ヘリコプターが海上を駆け抜けていく。
 その先に見えるは、国連第三艦隊。
 その中心に位置するのが、空母、オーバー・ザ・レインボウ。

「あれが……空母」

 少年は珍しく驚いた表情を浮かべていた。
 滅多に見られないものを見ることができた、歳相応の少年の目だ。
 この少年にも、こうしたところがあるのだな、とミサトは少年のことを認識しなおした。

「ああいうの、興味あるの?」

「そうですね、ないとはいえません。本物を見るのは初めてですし、こういうものを見ておくことは自分にとってもプラスですから」

「好奇心は発展の母?」

「そんなところです」

 少年がいつもより少しだけ機嫌がいいことにミサトは安心した。

(……問題は、あの子の方よね)

 真下に迫った空母を見て、ミサトは少年に気付かれないようにため息をついた。












第捌話



悠久の波紋












「へろぅ〜、ミサト!」

 ヘリコプターで下りたミサトに声をかけてきたのは赤い髪をした絶世の美少女だった。
 天才少女、惣流・アスカ・ラングレー。
 そしてネルフのエースパイロット、碇シンジ。
 二人のパイロットが初顔合わせ、ということになる。

「久しぶりね、アスカ。元気だった?」

「まあね。それで、そっちの子がサードチルドレン?」

「そうよ。碇シンジくん。シンジくん、この子がセカンドチルドレン、惣流・アスカ・ラングレーよ」

 少年は何も言わなかった。
 気後れしているわけでもない。緊張して声が出せないというのでもない。
 少年の沈黙の意味が、少女にだけは分かっていた。

(コイツ……!)

 瞬間、アスカの怒りが頂点に達した。
 この男は、自分を品定めしている。
 それもスクール時代によく見かけたいやらしい視線とは別物の。
 どちらの方が優れているのか、ということを。
 そのとき、都合よく風が吹いた。
 少女にしてみれば都合が良かったというわけではない。そのせいで、彼女のレモン色のワンピースはめくりあがり、少女の下着が少年の目の前にあらわになる。
 それを口実に、彼女は手を上げた。
 平手が、少年の頬に落ちる。
 パシィッ! と心地よい音が船橋に響く。
 が、その直後だった。
 パシィッ! と同じ音が船橋に響いた。

「……え?」

 アスカには何が起こったのか、一瞬判断できなかった。
 自分が意識せずに視線を変えられていたことに、戸惑いすら覚える。
 そして徐々に自分の頬に痛みが出てきた。

(叩かれた……アタシが?)

 そしてすぐに復讐者の目となって少年を睨みつけた。

「何すんのよ!」

「こっちの台詞だよ。先に叩いたのはそっち」

「女の子の顔に手を上げるなんて、非常識よ!」

「男女差別だね。それに僕としては別に女の子に手を上げたつもりはないよ。飼いならされていない凶暴な動物をしつけただけだから」

「ど、どうぶつ……言うにことかいて……」

 烈火のごとく怒り狂ったアスカはその場で少年に掴みかかろうとした。
 どうせこの男は自分がいない間の代役にすぎない。
 それどころか訓練してからまだ一、二ヶ月でしかない。
 それならずっと戦闘訓練を続けてきた自分の方がはるかに強い。

「アスカ!」

 だが、その試みはうまくいかなかった。
 少年が掴みかかってくるアスカの手を取ると、勢いに任せて捻り、そのまま艦橋に押さえつけたのだ。

「痛いっ!」

 右手で腕をねじり、左手でアスカの頭を押さえつけている少年にアスカは悲鳴をあげたが、その力が緩むことはなかった。

「悪いけど、殴りかかってくる相手に容赦はできないんだ」

「ちょっとシンジくん、いくらなんでもやりすぎよ」

 ミサトからたしなめる言葉が入るが、このときのミサトは逆に碇シンジという少年を再評価していた。
 少年はエヴァの起動実験などはほとんどすっぽかしていたが、戦闘訓練については泣き言を言わず、というよりも鬼気迫る様子で臨んでいた。訓練が終了した後もさらに残って特訓をしてくれと言ってくるぐらいだった。
 アスカが相手をあなどって一気にねじふせようとかかったから、少年としてはもっとも最良の手段でこれを撃退した。それだけの力をこの二ヶ月で少年は手に入れていたのだ。

