Lv.76

理性と感情、ゆずらぬ主張








 山彦の笛をルナに貸したアレスたちはすぐに行動に移らなければならなかった。
 期限は三日と切られた。それまでにヘレン王女に婚約を白紙撤回させなければ、ルナが望まぬ結婚をしなければならなくなる。単身乗り込んできた王女だ。おそらく夜が明ければすぐ兄に婚約を取り付けたと話に行くに決まっている。
 ルナが強情なだけに、振り回される三人は迷惑極まりなかったが、それでも仲間が自分たちのために犠牲になるのは絶対にお断りだった。
 夜が明けると同時に王宮に入る。そしてヘレン王女の部屋を目指す。
「しっかし、フレイが眠りもせずについてくるなんて思わなかったな」
 ヴァイスが率直な感想を言う。眠そうな目をしていたが、それでもいつもより真剣そうな表情だ。
「……ルナは大事な仲間」
 少し困った様子で答える。
「私のせいで、悲しませたくない」
「フレイのせいってことはないだろ。それを言うなら僕だ」
 フレイの言葉にアレスが反応する。だが、その言葉はヴァイスとフレイを驚かせた。
「アレス、お前──」
「バラモスを倒さなければいけないという気持ちがよほど強いんだろうな。だからって自分を犠牲にしていいはずがない」
 続いたアレスの言葉に、二人はため息をつく。
「気づいてるのかと思ったぜ」
「……ちょっと複雑」
 どこまでもルナは報われない。あんなに小さな子が(といっても二つくらいしか違わないのだが)健気にがんばっているのを見ると応援したくなってしまう。問題は、フレイにしてみれば自分の恋人を譲るつもりは毛頭ないし、ヴァイスとしてもずっと見守ってきたアレスとフレイの仲を崩すつもりもないということだ。そして当のルナがそれでかまわないと諦めているのだから、何も問題はない。
 問題はないが、だからといって。
「見込みがないからって、自分を捨てるには早いだろ」
「……同感」
 だが、ルナは自分の気持ちがアレスに伝わることは望むまい。相手を苦しめるのは賢者として絶対に避けなければいけないところだからだ。だから彼女はそのようなことを本人から指摘されたなら、笑顔で否定するだろう。微塵もそのようなことを感じさせずに。
「おや、こんな朝から王宮に来るとは、何かあったのかな」
 そんな三人の下へ騎士の装束で現れたのは、先日会ったトレイシー=テューダーであった。
 先日は普通のドレスだったが、今日は一風変わった服装に三人の目が丸くなる。
「私の騎士姿は変かな?」
「いや、見違えたぜ。前のときよりずっといいと思うぜ。あんたに似合ってる」
「ほう? それは女らしくないという、私への挑戦かな?」
「気を悪くしたら謝るぜ。そうじゃなくて、あんたの魂に似合ってるって言ったんだ。あんた、ドレスを着て夜会で武勲を挙げるより、戦場で武勲を挙げる方が似合ってる」
 それはヴァイスにとっては最大の賛辞だ。それを感じ取ったトレイシーは朗らかに笑う。
「ありがとう。そう評価してもらえるのは嬉しいな」
「トレイシーさんはエジンベア騎士だったのですか」
 アレスが尋ねると「まあな」とトレイシーが答える。
「私は幼い頃からドレスを着るより剣を振る方が好きでね。こう見えても戦場に出て、敵の首も取っている。エジンベアの武闘大会ではそこそこの成績も上げている。まあ、アレスさんにかなうなどとは思っていないが」
 身の程はわきまえている、と言いたいらしい。
「今日は三人だけなのだな。ディアナさんもルナさんも見当たらない。三人で今日は王宮に何の御用かな?」
「ええ、少しヘレン王女に話がありまして」
「ヘレン殿下?」
 ほう、とため息をつく。
「あなたたちはもうヘレン殿下ともお知り合いだったのか」
「いえ、一度も会ったことはありませんが、いろいろ込み入ったことになっていまして」
「ふむ。私は話を聞かない方がよさそうだ。案内しようか」
 くるりと翻って「ついて来たまえ」と言った。
「随分親切にしてくださるのですね」
「まあ、あなたはオルテガ様の息子さんだしな。それに、困っている人を助けるのは騎士の役目だ。ただ、本来なら婦人の部屋を尋ねるのは先にアポイントを取っておくのが礼儀だ。そうしたことはしていないのだろう? だから私が一緒に行こうと言っているのだ」
「あなたが?」
「こう見えても七公爵家の子女。私が会いたいと言えば、ヘレン殿下も断ることはできないのでね」
