「碇くんに会わせて」

 病室の前。制服姿のレイは扉の前で押し問答を繰り返していた。

「だから、駄目なんです。今は絶対安静なんですから」

「碇くんに会わせて」

 冷静な表情だ。だが本当に冷静なら、今少年が他の誰とも会えない状態だというのは分かりそうなものなのだ。
 少なくとも目が覚めるまでは。

「碇くんに……」

「はい、レイ。ちょっちストップ」

 ぽん、とレイの頭に置かれる大きな手。

「……葛城一尉」

「申し訳ないけど、シンちゃんと会うのは、私の面会の後にしてくれるかな」

「だ、だから駄目ですって。ここに入ることは──」

「命令よ。通しなさい」

 看護師は忌々しげに相手を睨みつけると、しぶしぶ扉を開けた。

「レイ。すぐに終わるから、ちょっち待っててね」

 そう言ってミサトは病室へ入っていった。












第伍話



君は知らない












 面会謝絶の割には、少年の体にはほとんど何の装置もつけられていなかった。ただ、左腕に点滴の針が一本ささっているだけだ。

「これで面会謝絶なの?」

 看護師に尋ねる。当たり前です、と小声で答えた。

「エヴァンゲリオンに乗ることで、彼がどれだけ疲労するかわかっているんですか? この間の戦いの後だってすぐに綾波さんの病室に行ってしまって、あんなに憔悴していたのに」

「憔悴?」

「丸一日何も呑まず食わずで運動しつづけたくらいの疲労は残るんですよ。それくらい、指揮官なら彼のことを考えてあげてください」

「ごもっともな意見だけど、認識が足りないわね」

「認識?」

「私は彼の指揮官じゃないの。彼が戦っているのは、彼自信の意思であって、私は彼に命令することも止めることもできないわ」

 と、そのとき。
 がばっ、と飛び起きた少年に二人は一瞬体をすくませる。
 少年の目は見開かれており、体中汗をかいている。
 口が開いており、はあはあ、と荒い呼吸を繰り返している。

「シンジくん」

 声に反応して、勢いよく首が振り向く。

「……葛城さん」

「大丈夫? どこか、苦しいところはない?」

「……大丈夫です」

 顔が青ざめており、体は震えていた。
 とても大丈夫などではない。それは明らかだった。

「話はあとにしてくれませんか」

「ええ。シンジくんが無事だと分かれば私はそれでいいの」

「綾波を呼んでください」

「分かったわ」

 ミサトは微笑むと、病室を出た。その前ではレイが言われた通り、立って待っていた。

「いいわよん。ちょうどシンジくんも起きたところ」

 レイは何も答えず、病室に入っていった。

「……レイ、シンジくんのこと、どう思っているのかしら」

 少年は一方的にレイを引き取った。
 だが、肝心のレイの気持ちはどうなっているのだろう。

「まさかあの子が誰かを好きになるなんてねえ……」

 だが普通の十四歳なら、今ごろは恋愛が一番の興味事項のはずだ。
 とはいえ、レイに恋愛とは、これほど不似合いなものも他にはない。

「ま、今のところは何も問題ないと思うけど」

 ミサトは、さて、と気持ちを切り替えて仕事に戻っていった。





 病室に入ったレイは、ベッドの上で膝を抱えている少年を見て目を細めた。

「碇くん」

 その声に、少年は顔を上げて微笑む。

「やあ、綾波」

「……」

 レイはベッドまで近づいていくと、少年の隣に腰かけた。

「出撃前の件は、聞いてくれた?」

「ええ」

「そう。悪いけど、パーティは明日ね」

「……別に気にしてないわ」

「そう」

 少年の体はまだ震えていた。

「ねえ、綾波」

「なに?」

「これから少し、みっともないことをするけれど、いいかな」

「……かまわないわ」

 左眼に包帯をした少女の膝に、少年は崩れ落ちた。
 そして、声を殺したまま震える。
 泣いているのだ。

(碇くん……)

 レイの手は、自然と少年の頭を撫でていた。





 一方、鈴原トウジと相田ケンスケはどうしていたかというと、ネルフの管理職からこっぴどく叱られていた。
 無理もないことではある。ネルフの監視の目をかいくぐって外まで出て、さらには極秘であるエヴァンゲリオンまで見ているのだから。
 無論フィルムにビデオテープは没収。見たことを永久に口外しない旨の誓約書にサインまでさせられてしまっている。
 二人ともつくづくここが超法規的組織であるということを思い知らされていた。