(……まさか、ここまでとは思わなかったけどね)

 あのアスカが、完全にしてやられた格好になっている。訓練を行ったのはミサト本人ではなかったが、作戦部の人間として誇らしいと言わざるをえない。
 それどころか、アスカが作戦部で頭にのることが懸念されていたが、最初にこうして少年にしてやられたということは、それにブレーキをかけてくれることにもなる。

「すみません。でも僕としては緊急避難ですよ。だって今の場合、何もしなければ僕は殴られていました」

「そうね。アスカ、あなたも謝らないと、ずっとこのまま組み伏せられたまんまかもよ」

「何でアタシが謝らなきゃなんないのよ!」

「先に手を出したのは君の方だろう?」

「アンタがアタシを珍獣でも見るかのようにしてたからよ!」

「珍獣? それは違う。僕は君が頼りになる仲間かどうか確認していただけだよ」

「ふざけな……痛っ!」

 アスカの顔が痛みで歪む。さすがに看過できなかったから、ミサトが割って入ろうとした。

「葛城さんはしばらく黙っていてください」

 だが、少年はそれより先にミサトの行動を封じた。少年には何か考えがあるようだった。

(……ふう、仕方ないわね。ここは彼に任せましょうか)

 よほど問題があればそのときは実力で止めればいい。今の状態ならお互い危険はないだろう。

「ねえ、アスカ」

「気安く呼ぶんじゃないわよ」

「そういうわけにはいかないよ。僕はずっと君を待っていたんだから」

「気持ち悪い」

「強がりだね。そんなに自分に自信が持てない?」

 首筋まで赤く染まったアスカは、この男からの束縛を解こうと強引に体を動かす。だが、この体勢ではどうにもできなかった。

「許さない……」

「許すも許さないもないよ。僕はね、アスカ。君を理解できる唯一の人間だよ」

「うるさいっ!」

「僕はずっと君を待っていた。君を一人にはしないよ。エヴァンゲリオンや容姿や学歴なんかどうだっていい。僕はアスカ、君だけをずっと待ってたんだ」

「離しなさいよ、この変態ストーカー男!」

「ふふ……」

 少年はそのまま身をかがめて、アスカの耳元に口を寄せた。

「何する……」

「大丈夫。アスカは要らない子なんかじゃない。僕にはアスカが必要なんだ」

 さっ、とアスカの表情が変わった。途端に抵抗もなくなった。
 ミサトには何を呟いたのかは分からない。だが、これはあのときと同じだ。
 綾波レイ。
 彼女が、自分から少年のものになると言ったあのときと同じだ。
 少年は拘束を解くとアスカから距離を置いた。
 そのアスカが立ち上がって、激しい炎を持った瞳で少年を睨みつけてきた。

「どういう意味よ」

「どうもこうもないよ。今言った通りの意味」

「……アンタ、何者?」

「僕もそれが知りたいよ」

「ふざけないで。アンタ、いったいそんなことまで調べてアタシをどうするつもり?」

「どうもこうもないよ。僕はただ、パイロット同士仲良くしたいだけさ。でもそのためにはね、アスカ。君の協力が必要になる」

「協力……?」

「そうさ。僕がアスカを求めても、アスカが僕を拒絶したら終わりだ。アスカが心を閉ざしてしまったら協力関係は取れなくなる」

「地球で人類がアタシとアンタだけだったとしても、アンタの傍にいるのは絶対に嫌」

「嫌われたね。残念だよ」

 少年は肩を竦めた。本気で残念がっている様子はどこにもない。
 その様子がアスカをさらに苛立たせ、彼女は振り向きざま走り出していった。

「おーおー、まさかアスカにここまで言うとはねえ」

 成り行きを見守っていたミサトがようやく口を挟む。

「すみません。パイロットの精神を不安定にさせてしまいました」

「いいわよ。ケアはこちらですればいいわけだし。でもシンジくん、すごいこと言うのね」

「すごい?」

「ええ。ずっと君を待っていた、愛してる、もう離さない」

 オーバーアクションで話すミサトに、少年はジト目で答えた。

「……なにか追加されてる気がしますが」

「でもそういう意味でしょ? びっくりしたわよ。それに、レイのことはどうするつもり?」

「綾波? どうしてそこで綾波の名前が出てくるんですか?」

「だぁって、恋人を差し置いて『君を待っていた』なんて他の子に言ったりしたらレイがすねるんじゃないの?」

「かまいませんよ。あれは僕のモノなんです。それに拗ねる綾波も見てみたいですね。猫みたいに可愛いんだろうな」

「猫?」

 ミサトは一瞬レイに猫耳と尻尾がついた状況を思い浮かべる。

(……可愛いわね、確かに)

