「それにしても、いったいなんなのかしらね、あの子」
起動準備に入っていくケイジをモニターで見ながらミサトが言う。
あきらかに少年の態度は異常だ。たとえ自分が同じ立場だったとしても、同じように振舞うことはできないだろう。
「マルドゥックの報告とはまるで違うわね。別人かしら」
「それはないわよ。なにしろ実の父親が会ってるんだしさ」
「三年は会ってないのよ。シンジ君だって成長してるし、入れ替わったとしても不思議はないわ」
「誰と誰が?」
「それが分かれば苦労はしないわよ」
言っていてリツコはその推測が的外れであるということが分かっていた。
彼はそれだけではない、何か大きな秘密、謎を秘めている。
ただの入れ替わりというわけではない。だが、徹底的に以前住んでいた場所でのデータを集める必要がありそうだ。
「急ぐわね」
「ふえ? 何が?」
「あなたには関係のないことよ」
「エヴァンゲリオン初号機、発進準備完了!」
伊吹マヤからの報告が入る。会話を中断させられる格好となったミサトはやむなく告げた。
「エヴァンゲリオン初号機、発進!」
第弐話
彩りのない世界
第三新東京市。兵装ビルに混じって、使徒と初号機はわずかな距離を残して対峙していた。使徒の動きはまだない。こちらの様子を探っているのかもしれない。
既にN2爆弾で破壊された痕はない。中途半端な火力は使徒に装甲という盾を与えることとなり、さらに殲滅を難しくしている。
使徒は、自己進化している。このわずかな時間の中で。
「シンジくん。今は歩くことだけを考えて」
一方の初号機はまだ操縦の仕方もわからない素人だ。
シンクロ率こそ五六.二%と初心者とは思えない数値をたたき出している。実際、レイよりも数値は高いのだ。少年の非凡さがうかがえるというものだ。
「いい数値ね」
モニターを見ながら、リツコは不快な表情で言った。
「もう少し嬉しそうに言えばいいじゃない」
ミサトもそれを見て言うが、科学者であるリツコにとってこの数値は不可解きわまるものだった。
MAGIの試算では、シンクロ率は四十%から前後二%以内、という範囲に収まるものだった。そのはずなのに、これだけの誤差が出ている。
やはり、本人の性格データが完全に違っていることが原因であろうが、それにしてもこの数値はできすぎだ。
『葛城さん、質問があります』
今日初めてエヴァに乗った少年は、次のように質問してきた。
『武器はどこにありますか?』
少年がごく当然のように尋ねてきたので、ミサトも落ち着いて答えた。
「右側のボタン。肩口のウェポンラックからプログナイフが出るわ」
『右側……』
すぐにウェポンラックが開いて、初号機の手にプログナイフが収まる。そして地面と水平にナイフを構えた。
「乗りこなしてるわね、彼」
リツコが言う。まさにその通りだ。どういう理由かは分からないが、彼はエヴァとしっかりシンクロできている。
だが、その間に第三使徒は活動を再開していた。
使徒の目が光ったかと思うと、初号機のいた場所で爆発が起こる。
「シンジ君!」
ミサトは叫んだがその心配は杞憂に終わった。それよりも早く初号機は直上にジャンプしていたのだ。
「初号機、シンクロ率六〇.三%に上昇! ハーモニクス値も高まっています!」
オペレーター、日向マコトからの報告がミサトの目を開かせる。
そのまま初号機は使徒の顔面を蹴りつけた。大きくよろめいて、後ろに、どう、と倒れて土煙が舞う。
初号機はその上に飛び乗ろうとする。が、今度はその途中で空間に現れた八角形の光の盾によって阻まれた。
「A.T.フィールド!」
「やはり使徒も持っていたのね」
A.T.フィールドとプログナイフが接触して激しく火花が散る。ちっ、という舌打ちが聞こえて、初号機は一度使徒から離れた。
『やっかいですね、あのバリア……A.T.フィールドって言うんですか?』
少年の質問にミサトが答えた。
「ええ。あれは中和するしかないわ」
『中和? どうやるんですか?』
「それが、全く分からないのよ。何しろまだ研究が進んでないから」
『それはそれは』
少年がくつくつと笑った。
『では、何とかしてみましょう』
通信が途切れた。
「何とかするって……どうするつもりなの?」
リツコの問いかけに、ミサトも答えられない。そんなのは本人しか分からない。
何をするつもりだというのか。二人とも、次の初号機の行動を待った。
その初号機は、何とプログナイフを敵に向かって投げつけた!
