少年がそのクラスに入っていったとき、一瞬クラスの中が静まりかえった。
 その少年が身にまとう雰囲気が、ただものではないということを誇大に広告していたからだ。
 しんと静まり返った教室に、ただチョークの音だけが響く。
 少年は黒板に綺麗に文字を書いた。黒板に書きなれているのか、チョークを持つ手がけっこう様になっている。
 やがて書き終えた名前を見たクラスメートたちは、その少年をじっと見詰めた。

「碇シンジです。よろしくお願いします」

 色気も素っ気もないその自己紹介の後で、少年は席に座った。
 質問も、反応も、何も無い。
 それが、碇シンジという少年を目の前にした少年少女の反応だった。












第参話



我々は何処へ












「碇くん?」

 少年は声をかけてきた女性に振り向く。贔屓目に見なくても美少女系に入るその少女は、決意を満面に押し出しているのが目に取れた。

「あ、あの、私学級委員長をやっている洞木ヒカリです」

「ああ、よろしく」

 表情の変わらない少年に、ヒカリはさすがに言葉が詰まる。
 いくら委員長とはいえ、話にくい相手に話し掛けることは勇気がいる。
 だがこれも委員長の仕事なのだと割り切って、ヒカリはとにかく話を続けた。

「先生からいろいろ任されてるから、何か困ったことがあったらいつでも言ってね」

「そう、分かった」

「あ、うん。それじゃ」

 と、自分の席に戻ろうとしたときである。

「じゃあ、一つ教えてもらおうかな」

 少年から声がかかった。

「あ、うん。何?」

 緊張しながら尋ね返す。

「図書室の場所を教えてほしいんだけど」

「図書室?」

 なんでもないその質問に、ヒカリはほっと胸をなでおろした。

「図書室はね、三階の一番奥よ。結構本の量は多いのよ」

「そう、ありがとう」

 少年は答えて立ち上がると教室を出ていった。
 少年の姿が見えなくなると、ヒカリは「はぁ〜」と息をついた。
 その次の瞬間。

「「「「「ヒカリ!」」」」」

 何人もの女子生徒に、突然ヒカリは詰め寄られた。

「な、な、なに?」

「何? じゃないわよ。決まってるでしょ、碇くん、どんな感じだった?」

 好奇心旺盛な少女たちは、美少年転校生の情報を少しでも集めようという魂胆だったらしい。はあ、とヒカリはため息をついて答えた。

「自分で聞けばいいでしょ」

「だって、碇くん、何か特別な雰囲気持ってるから」

「そうよね。何か近寄り難いし」

「まるで綾波さんみたい」

 それはヒカリも全く同感だった。他を寄せ付けず、わが道を行く。まさにレイの行動に酷似している。

「とにかく、私は委員長として話をしただけなんだから、それ以上興味があったら自分達で話し掛けてよね!」

「分かったわよ、ヒカリ」

 なかなかこれで、委員長という仕事も大変なようである。






 そんなわけで、碇シンジという少年は休み時間のほとんどを教室ではなく図書室で過ごしていた。理由は本人に聞かなければなんとも分からないが、図書室で見かける彼の姿は、熱心に本を読んでいるという。
 なかなかうちとけない少年を見かねて、一度ヒカリは図書室まで足を運んだ。彼は本を読んでいた。いや、勉強していた、と言った方が正しいだろう。参考書のようなものを机に広げて、ノートに書き写しているようだった。
 図書室でも当然記録用・検索用のパソコンは自由に使える。結構な台数があり、試験前にでもならないかぎりパソコン席が満席になることはほぼありえない。従って少年がパソコンではなくノートを使っているのは自発的な行動ということになる。

(何の勉強をしてるんだろ)

 ヒカリは気になってそっと後ろから近づいて覗いてみた。
 どうやら数学の勉強をしているようだった。
 それが確定できなかったのは、見たこともない記号や数式がそこに載っているからだった。

