(知ってる? A組の碇くんと綾波さん)

(聞いた聞いた。付き合ってるんだって?)

(いや、それがね、どうも碇くんの方が綾波さんを奴隷みたいに扱ってるんだって)

(何それ。ゲームじゃないんだから)

(でもそれ、私も聞いた。綾波さんが碇くんに弱みを握られているとかなんとか)

(そうなの? 私は綾波さんの方が碇くんをこきつかってるって聞いたけど)

(なにそれ、全く反対じゃない)

(だって……二人の姿見てみなよ。どう見たって、碇くんが綾波さんを世話してるようにしか見えないんだから)

 その日は一日中、彼ら二人のことで第壱中に話題のつきることはなかった。












第肆話



緋色の英雄












「しっかし驚きだよな。あの綾波レイが男と付き合うなんてな」

 相田ケンスケはパンを食べながら相棒に話しかける。だがその相棒は機嫌悪そうに弁当をかきこむだけで、返事をしなかった。

「やれやれ。久しぶりに学校に来たかと思ったら、随分機嫌が悪いなトウジ」

「……」

 これはただ事じゃないな、と判断したケンスケはそれ以上何も言わなかった。
 実際、ジャージ姿の少年こと、鈴原トウジは機嫌が悪かった。その理由はただ一つ、先の使徒戦で妹が負傷し、現在も治療中で回復の見込みがまるでたっていないことだ。

「それに、あいつの噂、もう一つあるんだよな。あいつがほら、噂のエヴァンゲリオンのパイロットだって──」

 その言葉は相棒に大きな変化を与えた。弁当を机にダン! と置くと少年は目を血走らせて相棒に詰め寄ったのだ。

「それ、ホンマか」

「噂だよ噂。なんだよ、トウジ。何かあったのか」

「……」

 トウジは少しの間、弁当箱をじっと見つめた。

「……妹が怪我したんや。あの紫色のバケモンが暴れたせいや」

「エヴァンゲリオンの? でも、死傷者は出なかったって話じゃないか」

「そんなもん、嘘に決まっとるやないか! 妹は、妹は……」

 そこから言葉が出てこず、トウジは箸を握る手に力をこめた。
 やりきれない怒り。使徒、そしてエヴァンゲリオン。無力な自分。解決の糸口もない少年に、エヴァンゲリオンのパイロットがいるということを聞かされたとき。
 少年の心の中に浮かんだのは、復讐、であった。

「ホンマかどうか、調べること、できるか」

「そりゃ、本人に聞くのが一番手っ取り早いんじゃないか?」

「だったら」

「待てよトウジ。それなら俺に考えがある。絶対に相手を逃さない方法がさ」

 ケンスケは眼鏡を上げるとニヤリと笑った。





 その会話の対象は外で食事をしていた。もちろん、運命共同体である少女も一緒に連れてだ。

「綾波は肉が嫌いだったよね。お弁当作ってきたんだ。嫌いなものは入ってないと思うから、食べてみてくれるかな」

 少年は二人分の弁当を敷物の上に広げる。少女はその前で正座をしている。
 確かにこんな光景を見せられては、少年が少女を世話していると思われても仕方がないだろう。

「……碇くんは食べないの」

「食べるよ。でも、綾波がきちんと食べたらね」

「私は別に食べなくてもかまわないわ」

「そうはいかないよ。きちんと食べないと体に悪いからね。いつまでも駄々をこねていると、無理矢理食べさせるよ」

 少女は無表情で割り箸を取り、卵焼きを口に運んだ。

「どう、綾波?」

「……美味しいと思うわ」

「よかった。ありがとう」

 だが、そう少女が答えたのは相手を喜ばせるためであって、本心から言っているわけではなかった。
 少女に味覚がないわけではないが、味覚に乏しいのは確かであった。幼い頃から固形栄養食やせいぜいコンビニ弁当くらいしか食べたことのない少女に、味の優劣をつけさせてもろくな結果にならないことは当然のことなのだ。いかに幼少期の食生活が成人して後に影響を与えるか、推して知るべしである。

