(う〜っ、なによなによなによなによなによっ! バカシンジのくせに、バカシンジのくせに、バカシンジのくせに〜〜〜〜っ!)
目の前で行われた戦闘。
自分の戦闘に対する認識。
傷つきながらも勝利を得て還ってきた少年。
(違う……)
敗北を認めてしまっている自分と、敗北を認めたがらない自分がいる。
残念ながら、今まで常に一番である自分と一番になろうとしている自分が同一のものであったアスカにとって、自分が二つに別れるということは初めての経験であった。
(バカシンジ!)
彼女がやってきたのは、シンジの病室であった。
勢いよくその扉を開いてやろうと思ったのだが、残念ながらその扉は既に開いていた。
そして、先にお見舞いに来ている人物がいることも、彼女には分かった。
(ファースト……っ!)
第拾弐話
霧氷の真意
「それで、碇君はどうするつもりなの」
綾波レイは三つ目のリンゴを果物ナイフで器用に剥いて、爪楊枝をさして皿ごと少年に渡す。少年は受け取ると、その一つを口に入れた。
「おいしいね。お見舞いありがとう、綾波」
「どうするつもりなの」
そして繰り返し尋ねる。少年は苦笑した。
「そうだね。アスカはきっと大丈夫。僕は、アスカがこの程度でくじける女の子じゃないと信じているから」
「でも、碇君は弐号機パイロットを追い詰めることばかり言っているわ」
「そうだよ。アスカはこのままじゃ駄目なんだ。パイロットとしても、人間としてもね」
(アタシが、駄目……?)
ドアの影に隠れて二人の会話を聞いていたアスカは、金槌で頭を殴られたかのような衝撃を受ける。
「綾波はパイロットとしての自分の限界に、気づいているだろう?」
レイは表情を変えなかった。
「結局、エヴァで戦うっていうことはシンクロ率をどれだけ高められるかが勝敗を分けるんだと僕は思っている。どんなに効果的な攻撃をするのであっても、シンクロ率が高くない攻撃には何の力もない。A.T.フィールドの中和、侵食もそうだし、エヴァのパワー・スピードも全てシンクロ率に影響される。綾波はどんなに努力しても、シンクロ率が70%、80%まで伸びることはない。それは綾波のせいじゃない。エヴァに搭載されているシンクロシステムの問題だから」
「そうね」
「その点、弐号機とアスカは違う。アスカはいくらでもシンクロ率を伸ばすことができる、恵まれた環境にある。でも、彼女の心が不安定では、伸びるものも伸びないんだ。だから僕は鍛えなければならない。どんな逆境にも耐えられるような戦士として」
「碇君は、弐号機パイロットを守りたいんじゃなかったの?」
「そうだよ。僕の言葉で彼女が成長するのなら、それも『守る』ための一つの方法なんだ。あくまでも間接的なものにすぎないけれどね。もちろん、最悪の場合は僕が彼女を命がけで守るけど。少なくとも──」
少年は口ごもった。
「なに?」
「……うん。このまま戦いを続けていけば、使徒はどんどん強くなる。そのうち、僕の力だけでは立ち向かうことができないほどの力を持つ使徒も出てくるだろう。そのときまでに、アスカには強くなってもらわなきゃいけないんだ。協力して使徒を倒すためにはね。綾波には荷が重いだろうから、サポートに回ってもらうよ」
「ええ」
「戦うという一点においては、僕なんかよりもアスカの方が百倍上なんだ。僕も負けないように努力はしているつもりなんだけどね。僕は彼女の戦闘能力は信頼している。だからその戦闘能力を充分に生かせることができるようにならないといけないんだ」
(信頼、ですって?)
