虫の声が聞こえる。
 空は青く、高い。雲は一つとして見えない。澄んだ空。そして、灰色の大地。
 舗装された道。そして、立ち並ぶビルの群れ。
 誰もいない都市。
 静かで、どこか物悲しさを感じさせる。

「……どこかで見た風景だな」

 道の先に、制服姿の少女が現れ、瞬きをする間に消える。

「……そんなことが、ありうるのか?」

 少年はゆっくりと歩き出した。
 そして、空を見上げる。
 その先を、巨大な移動物体が横切った。
 少年はそれを見ると、表情も変えずに言った──

「使徒か」












第壱話



嚆矢は放たれた












 葛城ミサトは愛車のルノーをエンジン全開で走らせていた。

(あちゃあ、まずいなあ……こんなときまで遅刻なんてね)

 彼女は本来、この非常事態にこんな場所にいて許されるような人間ではない。NERVと呼ばれる対使徒迎撃組織のナンバースリー、作戦部部長にあたる。
 そして、十五年という沈黙を破って今再び現れた使徒。その使徒を倒すための作戦部長が、本部『から』まっすぐ都市の方へと向かって車を走らせているのだ。
 時速はおよそ百五十キロ。この非常事態のおかげで、他に車が走っていることはない。おかげですきなだけスピードを出せる。
 さらに、アクセルを踏み込む。スピードメーターの目盛りがまた上がっていく。

(ったぁ〜……にしてもなんだってこんなときに来るのかしらね、使徒も。こっちにだって都合ってもんがあるんだからさ。せめて明日とかだったら問題なかったのにぃ〜)

 作戦部長の彼女が何故こんなところにいるのか?
 それは、彼女がNERVにとっての『重要人物』を迎えにいくように命じられたからである。
 本来ならば、渋滞の中、ゆっくりと彼女は愛車を走らせているはずであった。
 だが今は、そういうわけにはいかない。

 使徒、襲来。

 十五年ぶりに現れた『それ』は、第三新東京市、この街の中心部へと向かって歩いてくる。
 その姿は人型をしてはいたものの、単に二本の腕と足があるだけであって、見た目にグロテスクであることは疑いない。

(にしても、ついに現れたか……)

 彼女には、NERVに入った理由がある。
 セカンドインパクト──南極でおきたカタストロフィ。巨大な爆発と、その後の生態系の変化は全人口の三分の一を失わせる結果となった。
 その、セカンドインパクトを引き起こした原因。
 使徒。
 彼女の父親を殺したモノ──

(私の手で、ぶち倒してやる……)

 そう思っていたとしても、おくびにも出さないあたりが彼女も軍人である。
 そして彼女の作戦立案能力がかわれ、二十九歳にして作戦部長という地位をあてがわれることとなった。
 全ては、使徒を倒すため。
 彼女にとって、使徒を倒すことが最優先命題なのだ。

「いたっ!」

 彼女は駅から少し離れた場所を歩いている一人の少年を見つけた。
 そして、同時に。
 ゆっくりと移動してくる、使徒。

「まずいっ!」

 わざわざ、ここまで出迎えに来て、みすみす死なせるわけにはいかない。
 マルドゥック機関が見つけてきた『サードチルドレン』こと碇シンジ。
 彼がいなければ、自分の目的を達成することはできない。
 そしてそれ以前に、まだ十四歳の少年を殺させない。
 彼女は天才的なドライビングテクニックでルノーを操ると、使徒によって破壊されたビルの破片が降り注ぐ中を、右へ左へ車を移動させながら、少年の傍に近づく。そして、助手席のドアを開けた。

「早く乗って!」

 体を乗り出して、少年を見つめる。だが。
 少年は、まるで動く気配がなかった。
 両手をポケットに入れ、突然自分の隣に止まった車を訝しげに見ている。

(この、少年)

 一瞬、彼女はその笑顔に寒気を覚えた。

(マルドゥックの報告と、何か違う……?)