「まあ、口にあう、あわないはともかくとして、少しでも多く食べてね」

 少年はさらに付け加えて言った。
 もしかすると、少年は自分が善意で「美味しい」と言ったのだということに気付いているのかもしれない。いや、気付いているのだろう。

「……どうして」

「何が?」

 表情のない顔で少年は答える。ようやく少年も箸を手に取って、食事を始めるところだった。

「……なんでもないわ」

 レイは、少年に対する追究を取りやめた。何を言ったところで、結局はいつもと同じなのだ。自分が欲しがっている答は与えられず、当り障りのないことしか伝えてくれない。
 彼はいったい自分に何を望んでいるのか。
 自分に利用価値があるとすれば、エヴァンゲリオンに乗れることと、ターミナルドグマでの実験のことだけだ。
 少年がいったい自分に何を求めているのかがいまだに掴み切れない。それなのに自分の中に締める少年の割合は日増しに大きくなっていく。

「こうしてゆっくりできるっていうのはいいね」

 少年は水筒のお茶を飲みながら言う。

「明日はこうしてゆっくりと食事はできないかもしれないし」

「どうして?」

「もしかしたら使徒が今日攻めてくるかもしれないだろう?」

 そんなことはありえない、と断定することはできない。使徒はまだ何匹もいるのだとリツコが言っていたのを覚えているからだ。
 だからといって、まさか今日出現するようなことはないだろう。なにしろ、前の使徒が現れてからまだ三週間しかたっていないのだ。
 そのことを言うと、逆に少年から質問で返された。

「綾波は、三週間前のあの日、使徒が来ることを予測していたの?」

 もちろんそんなはずはない。彼女はふるふると首を振った。

「使徒の行動が逐一予測できるものだったら、明日も平和なんだって心から言えるんだろうけどね」

 そう言って少年は食事を続けた。
 つまり、明日のことなど誰も分からない。そう、少年は言うのだ。

(そう……そうなのかもしれない)

 少女は説得力の有無はともかくとして、少年の言うことを信じた。
 そして何故か、近いうちに次の使徒が現れるような予感を覚えていた。





 五時間目。少年のディスプレイに一つのメッセージが届いた。

『碇くんがエヴァンゲリオンのパイロットって本当? Y/N』

 その表示がされてもしばらく少年は答える様子を見せなかった。目には映ったのかもしれないが、再び教科書とノートに集中する。

『本当なんでしょ? Y/N』

 続けて送られてきたメッセージ。それでも少年は反応しない。
 ふと、少年が顔を見上げたとき、クラスの全員が彼に注目していた。唯一、レイだけは関係なさそうに窓の外を眺めている。どうやら、このメッセージはTo碇シンジ、ccクラスの生徒全員に送られているようだ。

(さて、どう答える碇シンジ?)

 相田ケンスケはわくわくしながらこの答を待った。先ほどからの少年の様子では『構っていられない』という様子のものでしかないが、それはある意味『Yes』と答えているのと同義だ、と信じている。
 ふう、と少年はため息をついて答を打ち込んだ。

『そうだけど。それがどうかした?』

「ええええええええええっ!?」

 クラス全員の大合唱。少年の眉間に皺がよる。
 こうなってしまうともはや授業など関係ない。全員が少年の席につめより、話を聞こうとわれ先に質問してくる。

「ちょっと、静かにしてよまだ授業中なのよ!」

 洞木ヒカリが注意しても聞く耳を持たない。それほど野次馬というのはパワーがある。

「ね、ね、パイロットってどうやったらなれるの?」
「敵と戦ったときどんな感じだった?」
「選ばれたときの感想は?」
「危ない目にあったりとかしないの?」
「普段はネルフでどんなことしてるんだ?」

 続けざまに来る質問に、少年はため息をつくとディスプレイに打ち込んだ。

『質問はメールにて。それ以上の質問には答えられません』

 その文字を見るやいなや、蜘蛛の子を散らすように全員が自分の席に戻って我先にキーボードを叩きはじめる。そうして少年は再び教科書とノートに集中した。
 その日、少年のもとに届いたメールは全部で100件を超えた。もちろん、ほとんど似たような質問だ。当り障りのない答が、全員に送られて終了した。