 意味ありげな言葉だった。トレイシーがただの貴族子女ではないというような、何か特別なものを含んだような言い方。だが、自分たちも追及を避けてもらったのだから、こちらから尋ねていくようなことはしない。
「ヘレン王女というのはどういう方なのですか?」
 そのかわりに自分たちが会う相手のことを尋ねる。それを聞いたトレイシーが苦笑した。
「ふふ、あなたは自分が会う相手のこともよく分かっていないらしい」
「すみません」
「いえ、知らない相手のことを先に聞いておくのは必要なこと。聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥。そうだな、ヘレン王女は聡明で、兄王子よりも合理的な人物だ。何を話すつもりかは知らないが、些細なことでは自説を曲げる方ではないので、心しておくとよい」
「ありがとうございます。ですが、僕らも曲げられないことがありますから」
「その心、忘れぬようにするがいい」
 好印象をもったのか、トレイシーは笑顔でアレスに言う。
「さて、ここだ」
 何度も廊下を曲がってたどりついたのは、王宮の中でも一番奥の方の部屋であった。
「これは、トレイシー様」
 うやうやしく女官が一礼する。
「入らせていただきたいのだが、かまわないかな」
「少々お待ちくださいませ」
 女官も心得たとばかりに中にお伺いを立てに入る。彼女がいなければとてもこうは進まなかっただろう。
「七公爵家ってのは随分力があるんだなあ」
 ヴァイスが素直に言うが、トレイシーはただ微笑んだだけだった。
 そうして女官が出てくると「お入りくださいませ」と言われる。
「さ、行こう」
 トレイシーが先頭で入る。
 部屋の中はまるで執務室のようであった。デスクに書類が積み重なり、部屋の中央には大きめのテーブルと椅子がいくつか。
「ようこそいらっしゃいませ、トレイシー様」
 ヘレンが笑顔で出迎える。そのヘレンに対して三人はルナと同じ感想を持った。一瞬はかなげに見えるが、その目を見たときにがらりと印象が変わる。これは戦士。戦う魂を持った人間なのだと。
「こちらの方々は?」
「ええ、紹介しよう。勇者アレス殿と、その仲間のヴァイス殿、フレイ殿だ」
「はじめまして、アレスといいます」
「ああ」
 すると、突然余所行きの笑顔を浮かべて会釈する。
「エジンベアへようこそ。正式な挨拶をしておりませんでしたわね」
「こちらこそ、突然の訪問をお許しください。ですが今日は、どうしても王女殿下にお会いしたく」
「分かっております。トレイシー様もお人が悪い。滅多に会いに来てくださらないのに、こういうときばかり」
「なに、心配せずとも私は常にヘレン殿下の味方だ。心配しなくてもいい」
 そう言うとヘレンがこちらは歳相応の笑顔を見せる。どうやらトレイシーには心を開いているようだ。
 それにしても、トレイシーとヘレンのやり取りを見ているとどちらが主君か分からない。トレイシーは相手によって態度を変えない。まさか国王の前でもこのような態度なのだろうか。
「こちらへおかけください」
 ヘレンがテーブルの椅子を示すと、アレスを中心に三人が一列に座る。その向かいにヘレンが座り、トレイシーはテーブルの横に椅子を引っ張りだして座る。
「さて、ご用件は分かっているつもりです。ルナさんのことですね」
「はい」
 アレスは頷く。
「ルナは僕たちの仲間です。今までも一緒に行動してきましたし、これからもそのつもりです。バラモスを倒すのは共通の目的ですが、そのために彼女を犠牲にしようなんて少しも思っていません」
「犠牲というのは、兄と結婚することを指しているのですね?」
「ヘンリー王子とは昨日お会いしました。いい人だというのは分かっています。ですが、ルナの方に恋愛感情はありません。好きでもない人と結婚して悲しませたくありません」
「アレスさんのおっしゃることには二つ問題があります」
 ヘレンは理論的に話を進める。