 話では、内向的であまり心を開かない少年と聞いた。
 いや、内向的でなかったとしても、この状況でここまで平然としていられるものなのだろうか。
 どこにでもいるような普通の少年ではなく、何か、不気味なものを感じる──
 が、ミサトはそんなことに構ってなどいなかった。今の状況がどれだけ危険であるか、彼女にはわかっている。

「早くなさい、死にたいの!?」

 少年には反応がない。
 ミサトの方を見てはいたものの、まるで答える気がないかのようにぼうっとしている。

「ちょっとアンタ、人の話聞いてるの!?」

 少年は、空を見上げた。
 その視線の先には、使徒がいる。
 それを確認してから、少年はゆっくりと車に乗り込んだ。

(まったく、なんなのよこの子……)

 彼女は、この状況にまるで動じていない少年に苛立ち、少年が車に乗り込むのと同時にアクセルを踏み込んだ。
 だが彼は動じることなく、急加速にも戸惑わず、冷静にシートベルトを装着する。

(余裕ってわけ? それとも、死ぬことを怖れていないのかしら)

 いったいどうして彼がこんな態度をとっているのか分からない。
 少なくとも報告書に書いてあったとおりの彼ならば、こんな態度を取ることは万に一つもない。

(おかしいわね……報告書のミスかしら。それとも、他に理由が?)

 考えられるのは、父親のことだ。
 NERV総司令、碇ゲンドウ。
 シンジはゲンドウのことを嫌っていると報告にあった。そのゲンドウに会うということが、彼にこのような態度を取らせているということは十分考えられる。

「あ、遅れたけど私──」

「葛城ミサト。NERV作戦部長」

 人の話を強引に断ち切る少年に、ミサトは気を悪くした。

「……そ。あなたのお父さんの部下」

「はじめまして、葛城さん。僕の名前はご存知ですか?」

「当たり前でしょ、碇シンジくん。噂にたがわぬ美少年ぶりで、お姉さんちょ〜っぴり嬉しいんだから」

「美少年?……へえ」

 案外動揺しなかったことに、ミサトは横目で少年の反応を見る。
 別にどうということもない。ただ普通に前を見て座っている。喜んでいるわけでも、照れているわけでも、怒っているわけでもない。
 単にそういう事実を教えられた。そんな感じ。

「あら、あんまり自分のことに関心がないの?」

「さあ……それより、この状況をもう少し説明していただきたいですね。何故誰もいないのか。この戦争の真似事はいったい何なのか」

「それを言うわけにはいかないわね。何しろトップシークレットって奴だから」

「見たところ、第三に攻め込んできた巨大怪獣に対して攻撃をしかける地球防衛軍みたいな感じですね。昔の特撮みたいだ」

「へえ、シンジくん、そんなの見るんだ」

「子供の頃ですけどね」

「なぁ〜に言ってるのよ。今だってまだまだ子供じゃない」

 少年は苦笑した。

「確かにそうですね。子供の頃というのは、小学生の時、という意味です」

 ようやく笑った少年にミサトも安堵した。
 何か、感情が欠落しているかのような少年に、少々不気味さを抱いていたのだ。

「で、その地球防衛軍が何かするみたいですけど」

「へ?」

 少年は視線をミサトの、さらに遠くへと向ける。
 戦闘機が上昇を始めている。あれは、避難行動だ。

「ちょっと、N2爆雷を使うつもり!?」

 ミサトは急ブレーキをかけて、少年の頭をかかえた。

「ふせてっ!」

 少年はなされるがまま、顔を下げる。
 直後、爆発が起こった。
 凄まじい閃光と轟音。そして、遅れてやってくる爆風。
 ミサトのルノーが持ち上げられ、横転する。そのまま、数メートル地面を這う。
 爆心地から離れていたおかげでこの程度で助かったが、もしもこれが爆心地傍だとしたら。
 ミサトは一つ息をついた。
 自分がここに来ているということは、司令も知っているはずなのに。

「偶然がすぎますね」

 横になった車内で、ミサトの下敷きになった少年が呟く。

「偶然?」

 少年が何を言っているのか、何を言いたいのか、彼女には理解ができなかった。

「突然呼び出され、その日に第三が正体不明の怪獣に攻め込まれている。さて、僕はいったい『何のために』呼び出されたんでしょうね」

 勘付いている。
 この少年は、自分がこの騒動に関係するのだということに既に気付いている。

「どうしてそう思うの?」

「思わないのだとしたら、それは単に思考が停止しているだけのことでしょう。それで、あなたがたネルフは僕に何をさせようとしているんですか? 不思議なベルトとかペンとかを持って変身して戦えとでもいうんですか?」

