Lv.95

あなたにひとときの安らぎを








 船が出航する。二日がかりの船旅。
 実際、ルナは精神的にはかなり疲労していた。陵辱の恐怖に耐え、自分の精神を閉ざしていた二日間。頭の中はまだ混乱して、いつも通りに働くわけではない。それに首輪に吸い取られていた魔力も回復しきっているわけではない。
 まずはゆっくりと体も心も休める必要があったのは、誰よりも自分がよく分かっていた。だからこそ強引な形で二日間の休みを申し出たのだ。
 アレスたちは何も言わなかった。傷ついたルナを休ませるのは当然のことだとも思っていたし、運よくレッドオーブも手に入ったのだ。ブランカ騒動もひとまず決着がついて急ぐ必要は何もなくなった。
 出航してすぐ、ルナは一眠りすることになった。だが、一人で寝るのは怖かった。一人になると思い出す。
 気遣ってくれたフレイが一緒に寝てくれた。ベッドの中に一緒に入り、眠りにつくまで何度も何度も頭を撫でてくれた。
「すみません、フレイさん。ご迷惑をかけてしまって」
「……迷惑じゃない」
「フレイさんは優しいです。一緒にいると、とても安心できます」
「……私も、ルナが好きだから」
 あまり感情を表にしない人物だが、感情がないわけではない。ただ表現するのが下手なだけなのだ。それはこれまで一緒に冒険をしてきて既によく分かっている。
「フレイさんが一緒にいてくれてよかったです。私、フレイさんには頼りきってしまっています」
「……それは私も一緒」
「本当に、怖かったんです」
 思い出すと、体が震える。
「もう、アレス様のところに戻ることはできないと思いました。自分ひとりで逃げ出すこともできず、永遠に陵辱され続けるのかと思うと、怖くて、何もできなくなりました」
「……ルナをこんな目にあわせた奴は許さない」
 もうとっくに全員成仏するか、エジンベア海軍に捕まっているが、肝心の主犯が残っている。
「でも、アレス様が飛び込んできてくださって。ずっと恋慕っていたアレス様が、本当に、これ以上ないタイミングで、助けに来てくださいました」
「……あんなに焦っているアレスは、久しぶり」
「前は、フレイさんのときですよね」
「……そう」
「あんな素敵な人に命がけで守られたら、もう戻れないのも分かります」
「……うん」
「もう諦めることはできませんね。この命、アレス様に捧げるしかなくなりました」
「……最初からそうだったくせに」
「否定はしません」
 くすくすと笑う。
「フレイさんにはご迷惑がかからないようにしますから」
「……前にも言った」
 フレイは、もう少し強くルナを抱きしめた。
「……ルナなら、大歓迎」
「ありがとうございます」
 ルナは目を閉じた。フレイのいい匂いがする。
 その、優しい、幸せな匂いにつつまれたまま、ルナは怯えることなく眠りについた。