「なっ!」
「武器を手放してどうするの!」
プログナイフがA.T.フィールドで弾かれ二人が悲鳴をあげるが、紫の機体はそれと同時に駆け出していた。
そして、右腕が大きくしなる。その手がまたしてもA.T.フィールドに阻まれた。
だが。
そのA.T.フィールドを、ゆっくりと初号機の右手が突き抜けていく。
「マヤッ!」
「は、はい。A.T.フィールドが中和されていきます。しょ、初号機、シンクロ率九七%!」
「嘘」
リツコはミサトと目を合わせる。そしてお互い首を振って今の報告を事実として受け止めた。
やはり、あの少年は何かが違う。
『くらえっ!』
A.T.フィールドを突き抜けた初号機の右手が光球にヒットした。その一撃で、光球に無数の亀裂が入る。
『それじゃ……オルヴォワール』
再び繰り出された初号機の右手が使徒の胸を貫く。
そして、活動が停止した第三使徒を上空高くに放り上げた。
使徒が、爆発する。
光の十字が天空に輝いた。
「パターン青、消失しました」
青葉シゲルから戦闘終了の報告が入る。
「初号機、回収します」
その初号機は、爆発した第三使徒を見上げていた。
「シンジ君、大丈夫?」
『ええ。何ともありません。無事です』
ほっとして、ミサトはさらに続ける。
「そうじゃなくて、具合が悪いとか、何か変な気分がするとか」
『そうなっても仕方ないようなものに僕を乗せたんですか?』
「無様ね」
何を言っても反撃を受けるミサトに変わってリツコが話し掛ける。
「お疲れさま、シンジ君。ミサトはね、初めての出撃で緊張したりして、具合が悪くなってないかどうか心配しているのよ」
『そうですね。一つだけ』
「なに?」
『おなかがすきました』
発令所に安堵の笑いが起こった。
だが、その言葉を聞いて笑わないものが二人だけいた。
一人は碇ゲンドウ。もう一人は赤木リツコである。
(……緊張に満ちていたこの発令所を、たった一言で解放した……普通の少年じゃないことは確かね)
早急にサードチルドレンの調査が必要である。そう判断したリツコであった。
赤木リツコはプリントアウトされた戦闘データを手に、総司令室へとやってきていた。部屋にいるのは当然総司令こと碇ゲンドウと、副司令冬月コウゾウである。
「以上が、今回の使徒との戦闘で得られたデータです」
発生されたA.T.フィールド。予想をはるかに上回るシンクロ率。いずれも身震いするほどの『成果』だった。
少なくともリツコにとっては、これほど興味をそそられる研究対象はない。
「ご苦労だったな、赤木くん」
副司令が声をかけてリツコは頭を下げた。
「一つ、気にかかっていることがあります」
「言わなくても分かっている。シンジくんのことだろう」
冬月は頷いて答えた。
「はい。MAGIの試算ではシンクロ率は四〇%、前後二%というところでした。それが初期状態で五六.二%、最高で九七%のシンクロ率です。私たちの予測をこえる何か別の要因があると考えます」
「要因が特定できないうちから議論を開始しても始まらん」
ずっと黙っていた総司令がようやく口を開いた。
「サードチルドレンはどうしている」
息子の名前くらい呼んでやればいいのに、と冬月は思わないでもない。
「綾波レイの病室です。ずっとそこから動きません」
「やれやれ。碇、お前がシンジくんに多大な報酬を約束したから、レイの行動に制限がつけられてしまったではないか」
「いざとなれば強制的に実験は行う。問題ない」
「とはいえ、お前もシンジくんがどうしてあのような『変化』をしているのか、分からないのだろう」
無言は肯定を意味していた。リツコは会話が途切れた隙を見計らって、可能性のいくつかを披露した。
「スパイの可能性はありませんか?」
「十四歳の少年をかね。ありえなくはないが、現実的ではないな」