(なにこれ)

 ∫の記号を見たところで中学生に分かるはずもない。少年が使っていた参考書は『微分積分』のものだった。

「どうかした?」

 少年は突然振り向いてヒカリに話し掛けてきた。覗き見していたのがばれていたので慌てふためくが、少年が口に指をあてて『静かに』という意思表示をしたために、逆に落ち着いた。

「何の勉強をしているの?」

 疑問は素直に出た。自然な口調だった。

「微分積分。高等数学って言った方が分かりやすい?」

「高校の勉強?」

「そんなところ」

 毎日図書室で何をしているのかと思えば、中学二年生レベルの問題ではなく、高校生レベルの問題を解いていたというのだ。

「……すごいね」

「そうでもないよ」

 口数は相変わらずあまり多くない。図書室という場所のせいもあったかもしれない。

「それで、何か用?」

「あ、ええと……」

 言うべきか言わないべきか、ヒカリは迷った。だが、委員長として言うべきことはきちんと言わなければならないという使命感が勝った。
 自分はレイのときに一度失敗している。その失敗を二度繰り返すことはないのだ。

「碇くんが、クラスのみんなとあまり話をしてないから、心配で」

 このときのヒカリの言葉は彼女の心の中と全く同じものであったが、普通の男子中学生がそんなことを聞かされてどう思うだろうか。おそらくは『自分に気があるのか』と錯覚してもおかしくはないだろう。
 だが、ヒカリには別に好きな人がいるわけだし、そんな気持ちがあるはずがないのは本人にとっては当たり前のことだ。だからそこまで気が回らなかったのだ。
 少年は初めて笑った。

「気をつけた方がいいよ、洞木さん」

「え?」

「普通の男の子にそんなことを言ったら、絶対に勘違いされるから」

 そこまで言われて、ようやくヒカリは自分が少年に向かって何を言ったのか、そして少年が何を感じたのかが分かった。

「ちっ、違うのよ! これは──」

 少年が再び指を口にあてて『静かに』と意思表示をしたので、ヒカリは途端に言葉をなくしてしまった。

「大丈夫、分かっているから。誤解なんかしてないよ。ただ気をつけた方がいいって忠告しただけ」

「そ、そう……」

「優しいね、洞木さんは」

 無表情でそんなことを言われてもあまり嬉しくはない。逆に不気味ですらある。

「委員長として、気にしているだけだから」

「分かっているよ。でも、役目だからっていうんだったら放っておいてくれないかな。僕は別にクラスメートと馴れ合うつもりはないから」

「なれ……あう?」

「そう。仲良くしたりとかするつもりはないんだ。いろいろ考えることが多いから」

「でも、友人はいた方がいいし、それに碇くんだってさびしくないの?」

「それは洞木さんの理屈だからね。僕の理屈とは違うよ。僕が特殊なだけだと思うけど……でも、僕はそう思ってないから」

「一人でも大丈夫だっていうことなの?」

「一人で大丈夫というより、一人でいたいんだ。委員長の仕事だっていうのは分かるし、別に喧嘩沙汰を起こすつもりもないから、安心して」

「そんなの、おかしいわよ」

 熱が入ってきた。それが自分でもわかる。
 だが、彼の考え方は認められない。何故なら自分には家族がいて、友人がいて、それで充実しているからだ。彼の表情からは一人でいるからといって充実している感じが見受けられない。