 そんなことを素で思ってしまうあたり、この人の精神状況もどうかしていると言わざるをえまい。

「さて、それじゃあ葛城さんは挨拶があるんですよね」

「ええ、艦長にね。シンジくんはどうする?」

「一緒に行かせてもらいますよ。ここに一人でいても退屈ですからね」





 一方、その場を離れたアスカは大股で船の中を歩き回っていた。
 苛々する。その理由は単にあの少年が憎たらしいだけのことではない。あの少年に自分が見透かされているのが癪に障る。
 自分が誰からも必要とされていない、だから必要とされるためにエヴァンゲリオンに乗る。
 屈折した心境は自分でも薄々感じてはいた。だが認めるのは怖かった。
 自分はそんなに弱くない。
 自分は惣流・アスカ・ラングレー。もっと強い女の子のはずだ。

(あんなヤツに……あんなヤツに!)

 どうして彼が自分のことを知ったのかなどどうでもいい。ただ自分が圧倒的に不利な立場にある。それが理解できた。
 自分はもう用無しなのか?
 いや、そんなことはない。だが自分が一番でいられるかどうかとなると疑問が残る。
 自分は一番でなければならない。
 自分は一番でなければならない。

「よ、アスカ。ご機嫌斜めみたいだな」

 と、そこへ現れた一人の中年男性。

「加持さんっ!」

 アスカはその男の胸に飛び込んだ。

「やれやれ、艦橋では随分な目にあったみたいだな」

「やだっ、見てたの!?」

「それが仕事だからな。アスカのお目付役」

「もう、みっともないところを見せちゃった」

「みっともない? そんなことはない、凛々しかったよ。同じチルドレンを相手に最後まで一歩も譲らなかったじゃないか」

「でも……負けたわ」

 アスカは加持から離れて唇を噛みしめる。

「加持さん、サードチルドレンってどんな子なの」

「そうだな、まずシンクロ率は最初の段階で五六%、最高で九七%をたたき出している」

「九七%!?」

「やっぱり知らなかったんだな。それじゃあシンジくんに勝てるはずがない。向こうはアスカのデータをかなり調べているようだったからな」

「そう、そうなのよ。アイツ、アタシのことやけに詳しく知ってた」

「それだけ興味があるってことなのかな、アスカに」

「やめてよ、気持ち悪い。私が好きなのは、加持さんだけよ」

「そりゃどうも。さて、それじゃ俺も顔出しに行くかな。アスカも来るか?」

「来るって……」

「サードチルドレンのところ」

「遠慮するわ。ちょっと弐号機を見てくる」

「オーケー。ゆっくりと気持ちを整理してくるんだな」

「うん、ありがとう」

 そう言い残してアスカはぱたぱたと駆け去っていった。

(ほんの少しだが、迷いが見える。それに……素直になったかな)

 加持はアスカを冷静に分析していた。

(それがサードチルドレンの力か……これは、すごいことかもしれないな)

 加持は艦長室へと向かった。





「よっ、葛城」

 加持が艦長室に顔を出すと、予想通り赤い服の女性は顔を引きつらせていた。

「か、か、か、加持ぃ〜!? なんであんたがここに!」

「聞いてなかったのか? 俺はアスカのお目付役だよ」

 がっくりとうなだれるミサトを尻目に、加持は本来の目的を見つめる。
 サードチルドレン、碇シンジ。
 この少年ははたして何者なのか。

(ふむ、いい目をしているな。とても十四歳の少年には持ちえない雰囲気がある)