「ですが、洗脳、という方法があります」
「洗脳操作の跡はあったのかね?」
「いいえ。ですが近年の洗脳操作は痕跡をなくすこともできますから、きちんと調べないことには……」
「その許可がほしいというのだろう。だが、シンジくんがうんと言うかな」
「説得はしてもかまいませんか」
「ああ、無論だ。本当にスパイであれば彼を処分しなければならなくなるからな。それでかまわないな、碇」
「ああ」
ネルフ総司令はいつにもまして口数が少なかった。机の上で手を組むいつものポーズだが、普段から一緒にいる冬月には分かる。
それほど、少年の『変化』が理解できていないのだ。
「碇……シンジくんの変化、お前は理由が分かっているのではないか?」
しばしの沈黙の後に、ゲンドウは答えた。
「……あれは、シンジではない」
その答に、冬月とリツコは顔をしかめる。
「あれは私が知るシンジではない。つまり、別人だ」
「おいおい……」
冬月は苦笑する。それも仕方のないことだろう。
仮にも自分の息子に向かって、別人とは。
「彼がシンジくんでないとするのなら、彼はいったい何者かね。どこから見てもシンジくん以外の何者でもないのだろう」
ゲンドウは答えなかった。会話が途切れたところで、リツコは退席した。
結局、ゲンドウには少年の変化の理由は分からないということだ。シナリオが大きく変化したというべきだろう。
人類補完計画という名を借りた、碇ユイのサルベージ。
それが現実のものになるかどうか、非常に大きな不確定要因が増えてしまったというわけだ。
「……鍵になるのは、シンジくんね」
リツコは妖しい笑みを浮かべた。
目を覚ましたとき、レイの左眼に映ったのは二つ。最初に白い天井が目に入り、そして次に自分の隣で椅子に座っている少年の姿だった。
「……碇くん」
静かに少年の名前を呼ぶ。左手が温かい。少年のぬくもりを感じる。
その少年は、目を閉じて眠っていた。
寝ている人間の看護というのは、自分の周りの時間が止まったかのように感じる。人間の脳は便利なもので、視覚的・聴覚的な刺激が入ってこないと脳の活動が減退し、睡眠状態に陥るのだ。
碇シンジという少年も、レイの看護によって知らず知らずのうちに眠ってしまったのだろう。
「……ああ、綾波。起きたんだね」
名前を呼ばれて、少年は目を開けて微笑んだ。
綺麗な笑みだった。
少年が何故ここにいるのか、レイには分からなかった。彼がここにいるということは、第三使徒は倒されたのだろうか。おそらくそうなのだろう。彼はエヴァンゲリオンに乗った。そしてここにいる。自分が気を失っている間に、彼は使徒を倒してしまったのだ。
「……使徒は、倒したのね」
「ああ。でも、そんなことはどうでもいいよ」
少年は触れていた手を少し強く握った。
「綾波が無事なことの方が、僕には百倍大事だ」
「……何故?」
レイはかすれた声を絞り出す。
この少年の行動が理解できない。
絆の無い自分との絆がほしいという。
彼には、絆があるのに。
実の父親との、まぎれもない血の絆が。
自分にはない。
自分には、誰との絆もない。
「綾波の質問は目的語が分からなくなるね。綾波が無事なことが大事っていうことなら、なんとも言えないな。人の感情に理由はないから」
「……言っている意味が分からないわ」
「僕が言ったことを覚えている? 僕は絆がほしいんだよ。綾波とのね。どんな絆よりも固く結ばれた、唯一無二の絆。それをほしいんだ」
「あなたには絆があるわ」
「ないよ。父さんのことを言っているのなら、それは綾波の誤りだ。父さんと僕とは何の関係もない。赤の他人だよ。血のつながりはあっても、それだけでは絆にはならないんだよ」
「私にはないものだわ」
「綾波は父さんに大切にしてもらっている。それは僕にはないものだ。つまりね、綾波」