「そんなことがどうして分かるの?」

 だが、少年はあくまで冷静だった。

「人間はみんな別々の考えを持っているんだよ。洞木さんは自分とは違う考え方を認められないの?」

「そんなことないけど、でも、友達がいらないなんてことはおかしいと思う」

「おかしいと思うのは洞木さんの自由だよ。でも僕にはいらないんだ」

 少年は立ち上がった。参考書とノートを鞄にしまう。

「ちょっと、碇くん」

「話をするなら場所を変えないかい。ここじゃ周りに迷惑だ」

 言われてからようやくヒカリは回りの視線を一身に受けていることに気がついた。そして少年がさっさと図書室から出ていくので、ヒカリはそれを追いかける。
 少年は後ろを見向きもせず、まっすぐに屋上に出た。
 古今東西、屋上というのはドラマなどでは主人公たちしかいないように描かれる場所なのだが、普通の少年少女が屋上という一種異世界のような空間に憧れを抱かないわけがない。この日も屋上は込み合っていた。これが普通一般の屋上の使い方というものだろう。
 当然ベンチなどが空いているはずがない。男子生徒のほとんどは柵に寄りかかりながら食事をしているし、女子生徒はきちんと敷物をしいてその上で友達同士で食事をしている。
 少年が屋上に来たとき、その存在感が一瞬屋上の喧騒を鎮めていた。が、それも一瞬のことですぐに喧騒が返ってくる。
 少年は、空いている柵のところに背をもたれた。
 ヒカリは少年から少し距離を置いて、隣に立った。

「碇くんは、他人が嫌いなの?」

 いまやヒカリにとっては、碇シンジという少年と話すことが必要不可欠となっていた。
 他人の考えを否定し、自分には理解できなかったと関わらずにいることは容易い。だが、ヒカリは正面から挑戦する方を選んだ。納得のいかない答を見せられて黙っていられるほど、ヒカリは消極的ではなかったのだ。

「嫌いじゃないよ。好きかと言われると悩むけどね」

「じゃあ、どうして友達がいらないの?」

「別にいらないとは言ってないよ。それに僕にだって大切な人はいる。ただ、学校という場所でそれを作るつもりはないだけだよ」

「どうして?」

「僕がそれを答える必要はないと思うよ。それにね、洞木さん。人の考え方を変えようっていう意気込みで話しているのだとしたら、もう少し洞木さんは覚悟を持った方がいいよ」

「覚悟?」

 何を言われているのか、ヒカリには理解できなかった。

「つまりね、自分にとって都合のいいことばかり相手に押し付けて、押し付けたあとは放ったらかしにしてしまって、自分とはもう関係ないっていう顔をする。そんな態度を取られたら、人は次第に誰も信用しなくなるよ」

「わ、私はそんなことしない!」

「じゃあ僕が、友達を作るために洞木さんに友達になって、と言って、毎日毎日洞木さんを連れまわしてもいいの?」

「ど、どうしてそうなるのよ。男子は他にたくさんいるじゃない」

「それが覚悟だよ。相手に友達を作れって言うんだったら、まず自分から友達になってくださいって言うことはできないの? できたとしてそれを実行できるの? できないよね。だって最初に言ったもの。委員長として心配だって。友達になろうだなんて洞木さんは考えてないよね」

「そ、それは」

「でもそれでいいんだと思うよ。僕のこの雰囲気で友達になりたいなんて思う人はいないと思うから。ただ、洞木さんにはちょっとだけ分かってほしいな。洞木さんみたいに絆のある人と、そうでない人の違いを」

「絆?」

「洞木さんは僕に、普通の中学生みたいに振舞えって言っているんでしょ? でもそれは、普通に小学校に通って、中学校に通っていたから言える台詞だよ。日本語を知らない人に、日本語で話せって言っているようなものだよ」

「極端じゃない?」

「同じだよ。言語だって感情だって、できることとできないことがあるんだ。できないことを強制されたら洞木さんは嬉しい?」

「そんなの……」

「だったらそれは、余計なお世話、って言うんだと思うよ」

 もう、ヒカリには何もいえなかった。
 自分が拒絶されているということがわかった。いや、少年は世界を拒絶しているのだということが分かった。
 自分の言葉が相手に届かないし、相手に届かせようという覚悟がなかった。
 単にちょっと心配しただけのことで、相手が普通じゃないから気になったくらいのことで声をかけて、相手の気持ちを全く考えずに行動した。

