔法と上級魔法のちょうど中間に位置する。
 そこまで細かくパスルートを追いかけて、マジックポイントを一気に流し込む。第三セクションか第四セクションまでで終わる魔法がほとんどなので、そこまで行うのは時間もかかるし作業量も違う。
 何度も自分の中でイメージトレーニングする。
 第一セクションから第二、第三、第四、第五、第六とパスルートを思い浮かべ、発動。時間にしてだいたい十秒くらいか。まだ実戦レベルというわけではないが、唱えるだけなら何とでもなる。
「行くよ、ルナ」
 自分に声をかけて彼女は立ち上がる。胸のお守りを軽く握り締めて。






 訓練場に着くと、すでにナディア師が到着していて自分を待っていた。
「やっぱり午後からだったわね」
「はい。事前にきちんと復習してきましたから」
「で、今日はヒャダイン?」
「はい」
「そう、ちょうどよかった。ちょっと付き合いなさい」
 ナディアが訓練もせずに場所を移動させるのは初めてのことだ。それにはもちろん理由があるに違いない。
「分かりました」
「聞かないの? どうしてなのか、と」
「ナディア師は私のレベルアップのことを真剣に考えてくださっていますから、信頼しています」
 ナディアとしてもそう言われたら返す言葉もない。この天才少女にそこまで信頼されているのだ。少しは応えたくもなる。
 彼女は「ついてきなさい」と言うと訓練場を出た。ルナはその後ろを歩く。
 ナディアがルナを連れていく。すれ違う人たちがみんな自分の方を見ていく。
(最近、注目されてるなあ)
 三ヶ月で中級魔法を全て覚える、という話はいつしかダーマ中の話題になっていた。そして三ヶ月どころかまだ二ヶ月もしていないのにほぼ覚えきっているという事実がそれに拍車をかけた。
 ダーマ学院創立以来の天才児。
 そのような評価が自然と発生している。
(そんなんじゃないのに)
 自分はただ賢者になりたいだけだ。そしていつか勇者を助けるメンバーの一員となって、魔王を倒す。そのためにはまだこの程度の力では満足できない。
 勇者に出会ったとき、最強の自分でいるために。
(魔法は全部、習得する)
 まさに、その志の高さがこの天才少女を押し上げている所以である。
 ナディアについていくルナが、変だな、と思ったのは東側へ入っていったときだった。
 何しろ今まで自分は見学以外でこの東側へやってきたことはない。東に住む者は東で修行、西に住む者は西で修行、というのが慣習としてルール化されてしまっている。誰もそんなものを決めたことはないのだが、現在のダーマはそういう流れの中にある。
 ラーガ師側近のナディアがこちらの建物に入ってくるのは奇異なことなのだ。案の定、生徒たちの間からの視線はルナよりもナディアへ向けられることが多くなった。
(いやだなあ、こういう空気)
 なんとか東と西が協力することはできないのだろうか。そうは思っても、東の賢者たちを知らないルナには何もできることはない。
 そのままナディアは建物を上がっていく。訓練場ではなくどこへ行くつもりなのかとついていく。するとナディアはそのまま五階まで上ってきた。当然そこは西と同じ、賢者たちの部屋になっていた。
「失礼いたします」
 その中の一つの扉を叩き、ナディアは中に入っていく。それに続いてルナも「失礼します」と入る。
 空気が少し冷たい感じがした。
「先日お話いたしましたルナをこちらへ連れてまいりました」
「ナディアか。任務ご苦労」
 そこにいたのは、かなり体格のいい賢者だった。ラーガほど歳をとっているわけではないが、五十から六十くらいにはなっているだろう。髪は全て剃り上げており、頭には大きな傷があるのが分かる。戦士か武闘家という体つきだった。
「そなたがルナか」
「はい」
「私はタイロン。まあ、かけるがよい。ナディアもな」
 タイロン師。西のラーガと、東のタイロン。このダーマを動かすもう一人の人物とようやく対面したのだ。
「ラーガのもとで修行をしているそうだが、随分と成果が出ているようだな」
 その東の主は案外温厚な話し方だった。少なくとも目の敵にするようなところはどこにも見当たらない。
「ここに来てどれだけの魔法を覚えた?」
「中級魔法が二三です」
「あと覚えていないのは?」
「ヒャダインとイオラです。今日はヒャダインの実戦を行うつもりでいました」
「なるほどな。今日、お前がここに連れてこられた理由が何か分かっているのか?」
「いえ。突然連れてこられましたから」
「幼いのに随分とはっきり口にする」
 タイロンは苦笑した。
「ラーガの奴が私に、お前にアドバイスをしてくれというのだよ」
「アドバイス、ですか?」
「ああ。私の呼称は『氷の賢者』。つまり、ヒャダインは難しいからコツをつかませてやってほしい、ということなのだろう」
 なるほど、ラーガのはからいだったのか。だが、仲が悪いと聞いている二人が協力するというのはどういう風の吹き回しなのだろう。
「一つ、うかがってもよろしいですか」
「なんだ」
「ラーガ師とタイロン師は対立しているという話を聞きましたが、それなのに私に教えてくださるのですか」
 それを聞いたタイロンは大声を上げて笑った。
「これはいい、お前、私とラーガがどういう関係か、よく分かっておらんらしい」
「といいますと」
「確かにこのダーマには東派と西派が存在している」
 タイロンは機嫌がよいのか饒舌に語る。
「その理由がお前には分かるかな」
「推測でよければ」
「言ってみるがいい」
「タイロン師がラーガ師の提案を受け入れたということは、表面的にはどうあれ、本質的にはお互い対立しているわけではない、ということです」
 え、とナディアが驚いた表情を見せる。
「ほう、これだけ東と西の対立が激しいというのにか」
「もしかすると、その対立を賢者様たちがわざと導いているのではないですか」
「なに?」
「発展のために協力は確かに必要なことですが、同時に競争するということも大切な要素です。ダーマは東と西に別れてお互い競争しているように見えますが、その塔の内部ではお互い協力しているところが見られます。発展のためにはこの上ない理想的な状況が築かれているように思えます」
「なるほどな」
 タイロンが笑みを見せる。歴戦の武闘家のような凶暴さが若干見える。
「たいしたものだ、物事の本質が見えるというのは本当らしい」
「それはラーガ師からですか」
「そうだ。そもそも私とラーガ師が対立することなどありえんのだ。何故なら、ラーガ師は私の恩師なのだからな」
「そうでしたか」
「まだ私たちが小さかった頃、私とラーガ師は共に冒険したことがあった。私はまだ若かった。年長だったラーガ師には随分とよくしてもらった。その恩を忘れることはない」
 そう話すタイロンは本当に嬉しそうだ。その様子にはナディアすら我を忘れてしまっている。
「ですが、下にいる私たちは本気で派閥抗争があるものと考えています」
「かまわんよ。他の六人の賢者は私たちがそういう関係であることを知っている。下がどれだけ何を考えていようと、我ら賢者がブレなければ何も問題にはならん」
 そのあたりはさすが賢者、というべきだろうか。知恵ある者ほど、協力することの大切さを知っている。個を殺し、集を取る。だからこそダーマには人が集まるのだろう。
「分かりました」
「何がだ?」
「そのことに気づいた者に、次の賢者としての道が開かれるのですね」
「本当にお前は物事がよく見えている」
 いくぶん穏やかな表情になったタイロンが楽しそうに頷く。
「そう、そういうことだ。このダーマの運営に携わるのであれば、ダーマ全体がどう発展していくかを考えなければならん。だからこそ、ダーマの真実を知るものはごく一部だ。なにしろそこのナディアですら今まで知らなかったのだぞ」
 ナディアは顔を赤くしてうつむいてしまっている。当然だろう、ラーガの下でずっと働いてきた自分より、たった二ヶ月しかいない十歳のルナが真実に気づいてしまったのだから。
「ナディアよ。お主は今のままでいい。我ら八人はその事実を教官たちにも知られぬように活動している。お前に気づかれるようでは我らの知恵が足らなかった証拠だ」
「は」
「それに気づくこの娘こそ尋常ではないのだよ」  ずい、とタイロンは顔を近づける。
「何故賢者になりたい?」
 直球の質問だった。そして、初日にラーガに尋ねられた質問でもある。
「みんなを助けたいと思うからです」
「その奥に隠れている感情を見せてみるがいい。賢者になりたいと思うようになったきっかけはなんだ? その歳で明確な目標を持つ以上、よほど印象的な出来事があったのだろう。それも、もっと幼少のときにだ」
「──はい」
 少し間を置いてからうなずく。
「私は助けられませんでした。一緒に遊んでいた友達を、誰一人」
「ほう」
「私だけが生き残りました。私が生き残ったのは本当に偶然です。モンスターに襲われた私たちは次々に殺されて、私が最後の一人でした。そのとき、私の命を助けてくれたのが──」
「賢者だった、というわけか」
「違います」
 きっぱりと答えた。
「違う?」
「はい。私を助けてくださったのは勇者様です」
 少しうっとりとするように答える。
「大人の、立派な方でした」
 思い返しながら、その名を告げる。
「名前を、オルテガ様、とおっしゃいました」
「オルテガ。あの男が、お前の命を」
「はい。オルテガ様とサイモン様、そしてお二人に同行されていた賢者リュカ様。お三方に、私の命は救われたのです」