「その話はおやめなさいってば」

 とにかく、今はこの横転したルノーを元に戻すことが先だ。ミサトは上になってしまったドアからはいでると、少年の手を取って外に出した。
 辺りは一面荒野と化し、その向こうに巨大な点が一つだけ残っていた。

「もしかして、あれが切り札だったんですか?」

 大地に降りた少年が呟いた言葉に、ミサトはまた不機嫌な表情を作る。

「どういう意味よ」

「今の爆発は、要するに火力を集中しただけのことでしょう。火力が通用する相手なら、今の爆発じゃなくても別の攻撃でダメージを与えられるはずです。でも先ほどから戦いを見ていましたけど、あの怪獣は戦闘機からの攻撃をものともしていなかった。それはつまり、火力によってはあれを倒すことはできないということでしょう。少し考えれば分かることではないですか」

「確かにそうよね。UNのオバカさんたちにはそれがわからないから」

「UN? へえ、国連軍だったんですか、あれ。じゃあネルフは何をしているんですか?」

「今のところは何もしてないわ。UNが権限委譲してくれないと、ネルフに行動権限がないんですもの」

「大変ですね、大人の社会って」

「そゆこと。それじゃ……いくわよ」

 準備ができたところで、二人はルノーを元に戻した。






 再び出発したルノーがNERV本部につくまでには随分時間がかかった。
 本部のカートレインを下りている際に、ミサトは後部座席から茶封筒を引っ張り出すと、そのまま少年に渡す。

「はいコレ。読んどいてね」

 その封筒の表には『ようこそネルフ江』と書かれている。
 少年はそれを受け取ったものの、中身を取り出すこともないままシートを倒した。

「ちょっとぉ、読んでって言ってるでしょ」

「必要ありません」

「必要はあるかもしれないでしょ」

「必要ありません」

 もう一度、同じ言葉を繰り返して目を瞑った少年に、ミサトはそれ以上強制はしなかった。
 この気まずい雰囲気をどうにかしたかったが、少年がこうも頑なだと自分にも打つ手がない。

「ところでシンジくん、前まで住んでたおじさんの家って、どんなところだったの?」

 彼の性格は、家庭環境にあるのではないか。そう考えての質問だった。

「別に普通の家でしたよ」

「そうじゃなくて、どんな生活をしてたのかってことよ」

「なるほど」

 少年は目を開いてミサトを軽く睨んだ。

「な、なによ」

「やっぱり大変ですね、仕事って。おそらくは僕の報告書にかかれてあった性格と違うから、調べなければいけないと判断した、というところですね」

 鋭い。だが、この少年の過ごしてきた環境を純粋に知りたい好奇心があるということも事実だ。

「ふうん。以前と違う、って自覚はあるわけね」

「さあ。自分のことを考えたことはないですから。ただ、わざわざ聞かなくても知っていることを聞いてくるのは、報告書以上のことを知りたかったから、ですよね」

「それだけってわけじゃないんだけどね」

「じゃあ、単なる好奇心ですね。それなら答える必要はありません」

「あらら、残念」

 ミサトは少年が予想以上に頭が切れることに舌を巻いていた。
 この少年が、マルドゥック機関が見つけ出したサードチルドレン。
 エヴァンゲリオン初号機に乗ることができる可能性を持った少年。

(なんか、納得できるわね)

 チルドレンはみな、どこか普通ではない。
 ファーストチルドレン綾波レイは、まるで感情をもたない。
 セカンドチルドレン惣流アスカは、自己顕示欲の塊だ。
 そして、サードは……。

