Lv.88
数多の物語が生み出すものは
トーマスの話を聞いて、しばらくは声の出なかった二人だがやがてルナが尋ねた。
「現在、西アイルランドの所領はどうなったのですか?」
「王家の管理下に置かれています。ヘンリー様は国王になったら所領を返してくださるとおっしゃっていますが、正直興味ないですね。私はヘンリー様のお傍にいられる方が面白いですから」
「面白い?」
「ええ。この七年間、私は充実して過ごしました。ヘンリー様のお傍はいつも退屈しなくてすみます。今だってそうです。私は本当はダーマの大学に行きたかったのですが、家の事情でそうもいきませんでした。『奇跡の賢者』と名高いルナ様とお会いできたのは光栄だと思っています」
「それはありがとうございます」
「ルナ様は第一印象の通り、優しい方でいらっしゃいます。確かにヘンリー様のお隣に相応しい方だと思います」
「そうですか? 自分では分かりませんが」
「今の質問も、私を気遣ってのものですね。相手の気分を少しでも和らげようという意思を感じました。そのお心遣いが相手にとっては嬉しいものです。ヘンリー様は一目惚れでしたが、話せば話すほど惹かれていったことでしょう」
「そうおっしゃっていただけるとこちらこそ光栄です」
トーマスは優しく微笑み、ヴァイスに向かって頭を下げる。
「ですが、皆様にはご迷惑をおかけしましたね。すみません」
「いや、そっちの事情は分かったから気にしなくてもいいぜ。まあ、俺としちゃ王子さんとのやり取りは、どちらかといえばルナの方が悪いと思ってるからな。結局王子さん頼りで解決したみたいなもんだし」
「ヘンリー様も多少は周りが見えるようになっていただいたようで安心しました。ただ、ルナ様についてはまだ諦めていないご様子ですが」
さすがにそう言われるとルナも何も言えない。少し考えてから話題を変えることにした。
「ヘンリー王子の教育には二人関わっていたと聞きましたが」
「はい。トレイシー様とキャサリン様ですね。キャサリン様は王子がまだ赤ん坊の頃からずっと育ててこられた女官長でした。五年前、私が勤めてから二年後に他界しました」
「トレイシー様はいつごろから」
「王子がまだ幼い頃に、姉役として指名されたそうです。王子が五歳のときですから、今から十四年前ですね。トレイシー様はご存知の通りお美しい方でいらっしゃいますので、王子もトレイシー様が本当に好きでいらっしゃいます」
「仲のいい姉弟のように見えます」
「それでも一時期はぎくしゃくしたものです。王子が求婚されたのが四年前ですが、それから半年くらいはお互いほとんど話すこともありませんでした」
「そうなんですか。想像つかないですね」
「考えてみると、それからもトレイシー様の方が少し距離を置くようになりましたね」
「あれでか?」
ヴァイスが顔をしかめる。会った瞬間にヘッドロックをするような関係のどこが距離を置いているというのか。
「それまではもっと関係が深かったのです。会わない日などほとんどありませんでしたから」
「いずれにしても、下世話な言い方になるが王子さんが振られたってことだよな」
聞きづらいことだが、確認の質問である。トーマスはいやな顔もせず「はい」と答えた。
「トレイシー様がお相手なら私もそれでいいと思っていました。ですが、告白した後にヘンリー様に聞いても、完全に諦めた様子でいらっしゃいましたし、私からトレイシー様に直接うかがうわけにも参りませんでしたので、私もどうしてお断りになったのかは存じ上げません」
「年齢差か? あの姉ちゃんの方が」
「八歳年上です。求婚されたときヘンリー様が十五歳。トレイシー様が二十三歳ですね」
「むしろ、トレイシー様は誰とも結婚するつもりがなさそうですね」
ルナはそれを察知していた。女だから、というのは言いすぎだろうか。だが、トレイシーはたとえ恋愛をしても結婚をしようとは思わない、そんな人間ではないかと感じた。