『もし君たちがこの誓約を破って他人に話したとしよう。そのときは、その話した相手と、君たち自身と、さらには君たちの家族にまで非が及ぶ。ゆめゆめ、忘れることのないように』

 駄目を押されたようなものである。二人はとぼとぼとネルフを出た。

「どうする、これから?」

 どうすると言われても、家に帰るしか他にやることはないのだ。二人ともバス停のベンチに座って時間を潰した。

「……転校生、きつそうやったな」

「そうだな」

「パイロットって、そんなきついもんなんやろか」

「本人に聞けよ」

「わいは……」

 話を続けている間にバスがやってくる。
 二人はこれ以上この話ができなくなったことを悟り、口を閉ざしてバスに乗った。





 碇シンジという少年は、確かに精神的ダメージを受けているように回りからは見えた。だが本人がどう感じていたのかなど、それは本人に聞いてみないと分からないことなのだ。
 そうリツコから提案された作戦部長は、仕事がちょうど切りあがった時点で再び少年の病室を訪れていた。
 既に時間は午後十一時。
 ミサトは静かに扉を開けた。

「……レイ?」

 そこには、窓からの月明かりを受けたレイがいた。
 レイはベッドの隣の椅子に腰掛けており、じっと黙って少年の手を握っていた。
 少年は既に眠っていた。

「葛城一尉」

 レイは少年の手を布団の中にしまうと、その場に立ち上がった。

「いいわよ、そんな仰々しくしなくても。シンジくんはもう寝たの」

「はい」

「そう。ありがとう、レイ。ずっとついていてくれて」

「碇くんが……」

「ん?」

「碇くんが、お前は俺のものなんだから、俺の傍にいろ、って」

 ミサトは一瞬眩暈がした。そして眠っている少年をどつき起こそうかと考えた。
 だが、それは実行しなかった。
 少年が苦しそうな表情で夢を見ているのが分かったからだ。

「いつから?」

「眠ったときからずっと」

「時間にしてどれくらい?」

「二時間くらいです」

 では少年は二時間も悪夢にうなされているというのか。

「どんな夢を見ているかは分かる?」

 レイは首をひねった。さすがに言葉にも出さないのでは夢の内容までは想像つかないようだ。
 だが、この間の戦いのことなのは間違いがない。

(これは、リツコの考えすぎね)

 リツコが考えたのは、少年が『苦しんでいるフリ』をしているのではないか、ということだった。だがこのあたりはどうやら普通の少年と何ら変わりはないらしい。

「ところでレイ。いくらシンジくんに言われたからって、もう面会時間は過ぎてるのよ。早く家に帰りなさい」

「……」

 レイはしぶしぶといった様子で立ち上がる。だが、その行動はぴたりと止まった。

「碇くん」

 目が覚めていたのだ。少年は目を見開いて、ベッドの回りに立つ二人の女性を見つめた。

「さすがに綾波は気付くのが早いね。おはようございます、葛城さん」

 楽しそうに少年が言った。

「綾波が家に帰る必要はないよ」

「シンジくん」

「大丈夫です。院長の許可は取ってありますし、僕も誰かに傍にいてくれないと辛いですから。それを看護師さんにやってもらうのは、さすがに大変ですからね。僕にしても綾波がいてくれて、手を握ってくれるだけで心が軽くなるんですよ」