 最初の感想は『大人びている』でしかなかった。だが、その評価は割とすぐに覆されることになる。

「あなたが加持さんですか。はじめまして。僕は碇シンジ。ご存知かと思いますけど、ネルフの協力者です」

「ああ、知ってるよ。君のデータは見せてもらったからね。君も俺のことを知っているのかい?」

「ええ。アスカの憧れの人ですよね。それに……」

 いまだに復帰してこないミサトに視線を送り、言葉を濁す。加持は肩を竦めた。

「やはり物知りなんだな」

「まあ、蛇の道は蛇というところで。ちょっと加持さんとは色々と話したいことがあるんですけど、場所を変えませんか?」

「ちょっとシンジくん」

「あ、葛城さんは来なくて結構です。なにしろこれから加持さんに教えてもらうのは、どうやったらアスカを口説き落とすことができるかってことですから」

「アスカを口説くのか? 勇気があるな」

「僕もそう思いますよ。でも、彼女は僕にとって必要な人間ですから」

「その割には、さっき艦橋で随分痛めつけていたみたいだったが?」

「あのアスカが自分よりも弱い人間と対等に付き合うことができると思いますか? 僕の力をまずアスカに認めさせる必要があったんです。それが彼女に嫌われることになろうとね」

「道理だな。じゃあまあ、場所を変えるか。俺の部屋でいいか?」

「ええ、かまいませんよ。それじゃあ葛城さん、また後で」

 はいはい、とミサトはぱたぱたと手を振った。
 そして二人は並んで艦橋を出る。

「ところで加持さん」

 二人きりになった途端、彼は言葉をかけた。目はまっすぐ前を向いている。

「なんだい」

「加持さんには常時スパイがついていたり、盗聴されていたりするんですか」

「まさか。スパイがついていたら分かるよ。今は何を言われても誰にも分からないさ」

 そういう話をしてくることから、どうやら話というのがよほどのことだということが分かる。

「そうですか。じゃあお話の内容を言ってもかまいませんか?」

「ああ。別に誰も聞いてなければどこでもかまわないからな」

「要件は、加持さんが持っているアダムのことです」

 あまりにも平然と言われたその言葉の中に、どれほどの重さを持っていたかは加持だからこそ分かる。
 その言葉を聞いたとき、加持の表情にはわずかな変化もなかったが、アダムという言葉を聞いた瞬間は歩幅がわずかに狭くなった。
 動揺を外に出してしまったのだ。

「……どうして、それを?」

「どうして知っているのかなんて、くだらないことですよ。そんなことより建設的な話をしませんか」

「まあ待て。それくらいの話になるとさすがに立ち話というわけにもいかないさ。とにかくまず、俺の部屋へ行こう」

「その間に自分を落ち着かせる、ということですね。かまいませんよ、僕は」

 何から何までお見通しか、と加持は内心舌を巻く。
 この少年が何故このオーバー・ザ・レインボウに乗り込んできたのかは不明だった。パイロット同士を引き合わせるのなら、二人とも連れてきてかまわないはずだった。
 いったい、何を知っているのだろう。

(……この少年が、もしかすると一番の謎かもしれないな)

 加持は『単なる物知り』という認識を改めていた。
『世界で最も興味深い謎』という認識に。





「片付いてますね」

 部屋に入ったときの第一声はそんな言葉だった。

「散らかっているのは好きじゃないんでね」

「違いますね。ここは自分の部屋じゃないからです。つまり、いつでも逃げ出すことができる準備がされている、ということです」

 加持は肩を竦めた。全くその通りだった。普段、自分の部屋はこれでもかというくらいに汚い。

「で、何を話したいんだい、碇シンジくん」

「アダムのことです。加持さんさえよければ、そのアダムを碇ゲンドウに渡すことはやめてほしいんです」

「そりゃ無茶だ。こう見えても俺の命がかかっているからな。アダムを故意に隠蔽したとなると、君のお父さんに殺される」

「そんなに難しくはありませんよ。海底に沈んだことにしてしまえばいい。ちょうどもうすぐ海溝部にさしかかります。そこに落としたことにしてしまえばいいんです」

「無茶を言っているのが分かっているかい?」

「何故ですか?」

「どうして落とさなきゃいけないんだ? まさか使徒でも来襲するっていうのか?」

「そのまさか、ですよ加持さん」

 加持の目が細まる。

「ここに使徒が来る。うまいことアスカが倒してくれるでしょうけど、国連艦隊の何隻か、いや何十隻かは沈没する。その中の一つにアダムがあったことにすればいいんです。加持さんの部屋はこの旗艦だけにしかないんですか?」