「ヘンリー王子は今でもトレイシー様のことを愛してらっしゃるのではないでしょうか」
ルナが尋ねるとトーマスも頷く。
「おそらくそうだと思います。まあ、一度失恋していますから、昔好きだった女性ということで緊張するくらいのことだと思いますが。どう見ても今の王子は、ルナ様のことに夢中ですからね」
「それこそ一目見ただけの気持ちなど、しばらくすれば忘れてしまいます。ですがトレイシー様は物心ついたときから一緒にいらっしゃるのですから、いわばヘンリー王子の血肉の一部です。トレイシー様のお考えがそのままヘンリー王子に受け継がれています」
「ええ。立派な王子に育てていただいてありがたいと思います。トレイシー様はその意味で、私にとっての命の恩人ですね」
王子が一通の手紙に興味を見せなかったら、トーマスは助けられることもなかったのだ。
「戻ったぜ、トーマス」
と、そこに噂の渦中の人物がやってきた。
「って、うお! ルナさん!」
「お邪魔しております、王子」
「悪いな。待たせてもらってた」
ルナとヴァイスが挨拶をするとヘンリーは喜んで向かいのソファに座る。
「なになに、気にすることはない。座って座って。いや、ルナさんから訪ねてきてくれるのは嬉しいことこの上ない。ディアナ嬢の方は?」
「通夜、本葬は自分の力で行うと言って、私は追い出されてしまいました」
と言うとヘンリーは苦笑する。
「なるほど、ディアナ嬢らしい。さぞ立派な女公爵となるだろう」
ヘンリーはしばし目を伏せる。
「公爵会議の方はどうなりましたか?」
「ま、ルナさんに隠し事をするほどじゃないからかまわないけどな。ウィリアムズ公領は王家が没収。今まで領内で行われていたことも考えて、しばらくは直轄領として腐敗を洗い出すことにした」
「ベストな選択ですね」
「トーマス。お前が行ってくれないか、俺の代わりに」
「王子が行けとおっしゃるなら私に否はありませんが」
だがトーマスは不満そうだ。要するに王子から離れるのが嫌なのだろう。
「せいぜい一ヶ月だ。今はダイナミックに改革を進めないといけない。だとしたら俺の考えが一番よく分かっている奴が行かないと話にならない」
「でしょうね。覚悟はしていましたからかまいませんが、他の貴族たちが何というか」
「フィット公の葬式が終わったら俺もお前と一緒に領地に一度向かう。三日か四日は一緒にいる。それからは後任が決まるまでがんばってくれ」
「承知しました。これも王子の理想への一歩ですから、私がわがままを言うわけには参りません」
「まったく、お前は本当にいい奴だよ」
ソファの後ろに立っているトーマスのおなかを軽く叩く。その仕草にトーマスが微笑した。
「トーマスさんのこと、先ほどうかがいました」
ルナがその二人の様子を見て話しかける。
「トーマスのこと?」
「はい。お二人が初めてお会いになったときのことです」
「ああ」
ヘンリーが苦笑した。
「トーマスも今はこうやって猫の皮を被ってるが、本性はこんなんじゃないぜ。触ったらだれかれかまわず噛み付くような奴だったからな」
「人間不信にさせてくださるような事件でしたから」
「でも、あのとき駆けつけてよかったよ。お前がいてくれなかったら、今の俺はなかったからな」
「もったいないお言葉です」
「たまには出会ったときみたいな様子でもいいんだけどな」
するとトーマスはその微笑を徐々におさめ、冷たい視線となる。
「俺が本性を出したらお前では抑えられんだろ」
いつも礼儀正しく丁寧なトーマスとは思えない乱暴な言い方。ルナですら一瞬耳を疑った。
「そうそう、それ。出会ったばかりの頃のお前だよ、トーマス」
「王子はお戯れがすぎます」
だが、たった一言でそれは終わった。こういう様子だったのだ、とわざわざルナに見せ付けたのだろう。
「それじゃあ、本命の話といこうか。何か用事があったんだろう?」
「はい。いろいろと伺いたいことがありまして」
聞きたかったのは八年前の戦争の件だ。