少年はにっこりと笑った。
「僕たちは、お互いに無いものねだりをしているんだよ」
「……そう、そうなの」
「そうだよ。だから、僕たちはお互いの足りない部分を補完しあわなければならないんだ」
「ホカン?」
「そう。お互いが、お互いのことを一番大切だと思う。それが最も強い絆だから」
「もっとも、強い、絆……」
「言っている意味が分からないかい?」
「分からないわ」
「そう……じゃあ、教えてあげるよ」
少年は握っていた手を離して、レイに顔を近づけて小声で耳元に囁いた。
「好きってことさ」
「す……き……」
レイの顔に赤みがさした。
「だから、早くよくなってね、綾波」
少年はそのまま、唇を重ねた。
「へぇ〜……いっぱしのプレイボーイじゃない」
盗聴により、病室でのやり取りをリツコの部屋で聞かされたミサトは「ごちそうさま」と答えた。
「全く、たいしたものだわ。あの綾波レイをね」
「そうね。今まで誰もできなかったことを、あの子はたったの一日で成し遂げたわ」
椅子に腰かけてコーヒーを飲みながら言った相棒の言葉にミサトは首をひねる。
「どーゆーことよ」
「言葉どおりよ。綾波レイが感情を示した最初の相手ってこと」
なるほどね、とミサトは頷いた。
「そういや、あのお金はどうなったの? 十億円でしょ? 本気で渡すわけ?」
言外に『そんな約束反故にしてしまえ』という意思があるのはありありだった。
「もちろん渡すわよ。というか、もう渡した後」
「へ? もう?」
ミサトは間抜けな声をあげたが、それは仕方のないことだろう。
「ええ。カードも渡したわ。いくらでも自由に使えることができるものをね」
ミサトはがっくりとうなだれた。ひがみかそねみか、さまざまな感情が入り混じっているのは想像にかたくない。
「まさにプラチナチケットね……」
「そしてさっき残高を確認したら、もうゼロ円になってたわ」
「はあ!?」
いくらなんでももう使い切ることなどできはしない。何しろ、使徒戦が行われたのが昨日。昨日のうちにカードを渡したのだとしても、それを使いにいくことができるような余裕は少年にはなかったはずだ。
「全部振り込んだのよ」
「振り込んだって……」
「スイス銀行。やることが徹底しているわ。いくらネルフでもスイス銀行の中まで調べることはできないもの。あそこは顧客対応のシステムが他のどのシステムからでも侵入不可能なように、完全に内部で独立しているから。これでシンジくんがどんなにお金を使ったとしても、ネルフから調べるのは不可能ね」
「MAGIでも無理なの?」
「無理よ。さっきも言ったけど、ネットワークがつながるところならいくらでも見ることはできるわ。でも、あそこの銀行の取引状況は逐一独立した内部のデータベースに保管されるのよ。外部と回線をつなげていないんですもの、見られるはずがないわ」
「何かやましいことに使うって宣伝してるようなもんじゃない」
「そうね。いったい何に使うのか、興味あるわね」
なにしろ十億である。後見人さえいれば、土地でも家でも買える。
「で、この後はどうするの、彼」
「しばらくはネルフにいるみたいよ。まあ、二週間か三週間くらいって言ってたわ」
「ふうん。その後はどうするつもりかしら」
「綾波レイの家で暮らすそうよ」
「へえ〜……って、ちょっと! それ、本気で承諾したわけ!?」
ミサトがさすがに聞き捨てならないと大声で叫ぶ。
「……あなた、出撃前のこと覚えてないの?」
まあ、あの状況で起こったことを逐一覚えていろといっても無理なことは承知している。
「彼は綾波レイと一緒に暮らすことを希望していたのよ。だとしたら約束は守るしかないでしょう」
「だからって、若いみそらで男女一つ屋根の下よ!? 間違いが起こったらどうするの!」
まるで起こることが前提のような言い方に、リツコはさすがに苦笑をもらした。