 そして少年はミサトがレイを横目で見ているのに気付いた。

「悪いけど綾波、すぐに終わるから少しの間席を外してもらえるかな」

 すると今度はレイがミサトを睨んできた。が、すぐに何も言わずに病室の外へ出ていく。

「随分レイ、なついたみたいね」

「まるで動物みたいな言い方ですね」

 皮肉で答えられたのは、この場合ミサトの表現力に問題があるせいだろう。

「そ、そんなつもりで言ったんじゃないわよ」

「分かってますよ。歯車、ですよね。組織の中にいる人間は動物よりも行動できる範囲は狭い」

「喧嘩売ってるの?」

「逆に聞きますけど、じゃあ何の用ですか? 早く綾波に戻ってきてほしいんですよ」

「あら、あの子を出したのはシンジくんでしょ?」

「綾波。もういいよ、戻ってきて」

 少し大きな声で話しかけると病室のドアが開く。

「ちょ、シンジくん」

「話すことがないなら、もう帰ってください」

「悪かったわよ。レイ、もうちょっとだから、ごめんね」

 レイは少年とミサトを見比べて、どっちの言葉を優先すべきか悩んでいたようだった。やれやれ、と少年はぼやく。

「綾波、もう少しだけ外にいて」

 こくり、と頷くとまたレイは外に出ていった。

「それで、何の用ですか?」

 尊大な態度は、あんなことがあった割には全く変わるところがない。ミサトは安心してもいい、と判断した。

「エヴァのことよ。これからもまだ乗るつもりがあるのかなって」

「どうして突然そんな話になるんですか?」

「だって、痛かったでしょう」

「そりゃ痛いですよ。でもそれは覚悟の上ですから」

 少年は表情を曇らせた。

「僕はね、葛城さん。あの日、葛城さんのアルピーヌ・ルノーに乗ったときから、もう決めているんです。どんなことがあっても逃げない、と。ちょっとやそっとのことで根を上げたりはしませんよ」

「そう。でも、戦いはもっと辛くなるわよ?」

「覚悟はとっくの昔にできていますよ」

 気負っているところがあるのはミサトにも見てとれた。

「怖い?」

「怖いです。あんな痛みは二度と味わいたくないですよ。でもそうも言ってはいられませんから」

「でも、エヴァに乗るの?」

「乗ります。何があってもね」

「どうして、そこまで」

「さあ……何故でしょうね。お金でもほしいのかな」

 まるで他人ごとのように少年は言う。
 結局、彼は何も話してくれるつもりはないのだということをミサトは理解した。
 だが戦う意思は少しも衰えていない。
 それなら大丈夫だ。

「じゃ、私行くね」

「ええ。綾波、もういいよ。入っておいで」

 カチャリ、とドアが開いてレイが入ってくる。

(やっぱり犬みたいね)

 レイの頭に犬耳とお尻に尻尾があれば、たいそう可愛い犬になるだろう、とミサトは思った。

「……なんの話だったの」

 ミサトが出ていくと、レイは不機嫌そうな表情で少年に尋ねた。

「どうしたの、ヤキモチ?」

「……」

「ごめんごめん。こんな目にあったのに、まだエヴァに乗るのかっていう意思確認。それだけだよ」

「碇くんは、どうしてエヴァに乗るの?」

「それは、君は知らなくてもいいことだよ」

 少年は立ち上がると、自分と同じくらいの背格好をした少女を抱きしめた。

「でも、辛いのは確かだ。だから、綾波はずっと僕を抱きしめていて」

 こうして触れると、少年が震えているのが分かる。
 エヴァの痛みは、経験したものでないと分からない。
 レイの場合は零号機の暴走によるものが理由なので直接身体にダメージが出たが、身体に残らない激痛ほど怖いものはない。
 まるでその痛みが錯覚であったかのような、本能的な恐怖。
 夜毎その痛みに苦しみ、夢の中でも再びその痛みを味わわなければならない。

「碇くん……」

 レイは、少しだけ少年を抱きしめる手に力をこめた。





 翌日、少年は退院した。精神汚染がされていないかを調べるための検査入院である。たとえ痛みの記憶があろうとも、少年の体は健康そのものなのだ。
 結局病院に泊まっていったレイと一緒に少年は開発地区へのバスに乗る。今日になってようやくレイの包帯は全て解かれていた。
 久しぶりに外の空気に触れた左眼。

「綺麗だね」

「……?」

「綾波の目。すごく綺麗だ」

 少年は思ったことをそのまま口に出しただけなのかもしれない。だが、この言葉を受け取る側としては何の感慨もなかったというわけにはいかない。
 顔を赤らめて俯き「あ、ありがと」とだけ答える。
 少年は嬉しそうな表情を浮かべると、隣に座る少女の手を握った。
 少女も手を握り返してきた。

(私……嬉しいの?)