海賊ブランカの活動は実質、この前後からスタートしているといっていい。ということは当時のことをまずいろいろと聞き、その中からヒントを得ていくしかない。
「俺で答えられることならな」
「はい。おうかがいしたかったのは、八年前に起こった大西洋戦争の件なんです」
その突然の話の変わりように、さすがの王子も面食らったらしい。
「また、なんだってそんな昔のこと」
「フィット公暗殺の犯人に関係すると思われるからです。少なくとも八年前、その前後に何かがあった。そこまでは分かったのですが、その頃の事件といったら大西洋戦争が何より大きな事件ですので、まずはそこから聞いていこうかと」
「なるほどな。でも、そうなると俺じゃちょっと分からないことが多いな。八年前か。トーマスもまだいなかった頃だな」
「ちょうどウェールズの大学進学が決まったときですね。おかげで大学一年目は戦争学が人気講座でした」
「いつまたポルトガと第二戦になるか分からなかったからな。それに、戦史を勉強しておくことは決して悪いことじゃない」
「はい。私の場合は、もっと実用的なことに使えると思っていましたが、それ以外にもいいことが多々ありました。上に立つ者の味方や考え方、学ぶことは多いです」
「一応、資料は読んでみたのですが」
話の切れ目にルナが割って入る。
「反戦派がフィット公とウィンチェスター公のお二人だけ。あとは開戦派といった様子だったとあります。ただ、宰相はどちらかといえば反戦派とありましたが」
「ルポールの爺さんか。まあ、良識的な人だよ。頭が固いけどな」
「もし、お話をうかがえたら──といっても、無理でしょうね」
「まあ、国で一番忙しい人だからな。ただでさえ父上が病気で伏せってるせいで、全部の仕事がルポールの爺さんに回ってるから、難しいところだろうな」
そうなると完全に手詰まりになる。何とか当時のことが分かる人物から話を聞きたいのだが。
「トレイシー様はいかがですか。その頃でしたら、既に騎士に叙任されていたのではありませんでしたか」
トーマスが助け舟を出すと、ヘンリーがとても嫌な顔をした。
「いや、分からねえだろうな。その頃あいつ、エディンバラにいなかったから」
「初耳です」
八年前といえば、まだトーマスが仕える前のこと。それこそ王宮のことなど知らなくて当然だ。彼はまだ子供で、しかもウェールズの大学に通っていたのだから。
「どちらに行かれていたのですか?」
「北方で海賊退治にな。ま、それ以上はあまり聞かないでやってくれ。トレイシーの奴も、話したがらないだろうしな」
ルナの脳裏に電流が走る。ちらり、とヴァイスを見ると、ヴァイスも感じ取ったらしい。
八年前に海賊退治に行ったというトレイシー。そして八年前といえば。
(ブランカが活動を始めたころと一致しますね)
となると、実際にトレイシーに話を聞いてみたいところだ。もしかするとトレイシーがブランカらしき人物を見ていた可能性だってある。
「話したがらないという理由も聞くわけにはまいりませんか」
「すまねえな。こればっかりは俺から言うわけにはいかねえ」
「分かりました。ですが、海賊の件については教えていただけますか。その頃の海賊がどのように活動していたか。もしかしたら、海賊ブランカに関係することが分かるかもしれません」
「といっても、俺もあまり知らないからなあ。海賊担当はもともとウィリアムズ公が一任されたところだったし、あと詳しい奴っていえば──」
「スペンサー提督はいかがでしょう」
「ああ、あいつならたしかに適任かも」
また知らない名前が出てきた。
「その方は?」
「もともとフランシス総督の片腕と呼ばれていた人物で、大西洋戦争の影の功労者だな。小型艇で突撃した最初の艦に乗っていたのもあいつだ。フランシス総督が亡くなってからは国から離れて自由にやってるが、今はどこにいたかな」
「エディンバラにちょうど戻ってきておられます。次はノアニール方面へ出港されるはずですが」