「……碇くん、怒ってる?」

「怒る? どうして? 洞木さんは善意で言ってくれたんでしょ? だったら怒る理由なんかないよ。考え方が人それぞれだっていうことだよ。普通じゃないから間違ってるとか合ってるとか、そんな簡単なことじゃないんだ」

「でも」

 それでも、最後にヒカリは言った。

「やっぱり、友達は作った方がいいと思う」

 少年は頷いて答えた。

「僕もそう思うよ。でも、僕はいらないから」

 ヒカリは転校生がそう言ったのを聞いて、逃げるように駆け去っていった。






「で、サードチルドレンの様子はどうなの?」

 赤木リツコは相棒の葛城ミサトに話し掛けた。もちろん、作業の手を止めてはいない。

「普通に学校に行って、普通に帰ってきてるわよ。何も問題がないのが不思議なくらいね」

「でも、気になっていることがあるんでしょう?」

 葛城ミサトが心から何も問題ないという場合は、それが表情に出る。また、問題がある場合も表情に出る。一人の個人として付き合うとき、これほど相手の考えが読める相手は稀だといえよう。

「まあね。携帯電話を持たせたんだけど、どうも誰からもかかってきてないみたいなのよ」

「なるほどね。自分から友達を作ろうとしてないっていうこと」

「そゆこと。多分アイツ、学校で誰にも自分の番号なんて教えてないんだろうなって思ったら案の定、調べさせたところ毎日図書室で勉強だって。一人も友達いないみたい」

「それが彼のアイデンティティというわけね」

「ふあ?」

「自我同一性。自分でこうあるべきだと思う自分と、実際に行動している自分。これがかけ離れてしまうと人は病気になってしまうものよ。でも、彼は自分が思ったとおりに行動しているわけでしょう。つまり、回りから見て問題のある行動に見えても、本人にとっては何の問題でもないのよ」

「でも、それじゃつまんなくない?」

「科学者はえてしてそういうものよ。私には分かるわ」

「へーへー」

 ミサトはコーヒーカップを手にした。自分のではない、リツコのものだ。

「冷めてるわよ、それ」

「いいわよ別に。味が変わるわけじゃないし」

 味音痴のミサトが言うから説得力がある。

「それで、あなたとしてはどうしたいわけ?」

「そうねえ。友達を作るなんて命令してできるわけじゃないわよね」

 ミサトは悩んでいるようだったが、真剣に悩んでいるわけではないことを二人とも分かっていた。本人が納得ずくの行動なのだ。それ以上干渉するのもどうかと思う。
 それに、碇シンジという少年には、学校で執着する相手がいなくても、ネルフに帰ってくれば愛しの少女がベッドで待っているのだ。

「早くレイが退院してくれるといいんだけど」

 どのような変化が訪れるのだろうか。リツコは相棒の言葉に少なからず期待感を持っている自分に気付く。そして頭の中で退院予定日を描いた。

「あと三日、ね」

 第三使徒が現れてからもう二十日にもなろうとしている。ようやく前の使徒戦の後片付けも終わり、ネルフは次の段階に移行しようとしていた。






 病室の扉が開くと、その少女は途端に緊張を解く。現れた少年に対して既に心を許している証拠であった。

「やあ、綾波」

 体を起こしていた少女はゆっくりと彼に振り向く。お互いに無表情ではあるが、レイの方がわずかに感情を表に出していた。いや、感情の動きを読むのが容易だった、と言った方がいいかもしれない。