 放課後、少年はクラスメートから呼び出しを受けて屋上まで来た。
 そこにいたのは、鈴原トウジと相田ケンスケだ。
 少年はため息をついて空を見上げた。

「どこ見とんねん」

 トウジが歩いてきて、何も言わずに拳を振り上げた。
 ぶん、と振り下ろされる拳を、少年は上体をそらすだけでかわす。

「避けんな!」

 無茶なことを言っていることに、おそらくトウジは気付いていないだろう。ぶん、ぶんと続けて殴りかかるトウジを、少年は軽くあしらっていた。

「理由もなく殴られなきゃいけないほど、僕は人間ができていないから」

「黙らんかい!」

 なおも殴りつけようとするトウジだが、少年はいとも容易くそれを避ける。

「お前のせいで、お前のせいで妹は……」

「妹?」

「お前が下手糞な戦いかたしよったから、妹怪我したんじゃ!」

 ぶん、とトウジの拳が空を切る。間をとった少年は、大きくため息をついた。

「アホかい、君は。それともその愚かさは作戦か何かかい」

「な、なんやと!?」

「戦場で足元なんか見て戦ってられるか!」

 少年は逆に全力で駆け出した。そして懐に飛び込むと、トウジの腹に強烈な一撃をヒットさせた。

「がはっ」

 トウジの肺から空気が全部吐き出される。

「戦場で生きのびられるだけありがたいと思え。でなければ、この街から出ていけ! 貴様のような平和ボケした人間は戦場に不要だ!」

「い、言いたい放題言いくさって……」

 だが、そのパンチはよほど足に来たらしく、トウジは立っているのもやっと、という様子だった。

「お前がもう少しマシな戦いしとったら、被害は少なくてすんだんや!」

「じゃあ戦わなければよかったとでも言うつもりか? そして全員死ぬか? 僕は君たち全員の命を預かっているんだ。くだらないことにかまってなんかいられないよ。それじゃあね。今日は急がなきゃいけないんだ」

 少年は翻って屋上から出ていった。あとに残されたケンスケとトウジはやりきれない思いを残すしかなかった。

「な、なんやねんあいつ……ホンマむかつくわ!」

 ケンスケは肩を竦めた。しばらくここにいることになりそうだな、と思いながら。
 なにしろトウジは今の喧嘩で、しばらく歩くことができそうになかったからだ。
 だが、ものの五分としないうちに彼らは行動せざるをえなくなってしまう。

 緊急警報が第三新東京市に鳴り響いたからだ。





「こりゃまた、ヘンテコなのが出てきたわね」

 スクリーンに出された映像を見て、ミサトは思わず口にしていた。
 空を飛ぶ巨大なイカ。そう表現するのが一番正解だろう。
 国連軍が前回と同じように爆雷による攻撃を繰り返しているが、使徒はまるで意に介さず第三新東京市に向かって飛んでくる。

「税金の無駄使いだな」

 冬月副指令が表情のこもらない声で言う。

「国連よりエヴァンゲリオンの出撃要請、来ました!」

「随分遅いじゃない」

 ミサトはふんと鼻を鳴らした。

「シンジくん、準備はできてる?」

『こっちは準備オーケーですよ。早く打ち上げてください』

「やる気まんまんね」

『こんなくだらないことに付き合っていられません。せっかく綾波が退院できて、本当なら二人で家でのんびりとしてるはずだったんですから』

 少年は不機嫌だったらしい。だがその不機嫌の理由が理由だが。

「し〜んちゃ〜ん、やる気はあるのは結構だけどね〜?」

『早く帰って綾波の退院記念パーティするんですから、さっさと片付けましょう』

「分かったわよ。それじゃ、エヴァンゲリオン出動準備!」

『あ、ちょっと待ってください』

 だが彼女の行動はのっけから躓かされた。原因は少年だ。

「あによう、盛り上がってきたところで」

『一つお願いというか、絶対にしておいてほしいことがあるんですけど』

「なに? 戦闘に関係すること?」

『おおありです。民間人がきちんとシェルターに避難しているのか、また避難していてもシェルターから抜け出していたりすることはないか、しっかりと見張っていてほしいんです。特に、第壱中学校の校舎近くのシェルターは』

 えこひいきというのだろうか、めずらしく自分のかかわりのあるものを守ろうとする彼の意識を見て、ミサトはほっと微笑む。

「いいわよん。大切なクラスメートたちだもんね」

『そういう問題じゃありません。もうご存知だと思いますけど、僕がパイロットだということがバレています。その中の誰かが戦いを見るためにシェルターを抜け出してくるかもしれない。そうなると戦闘の邪魔になる。だから戦場からしっかりと隔離してほしいんです』