アスカは混乱した。
パイロットとしては駄目だと言っておきながら、一方で信頼しているなどと言う。
自分を相手にしているのでない以上、それが本心であることは疑いようはない。
いったい、彼は自分に何を求めているというのか。
「私では、いけないの?」
「綾波」
「私が碇君の力になることは、できない?」
綾波の表情はいつになく真剣だった。
「綾波には綾波にしかできないことをやってもらうよ」
「私にしか、できないこと」
「そう。パイロットが三人いるなら、三人が三人とも前衛である必要はないんだ。バランスが必要なのさ。僕とアスカは使徒を倒すのが役割だ。綾波はその戦いの中で、僕たちの命を守ってもらわないといけない。あの第五使徒戦のときみたいにね」
「守る」
「そうだよ。僕やアスカに防御は担当できないんだ。性格的なものがすごい出るからね。僕も戦闘中に自分の身を守ることなんて考えられない。それがこのザマさ。相手を倒すことしか考えられないのが僕、相手を叩きのめすことしか考えられないのがアスカ。二人とも、性格的に攻撃担当なんだ。でも綾波は違う。綾波は戦局を冷静に見つめて、必要な処方薬を作ることができる。それはかけがえのない能力なんだ。僕らが生き残るためにはね」
「碇君」
「その意味では、僕は綾波のことを信頼しているよ。綾波が戦場にいるだけで、僕は随分と安心していられるんだ。第五使徒戦のとき、僕は過去四回の戦いの中で一番落ち着いて戦うことができたよ。それは綾波がいてくれたおかげだ。絶対に守ってくれると信じていたから」
「私はあなたを守ればいいのね」
「そうだよ。綾波にしかできない、僕にとっては何よりも大切な役割だと思っている。僕は死にたくないから。生き残るためには綾波に頼るしかない」
「分かったわ」
その話を聞き終わったところで、アスカは病室を離れた。
色々な意味で、衝撃は大きかった。
何より、彼女にとって一番ショックだったのは。
(アタシは、あいつほど使徒と戦うことを考えていない)
目の前に現れた敵を倒す。そればかりを考えていた。
どうやって倒すのかとか、倒した後のことだとか、倒すためには何が必要なのかとか、そんなことは自分で考えたことはなかった。自分は戦場にさえ出れば敵を倒すことができると考えてしまっていた。
それは、圧倒的な差だ。
戦闘に対する心構えが、天と地ほどに開きがある。
(アタシが劣ってるっていうの、あんな奴に)
ぎりっ、と歯を食いしばる。
(許さない。絶対に、負けない)
シンクロ率でも、戦士としても、今はあの少年に負けている。
だが、すぐに追い抜く。
自分は、エヴァのエースパイロットなのだから。
三日後、少年は退院した。
そして珍しくブリーフィングに顔を出す。綾波レイは嬉しそうに微笑み、アスカがからかうように話しかける。
「さて、三人ともそろったわね」
ミサトが席についた少年に「もう体は大丈夫?」と尋ねる。少年は机上で手を組んで「問題ない」と答えた。
「父さんの真似」
思わず吹き出すミサトとアスカ。綾波だけが目をしばたかせた。
「さて、退院してきたばかりだけれど、一応来週の動きを確認するわね」
「はいは〜い! 沖縄に四泊五日の修学旅行で〜す!」
アスカが元気に答える。その様子からすると、随分と楽しみにしていたようだ。
「ええ。アスカもレイも、たまにはパイロットという身分を取っ払って、羽根を伸ばしてらっしゃい」
「やったー! もう行きたいところ、たくさんあるのよねー!」
その様子を見た少年が苦笑する。だが、真剣な表情を崩さなかったのは綾波だった。
「葛城一尉」
「ん、なに?」
「碇君は?」
さすがに鋭い、とミサトは内心で綾波の認識能力を再評価した。
「シンジ君は行かないもの」
「へ?」
アスカが素っ頓狂な声を上げる。
「どうして?」
「だって、怪我してるもの。療養もかねて本部待機」
ミサトが平気な表情で言う。それを聞いた少年は思わず笑った。
「どうしたの、シンジ君」
「いえ、ちょっと僕が修学旅行に行けない理由が面白かったもので、つい」
二人のチルドレンが疑問符を浮かべたが、ミサトは逆に苦笑で返した。
「あのね〜。もともとシンジ君が怪我するのが悪いんでしょ?」
「私、行きません」
そのミサトと少年の会話に、綾波が突然割り込んだ。