「……また来たの」

 学校に通うようになってから、少年がこの部屋に来るたびにレイは同じことを言う。

「もちろん。なにしろ、君と僕は運命共同体だからね」

「運命?」

「そう。唯一、お互いの絆の持ち主であるということさ」

 少年は少女のベッドに腰掛けた。肩が触れ合うくらいに近づいてきた少年に、少女の鼓動がかすかに上がる。

「……碇くんは、どうしてここに来るの」

「綾波に会いたかったから、じゃ駄目なのかな」

「信じられないわ」

「人の感情に理由はないからね」

「あなたは嬉しそうな顔をしてないもの」

「綾波は僕の気持ちを疑っているの?」

「……」

 まるで熟年カップルのような会話である。もし余人が聞けば思わず張り倒してしまいたくなることうけあいだ。
 だが、当人たちはいたって真面目だ。

「私に何を求めているの」

「傍にいてくれることかな」

「私を傍に置く、その目的は何?」

「そうだね。綾波と一緒にいることでとりあえず僕は幸せになれるよ」

「幸せ? どうして?」

「好きな人と一緒にいられるのは幸せなことだよ。そして綾波にも幸せになってもらいたいと思っている」

「好き? よく、分からない」

「自然に分かるようになるよ。できれば、僕のことを好きになってくれると嬉しいな」

「……努力してみるわ」

「それは嬉しいな」

 少年はかすかに笑う。その冷たい微笑みが、レイにとってみると不気味でもあり、同時に魅力的でもあった。魅了されているのだと、気付かないままに。






「でも、よく実験に参加してくれる気になったわね、彼」

 ミサトが言う。それは全くリツコにしても同意見で、彼の心境がどのようなものなのか、確認してみたい気もする。
 実際のところ、少年との契約では『起動実験なら参加してもいい』という条件だったのだ。だから起動実験を行う際は強引に彼を連行してくることもできる。
 だが現実には起動実験すらままならない日々が続いていたのだ。その理由は他でもない、少年自身である。

『実験に参加してもいいとは言ったが、必要以上にやるつもりはない』

 もちろんネルフとしては実験は数多い方がいいにこしたことはない。だがあくまでも少年は『必要最小限』の実験しか参加しないと言い張ったのだ。

「何か心境の変化でもあったのかしら」

「マヤに聞けば分かるのではなくて?」

「ふえ? なんで?」

「彼を説得したのがマヤだからよ。そうなんでしょう?」

 突然話を振られたのはオペレーターの伊吹マヤ。「はい?」と童顔がこちらに向けられる。

「シンジくんよ。あなた、いったいどんな魔法で彼を口説いたの?」

「口説いたって、センパイ、人聞きの悪いこと言わないでください」

「でも事実でしょう」

 む〜、と口をとがらせる。まるで小学生だ。

「そんなに難しいことじゃありませんでしたよ。ただ単にシンジくんのところまで行って、お願いしますって頭を下げてきただけです」

「断られなかったの?」

「その場では別に、何も言いませんでしたよ。そのかわり、どうして実験が必要なのか、尋ねられました」

「なんて答えたの?」

「シンジくんのシンクロ率の高さを、レイやアスカにも応用できないか調べているから協力してほしいって」

「そうしたら?」

「分かったって。そんなに時間はかかりませんでした」

 リツコとミサトは顔を見合わせた。その程度のことなら何度も少年には説明している。だがそのたびに彼は首を横に振ってきたのではなかったか。

「……案外、マヤみたいに子供っぽい大人が好みなのかもね」

「ありうるわね。彼も大人っぽい子供だからね。正反対の相手に惹かれたのかも」

「ちょっと、それどういう意味ですか!?」

 ぷん、と怒った仕草がまさに小学生そのものなのだが、とは二人ともあえて言わない。
 と、そんな会話を繰り返していると、大きく、はあ〜、というため息が聞こえてきた。

『……起動実験、いつになったら始まるんですか?』

 どうやら少年は、こちらの話を全て聞いていたらしい。リツコは急いで指示を出した。
 起動実験が始まると、やはりそのシンクロ率の高さに動揺が起こる。使徒戦のときの記憶はきちんと残っているのだが、あのときは極限状態にあって誰もが興奮していた。冷静な判断力でこの数値を見ると、やはり動揺が起きるのはやむをえまい。
 シンクロ率、六〇.三%。