 少年の温もりが肌を通じて直接伝わってくる。
 少年は、絆、という言葉を口にした。
 自分が欲してやまないもの。
 少年はそれを自分にくれる、という。

(碇くんが、私の絆)

 そのことを真剣に考えたことは、今まで一度もなかった。
 ただ、少年の傍にいることだけしか考えていなかった。
 そして、その考えが始まったとき。
 いいようのない不安を少女は感じた。

(なくしたくない……)

 エヴァンゲリオンという兵器に乗っているかぎり、必ず大丈夫などということは口が裂けても言えない。
 いつ少年が使徒に倒されてしまうかなど、分からないのだ。
 少年のように、最初から自分に絆を与えてくれて、そして真剣に自分のことを思ってくれる者など、金輪際出てくることはないだろう。
 少年は始めから、自分のことを最優先に考えていてくれた。
 それが当たり前であるかのように。
 だから。

(碇くんは、私が守る)

 自分は死んでもかまわないのだ。代わりはいくらでもいる。
 だが、碇シンジという少年には代えがない。代用はできないのだ。
 きっと三人目も、四人目も、自分と同じように少年は絆をくれるだろう。

「ねえ、綾波」

 乗客が全くいない午前中のバス。
 少年の声は、レイの耳元にささやかれた。

「……なに?」

「あまり、深く考えないで。僕にとって綾波の代わりなんて……いや、君の代わりなんて、いないんだから」

 少女は冷や汗をかいた。
 この人は知っている。
 自分のことを知っている。

「どうして知っているの?」

「何を?」

「私に代わりがいるということを」

「代わり?」

 少年は不思議そうな表情を浮かべる。

「何を言っているのか、分からないよ、綾波」

「誤魔化さないで」

「僕は思っていることをそのまま伝えただけだよ。僕にとって君の代わりなんていうものはない。僕には君だけなんだ。絶対に、僕の傍から離れないで。いつも僕の傍にいて。命をかけて守ってもらったって、僕は少しも嬉しくない。僕にとって大切なことは、君が傍にいてくれること、それだけだよ。もし今の君がいなくなったら、僕の絆もなくなってしまうんだ」

 少女は、涙を流していた。

「……私、泣いてる」

「そうだね」

「どうして泣いてるの」

「悲しくはなかったんだろう? だったら、嬉しいからじゃないかな」

「そう……嬉しいときにも涙は出るのね」

 少年から手渡されたハンカチで、涙を拭う。

「碇くん」

「なに、綾波」

「……なんでもないわ」

 何かを言いかけたレイを、少年は追及することはしなかった。
 少女はそれを優しさだと感じ、手を離すかわりに腕をからめた。
 そうした方が、少年の温もりを、絆をもっと感じられると思ったからだ。





 退院パーティはささやかなものだった。
 少年が作った手料理。スーパーで売られている出来合いのものがほとんどだったが、それがテーブル中に置かれる。もっともそのテーブルもあまり大きなものではなかったが。
 そしてどこからか買ってきたワイン。未成年に酒を売ることは法律で禁止されているはずだが、法の網をくぐることは決して不可能なことではない。

「お酒?」

「そう。綾波は初めて飲むかな」

「碇くんは初めてじゃないの?」

「初めてということになるのかな……」

 酒の勢いもあって、二人はパーティの途中で限界に来ていた。一つしかないレイのベッドに、二人で倒れこむ。

「碇くん」

 ベッドの上で、レイは少年に抱きついてきた。

「もっと、碇くんの絆がほしい」

「僕も、だよ。綾波」

 レイは目を閉じた。
 少年は、その少女に接吻をした。
 口づけは、これが何度目になるだろうか。
 だが、お互いの温もりを感じながら、という点ではこれが初めてのことだ。

「綾波、着替えて。制服が皺になるから」

「ええ」

 もちろんレイは寝間着など持っていない。寝るときは下着姿のままだ。
 少年は苦笑して「今度、寝間着を買いに行かないとね」とだけ言った。
 そして少年もまた、荷物が届いていない現状、寝間着などあるはずがなかった。
 二人は下着姿のまま、お互いを抱き合う格好で、布団の中に入った。