「……あそう」

 気が抜けるとはまさにこのことか、とミサトは思う。

「どういうことなのかしらね、彼」

「今言ってたじゃない。戦いの邪魔をされたくないってことよ」

 リツコが淡々と答える。

「うっし、それじゃいくわよ。エヴァンゲリオン、発進!」

 ケイジから第三新東京市へとエヴァンゲリオンが移送される。そして地上に出たエヴァンゲリオン初号機はすぐさま兵装ビルからパレットガンを手に取り、使徒に向かって構えた。
 そして、連射する。

「よっし、奇襲成功!」

「でも効いてないわね」

 何発か撃った段階で、煙が立ち込めてくる。それよりも早く初号機は場所を移動して反対側に回り込み、再び連射する。

「戦闘のスキルが高いわね、彼」

 煙で敵が見えなくなる前に行動し、常に敵との一定距離を保ち、優位に事を進めている。

「A.T.フィールドは?」

「まだ中和しきれていないわ」

「それじゃあこのまま銃で戦っても無駄か……」

 接近戦でカタをつけるか、それともこのまま攻撃を続行するか。
 答は、すぐに出た。

「シンジくん、聞こえる?」

『聞こえます』

「このままパレットガンによる攻撃を続行して。それと同時にA.T.フィールドを中和。できる?」

『できますが、拒否します』

「は?」

『最初に言ったとおり、僕には作戦に従わなくてもいい権利がありますから』

「じゃあどうするっていうのよ」

『ころあいを見て接近戦にきりかえます。あの使徒は遠距離攻撃では倒せない』

「どうしてそれが分かるのよ!」

『国連軍と同じですよ。爆雷による傷が全くつかないからです。どれだけやっても無駄。まさに税金の無駄使いですよ。とにかく使徒を牽制して、一番いいタイミングをはかります。というわけで、邪魔をしないでくださいね』

 通信は一方的に途切れた。

「あんのやろー!」

「彼の方が一枚上手ね」

 リツコはやれやれと肩をすくめた。その間にも、初号機は動き始めていた。





「おおっ! 見える、見えるぞ〜! あれがエヴァンゲリオンか。カッコイイなあ〜!」

 ビデオカメラを回している少年の後ろで、ジャージ姿の少年はため息をついた。

「ホンマ、お前は自分の欲望に忠実なやっちゃなあ」

「だって目の前で戦いが始まってるんだぜ? これを見なきゃ死んでも死にきれないよ」

 相田ケンスケと鈴原トウジは、結局シェルターから抜け出していた。ケンスケの『トウジは戦いを見る義務がある』というわけの分からない理由に無理矢理引きずり出されていたというのが正しいところだ。
 別にそんな言葉に踊らされたわけではない。
 鈴原トウジは、彼の戦いを見たかったのだ。
 自分の妹を傷つけた男の戦いを。

「お、いよいよ接近戦に入るみたいだぞ!」





 初号機はパレットガンを捨て、プログナイフに持ち変える。そして一気に詰め寄る。
 だが、その距離があと数歩、といったところでぴたりと動きを止めた。

「どうしたの?」

 リツコが尋ねる。だがミサトにだって分かるはずがない。
 初号機内部のモニタは送られてきていない。つながっているのは音声だけだ。

「ちょっと、シンジくん、どうした──」

『うるさい! お前の出る幕じゃない! 引っ込んでろ!』

 声をかけたミサトに、少年の罵声が返ってくる。

「な、な、な……」

 さすがにこれにはミサトもカチンと来た。激情のままに叫ぼうとしたその瞬間、使徒の手から光の鞭がしなり、初号機の右手首を絡めとる。
 そのまま、初号機は放り投げられ、山のふもとまで投げ飛ばされる。

「シンジくん!」

 叱りつけてやろうとした相手を、一転して今度は心配する立場に変わる。

「センパイ、見てください」

 マヤがリツコを呼びつけた。

「どうしたの、マヤ」

「先ほど、初号機が一瞬止まったときのシンクロ率です」

 リツコは画面を覗いた。そこには今までとはまるで違うシンクロ率が提示されていた。
 二%。
 普段の彼からして信じられない数値だ。現に今は六四%と普段どおりの数値を示している。