 目が覚めてから、ルナは甲板に出た。
 太陽がまぶしかった。どれくらい寝ていたのかは分からなかったが、半日以上は寝ていただろう。食事を取る必要があったが、それより先にこの船からの景色を見たかった。
 いや、船室にはあまりいたくなかった、というべきか。船に乗せられていた間、ずっとあの狭い船室に閉じ込められていたから、船室というものがトラウマになってしまったようだった。
 船は揺れる。揺れているのに、周りに誰もいなくて、暗くて、自分ではどうしようもなくて。
 だが、こうして外に出てみると、太陽は明るくて、海はその光を反射して、とても綺麗な景色だった。こういう海なら何も怖くない。気持ちまで晴れ晴れとしていく。
「おはようさん」
 後ろから声をかけてきたのはヴァイスだった。
「おはようございます」
「早いな。まだ朝になったばっかりだぜ」
「そういうヴァイスさんこそお早いですね」
「たまたま目が覚めたからな」
「ありがとうございます」
 ルナは深く頭を下げた。
「もうお礼は聞き飽きたぜ」
「いえ、昨日とは別です。わざわざお気遣いいただいてありがとうございます」
「気遣い?」
「私が甲板に出てきたから、ついてきてくださったんですよね?」
 ルナが笑顔で言う。やれやれ、とヴァイスは両手をあげた。
「かなわねえな、ルナには」
「ヴァイスさんは優しい方ですから。陰からそっと見守ってくれるタイプの優しさですよね。それに厳しいときは厳しいですし、もしヴァイスさんに子供ができたら、まっすぐなよいお子さんに育つと思います」
「そんな評価をされたのは初めてだね」
 そしてヴァイスはひょいと林檎を一個放って寄越した。
「果物の方が良かっただろ?」
「はい。おなかがすいていたのでありがたいです」
「船の中は嫌か?」
「そうですね、正直、好きになれません。ずっと閉じ込められてましたから」
「だろうな。普通なら船に乗りたくないって思うんじゃねえかと思ってたよ」
「高い所よりはずっと平気ですよ」
「ああ、そういや高所恐怖症だったっけな。塔の上でもびびってたっけ」
「こればかりは治せないものですから」
 こうした世間話のようなものが今は心地よい。精神を研ぎ澄ませるのではなく、リラックスして、自分の心を癒すこと。それがこの二日間で自分がしなければならないことだ。
「ま、アレスがあれだけ慌ててるのも久しぶりに見たが、フレイの様子も尋常じゃなかったぜ」
「そう聞きました」
「聞くのと見るのとじゃ違うぜ。あのフレイが始終しっかりと起きていて、いてもたってもいられなくなっていて、海賊のアジトを見つけた瞬間にイオナズンの連発だ。あそこまで見境なくなってるフレイは初めて見たね」
「フレイさんが」
 そこまで自分を心配してくれた。
「そうですか。改めてお礼を言わないといけませんね。あのイオナズンの揺れがなければ、私は間違いなく間に合いませんでしたから」
「それを聞くたびに何もできなかった自分が腹立たしいがな。あのときメアリんとこじゃなくて、なんでお前と一緒に行動しなかったのかと本気で腹立つ」
「すみません」
「違う違う。俺自身に言ってるんだよ。お前が狙われてる可能性があったのは分かってたはずなのにな。ウィリアムズ公一味が捕まったせいで油断してた。ブランカがお前を狙う可能性に思い至らなかった」
「それはむしろ私の方が問題ですね。私こそ自分の身には気をつけていなければなりませんでした」
「ま、お互い様ってやつだな」
「はい。そして、ありがとうございます」
 改めてルナは頭を下げる。
「今度は何のお礼だ?」
「アレス様やフレイさんと同じように、ずっと私のことを気遣っていてくれたお礼です」
 アレスが焦り、フレイがいてもたってもいられなかったように。
 ヴァイスもまた、いつも通りではなかったのだ。
「ったく、本当にお前はできたやつだな!」
 ヴァイスはルナの頭をつかんで抱きしめる。
「ヴァイスさん」
「遠慮なんかするなよ。俺たちはとっくに仲間なんだ。お前がいなけりゃ俺たちはパーティじゃなくなる。俺たち四人でバラモスを倒すんだからな」
「もちろんです。遠慮なんかしません。私は最初から勇者様と、そしてヴァイスさんやフレイさんと仲間になるためにダーマで特訓してきたのですから」