「いいや。弐号機が積まれている船と、もう一つ。全部で三箇所にある」

「もちろん、ここ以外は秘密の部屋というわけですよね」

「お見通しか。その通りだよ」

「だったらそこにあったことにすればいいんです。そして沈没してしまった。使徒が破壊して沈めた船の中にアダムがあったとなれば、当然父さんは捜索命令を出すでしょう。でも沈没したのは何隻もあるし、簡単に見つかるはずもなければ見つけるために割ける人員も限られている。見つかるはずがない、というところですね」

「だが、それなら使徒はもしかして……」

「そうです。アダムを目指してくることになる。それなのに第三東京に使徒は相変わらず来ることになる。父さんも不思議がるでしょうけど、第三東京は別に攻められる理由がありますからね」

「それは?」

「言えません」

「おいおい、そこまで言って口を閉ざすのか?」

「加持さんが協力してくれるというのなら話は別です。僕が知りたいのは僕の知らない情報であり、僕の目的は補完計画を叩き潰すことです」

「……そこまで知っているのか」

「どうせ父さんの補完計画はうまくいきません。問題は初号機をヨリシロとして、ゼーレが強引に補完計画を発動することです」

(この少年は知りすぎている)

 そのことを誰か他に知っているものはいるのだろうか。否だ。さっきのミサトの様子からして、この少年がそこまで全てを知っているとは思ってもいまい。いや、そんな秘密があることすら彼女には分かるまい。
 ならリツコはどうだ。総司令は? おそらく誰も、彼がここまでの事実を知っているということは知らないに違いない。

「……俺をどうしたいんだ?」

「簡単なことです。ネルフ特別監査部所属にして日本国内務省調査部所属にして『ゼーレの鈴』たる加持リョウジさん」

「別に全部を言わなくたっていいさ」

「その三つの組織から知りえた情報を全て僕に回してくれればいい」

「つまり、君が最高の取引相手になる、と?」

「そうです。加持さんが望む情報は可能なかぎり差し上げます。もちろん僕にも分からないこと、知らないことはたくさんある。でも、それを提供する。つまり同盟を結ぼう、というわけです」

「同盟か……」

「加持さんが真実を手に入れるためにも、そして亡くなった弟さんのためにも、できれば僕と手を結んでほしいところです」

 さすがにそれを聞いたときには加持の方がため息をついた。

「一つ、いいかな」

「どうぞ」

「どうして君は、俺のことをそこまで知っているんだ?」

「僕のことに関しては追及しないでください」

 それははっきりと断られた。

「聞かれると何かまずいのかい?」

「いえ、自分の正体を秘密にしておいた方が物語は盛り上がるでしょう? それに、加持さんも僕に協力すればかなりのことが分かりますけど、解けない謎が残っていないと協力してくれなさそうですからね」

「つまり、セカンドインパクトの情報を持つかわりにシンジくんのことを調べるようになる、と」

「調べる調べないは自由ですけどね」

 というよりも、既に碇シンジという少年に魅了されてしまっている今の状態では、そうならざるをえないというところだろうか。

「それに」

 少年は付け加えた。

「命をかけて情報を手に入れてきた加持さんには失礼ですけど、加持さんが知りたがっている情報は今目の前にあります。そしてそれを知ってしまえば、これから先、危険なことの半分近くは減ることになるでしょう。そうすれば大切な人を悲しませずにすみます」

「それは、葛城のことかい?」

「違うとは言わせません」

「こりゃ手厳しい」

 ふう、とため息をついた。

「オーケー。シンジくんの口車に乗せられよう。それで、アダムはどうすればいい?」

「加持さんの力で極秘裏にネルフに運び込んでおいてもらえると助かります」

「難しいけどな。やってみよう」

「では、質問にお答えしましょう。加持さんは何の情報をお望みですか? 答えられる範囲で答えますけど」

「そうだな……まずはセカンドインパクトの正体」

 核心からついた。
 だが少年はまるで怯まない。

「ええ、いいですよ。どうせもう過去の話ですからね」

 そう言った少年の顔には、どこか哀愁が漂っていた。

 セカンドインパクト。かつて南極で起こったカタストロフィ。
 その正体は、加持の手元にあるアダム。それが全てだ。
 南極調査隊が見つけたアダムの成体。もしそのアダムと使徒が接触を起こしたら、地球全てが滅びを迎えることになる。
 だから、アダムを幼体、卵にまで還元することにした。
 その時のエネルギーが暴発し、南極の氷は全て溶かされた。
 それが、セカンドインパクトの正体。