「まあ妊娠しない限りは構わないわ。エヴァとのシンクロはそれくらいで変化するようなものじゃないし。レイには念のため避妊薬を渡しておけばいいでしょう?」
「いいでしょうって……」
「それにね、問題はそんなことではないのよ」
リツコはぎし、と背もたれに体重を預ける。
「なによ、あらたまって」
「もしもシンジくんの要望どおりにしなかったら、彼は今度エヴァに乗ってくれないという可能性があるわ」
「まさか。子供よ、相手は」
「そうかしら? 彼の態度は大人のそれと同じだったわ。彼はあくまで出撃前にネルフと『契約』をしたのよ。少なくとも本人はしたつもりなのよ。もしそれを破ったら私たちの契約不履行ということね。彼にしてみれば、そんな相手と二度目の交渉はできないでしょうね」
「でもそれにしてはあまりに強い要望じゃない? お金のことといい、レイのことといい……」
「仕方がないわ。総司令の意向ではね」
少年とゲンドウの二度目の対面は、それから三日後に行われた。
少なくともゲンドウは緊張しているように冬月には見えた。少年はどうだったかというと、こちらは逆に冷静そのものだ。
あくまでこれは交渉だ。それが分かっていないような少年ではない。
冬月は少年の一挙手一投足にいたるまで、細大もらさず観察を行っていた。
「じゃあ父さん。簡単に打ち合わせをしようか」
切り出したのは少年の方だった。
「ああ」
「分かっているとは思うけど、この間の戦いはあくまで前回限りの契約だよ。父さんは起動実験に協力しろって言ったけど、次の使徒が攻め込んできたときに出撃しろとは言ってなかったからね」
「もとからそのつもりだ」
「よかった。ネルフの総司令はさすがに理解があるね」
皮肉のつもりだろうか。冬月は表情を変えないで話す少年をさらに注意深く見つめた。
「僕はネルフとは契約は結ばない。ネルフの指揮下で戦うことはごめんこうむるよ」
「サードチルドレンの就任を拒むというのか」
「そんな名前に意味はないだろう? 要するにエヴァンゲリオンに乗ることができるのは僕と綾波と、ドイツにいるもう一人だけっていう、それ以上の意味はない。だったら僕が乗るよ」
「言っていることが矛盾しているな」
「してないよ。僕はあくまでネルフの『客』なんだよ。ネルフという組織の一部になるつもりはさらさらない。僕はエヴァンゲリオンに乗る。でも、ネルフの一員にはならないよって言っているんだ」
「つまり、使徒との戦いにおいてネルフの指示は受けないということだな」
「そう。作戦を立てるのは結構だけど、それに付き合う必要はない。僕は命が惜しいからね。命がなくなるような作戦には従えない。でも、ネルフの一員になったらそんなことも言えないだろう?」
戦闘には出る。起動実験に協力もする。だが、指示は受けない。
それは組織体系を粉々にするにも等しい内容だった。
「シンジくん! そんなことがまかりとおると思っているのか!」
あまりのことに冬月は声を荒げていた。無理もない。彼もまた組織の人なのだから。
「まかりとおらないというのであれば、僕はもうエヴァンゲリオンには乗りません。まあこの間の約束の手前、起動実験は手伝いますよ。でも出撃はしませんから」
「そんな強引な論法が通ると思っているのか?」
今度はゲンドウが言った。少年の理論は確かに強引だ。これほど頭が回るのなら、組織というものがどういうものかは分かるはずなのだ。
「通るも通らないも、それは父さんが決めることだろう? 僕は出撃するというのなら条件があるっていうだけのことだよ。条件が呑めないっていうのなら、僕は出撃しない。決めるのは父さんであって、僕じゃない」
少年はおそらく、出撃しないということになればそれでもいいと思っているのだろう。いや、間違いなくそう思っている。