「碇君が療養するなら、私が看病します」
「駄目」
だが、その綾波の意見は一発で却下された。
「たまには羽根を伸ばさせる。それが私たち作戦本部の一致した意見よ。言い換えると、あなたたちに学生としての本分を守らせるのも、私たちの仕事のうちなの。つまり、あなたたちが修学旅行に行くことは、仕事の一環だと考えてほしいの。分かりやすく言うとね、これは修学旅行に行ってきなさいという命令だから。拒否権は一切なし」
「横暴です」
「どうして? 怪我してるから行かせないって言われたシンジ君が怒るなら無理もないけど、レイは修学旅行に行けるからいいじゃない」
「碇君がいないなら、どこに行っても私には意味がありません」
さすがにそこまで素でラブコールされると、ミサトもアスカも顔が引きつる。
「綾波」
やはりここは、彼氏の出番であった。
「僕のかわりに、沖縄に行ってきてくれないかな。それで、たくさん土産話を聞かせてほしい」
「碇君」
「頼むよ」
「………………………………………………………………(10秒経過)
………………………………………………………………(20秒経過)
………………………………………………………………(30秒経過)
………………………………………………………………(40秒経過)
………………………………………………………………(50秒経過)
………………………………………………………………(1分経過)
………………………………………………………………(1分10秒経過)
………………………………………………………………(1分20秒経過)
………………………………………………………………(1分30秒経過)
………………………………………………………………(1分40秒経過)
………………………………………………………………(1分50秒経過)
………………………………………………………………分かったわ」
たっぷり二分考えてから、ようやく綾波は了承した。
「とはいっても、もし使徒が現れたなんてことになったら、待機させてあるジェット機で東京まで緊急に戻ってきてもらうから」
「当たり前よ。逆に呼ばなかったら怒るわよ」
「ダイジョブダイジョブ。そんなうまい具合に使徒が出るわけないんだから。じゃ、二人はもう上がっていいわよ。シンジ君は少しだけ残ってちょうだい」
「OKです。綾波、少しだけ待っててくれるかい?」
コクリと頷く綾波に、少年は軽く微笑みかけた。
そして二人が出ていくのを見届けてから、ミサトが大きく息をついた。
「やれやれね〜。ま、アスカはともかくやっぱりレイは抵抗したわね」
「本当なら、僕はアスカの方がもっと抵抗すると思っていました。葛城さんに感謝ですね」
「で、本当にシンジ君はこれでよかったの? せっかくレイにアスカと南国でハーレムできるのに」
「それは心外ですね。僕が二人をはべらせているように見えるんですか?」
「それ以外の何にも見えないと思うけど」
おかしいなあ、と少年は苦笑しながら言う。
事の発端は、先日の少年からの『条件』だった。
二つ目の条件として少年が提示したもの。それは、綾波とアスカを修学旅行へ行かせること、だったのである。
正直、作戦担当として最初はミサトもそれを呑むのはしぶった。だが、かわりに自分が待機するからということで、なんとか治まったのだ。
確かに少年一人いれば、アスカと綾波はいなくとも──と言うと語弊があるが──たいした違いはない。今までも少年一人の力で勝ってきたようなものなのだ。万が一のときは少年が使徒を足止めし、その間に二人を呼び戻せばいいのだから。
「でも、シンジ君は修学旅行に行きたくないの?」
当然の質問はリツコから出た。
「沖縄ですよね? 行きたいとは思いません。これが石川か京都っていうのなら話は別ですけど」
「しぶい趣味ね」
「趣味が洗練されている、と言ってください」
だが、綾波は少年と一緒にいたがるだろうし、アスカは少年一人だけ残して自分ばかり修学旅行には行っていられない、と当然言い出すだろう。
そこでミサトには彼女たち二人に対して、これは命令だから必ず行きなさいと指示してほしいということを付け加えたのだ。
綾波の方は最悪自分が説得し、アスカも命令という言葉を使えば逆らうことはできないだろう、ということを見越しての上でだ。