「一つには、ルナさんはそのことを承知の上で婚約をお受けになりました。私に話をする前に、ルナさんがそれを撤回することが必要になるはずです。ですが、ルナさんはこの場にいらっしゃらない。ということは、ルナさんには無断でアレスさんたちが動いているということになります。そしてもう一つ。アレスさんたちが魔王バラモスを倒すことと、ルナさんが兄上と結婚することの間には何の関係性も持ちません。いえ、むしろルナさんがこれを拒否することは、勇者アレスのパーティはエジンベアとの関係を拒否するということと同義です。兄はそうは思わないでしょう。ですが、兄が他の有力貴族やポルトガ王女という選択肢を蹴ってでもルナさんと結ばれようとしている。それを断るということは、今後エジンベアからの協力は得られないものと覚悟していただかなければなりません」
「恫喝、ということですか」
「そうとってもらってもかまいません。が、私が何を言うまでもなく、国はそう動くでしょう。少なくとも国王陛下はそうお考えになるに違いありません。恫喝と取られるのは自由ですが、これは事実です。ルナさんが兄上に会ったのが不幸だったということですね」
「かまいませんよ、僕は」
 だが、アレスはあっさりとそれを認める。
「仲間のルナと、エジンベア一国。僕にとって大事なのはルナの方だ。たとえ協力を得られなくてもかまいません」
 対決の姿勢が色濃く出ている。無論、ヘレンもアレスが引くだろうとは思っていない。エジンベアの名を出しても引かないくらいの気概がなければ勇者はできない。
「では、アレスさんはエジンベアを拒否するということですか」
「僕らが拒否するんじゃない。エジンベアが僕らを拒否するということでしょう。主語を間違えないでください」
「それなら話はここまでです。あとはルナさんの意見を撤回させてください。そのかわり、オーブを差し上げるわけにはまいりません」
 きっぱりと言い切る。これは交渉なのだ。ルナとオーブ。天秤にかけて、どちらが重いのか。問題は、アレスも、ヘレンも、ルナの方が重いと考えているということだ。これでは交渉にならない。
「……プライドの問題じゃない」
 フレイが目を閉じたまま言った。
「どういうことですか?」
「……あなた方は、ルナを迎え入れた方が国際社会でリーダーシップを取りやすくなると、考えただけ」
 それだけでアレスもヴァイスもその言葉の意味が分かった。
 つまり、ルナを王妃に迎えるということは、まずダーマとの結びつきを強めることができ、なおかつ勇者パーティと密接な関係を持つことにより、魔王バラモスを倒した最大の貢献国という評価を得ることができる。
 無論、あの王子がそこまで考えていることはないだろう。だが、回りの人間たちの思惑はつまるところそういうことだ。
「ま、国の考えることなんてどこも同じってことだな」
「僕らの仲間を、政争の道具になんかさせません。僕は誓って、ルナをあなた方にお譲りするつもりはない」
「一つおうかがいしたいのですが」
 ヘレンは意気込むアレスに尋ねる。
「ルナさんはアレスさんの何なのですか?」
「仲間です」
「仲間が幸せになるのを止めるのが、アレスさんの正義なのですか?」
「幸せ? 幸せだって!?」
 アレスが声を荒げる。いくら王女といえどもアレスより小さい、年下の少女。一瞬王女はびくっと震える。
「大声を出さないでくださいませ」
「すみません。ですが、今のは聞き捨てなりません。好きでもない人と結婚することが幸せだというのですか」
「少なくとも兄上は本気です。今はまだ出会ったばかりでルナさんの方にも選ぶまでに時間が足りないでしょうけど、これが一年、二年と兄上から愛され続ければ、次第に情も移ります。誰かに愛されるということ。それ以上に幸せなことがありますか?」
「それならヘンリー王子だって、ルナをずっと愛し続けるという保証もないし、情が移る保証だって──」
 そこまで言うと、ヘレンの様子が変わった。明らかに怒っているという表情。
「確かに人の気持ちは移ろうもの。あなたの言う通りです、アレスさん」
 言葉は丁寧だ。だが、ヘレンは自分の言葉を少しも信じていない。上辺だけの言葉であることはその態度から明らかだった。
「いいですか。兄は十歳のときから、自分だけのガーデンを作り、それを自分と、自分の部下のたった二人だけで管理してきました。他の誰の手も借りず、たった二人だけでです。あのガーデンには、国王陛下やお母様、私ですら足を踏み入れたことのない兄上にとっての聖地。それを、たった一目見ただけのルナさんが昨日、初めて迎え入れられたのです。これがどういう意味か、お分かりになりますか」
「それだけ本気ということですか」