「シンジくん、聞こえる?」

『感度良好』

 すぐに返事がある。頷いてリツコがさらに尋ねた。

「この間は最高で九七%を記録しているわ。でも、今は六〇%。この差はいったい何か分かる?」

『それを調べるために実験をしているんじゃなかったんですか?』

「そうよ。でもそれには、あなたの精神状態が知りたいの。これも実験の一つよ」

『なるほど。要するに僕の感情でシンクロ率が変わるかどうか、ということですね』

「そう。それで、心当たりはある?」

『残念ですが、答は『わかりません』です。僕だってエヴァに乗ったのはこれが二回目なんです。前とあまりにも違いすぎていて、比べることなんかできませんよ』

「でもそうしたら、何回か乗ったら分かるということ?」

『どうでしょう。でも、今回乗ったことで何も成果が得られないというのなら次回乗っても同じ結果でしょう。成果が顕著にならない限りはもう乗るつもりはありませんよ』

「成果が出ればいいわけね」

『もちろん』

「じゃあ、少しの間待っていてくれるかしら」

『了解』

 そういう会話をしている間にも、スーパーコンピュータMAGIは演算を行っている。起動実験をやることで成果が上がらないことなどないのだ。一回ずつのデータは蓄積されてシンクロ率の変動を調べることができるし、エヴァ起動の際のバグやエラーを少なくすることもできる。
 起動実験を行って何一つ悪いことはないのだ。せいぜい、お金がかかるくらいか。

「今、MAGIに調べさせているところだから、その間、雑談でもしてかまわなかったかしら」

『僕は構いませんよ』

「それじゃあ気になっていたことから。どうして今回実験に参加してくれる気になったの?」

『起動実験には参加する約束でしたから』

「でも、使徒戦からずっとシンジくんは実験を拒否していたでしょう?」

『当たり前です。僕は契約を交わしましたけど、あなたがたの部下になった記憶はありませんから。あなたがたが、さも当然のように命令してくるのは組織として仕方のないことでしょうけど、僕はネルフという組織の一員じゃない。命令されるのなら、僕は実験なんか参加しません』

 はっきりとしたその言葉に、発令所の誰もが凍りつく。

『でもマヤさんは違いました。マヤさんはどうしても必要なデータがあるから協力してほしいと『お願い』してきたんです。命令は聞けませんけど、マヤさんみたいに綺麗な人からお願いされたら、さすがに断りきれませんね』

 最後はリップサービスというものだろう。状況の深刻さをいまいち理解していないマヤが顔を赤らめて両手で頬を押さえている。

「分かったわ。シンジくん、これからもエヴァの起動実験に協力してくれるのかしら」

『そのときの気分と、あなたがたの言動次第ですね』

「肝に命じておくわ」

 リツコは体が震えていた。
 いったいなんということだろう。これほどの気迫を持った少年がこの世界に二人といるだろうか。彼はたった一人でネルフという世界で最大の組織と五分以上にやりあっているのだ。

「ちょっといいの、リツコ。あんなこと言わせておいて」

「かまわないわ。実験に参加してくれるのなら、相手がどんな考え方であろうと関係ないもの」

「でもね」

「ミサト。あなたは作戦を考えるのが役目。私とは違うのよ」

「その作戦部の部長の立場から言わせてもらえると、こちらがたてた作戦をことごとく反対されるかもしれないっていうこの状況は、息苦しいものがあるのよね」

「それはあなたがシンジくんと相談するべきことね。私の役目じゃないわ」

 あっさりと親友を切り捨てるリツコ。だがそれは当然のことで、相手は個人だとしてもこちらは組織なのだ。組織には組織なりの運営も方針もある。それを軽んじるわけにはいかない。
 しっかりと見極めなければならないのは、この組織と契約を交わした相手が一個人だということだ。






 三日後。怪我をしている少女は少年と一緒に登校した。その登校風景に、二人を知るものは驚愕を隠せずにいた。

(おい、あれ、A組の綾波と碇だろ)

(なんで二人で登校してるんだ? 知り合いか?)