それが分かるだけに、強く言ったところで効果がないということが二人には分かっていた。
「作戦には従えないというのだな」
「僕の望まない作戦ならね」
「望まない作戦を提示されたらどうするというのだ?」
「もちろん出撃しないよ。僕は僕の思うとおりにやる」
駄目だな、と冬月は判断した。これでは組織の中に組み込むことはできない。組織の中にこんな人間がいたら明らかにマイナスだ。決してプラスにはならない。
だが、ゲンドウの返答は冬月とは異なった。
「いいだろう。お前をゲストとして向かえる」
「碇、本気か」
「かまわん。エヴァに乗りさえすればいい。それ以上は望まん」
「交渉成立だね。じゃあ報酬だけど」
こちらも法外な値段を要求されるのだろう、と冬月は用心した。
「起動実験に関しては特別何もいらないよ。僕がネルフに望むものは住居の提供と、ネルフの中を自由に歩き回ることができるIDカードをもらうこと。ああ、もちろん自由にとはいっても機密に触れるようなところには行けないようにしないと困るだろうから、その点は任せるよ。僕に見せられないところは厳重にガードしておいて」
ぬけぬけと、と冬月は少年の顔を見る。
「出撃に関しては、使徒一体につき十億。殲滅に成功したらその場で振り込むようにして。殲滅に失敗したらお金はゼロでいいから」
「成功報酬というわけか」
「そう。ネルフの客としてはそれが一番都合がいいでしょう? それに、十億が惜しいっていうんだったら僕を出撃させなければいいんだ。僕は別に出撃するもしないもどっちでもいいから、お金と相談して父さんが出撃を決めればいい」
「いいだろう。その条件で手を打とう」
「ありがとう。気前がいいね、父さん」
その後、細かな打ち合わせをした後で、話が学校の件に移った。
「学校?……ああ、そういえばそんなものもあったね」
少年は困ったように笑った。
「義務教育を放棄するわけにはいかんからな。シンジくんは第壱中学校に通うことになる」
「綾波と同じ学校ってことか」
「もう話を聞いていたのか」
「じゃあ同じクラスにしてね。綾波とは離れていたくないから」
「ふむ。シンジくんは随分と彼女に執着しているのだな。気に入ったのかね」
「ええ。この間の戦いで彼女は僕のものになりましたから。僕は自分の所有物は大切にする方なんです」
その言い方が冬月にはまた気に入らなかった。人を物扱いする。そんな人間を好きになれるはずもなかったのだが。
「ところで、もう一つ聞いておきたいことがあるんですけど」
逆に今度は少年の方から質問があった。
「なんだね」
「セカンドチルドレンはいつ日本へ来るのですか?」
「セカンド?」
「彼女がいればだいたいの敵は倒せるんですよね? つまり、僕がはれてお払い箱となってネルフと関係を切ることができるようになるのはいつのことか、と聞いているんです」
冬月は言葉に詰まった。この少年は、それほど自分たちのことを嫌っているのか。いやそれとも彼が嫌っているのは、実の父親か。
「お前を手放すつもりはない」
ゲンドウがかわりに答えた。
「そう。でも切るときは遠慮なく言ってね。僕はいつでもかまわないから。で、セカンドチルドレンがドイツからやってくるのは、いつごろ?」
その話が終わるまで出ていくつもりはない、という意思表示だ。冬月はため息をついた。
「今のところは未定だ。だが、二ヶ月以内にドイツを発つことが予定されている」
「ふーん、二ヶ月か……」
少年は少し考えたようだったが、すぐに「分かりました」と言った。
「では、失礼いたします」
少年が退席すると、やれやれ、と冬月が愚痴た。
「どう思う、碇」
「やはりあれはシンジではない」
ゲンドウは忌々しげに呟いた。
「だが……DNA鑑定は一致したのだろう」
「それでもだ。あれはシンジではない。別のものだ」