病気療養というのは、おそらくこの数日の間でミサトが考え出した『口実』だろう。そう言えばアスカが『それなら私も残る』と言い出さないだろうと判断した上でのことだ。
「でも五日間、シンジ君はレイといちゃいちゃできないのよ?」
「そうですね。かわりにマヤさんでも家に呼ぼうかな。一人だといろいろ不便ですし」
「こら」
「冗談ですよ。それで、シンクロテストの件ですけど、二人が沖縄に行っている最中に行うということでお願いしたいんですけど」
「それはOKよん。いつでもできるようにスタンバッておくわ」
「ありがとうございます。それから──」
少年は真剣な表情に戻った。
「最後の『条件』ですけど、どうなりました?」
ミサトは顔をしかめた。
「ちょっち、難航してるわ。もしかしたらかなえられないかもしれない」
そうですか、と少年は答えた。
「了解です。ま、あまり期待しないことにしておきます。それでは」
「ええ。お疲れ様」
そう言って、二人は別れた。
少年が出した最後の条件。それは、S2機関搭載実験の凍結という、とんでもない内容だった。
「……その話をどこで聞いたの、シンジ君」
さすがのリツコもそればかりは顔色を変えていた。最重要機密として、アメリカ第一支部で極秘開発していたS2機関の情報をどうやって入手したというのか。
「地獄耳と呼んでください」
「でも、それは正直言って難しいと思うわ。私の一存で決められることじゃない、あれはあなたのお父さんの管轄よ」
「で、しょうね。それじゃあどうしようかな」
「もったいぶらないで、シンジ君。あなたの考えはだいたい読めたわ」
「と言いますと?」
「先に解決不可能な課題を提示して断らせておいて、本来の要望を伝える。古典的な手法ね」
「さすがに心理学を学習している人は違いますね。まあ、僕も最初からS2機関の問題は無理だと思ってました。まあ、S2機関がどうなろうと僕には関係ありませんからね。どうせ今開発しているS2機関が初号機に搭載されることはありえない」
「それはどういう意味?」
「開発は失敗するっていう意味ですよ。S2機関を人の手で制御することは不可能ですからね」
「随分、分かったような口をきくのね」
「そのうち、現実になりますよ。まあ、それはともかく、本題の条件にいきましょうか」
リツコは少年に気づかれないように苦虫を噛みつぶす。
「僕の本当の望みはたった一つ。ダミープラグの初号機搭載を防いでほしい、ということです」
「──どうしてそこまで知っているの?」
リツコの表情はいっそう険しくなる。
「知っているかどうか、というのはたいした問題じゃないんですよ。ようはそれが可能かどうかです。ダミープラグの開発はこの本部で行われている。赤木博士の気持ち一つで開発を進めるのも遅らせるのも自由自在でしょう。それこそ、父さんにばれることなくね」
「無理よ」
「可能です。開発の進行状況がうまくいかないという報告を父さんに一本入れるだけですみますから」
「そうしたら、その原因を報告しなければならなくなるわ」
「そのあたりはまかせます。とにかく僕の目的は、ダミープラグに乗っ取られることなく、自分の手で使徒を殲滅することですから」
「ダミープラグがなくても使徒を倒せるということ?」
「逆です。ダミープラグでは使徒は倒せません。一度使った段階で、エヴァの中にあるコアがダミープラグを拒絶するようになります」
「……なるほど」
リツコはしばし思索する。
少年が何を言っているのか、リツコにはよく分かっていた。
コアの中に封じ込められたユイの魂が、ダミープラグを拒絶するということだ。
「了承していただけますか?」
「難しいわね。それに、あなたの目的もよく分からない」
「人間の行動に目的が必要なんですか?」
「理由のない行動はなくってよ」
「じゃあ逆に聞きますけど、赤木博士や葛城さんの目的はいったい何なんですか? どうしてネルフで使徒を倒すために戦っているんですか?」
二人とも口をつぐんだ。
確かに、二人ともに理由はある。あるが、そんなことは口に出して言うようなことではない。
「つまり、そういうことです」
少年は話をしめくくった。
「ったく、掴みどころのない奴」
出ていった少年に毒づく。
いったい彼の狙いは何だというのか。