「いつだ?」
「確か明日には」
「なら今日中に会っておかないとな。じゃ、行くか」
そうしてヘンリーが立ち上がる。
「まさか、ご一緒してくださるのですか?」
「ま、俺が行った方がルナさんも話しやすいだろうしな」
「ありがとうございます。ご足労をおかけします」
「こうして少しでもルナさんのポイントを稼いでおかないとな」
「充分ですよ。ただ、相手が悪すぎるだけです」
そうしてヘンリー、トーマスとともに二人は王子の部屋から移動する。場所はトーマスが知っているのか、そのまま王宮を出て街中へ出る。
「警護もつけずによろしいのですか?」
「俺にとってはいつものことさ。今はトーマスもいるし、ルナたちもいる。よっぽどのことがない限り大丈夫だろ」
「自分が妻にしたい女性に守ってもらうってのはどうなんだい、王子さん」
「なに、この四人の中で一番強いのはルナさんだろう。違うのかい?」
「違わない」
ヴァイスは肩をすくめた。
「そんなに私は暴力的ですか、ヴァイスさん」
「いや、そんなことはねえよ。ただ、客観的に見て俺はお前にかなわないと思ってるよ。もちろん、槍の間合いに入ったら負けない自信はあるが……でもルナはどんな魔法を使ってくるか分からねえからな」
「たいしたことはしません。ラリホーで眠らせるだけです」
「やっぱり勝てないだろ、それ」
そう言って笑う。確かに、ルナはたとえ相手がヴァイスであれ、フレイであれ、負けるつもりはない。アレスが相手ならどうだろうか。だが、逆にアレスだと今度は勝てる気がしない。やはり勇者だということだろうか。
「さ、ここだ」
しばらく歩いて到着したのは一軒の酒場。船乗りらしい場所であった。
店に入ると、それまで賑やかだった雰囲気が、一瞬鎮まり、そして誰もがいきなり立ち上がった。
「お、王子!」
「ちょ、なんでエジンベアの王子がこんなところに来るんだよ!」
「やあ、悪いな」
そんな男たちに向かって、ヘンリーは笑顔で片手を上げる。
「ちょっと緊急の用事があって提督に会いに来たんだが、いるかい?」
「……親方なら、上の部屋だ」
「そうか。入らせてもらうぜ」
「待ってくれ!」
男たちのうち二人が階段の前で両手を広げて通せんぼをした。
「親方は今寝ている。あの人の眠りを醒まさないでくれ」
「なんだ。まだあいつは寝起きが悪いのか。時間が経っても変わらないな」
「親方が起きたら王子のことは伝えておく。だから──」
「かまわん」
凛とした声が響く。
(この声)
当然、聞けばすぐに分かることだ。今の声の持ち主は、女性。
「久しぶりだね、王子。しばらく見ない間にタケノコのように育っているな」
「お前も元気そうで何よりだよ、メアリ・スペンサー。ますます色っぽくなったな」
「王子。アンタは相手が誰にでもそんなことを言ってるのかい?」
甘ったるい声でニヤニヤと笑う女性。
「お前だけに決まってるだろ、こんなにくだけられるのは」
「そりゃそうだ。アンタがよくあの王宮の中に収まっていられるもんだと、いつも影で笑ってるのさ」
「趣味が悪いぜ、メアリ」
階段の上から現れた女性は、金色の巻き髪を背中に垂らした女性だった。服は半袖のもの、ズボンも太股までしかない短パン。とても健康的な女性だった。
そして、若い。
「提督と言われる方が、こんなに若い女性だとは思いませんでした」
ルナが目を奪われて感想を言う。するとメアリはその様子を見て苦笑した。
「何者だい、この子らは」
「ダーマの賢者ルナと、その仲間のヴァイス。二人がお前に話があるっていうんで連れてきた」
「へえ」
近づいて、メアリは両手を腰に当て、その大きな胸を誇示するかのようにする。そして王子を見てからこう言った。
「王子。アンタ、いつからつるぺた好きになったんだい」
ルナは深く、深く傷ついた。
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