「暖かい」

「落ち着く?」

「そう……落ち着くのね」

 少年は少女の顔を上げると、再び口づけを交わした。

「お休み、綾波……」

 二人の意識は、そのまま闇に溶け込んで消えた。





 少女は、頭がずきずきして目が覚めた。
 自分の布団の中には、少年の姿がある。
 安らかな寝顔だった。
 もう悪夢は見ていないようだった。

「碇くん……」

 その少年の寝顔を見ていると、不意に心臓が高鳴りだした。
 今まで感じたこともない、苦しい想い。

「そう……好きなのね」

 二日酔いで痛む頭でも、そのことがはっきりと分かった。
 単に絆の問題ではない。

『好きってことさ』

 彼が言った言葉。
 そう、好きということなのだ。
 自分が、少年に対する想いというのは。

「碇くん……」

 もっと。
 もっと、少年を感じたい。
 絆で自分をがんじがらめにして、動けないくらいにしてほしい。
 まだ、朝日は昇ってきていない。
 部屋の中は、真っ暗だった。

「碇くん……」

 下着も脱ぎ捨て、生まれたままの姿に還る。
 そして全身で、少年に抱きついた。

(これも……邪魔)

 少女は少年のTシャツも取り外してしまう。
 そして、肌をぴたりと重ね合わせた。

(あたた……かい)

 ううん、と少年が少女に抱きついてくる。
 夢を見ているのだろうか。
 自分が夢に出ているのだろうか。

「碇くん……」

 幸せに包まれながら、レイは再び眠りに落ちた。





 そして再び目が覚めたとき、少年は隣にはいなかった。
 かわりに、キッチンの方で音がしている。目を向けると、少年は既に制服を着て、食事を作っていた。

「ああ、おはよう綾波」

 少年は微笑む。

「……おはよう」

 少女はベッドから降りて少年に朝の挨拶をする。
 少年は苦笑を漏らさざるをえなかった。

「ねえ、綾波。服を着てくれるかな」

「服?」

「人前で、そういう格好には、普通ならないものだよ」

「……そうね」

 少女は何も着ていなかった。
 と同時に、もっと少年を感じていたい、という意識があったことは否定できない。
 朝、目が覚めたときに少年はまだ隣にいてくれると思っていた。
 一人で目が覚めたときの、いいようもない寂しさ。
 自分の目が覚めるまで、少年には隣にいてほしい。
 だから。
 少女は、少年のもとへ近づいていった。

「綾波?」

 そして、裸のまま抱きついた。

「……もっと、絆がほしい」

 少年は抱き返し、唇を重ねる。

「ん……」

 少女はこの二日間で、随分とキスが上手くなった。といってもまだぎこちないものだ。舌をからめるとようやくそれに合わせて動くくらいのものでしかない。
 だがその行為は、明らかに少年をもっと感じたいという意思の現れであった。

「さ、服を着てご飯にしよう」

 少年がそう言うので、少女はしぶしぶ制服に着替えた。





 ネルフの作戦部長と技術部長は半日ぶりに顔を合わせた。二人にしては珍しく、食堂での顔合わせとなった。
 ネルフは二四時間体制である。たとえ深夜になろうとも食堂には誰かが詰めている。いつなんどき、誰が利用するか分からない。また、常に人が絶えないくらいにネルフには人がいる。

「元気そうね」

 ミサトがリツコの向かいの席にかけて言う。まあね、と技術部長は答えた。
 午前六時。さすがにこの時間では人がいるとはいってもまばらだ。
 お互いに二日続けての徹夜明けである。管理職の辛いところだ。

「使徒の残骸は?」

「コアがほとんど原形を保っているのよ。素晴らしいサンプルだわ。昨日のうちに使徒はケイジに運び入れたけど……コア以外は時間の問題ね」

「っていうと?」

「既に腐敗が始まってるわ。一部は完全に気化してしまっているの。おそらく残るのはコアだけね」

「ちょっち、食事中にそれはやめてくれない?」

「聞いてきたのはあなたよ、ミサト」

 リツコはそう答ながらレアステーキをナイフで綺麗に切り、口に運ぶ。

「朝から豪勢ね」

「肉に含まれている成分は体内の活動を促進させるのよ。朝は肉が一番なのよ」

「へえ〜」

 そう言うミサトは徹夜明けで胃が辛いのできつねうどんである。

「逆に麺類は眠気をもたらすからやめた方がいいわよ」

「うっさいわよ」

 ずるずるずる、と音をたててミサトはうどんをすする。

「そういえば、シンジくんはどうしてるの?」

「レイと帰ったみたいよ。あのボロアパートに」

「そう」

「それにしても、あの部屋ってベッド一つしかないのよね。どうやって寝てるのかしら」

「……」

「……」

 二人の想像した図(要するに少年とレイが抱き合って眠るの図)は、寸分狂いなく現実のものであったが(しかもレイの行動によりお互いに裸である)、そんな現実を二人は知りようもない。