自分ですら全く知らされていなかったS2機関、ダミープラグというユニットの開発を、かなり深いところまで彼は知っているようだった。
親友のリツコですら自分に隠しているという事実。
「ま、それはおいおい明らかにしていけばいいか」
この五日間が勝負。
レイやアスカがいない間に、彼の秘密を探り出す。
(そうか、うってつけの奴がいたわね)
アスカのお目付け役としてここに来ている彼ならば、少年の調査に手を貸してくれるはずだ。
「それにしても、残念だったわね〜シンジ♪ ま、アンタの分もこのアタシがたっっっぷり遊んできてあげるから、安心しなさい」
少年は苦笑して「ああ、頼むよ」とだけ答えた。
「私は碇君と──」
「はいはいはいはい。分かったからそれ以上言わなくていいわよ」
発言しかけた綾波の口を強引にふさぐアスカ。
「二人とも、お土産を期待しているよ」
「シンジには沖縄の砂、っと」
「……随分、日本のことに詳しいんだね、アスカ」
「日本人は形から入るからって、ミサトが教えてくれたのよ。それにしても、日本人って変よね。砂なんか記念に持ち帰ってどうするの? 邪魔なだけじゃない」
「確かにね。でも、それは証なんだよ」
「アカシ?」
「自分が確かにそこにいた、っていうね。もっとも旅行の度に持ち帰る人っていうのは少ないと思うけど」
というよりも、セカンドインパクト以前に行われていたスポーツ行事の記念イベントみたいなものなのだ。ミサトの方がわざと誤った知識をアスカに植えつけたのだろう。
「そうなの? じゃあ、シンジは何か欲しいものがある?」
「アスカと綾波が元気に帰ってきてくれて、何をしたのかを教えてくれればそれが一番だよ」
「そんなのは徹夜ででもしてやるわよ! もう、家決まったんでしょ?」
「うん。入院中に加持さんから新しい家を教えてもらったんだ。だから今日からっていうことになるかな。アスカの部屋も用意してあるから、いつでも来てよね」
「考えておくわ。ミサトと暮らしてたら、いつかアタシもああなりそうで怖いわ」
「家事は誰がやってるの?」
「ミサトにできると思う?」
「じゃあ、アスカが?」
「料理はしてないわよ。でも掃除と洗濯くらいはね」
「へえー……」
本当に見直した、という目で少年が見つめたので、アスカは少々機嫌を悪くした。
「何よ。アタシが家事してたらヘン?」
「そんなことないよ。アスカはエプロン姿も似合うと思うよ」
さすがに褒められたら悪い気はしないのがさすがに女の子だ。
「ま、そのうち料理もできるようになってみせるから、そんときはアンタにも食べさせてやってもいいわよ」
「期待してるよ」
「それじゃ、アタシこっちだから。あ、それからシンジ。一つ言い忘れてた」
「うん?」
「アタシはアンタに守ってもらわなくたって充分強いんですからね! そこんとこ忘れないように!」
それだけ言い残すと、アスカは一目散に走り去っていった。
「やっぱり、聞かれてたみたいだね。誰かいるような気はしたんだけど」
綾波は特別何も答えず、ただ黙々と歩いた。
「綾波はそんなに修学旅行に行きたくないかい?」
ぴたりと立ち止まった綾波が、真剣なまなざしで少年を見つめる。
「碇君は行きたかったの?」
「僕にはちょっと行けないかな」
「行けない?」
どういう意味かと綾波がリフレインする。
「僕は使徒のことばかり考えているからね。修学旅行に行っても落ち着くことなんかできないよ」
「私は碇君と一緒にいたい」
「分かってる。でも、今回は綾波に行ってきてほしいんだ」
「何故?」
「綾波に、エヴァやネルフ以外の世界をもっとたくさん見てほしいからさ。使徒との戦いが終われば僕らは用済みになる。綾波はこの世界のことをあまりよく知らないから、もっと勉強してほしいんだ。修学旅行はその点、いい刺激になるよ。そういえば私服はあまり持っていなかったんだよね。次の日曜日に一緒に買いに行こうか」
ぱっ、と顔がほころぶ。少年と一緒に出かけることができるということが、彼女の機嫌を回復させたようだ。
「ま、沖縄なんてジェット機なら一瞬だからね。もし使徒が出たならすぐに呼び出されるだろうし、まあ今回にかぎってはそんなことはないと思うけど」
「本当に?」
綾波は今の少年の言葉に何か引っかかるものを覚えた。