「……どういうこと?」

「分かりません。脳波パターンも非常に乱れていました。ハーモニクスもダウンしてます」

「……本人に聞いても、答えないでしょうね」

 リツコは再びスクリーンを目にする。
 そのエヴァンゲリオンの視界に、とんでもないものが飛び込んできた。

「シンジくんのクラスメート!?」

 ミサトが叫ぶ。初号機の右手の傍で、二人の少年が涙を浮かべてうずくまり、震えているのが見える。

『民間人の監視はしてもらえるんじゃなかったんですか』

 同時に皮肉が初号機から入る。ミサトはその指示を出したが、一切の報告を受け取っていなかった。連絡にミスがあったことになる。

「ごめんなさい。私の責任です」

『どうすればいいかな……』

 ミサトの言葉を聞いていたのかそうでないのか、少年は一人疑問を投げかける。その間にも使徒はせまってくる。

『ちっ』

 舌打ちする音が発令所に響いた。そして使徒の光の鞭がアンビリカルケーブルを切り裂き、初号機に迫る。
 初号機は二本の鞭を両手で掴み取った。

『ぐうっ、ぐっ!』

 苦痛に耐える声が聞こえる。と同時に、初号機のエントリープラグがイジェクトされた。

『そこの二人、これに乗れ!』

「ちょ、シンジくん!」

 いくら作戦に従わない権利があるとはいえ、これは問題だ。守秘義務は守らなければならない。それがネルフの一員であろうと、そうでなかろうと同じことだ。

『はやく……しろ!』

 二人の少年がのそのそとエヴァンゲリオンに這い上がり、エントリープラグの中に入っていく。二人とも入った瞬間、プラグが再エントリーされる。
 確かに一番安全な場所ではある。戦場を逃げ回るのは殺されてもかまわないと言っているのと同義だ。そのことをあの二人の少年は分かっていたのだろうか。

「単なる見学に来たってところでしょうね」

「まったく、シンジくんがあれだけ邪魔されたくないって言ってたのに」

 ミサトもまた、舌打ちした。





 プラグに入った二人は、LCLが肺に流れ込んでくる最初の恐慌状態を脱すると、目の前に座っているパイロットに目が向いた。
 碇シンジ。
 エヴァンゲリオン初号機専属パイロットがそこにいる。

「い、碇……」

「黙ってろ。今は戦闘中なんだ」

 初号機は使徒から距離を置き、光の鞭の射程圏内に入らないようにする。
 タイムリミットは、あと三分半。

『シンジくん、聞こえる?』

「感度良好」

『すぐに一度引き返して。国連軍で足止めするわ。山の裏側から回って──』

「拒否します」

『んなっ、何言ってんのよ、二人が入ってノイズが混じってんのよ! シンクロ率なんて十二%もダウンしてんのよ、じゅうにぱーせんと!』

「連呼しなくても聞こえてます。まず逃げるのは不可能です。使徒が許してくれません。あれの標的が自分だけになっているのが分かりませんか。それから、逃走したとしてもその間に使徒が侵攻してサードインパクトを起こしてしまったらアウトです。つまり、どちらにせよ無理ってことです」

『どうするつもりよ』

「倒します。あと三分ありますからね。まあ見ていてください。それから綾波に伝えておいてください。今日はパーティの予定だったけど、明日に延期させてほしいって。それじゃ」

 通信が途切れた。

「さて……とは言ったものの、この状況で倒せるような相手じゃないんだよね」

 少年の呟きに後ろにいた二人の少年からクレームがでる。

「な、なんやと!」

「ご、後生だ。勘弁してくれ」

 少年は振り返ってため息をついた。

「そういや君たちが乗ってたんだっけ。とにかく、戦闘の間は邪魔しないでね。だいたい、ここまで絶体絶命のピンチになったのは、誰のせいだと思っているの? 死んでも文句を言えない立場だっていうこと理解してる?」