「ところで、葛城さん」

「ミサト、でいいわよ」

「あの怪獣を倒すために、ネルフは何をしようとしているんですか?」

「だから、ネルフのことは教えられないんだって」

「ネルフの中まで連れてきておいて、ですか? どうせ後で説明するなら、今説明しても同じだと思いますけど」

「やる気まんまんね。そんなに使徒と戦いたい?」

「使徒っていうんですね、あの怪獣」

 ミサトは思わず口を滑らせたことを心の中で舌打ちする。

「そ。私たちネルフは使徒を倒すために作られた秘密組織だから」

「人類を守るため?」

「そうよ。文句あるって顔してるけど」

「文句はないですよ。ただ、欺瞞が嫌いなだけです」

 難しい言葉を使うわね、とミサトは苦笑した。

「欺瞞って、どういうこと?」

「正義の味方なんて、誰も好んではやらないということですよ。お金のためとか、もしくは個人的な感情とか、そういう理由から戦う人の方が多いはずです」

「へえ……随分達観してるのね」

「そういう人を知っていますから。復讐のために警察になった人とかね。拳銃を撃てるようになって、恋人を撃ち殺して、捕まりましたけど」

「……随分ヘビーな話ね」

 ミサトは軽く冷や汗をかいていた。

「やっぱり、復讐か……」

 少年が呟く。その『復讐』という言葉が自分の心にのしかかる。
 確かに、少年の言うとおりだ。
 自分も父親を殺された復讐で、この組織にいるのだから。






 迷路のようなNERV本部内の通路を進んでいくと、やがてエレベーターまでやってきて、その向こうから一人の金髪美人が現れた。
 金髪、といっても髪を染めているだけのようだ。日本人風の顔つきであるし、染めたということが分かる色合いをしている。
 彼女はミサトと、そして少年に向かって微笑んだ。

「葛城一尉。また迷ったのね」

「あ、あはは、ごみんごみん」

「普段なら別にかまわないけど、今は非常事態よ」

「分かってるって。あ、このコ、サードチルドレン碇シンジくん」

「ええ、知ってるわ。よろしくね、シンジくん。私は赤木リツコ」

「よろしくお願いします」

 軽く頷いて挨拶する少年に、リツコは軽い戸惑いを覚えた。

(報告書のデータと、どこか雰囲気が違うわね)

 おどおどしたところがない、というのがその原因だろうか。内向的であるはずの少年が、これほど堂々としているとはリツコには思えなかった。

「これが父親そっくりで、結構頑固なのよね。見た目はこんなに可愛いのに」

「そんなこと言って、あとで司令に叱られるわよ」

「冗談よ。決まってるじゃない」

 少年はそうした会話にも全く反応しない。最初に挨拶をしてからは、ずっと目を伏せてそっぽを向いている。

「急ぎましょう。もう、使徒はそこまで来ているわよ」

「うえ、マジ?」

「そんなに楽観視していられる状況じゃないことは確かね」

 エレベーターを降りて、さらに通路を進んでいく三人。
 その間も、少年は特別なことは何も言わなかった。
 ただ、時折ちらちらと辺りを見回すだけ。

「ついたわ、ここよ」

 リツコはそんな少年の態度に対して、表面上はつとめて冷静に声をかける。
 その三人の目前に、巨大な紫の装甲が現れる。

「対使徒用人型最終決戦兵器エヴァンゲリオン。その初号機よ」

「エヴァンゲリオン……」

 ふと。
 少年は、かすかに目元を細めていた。
 苦しげな表情。
 見たくないものを見てしまった、とでも言うかのような表情。

(なんなの、この子)

 その様子にリツコが警戒を抱かないはずがなかった。
 驚くでもない。かといって、無表情を貫くわけでもない。

「もしかして、僕はこれに乗って使徒と戦うわけですか」

「そうだ」

 頭上から──人型ロボットの頭部、その向こうにあるブースから声が聞こえてくる。いや、正確にはスピーカーから聞こえてくるはずなのに、何故かそこに立っている人物から直接聞こえたような気がする。
 それだけ、この人物の存在感が浮き出ているということだ。
 ネルフ総司令、碇ゲンドウ。

「ふ、出撃」

「拒否します」

 まるでその言葉を予期していたかのように、少年は即座に答えた。だが総司令の表情はみじんも揺らぐことはない。

「ちょ、シンジくん! さっきあなた」

「ネルフが僕に戦わせようとしていたことは予測できていました。だから、拒否すると答えたまでです。何か不思議ですか?」

「乗るなら早くしろ」

「でなければ帰れ、とでも言うつもり、父さん?」

 少年は苦笑した。

「別に僕は帰ってもいいですよ。僕のほかに二人、パイロットがいるみたいですし」

「ど、どうしてそれを知ってるのよ!」

 ミサトがうろたえた。話した可能性があるとすれば自分だ。でも、口に出した覚えはない。

「簡単です。僕をサードチルドレンと呼びました。つまり、ファーストとセカンドがいるということです。でも、そうすると不思議なことがあるんですよね、分かりますか?」

「……?」

 ミサトは怪訝な表情を浮かべる。

「簡単です。それならファーストかセカンドをパイロットとして出撃させればいいということです。でもネルフはそうせずに、僕にパイロットとして出撃させようとしている。その導かれる結論はいくつかありますが、要するにそのパイロットは現在『乗れない』状態にある、ということです。死亡したか、怪我をしたか、日本にいないか、まあそんなところでしょう」