 食事が終わって、また甲板に出ているとやってきたのはメアリであった。
「海を見ているのは楽しいかい?」
 声をかけられてルナは頭を下げる。
「はい。このたびは本当にありがとうございました」
「礼ならもう聞いたし、王子からたっぷり謝礼ももらえるからね。アンタの気にするようなことじゃないよ」
「それでもメアリさんがいなければ、私はもう、間に合いませんでしたから。本当に、本当にありがとうございます」
「アタシはね、アンタみたいな子供が大好きなのさ」
 くっくっ、とメアリは笑う。
「しっかし海賊も子供を抱くなんて趣味が悪いねえ」
「それは私に対する嫌味か何かですか」
「素直な感想さ。それにしてもアンタ、本当に誰からも愛されてるねえ」
「みなさん優しい方ばかりですから」
「王子のあんなに焦ったところは見たことがなかったね。王子もアンタに本気だよ」
「それは分かっているつもりですが、でも王子には他に好きな方がいらっしゃるように見受けられます」
「へえ? それはまさか、トレイシーのことかい?」
「はい。私が伝えたことで、余計にトレイシー様のことを思い煩うのではないかと思ったのですが、伝えないわけにもいきませんでしたし」
「トレイシーもね、かわいそうな女さ」
 メアリは空を仰ぎ見る。
「あの子、本当はアタシらと一緒に大西洋戦争の前線に出る予定だったんだよ」
「それがウィリアムズ公の企みで変えられてしまったわけですね」
「ああ。最初はテューダー公が自分の娘を前線にやりたくないからだと思ったんだけどね。根は深かったね。まさかあの子を陥れるためにそこまでするなんて」
「トレイシー様のことはご存知なのですか?」
「そりゃ知ってるさ。アタシはフランシス様一の部下だよ。顔も合わせてりゃ話もしてる。あの子が海賊討伐に行く前も後も会ってる。そんな目にあってるなんて、まったく知らなかったけどね」
「王子以外の誰にも話したことはないのだと思います」
「馬鹿な奴だね。子供が産めようがどうしようが、好きな奴の隣にいられれば幸せだろうに」
「私もそう思います。ですが、トレイシー様はどうしても国のことを考えざるをえない境遇でしたから」
「アタシらには分からない感覚か」
「そうですね。その感覚は私にも分かりません。ですが、陵辱される気持ちは半分、分かるつもりです」
「半分?」
「私は結局トレイシー様のように陵辱はされませんでしたから、最後の絶望を味わっているわけではありません。でも、私も汚されるくらいならと自分から海に身を投げようとしましたし、助けがくる直前まではもうアレス様に合わせる顔がないと本気で思いました。私ですらそう思ったのに、ましてやトレイシー様は……」
「でも、あの子のやったことはそれで許されることじゃない」
 メアリははっきりと断言する。
「あの子はやったことに対してしっかりと償ってもらわないといけない。ウィリアムズ公は自業自得だとしても、ノルマン公女の件、それに他にもあの子──ブランカのせいで泣いている女はたくさんいるんだ。自分と同じ目に合わせてやりたいだけなんだろうけど、そんな権利があの子にあるわけじゃない」
「その通りです」
「まあ、アタシらはこの海域から外に出ていくことはそうそうないだろうけど、アンタたちはこれから先どこかであの子に会うかもしれないだろ」
「はい」
「そのときは、アタシの分も一発痛いのを頼むよ」
 メアリは握りこぶしでルナの肩を軽く叩く。
「はい。必ず」
「いい子だね、アンタ」
 メアリはルナを抱きしめた。
「ちょ、メア」
「どうだい、やっぱり胸は大きい方がいいだろう?」
 ──やっぱり、根本的なところでは好きになれない相手だった。






 日が傾いてから、ルナは自分のパスルートに魔力を通し始めた。
 フレイやヴァイス、メアリらと話して、だんだん自分の心が癒されてきたのが分かる。というより、最終的に自分は守られたのだ。たしかに怖かったし、今でも思い出すと震える。だが、いつまでもその気持ちを引きずってはいられない。
 オーブは後一個、シルバーオーブのみ。
 どこでそれが見つかるのか、これから探し出さなければならないのだから。
「ルナ?」
 甲板でずっとパスルートの確認をしているときに声がかかった。
 もちろん、このタイミングで声をかけてくるのは、最後の一人。
「アレス様」
 ルナは笑顔で振り向く。目が合った瞬間、アレスは顔を真っ赤にした。
 それで思い出す。そうだ、昨日自分は、アレスに裸を見られてしまっていたのだ。
「あ、あ、えーと」
「昨日のことでしたらお気になさらないでください。アレス様は私を助けてくださいました。心から感謝しております」
 そしてルナはアレスに近づくと、正面からしっかりと抱きついた。
「ルナ」
「私、アレス様と一緒にこられてよかった。アレス様の賢者でよかった。私、ずっとずっとアレス様についていきます。アレス様のためだけに私の力を使います」
「ありがとう、ルナ」
「お礼を言うのはこちらの方です。もう、本当に駄目だと思いました。それなのに、本当に、一番のタイミングでアレス様は来てくださった。まるで私、捕らわれのお姫様なんじゃないかと思うくらいに。御伽噺でもこんなことはそうそうないと思います」
「でも、僕たちはみんなルナのことが心配だったから」
「はい。ご心配かけて申し訳ありません」
 少し離れる。そして正面からアレスの顔を見た。
 たくましい顔だった。
 この人が勇者。
 私の勇者。
 私が、生涯かけてお仕えする方。
「本当に、ありがとうございました。アレス様」
 そして。
 ルナは、彼の頬に口づけた。






「……いいのか? あんなことさせておいて」
 陰から見守っていたヴァイスが、隣のフレイに言う。
「……今日は特別」
「まったく、お前もルナには甘いねえ」
「……ルナ、大好き」
「お前が一番、ルナのこと好きだよな」
「うん。負けない」
「即答しやがって」
 ヴァイスは苦笑した。確かに、今日くらいは絶望と戦ってきたルナにご褒美があってもいいだろう。
(どうせ、休めるのはこの航海の間だけだしな)
 それが分かっているだけに、いっそうルナが可哀相だった。






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