(まさかシンジくん、綾波さんと……そんなのいや〜!)

(綾波さん……転校してきたばかりの碇くんといつ知り合いになったのかしら)

(碇め……転校そうそう綾波さんに近づくとは、許さん……)

 さまざまな思いが登校中の二人に浴びせられたが、声に出されない限りは無害なものである。視線は少々痛かったが、別に二人は気にするふうでもなく校門をくぐった。

「綾波、怪我は大丈夫?」

「……問題ないわ」

 少女の片腕は骨折をしているものの、もう片方はなんともないのだ。両足も健在だし、普通にしている分には何も問題ないのである。
 だが少年は、少女の鞄を持ち、下駄箱では少女の靴を取り出してあげるなど優しいところをふんだんに見せている。その姿までもが、周りの生徒たちに共感と反感を与えていた。

(碇くん……やっぱり優しい人だったんだ。素敵……)

(綾波さんも、まんざらじゃないみたい。お似合いのカップルね)

(なんだよ碇の野郎、綾波さんに色目使いやがって……)

(綾波さん、碇くんをたぶらかしたんだったら、許さないからね)

 そんな感情も声に出されない限りは無害なものである。
 当の本人たちはそれをどこまで感じていたかはともかくとして、表面上はおくびにも出さずに行動していた。
 だが、それも教室に到着するまでのことだった。さすがに教室についたとたん、二人を囲むかのように人だかりができる。これにはさすがに二人とも無視するわけにはいかなかった。
 事情を聞くために選出されたのは、やはり委員長だった。

「おはよう、碇くん、綾波さん」

「ああ、おはよう委員長」

「……」

 少年はすぐに答えたが、少女の方は相変わらず何も喋らない。話し掛けても見つめ返してくるだけで、何も言うことがない。
 少女の回りに誰も人が集まらないのは、多分、彼女のこの目が嫌なのだろう。
 赤い色は関係ない。ただ、じっと見つめられると、こちらの方が悪いこともしていないのに何故か動揺してしまう。

「ええと、教えてほしいことがあるんだけど」

「僕で答えられることならね」

「それじゃあ、お言葉に甘えて。碇くんと綾波さんは知り合いなの?」

 当たり前だろ! と三人を取り囲むギャラリーから無言で突っ込みが入る。

「まあね。僕が第三に来てからの知り合いだよ。だから、三週間ちょっとかな」

「その……仲がいいみたいだけど、もしかして、付き合ってるの?」

 それは直球だろ! とまたしても全員の無言の突っ込みが入る。

「綾波、僕たちは付き合っているの?」

「付き合う……?」

 少女は首を捻るだけで、何を言われているのかは理解していないらしい。

「というわけで、残念ながら僕たちはそういう関係じゃないみたいだよ」

 残念ということは、そうなりたいという希望はあるのだろうか、と全員の心に期待と不安が混じる。

「碇くんは、どうして綾波さんとお知りあいになったの?」

 問題をずらすな! と三度突っ込みが入る。

「みんな、僕たちの関係が知りたいみたいだね。いいよ、教えてあげる」

 少年はアルカイックスマイルを浮かべると答えた。

「僕は彼女の命の恩人。ほら、怪我をしてるでしょ? 僕が助けてあげなかったら彼女は死んでいるところだったんだ。だから、そのお礼としてもらったんだよ」

 全員の頭に疑問符が浮かぶ。

「もらったって……何を?」

 代表して聞いたのは、やはりヒカリであった。

「彼女の体も心も、人生の全てをね。そうだろう、綾波?」

「そう……間違ってはいないわ」

 その二人のやり取りに、校舎が震えるような悲鳴がとどろいたのは、三秒たってからのことであった。








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