「アダムを卵にまで戻す、か」

 自分の持っているものがセカンドインパクトの元凶だと知れば、それは不愉快になるのも仕方がない。

「だが、ゼーレはサードインパクトを起こすつもりなんだろう。つまり、補完計画を」

「そうです。人は誰でも心に隙間がある。それを埋めるために補完計画は行われる」

「その正体は?」

「十八番目の使徒である人間が、一つの個体になることです。そうすれば『他人』は存在しなくなり、全ての人間の隙間は埋められる」

「他人がいるから世界は面白いと思うんだけどなあ」

「そうですね。すれ違いや葛藤、哀しみ、そのかわりにある愛や充実感。一つになってしまえばどちらも失われます」

「達観しているな、シンジくん」

 とんでもありません、と軽く答えた。

「こう見えても加持さんより年下なんですから、そんな年寄りくさい表現はご勘弁ください」

「どう見ても俺より年下だが、君が見た目どおりの年齢には見えないな。五十年も百年も生きているかのように見える」

「それは言い過ぎですよ」

「褒めてるんだよ。俺が十四歳の頃はもっとやんちゃだった。もっとも、セカンドインパクトのごたごたでこうしていられるけどね」

 少年は何も答えなかった。加持も別に答を期待していたわけではない。

「さて、聞きたいことはそれで全部ですか、加持さん」

「まあ、聞きたいことはいろいろあるが、今のところは一番ほしい情報を得られて満足というところかな」

「じゃあ、今度は僕の番ですね」

 少年は微笑んだ。

「君に知らないことなんて何もなさそうに見えるけどな、碇シンジくん」

「僕にだって知らないことはたくさんありますよ。僕が知っているのは組織の目的だけですから。つまり……」

「つまり?」

「ゼーレの本拠地はどこなのか、ということです」

 加持は表情こそ変えなかったが、その雰囲気が変わったことは少年にも伝わっただろう。

「知らないのか」

「知ってれば聞きませんよ」

「そうか、残念だな。俺も知りたかったんだ」

「?」

「残念ながら、俺が知っているのはゼーレのいくつかの『支部』だけで『本部』の場所までは知らないんだ」

「……」

「あてがはずれた、って顔をしているな」

「ええ、正直はずれました。加持さんなら知っていると思ってたのに」

「それこそ期待過剰って奴だな。俺も君と同じで、知らないことはたくさんあるのさ」

「じゃあ支部で構いません。知っている限り教えてください」

「いいぜ。俺が知っているのは五箇所。日本の第二東京、アメリカのセントルイス、ドイツのハンブルグ、イギリスのヨーク、オーストラリアのシドニー、この五箇所だ」

「なるほど。具体的には?」

「あとで地図を渡すよ。急がないだろう?」

「ええ。とりあえず僕の頭の中に場所がわかればそれでいいですから。それともう一つ」

「なんだい?」

「議長キール・ローレンツ以外のメンバーを僕は知りません。誰がゼーレのメンバーなのか、知っておきたいです。確かキール議長を含めて全部で十二人いるはず」

「詳しいな。だが、俺も全体を把握できているわけじゃない。俺に接触しているのはキール議長をはじめとする何人かだけさ」

「人類補完計画を叩き潰したければ、頭を叩くのが一番早いですからね。キール議長はどこにいるかご存知ですか?」

「いや。いつも会うのは立体映像で、おそらくは本拠地から通信しているんだろうが、その場所まではわからない。十二人のメンバーが直接会うことはほとんどないという話だしな」

「じゃあ、各支部にゼーレの議員がいるということも……」

「充分ありうるな」

 少年の顔に思考の色がつく。ゼーレの拠点が一箇所だと信じていたのか、それとも加持の情報量が実はたいしたことがなかったのか、とにかく『期待はずれ』であることには違いないようだった。

(これでも情報通のつもりだったんだがな……)