「まあ、二人なら大丈夫でしょ」

「気楽なものね」

「それに間違いがあっても、避妊薬、渡してるんでしょ?」

「ええ。数日前から薬を追加してるわ」

 さすがに二人はそこまでの関係になっているわけではない。少なくとも現段階ではそれは杞憂にすぎない。

「サードチルドレンの以前の生活、再調査させたわ」

 声をひそめてリツコが言った。ミサトの眼光が鋭さを増す。

「それで?」

「どうもこうもないわ。前と全く同じ」

「でも、明らかに別人よ、彼」

「そうよ。MAGIもそう答えたわ。同一人物である確率、十五%」

「彼が演技している可能性は?」

「内訳は現在演技している可能性一%、以前の生活で演技していた可能十一%、多重人格の可能性三%、というところね」

「多重人格か……」

「私もそれは考えないでもなかったわ。でも、おそらくそれはないでしょうね」

「というと?」

「多重人格なら頻繁に性格が変わってなければならないでしょう? まあ頻繁にとは言わないまでも、シンジくんが来てからもうすぐ一ヶ月。彼はずっと同じ様子で変わりないわ」

「なるほど。そのセンはなしか」

「やはりありうるのは、以前演技していた、という可能性ね」

「イイコを演じていたということ?」

「そう。養ってくれる叔父、叔母。まあ、従兄からは随分苛められていたみたいだけど、他に行くところがなければ演技してでもそこに置いてもらおうとするのも分かるわ」

「でも、あのシンジくんが苛められているっていうのも理解できないわ」

「そうね。逆にやり返すところね。屋上での一件、聞いた?」

「ええ。からまれたところを逆に殴り返したってやつでしょ?」

「それがどういうことか分かる、ミサト?」

「どういうこと?」

「喧嘩慣れしている、ということよ」

 第三新東京に来る前と後では、本人の性格がまるで違う。
 ましてや今回の屋上の事件は、明らかに以前とは『別人格』だ。
 だからリツコは最初に多重人格を考えたのだ。
 苛められている自分と、逆に攻撃的になる自分。
 人格は一度分裂を始めると際限がない。いくつも新たな人格が生まれ、そして無限に増えつづけていく。
 だが、少年にはそうした不安定さがどこにもない。一ヶ月たっても何の変化もないのであれば、それは多重人格でありうるはずがないのだ。
 そこでリツコは完全にお手上げになった。
 以前の性格か、現在の性格か、いずれかが演技ということになるのだろうが、少なくとも以前、彼が喧嘩をしたという記録は見つかっていない。喧嘩に巻き込まれて殴られたことならいくらでもあるようだったが。

「そういえば、その屋上の一件だけど、使徒戦でエヴァに乗った少年がいたでしょ。彼がそうよ」

 リツコは目を見開いた。

「それは本当なの?」

「ええ。私も直接聞いたわけじゃないけど、黒服が言ってたから間違いないでしょ」

 では少年は、自分に殴りかかってきた相手を助けてやった、というわけか。
 それほど相手のことを思いやっていたわけでもないだろう。助けてやらないと目覚めが悪い、くらいにしか考えてないのかもしれない。

「直接話してみたいものね」

 リツコはぽつりと言う。

「話す?」

「その少年よ。名前、何ていったかしら」

「鈴原トウジ。シンジくんのクラスメートよ」

「……そうだったの」

 リツコの表情が曇った。
 ミサトも知らないことではあるが、少年が所属している第壱中の二年A組は密かに集められたパイロット候補生から構成されるクラスである。
 そのクラスの生徒ということは、もしかすると将来チルドレンとして選ばれる可能性を持つ少年ということになる。

(エヴァに乗った候補生……いろいろな意味で会う必要がありそうね)

 リツコは唇の端をあげた。








もどる