(切れるわね、この少年)

 リツコの頭に危険信号がともる。少なくともこれほど状況を正確にとらえられるとは思ってもいなかった。それも数少ない情報から、ほぼ完璧な現実を言い当てている。

「その通りよ、シンジくん。今ここでエヴァを動かせるパイロットはいないわ」

「理由は?」

「ここにいないからよ」

「どこにいるんですか?」

「ドイツよ」

「二人ともですか?」

 情報を制限したつもりのミサトだったが、少年には通用しなかったようだ。

「一人よ。もう一人はこの本部にいるわ」

 リツコが助け舟を出した。少年はミサトを睨むとリツコに向き直る。

「なるほど。生きているのに乗れないというのは怪我をしたせいですね」

「そうよ。全身に怪我を負って、全く動ける状態じゃないわ。シンジくん。あなたが乗るしかないのよ、このエヴァンゲリオンに」

「拒否します」

「何故?」

「簡単です。死にたくないからですよ」

 はっきりと答える少年に、リツコは二の句が出なかった。

「あの使徒と戦って負けたらそれで終わりです。しかも僕はこれの動かし方を知らない。自殺行為ですよ。そんな不利な状況で賭に出られるほど、僕の度胸は大きくないんです。これでも内向的ですからね」

 嘘つけ。
 リツコとミサトが高度にユニゾンするが、当然口に出すわけにもいかない。

「でもそうしたらシンジくん、このまま使徒に攻められたら人類全てが滅びてしまうかもしれないのよ」

「いいんじゃないですか? セカンドインパクトの後でも毎年何千という種が滅びを迎えている。人間だけが例外だというわけじゃないでしょう」

 おそろしいことを平気で言う少年に、これ以上二人は何も言うことができなかった。

「シンジ」

 助け舟は、ブースから出た。

「乗るつもりがないのか」

「まあ、今のところはね」

「今のところ?」

「そりゃそうさ。だってこれに乗っても僕には何の見返りもない。ただ連れられてきて、戦えだなんて横暴だと父さんは思わないの?」

「報酬がほしいというのか」

「命に見合う代金と、それから一つだけわがままを聞いてほしいな」

「言ってみるがいい」

「うん。まずお金の方なんだけど、ネルフはいくらまでなら払うつもりがあるの?」

「そうね、ざっと百万円くらいかしら。出撃報酬、成功報酬、危険手当あわせて、妥当な値段だと思うけど」

 金縛りが解けたリツコが答える。

「全然足りないよ。桁が違う」

「じゃあ……一千万円?」

「まだまだ」

「一億もほしいと言うの!?」

「残念。百億」

 目が白くなった。ミサトは既に何を少年が言っているのか分からない。

「といっても財政が逼迫するだろうから、その半額でいいよ」

「五十億!? 冗談じゃないわよ、いったいそんな」

「赤木博士」

 総司令がリツコの言葉を遮る。

「どう、父さん?」

「……それほどの小遣いを与えるわけにはいかん」

「じゃあ、いくらならくれるの?」

「十億。ここで手を打て」

「十億か……」

 少年は少し考えてから、うん、と答えた。

「仕方がないからそれでいいよ。中学生だからって使える金額に限度をもたせないようにしてね。カードか何かですぐに使えるようにしてね」

「いいだろう……それで、わがまま、というのは何だ?」

 ゲンドウの言葉に、シンジはうんと頷いた。

「その前に、僕の仲間に会わせてくれるかな」

「仲間?」

「チルドレン、っていうの? 同じパイロットをぜひ見せてほしい。わがままはそれから伝えるよ」

 ゲンドウは少し悩んだようだが、すぐに通信を開いた。

「冬月」

 すぐにスクリーンに本部の副指令と回線がつながる。

「どうした」

「レイを起こしてくれ。必要になった」

「動けるかね」

「死んでいるわけではない」

「分かった」

 通信が切れる。そして、少年を見下ろした。

「これで文句はあるまい」

「うん、ないよ。今のところはね」

 少年は扉の方を向いた。しばらく目を細めてじっと黙って少女の到着を待っていた。