「三年の間で変化したというのではないのか?」
「違うな。あれは私に父親というイメージを重ねていない。完全にだ」
少年が自分を見る目は『碇ゲンドウ』という個人に対してのものだ。
自分のことを父親だなどとは、つゆほども思っていないだろう。
精神的に、自分のことが父親であるという意識がないのだ。
それはあくまで、知識程度のことでしかない。
碇シンジの父親がゲンドウであるという事実は、アメリカの首都がワシントンである、という事実と何ら変わらないのだ。少なくとも少年の心の中では。つまり、一知識レベル以上のものではないのだ。
「ふむ……だからといって、血のつながりは消すことはできんぞ」
「いずれにせよ、今のシンジではシナリオを再度練り直さねばならん。MAGIに計算を急がせろ」
やれやれ、と冬月はまたため息をついた。結局働くのは自分ひとりなのだ、と。
碇シンジのいない時間というのは、心にぽっかりと穴があいたような状態と同じだった。
ほとんど朝から晩まで。それこそ検査と排泄の時間以外、少年はずっと自分の傍にいた。
とりとめもない話を少年はひたすら繰り返した。少年の話が半分で、質問が半分だった。少しずつ体も回復してきていたので、話すことはもうほとんど苦痛にならなくなっていた。
毎日目が覚めたら、少年は自分の手を握って眠っていた。ときどき出かけることはあったが、二時間とあけずに必ず戻ってきていた。
そしてまた、あれこれと話をしはじめるのだ。
そうした自分の世話を焼いてくれる人物のことに意識がいくのは、ごく当然のことだった。
しかも今は彼が総司令に呼び出されて不在なのだ。
今ごろ、二人はどんな話をしているのだろうか。血の絆よりも強い絆を作ると言った彼だが、やはり彼にはれっきとした固い血の絆があるのだ。それを思い知らされる格好となり、レイの表情はいつにもまして冴えなかった。
看護師がレイの世話をしているだけでもそれに気付くくらいだから、この時点でレイの心の中に占める碇シンジの割合はかなり大きなものになっていたといっていいだろう。
だがそのピリピリした空気は一瞬で氷解した。当の本人が会談から戻ってきたからだ。
「ただいま、綾波」
女性の看護師は、レイの顔がかすかに赤く染まるのを見逃さなかった。
「……おかえりなさい、碇くん」
おかえりなさい。
初めての言葉。
誰にも言ったことがない言葉。
レイが少年に世話をされるようになってから四日目。生まれて初めて『おかえりなさい』という言葉を口にしていた。
少年は看護師に会釈してから、ベッド脇の椅子に腰掛けた。そしてシーツの上に出ている彼女の手に自分の手をのせた。
「僕の転校が決まったよ。綾波と同じクラスになるみたいだ」
「そう」
「綾波は喜んでくれないの?」
「喜ぶ……何故?」
「僕と一緒のクラスになれたっていうことは、僕とそれだけ長く一緒にいられるっていうことだよ」
「そう……私、嬉しいの?」
「僕は嬉しいけどね」
「そう……よかったわね」
看護師は思わず苦笑していた。いったいどういう会話なのか、と。
「あんまり学校には行きたくないな」
「どうして?」
「そこには、絆がないから」
「絆は学校にはないの?」
「ないよ。あったら、綾波は既に絆を手にしているはずだろう?」
「そう……残念ね」
「うん。でも、綾波と一緒に通えるようになったら、絆がまた強くなるね」
「そうね」
「綾波は成績はどれくらいなの?」
「分からないわ。気にしたことないから」
「そっか。じゃあ、今度のテスト結果を楽しみにしているよ」
「……そう、良かったわね」
やはりかみ合った会話ではない。看護師は笑いをこらえるのに必死だった。
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