 少年の前に出ると、それもあくまで『つもり』でしかないということを思い知らされた。
 ならば、情報は一つでも多く集めるだけのことだ。

「シンジく──」

 その時だった。
 船が激しく揺れ、外に大きな水柱が立ったのは。

「使徒が来たみたいですね」

 少年はゆっくりと立ち上がった。

「どうするつもりだい?」

「少しはアスカの手伝いができると思います。あの使徒をどうやって倒すかというね」

「さて、それじゃあお手並み拝見といくか」

「加持さんはその間に細工の方を頼みます」

「OK、引き受けましょう」





 ブリッジにやってきた少年だったが、戦闘は既に始まっていた。
 アスカの操る弐号機が、国連艦隊の船橋に立ち、使徒を迎え撃とうとしているのだ。

「葛城さん、状況は?」

 少年がやってくると、ミサトは顔をしかめた。

「こっちはB型装備。非常にまずい状態ね」

「無線を貸してください。アスカにアドバイスしますから」

「いいわよ」

 はい、と渡されるマイク席に少年は座った。

「アスカ、アスカ、聞こえる?」

『なによ! 集中してるんだから、邪魔しないで!』

「あそう。じゃ、使徒を倒すアドバイスもいらない? そうか、残念だな。せっかくアスカが初陣で勝利を挙げるチャンスだったのに……仕方がないな、急いでウイングキャリアーか何かで初号機を運んでもらうように葛城さんにお願いしようかな」

『アンタ、本当に意地悪いわね!』

「お褒めいただき恐縮だよ。で、聞く?」

『聞くわよ! さっさと言いなさい!』

「使徒の弱点はコアと呼ばれる赤い光球だ。少なくとも使徒表面にはそんなものはついてないね?」

『そうみたいね』

「だったらコアは使徒の体内にあるんだ」

『それで?』

「方法は二つ。使徒体内にエヴァが潜入してこれを破壊する」

『もう一つは?』

「エヴァじゃないものを使徒の体内にいれて、コアを破壊することかな」

『……なるほどね』

 遠まわしに言った少年の言葉をアスカは正確に読み取った。

『でも、いいの?』

「国連艦隊には葛城さんから話をつけてもらうよ」

『そうじゃなくて。これで勝ったら私の戦果よ。それでかまわないわけ?』

「ああ……まあ、かまわないよ、僕は。僕が今一番気にしているのは、アスカの無事だけなんだから」

『照れる台詞を言わないでよ。気持ち悪い』

「本当だよ。アスカがエヴァに乗る、乗らないは僕にとってはどうでもいいことなんだ。僕はアスカがほしい。強いところも弱いところも全部ひっくるめて、アスカが好きなんだ」

『二度と言わないで。虫唾が走るわ』

 アスカの顔は笑っていた。
 冗談のやり取りにせよ、自分と同じように頭が回る相手とのやり取りは楽しい。
 アスカはこのとき少年を『自分と対等』とみなした。

『一つだけ言っておくわ、サードチルドレン』

「なに?」

『エヴァンゲリオンのエースパイロットはアタシよ! それを忘れないことね!』

 そして通信が途切れた。





 水中に引き込まれた弐号機が使徒の口を開かせる。
 そ開かせた口の中に、無人の駆逐艦が二隻、突撃する。
 そして使徒体内で自爆し、コアを消滅させる。
 そうして第六使徒ガギエルは、徐々に体が崩壊していった。





「おかえり、アスカ」

 旗艦で出迎えた少年に対して、アスカは「ふん」と鼻を鳴らした。

「ま、アタシがちょっとエヴァを操縦すればこんなもんよ。アンタにはできない芸当でしょうけど」

「そうだね、僕にはできないよ」

 ? とアスカの顔に疑問符が打たれる。

「僕なら海に落とされる前に倒してしまうだろうからね。海に落ちて強引に口を開かせて駆逐艦を犠牲にするなんて芸当、僕にはちょっと無理かな」

「ああああああああああんたねえっ!」

「どうかした?」

「この作戦を思いついたのはアンタでしょっ!」

「僕はアドバイスしただけだよ。やるやらないの判断はアスカだったはずだよ」

「いいわ。ここで決着をつけてやろうじゃないの。勝負よ、シンジ!」

 少年は軽い驚きを顔に出した。

「……どうしたのよ」

「……いや、なんでもないよ、アスカ」

 少年は微笑んだ。

 はたして、彼女は気づいていただろうか。
 初めて彼のことを、ファーストネームで呼んだということに。








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