 このダーマに来て、ようやく三人が何をしようとしていたのかを知った。
 三人がムオルに立ち寄ったのはモンスター討伐のためだと言っていた。だが、それが真実ではないということをラーガとの最初の会話で知った。
 三人は初めから、バラモスを倒すために行動していたのだ。
 それが何故ムオルに立ち寄ることになったのかは分からない。だが、その偶然のおかげで自分は命拾いをした。
 そしてモンスターとの戦いで怪我を負ったオルテガを、村で治療することとなった。
 子供心にオルテガにあこがれたが、同時に自分は。
「真の勇者とは、彼のような人物のことをいうんだよ」
 そのオルテガに同行していた賢者と同じ道を歩みたいと思った。
「僕は賢者。僕の知恵は全て勇者のために使われる。君も勇者が好きなら、賢者になって勇者のために生きるといい。僕はこれから先、ずっとそうする」
 その言葉が、今でも記憶の一番底にある。
『勇者のために生きる』
 つまり、バラモスを倒そうとする真の勇者がいるならば、その人物に仕えるのが自分の役目なのだ。
 もちろん、あのときのオルテガ以上の勇者でなければ自分は仕えるつもりはない。
 そして、オルテガ以上の勇者についていく以上、自分の目標は。
「私、リュカよりもすごい賢者になる」
 そう、宣言した。
「そうか。じゃあ、君が真の勇者と一緒に行くことができるように、お守りをあげるよ」
 そうして、いつも首から提げているこの小さな袋をもらった。
「いつか、君の勇者に出会えますように。なくさないようにするんだよ」
 オルテガの怪我が癒えると、三人は村を出ていくことになった。
 そして、最後のオルテガの台詞も、よく覚えている。
「私には息子がいるが、娘がおらん」
 その大きな手が、自分の頭をなでた。
「お前のような娘がいれば良かったと思う」

 それが、自分の、一番の思い出。
 勇者オルテガ様と、賢者リュカ様。
 二人の思い出を胸に、自分は生きている。






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