「ポルトガ王女、七公爵家の方々、いずれも兄上のお相手としてふさわしい──まあ、例外もおりますけど、それこそ兄上にふさわしい方はたくさんいらっしゃいました。兄上もにくからず思っている方もいらっしゃったでしょう。ですが、その全てを兄上は断られた。それは、兄上が本当に好きだと思える人でなければならないと心に決めたからです。もし、ポルトガ王女や七公爵家の方々が本当に好きになったというのなら、私も相手が誰であれ反対はいたしません。ですが、その全ての相手を断って、初めてガーデンに迎えたのがルナさんなんです。兄上にとっては特別な存在なのです」
 他の誰も呼んだことのない聖地。
 なるほど、そこに招待されたことのない妹が本気になるのも分かる。というより──
「ヘレン殿下」
 くすくすと隣でトレイシーが笑った。
「まるであなたは、ルナさんに嫉妬しているかのようだ」
「嫉妬──」
 ヘレンは言われて、しばし考える。
「そうですね。そうかもしれません。私は兄上が大好きで、その兄上が私ですら呼んでくれたことのない場所に入ったのですから、妬んでも仕方の無いことだと思います」
「なるほど。だがしかし、アレスさんもヘレン殿下も、どうやら攻め方を間違えているようだ」
 トレイシーが二人を落ち着かせるように言う。
「攻め方?」
「そうだ。アレスさん。今の話からすると、ルナさんはヘレン殿下を説得し、オーブとやらを手に入れることができるなら、結婚を破談にしてもかまわないと言っているのかな?」
「はい、そうです」
「なるほど。そして殿下。あなたはヘンリー殿下に無断で、ルナさんの婚約をこぎつけたということで間違いないか」
「ええ。ルナさんが承諾してくれれば解決することですもの」
「残念だがそうではない。おそらく、ヘンリー殿下は今のままではルナさんの承諾を受け取らないだろう」
 そう断じるトレイシーに、四人が驚いたような目で見つめる。
「どうしてですか」
「決まっている。ヘンリー殿下は、相手の気持ちが自分にないのに、立場で相手を従わせようとするような節操の無い男ではないからだよ」
「ですが、ルナさんが承諾したなら」
「違うな。ルナさんは一度ヘンリー殿下を断っているのだろう? 一日や二日で人の気持ちが変わるようなことはない。誰かに強制されて相手を自分のものにするより、自分の気持ちが伝わるまで何度もアタックするのがヘンリー殿下のやり方だ。ヘレン殿下はむしろ、ヘンリー殿下の足枷になっているようだ」
「足枷」
 ヘレンが初めて戸惑う様子を見せた。それを見てからトレイシーは「さて」と腰を上げる。
「この場での話し合いはこれ以上は平行線ではないかな、アレスさん」
 引き上げ時だ、とトレイシーが促す。頷いてアレスも立ち上がる。
「攻める相手を間違えなければ、アレスさんはオーブを手に入れることができるんじゃないかな。私はそう思うが」
「ありがとうございます、トレイシーさん」
「はは、私は思ったことを言っただけだよ。歳の功というところかもしれないけどね」
 トレイシーはまだ二十代。言うほど歳を取っているわけではないが。
「今のところは『まだ若い』とフォローするところではないかな、アレスさん」
「すみません。言っていいものか迷いました」
「女性と老人は労わるものだよ。たとえ騎士でも女には違いないからね。それではヘレン殿下、お騒がせをしました。誰の入れ知恵かは知りませんが、国民でもない女性を人身御供にするのは、騎士の立場から言えば感心できないことだと思うね」
「トレイシーさん」
「なに、心配しなくてもいい。たとえあなたがどうあろうと、私はあなたの味方だ」
 にこやかに微笑んで、トレイシーは三人を連れて王女の部屋を出た。
「話の途中で申し訳なかったな」
 その三人にトレイシーが全く悪びれずに言う。
「いえ、止めてくださってありがとうございました。ヘレン王女と決裂するところでした」
「もう決裂した後だと思うけどな」
「……ヴァイスが正しい」
 アレスの言葉に仲間たちから突っ込みが入る。
「さて、まだ何か私にしてほしいことがあるなら協力するが、どうする?」
 尋ねられたアレスは少し考えて答えた。
「では、ヘンリー王子に会えませんか」
「よろしい。では案内しよう」
 トレイシーは嬉しそうに三人の案内を始めた。






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