 やがて、カートに乗せられた水色の髪の少女が運ばれてくる。看護師たちは彼女を呼びつけた少年を一瞥した。患者に無理をさせた相手を睨みつけることは、彼らに許された権利であっただろう。
 少年はそんな視線をものともせず、運ばれてきた少女に近づいていく。
 少女は包帯でぐるぐるに巻かれていた。右目も包帯で隠れている。赤い左目が自分を見つめてきた。
 意識はある。

「君が……チルドレン?」

 少年は、笑った。
 不気味な、感情のこもっていないアルカイックスマイル。

「はじめまして。僕は碇シンジ」

 自己紹介から入る少年を、看護師たちは訝しげに見つめる。もちろん、ミサトやリツコもだ。

「言葉は喋れるかな。名前を教えてくれる?」

「……あなた、だれ」

 少女が掠れた声でささやいた。だが、少年はその疑問に答えず、さらに尋ねた。

「名前を教えて?」

 触れるほど、少年は少女に近づく。まるで口づけをしているかのように、端からは見える。

「……綾波、レイ」

 今度ははっきりとした声で答えた。
 当然、少女は初めて少年に出会う。相手のことを知っているはずもなかった。
 だが、目の前の少年が今までに出会った誰とも異なった人物であることがはっきりと分かっていた。
 この少年は、違う。
 何かが。

「絆がほしい、綾波?」

 眼帯で隠されていない右目が、大きく見開かれた。

「僕は君に絆をあげる。エヴァンゲリオンパイロットとしてではなく、僕は碇シンジとして、君は綾波レイとして、お互いに一人の個人として一緒にいよう」

「……どうして、そんなこと言うの」

 ぶる、と震える。

「君との絆がほしいから」

「……私」

「絆を求めているのは、みんな同じだよ」

「碇……くん」

「うん。綾波、これからよろしく」

 少年は笑った。
 そして、唇を奪った。
 さすがにミサトが慌てて止めに入ろうとするが、リツコに手で制止される。
 事態の推移を見守った方がいい、ということのようだ。

「ごほっ」

 何秒かのキスが終わって少女が咳き込んだ。

「我儘を言ってもいいかい、父さん」

「ああ」

「彼女がほしい。彼女を僕のものにしてくれるというのなら、引き受けてもいいよ」

 あまりのことに、ケイジが騒然とした。

「僕のものって……シンジくん!」

 ミサトが詰め寄って、少年の肩を掴む。

「どうかしましたか?」

「どうかしましたか、じゃないでしょう! いったいあなたは、何を考えているの!」

「今言った通りですよ。綾波レイがほしい。一緒の家で、一緒に暮らす。その許可がほしいと言っているんです」

「一緒のって……」

「ミサト、やめなさい」

 リツコが制した。

「司令が決めることよ」

「でも、リツコ」

「いかがなさいますか、司令」

 リツコはブースのゲンドウを眺めた。
 彼女にしてみると、やっかいなレイを遠ざける機会になる、それくらいは考えている。
 その考えを読み取れないゲンドウではなかった。だが、シンジが必要な今、条件を呑まないわけにはいかない。

「……いいだろう」

「本当に、父さん?」

「ただし条件がある。レイはあくまでネルフの人間だ。実験には参加してもらう。無論お前もだ、シンジ」

「何の実験?」

「エヴァンゲリオンの起動実験だ」

「本当に?」

「……」

 ゲンドウが口を閉ざした。それは他にもあるということを雄弁に物語っている。

「……いいよ」

 だが、少年は折れた。

「まずは、その条件で呑んでおくよ。父さんがこれほど譲歩してくれたんだ。僕も少しは譲歩しないとね」

「初号機、起動準備に入って!」

 すぐにリツコの指示が飛ぶ。そして少年はまだその場にいる少女を見つめた。

「綾波」

「……」

「少しだけ待っててね。すぐに戻ってくるから」

「碇くん……」

「本当に、すぐだから。それじゃ、後で」

 少年は綺麗な笑顔を浮かべ、リツコの指示を受けに行った。








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