「せ、せやけど」

「死ぬ覚悟もないくせに戦場に出てくるな! ここは命のやり取りをする場なんだ、娯楽でもレクリエーションでもなんでもない。はき違えるな!」

 初号機が動いた。
 それにあわせて使徒も動く。

「ちっ……結局こうなるのかよ。仕方がないか、ちょっと痛いだろうな……じゃ、オ・ルヴォワール」

 使徒の光の鞭が、初号機の腹部を貫く。
 それにあわせて、プログナイフが使徒のコアに突き刺さった。

「があっ、がああああああああああああああああああっ!」

 絶叫がプラグ内部に響く。

「ああっ、あがっ! ぐあああああああああああああっ!」

 その少年が目を剥いて腹の底から叫ぶ声を、トウジとケンスケはすぐ傍で聞いた。
 その少年が苦痛のためにしぼり出す悲鳴を、発令所のメンバーはスピーカーを通して聞いた。

「シンジくん」

 ミサトの組んだ腕が震える。
 リツコは眉間に皺を寄せる。
 マヤは耳を塞いで目を閉じている。
 ゲンドウは薄ら笑いを浮かべている。

『俺は……』

 彼の一人称が変わっていたことに、誰が気付いていただろうか。

『俺は生きて還る!』

 使徒の光の鞭が、次第に力を無くしていった。

「パターン青、消滅!」

「シンクロカット! 急いで!」

 ミサトの指示で青葉シゲルが急いで緊急にシンクロをカットした。





 エントリープラグの内部は非常灯に切り替わっていた。
 荒い呼吸と、震える体。
 二人の少年は、パイロットと呼ばれている転校生を見て、言葉をなくしていた。

「くそ……」

 少年はがたがたと震える体をしっかりと自分の両腕で抱きかかえる。

「サードチルドレン、初号機専属パイロット、碇シンジ、か……」

 少年は一人呟いた。

「だ、大丈夫なんか、転校生……」

「黙ってろ、と言ったはずだ」

 トウジがかけた言葉に、少年は容赦なく言葉を封じた。





「シンジくんの様子は?」

 初号機と少年を回収し、最優先の事後処理が終わって一息ついたところで、ミサトは相棒に尋ねた。

「無事よ。精神汚染の心配もないわ。今は眠ってるけど」

「大変だったものね」

「そんな言葉で、彼の大変さを代弁しても無意味よ」

 リツコは資料を見る速度を少しも落とさずにミサトの話につきあう。

「どういう意味よう」

「言葉通りよ。お腹に突き刺さった二本の鞭。戦闘が終わって傷痕すら残らないとはいえ、痛みの記憶は彼の体中に残っているのよ」

「そんなの分かるわよ」

 ミサトもまた、セカンドインパクトの際に腹部に大きな傷を負った者だ。痛みの記憶は薄れているとはいえ、なくなるわけではない。

「いいえ、分かっていないわ」

 だがリツコはさらに言葉を続ける。

「なにしろ、エヴァンゲリオンに乗る以上は、これからも同じように痛みを覚えることがあるということなのだから」

「シンジくんが、もうエヴァには乗らないって、そう言いたいの?」

「その可能性もあるということよ」

「あの尊大で不敵なシンジくんが?」

 信じられない、とでも言うかのようにミサトが大きく手を広げた。

「ミサト」

 初めてリツコが手を止める。

「な、なによ」

「彼はまだ、十四歳なのよ」

「分かってるわよ」

「分かっていないわ。でなければ忘れているのね。あなたが十四歳のとき、自分がどうだったか思い返してみるといいわ。十四歳という年齢が、どれほど脆いものなのか、すぐに分かるでしょう」

 きっ、とリツコを睨む。が、すぐに緊張は崩れた。

「随分とシンジくんの肩をもつのね」

「事実を言っているだけよ。それにもう一つ、忘れてはいけないことがあるわ」

「なに?」

「簡単なことよ。それでも私たちはシンジくんにエヴァに乗ってもらわなければならない。そうしなければ私たち全て死んでしまうのよ。どれほどシンジくんが苦しんでも、辛くても、私たちは戦いつづけなければならない。だから、感傷にひたるのは意味のないことよ」

 肩をもつつもりはさらさらない、というリツコの言い分だった。

「へーへー。それじゃま、シンジくんのお見舞いにでも行ってこようかしら」

「三十分以内に戻りなさいよ。あなたみたいなのでもいないと業務に支障が出るんですからね」

「どういう意味よう」

「あら、分かりやすいと思ったんだけど」

 リツコの意識は既に資料の中に入っていた。ミサトはため息をつくと部屋を出て行った。








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