確かに自分たちは使徒と戦うパイロットだ。だが、都合よくこの修学旅行期間に現れるなどとは普通考えない。使徒の出現感覚は第三使徒以来、週単位で出てくることはない。
だが、それを考えるなら第七使徒との戦いの後、既に数日が経過している。この旅行期間に現れるということはなきにしもあらずだ。
「私は邪魔?」
もし使徒が来るということを少年が知っていて、それで自分たちを遠ざけているのだとしたら。
そんな思いが彼女にそう発言させた。
「まさか! 僕の言い方が悪かったのなら謝るよ。僕だって綾波と一緒にいたい。でも、それ以上に綾波には僕がいなくても一人で暮らしていけるだけの力を身につけてもらわないといけない。もちろん、綾波を一人にするつもりなんてないけど、綾波がもっと社会に適応していく必要は絶対にあるんだ」
珍しくあわてた様子の少年に、綾波は今の自分の考えが杞憂であったと判断する。もし使徒との戦いで自分が足手まといで、邪魔だと本気で考えているのなら、もっと違う言葉が出てくるはずだろう。
「さて、そうしたら今日は引越し記念もかねて、少しご馳走を用意するよ。綾波は何か食べたいものがある?」
「別にないわ」
「うーんと、じゃあいくつかレパートリーあげるから選んで」
「……碇君が決めていいわ」
すると少年は首を振った。
「綾波に考えてほしいのはそういうところだよ。主体性がないんだ。今まで命令されてばかりきたから仕方のないことだとは思う。でも、これから綾波がこの世界で生きていくためには、自分から決めるということが絶対に必要になってくるんだ。修学旅行に行ってきてほしいのも、それが理由なんだよ」
「でも」
「でももストもなし。それじゃ、この中から決めてね」
少年は次々に料理の名前を口にしていく。だが、結局綾波がその中から一つを選び出すことができたのは、ようやく新居の玄関にたどりついたときだった。
それでも、大きな前進だと言うべきだろう。
「あ、ヒカリ?」
葛城家に戻ってきたアスカはちょうどかかってきた電話を取って相手を確認した。
『アスカ、お帰りなさい。随分遅かったわね』
「そうでもないわよ。いつもと同じくらい。今日はちょっと早かったかな」
時間は午後七時。まだ空もほんのり明るさが残っている時間帯だ。八時、九時が当たり前の世界でこれだけ早く帰れるのはめったにないことだ。
「で、どうしたの?」
『あのさ、日曜日なんだけど、暇かな』
「ん〜と、一応ネルフからは修学旅行の準備っていう名目で一日休みをもらってるけど?」
『それならさ、ちょっと付き合ってくれない? 私、まだ買い物とか全部終わってなくて』
「もちろんOKよ。アタシもまだ少し足りないかなって思ってたんだ」
『よかった。一人じゃなかなか決められないことも多くって』
「水着とか?」
『そうそう!』
「で、ヒカリはいったい誰に水着を見せるつもりなの?」
『だっ、そ、そんな人いないわよ!』
くすり、とアスカは笑う。
アスカはあまり友人を作らない。ドイツにいたころもほとんどクラスメイトとは口をきかなかった。
同世代の子供など、相手にする気にもなれなかったというのが正しい。
憧れと妬みはさんざん受けてきた。それ以外の感情を受けたことなどない。
だが、日本にはそれ以外の感情を向けてきた相手が二人、いや三人いる。
一人がこのヒカリだ。ヒカリは最初からアスカを特別扱いしたりなどしなかった。対等の友人として接してきた。
アスカの知識量にもついてこられるくらい、頭のキレもある。
何より、話題が豊富だ。アスカを飽きさせないほどにいろいろな情報を提供してくる。もちろん政治・経済という分野ならアスカの方が数段上手だ。だが、ことエンターテイメント、つまりゲームや本、雑誌、ファッション、音楽、映画、いろいろな情報をアスカに教えてくれる。
「ねえ、ヒカリ」
突如、真剣な声でアスカは尋ねた。
『なに?』
「ヒカリはさ、どうしてアタシなんかと友達でいてくれるの?」
正直、自分を友達にしてもいいことといえば『自分はアスカの友達だ』と自慢できるくらいのものだろう。自分は相手に何も還元しない。楽しませてやることもできない。そしてヒカリはそんな自慢をするようなタイプじゃない。
『どうしたの、突然。私が友達だと、アスカが迷惑?』
「そんなことないわ。その反対よ。アタシが友達だとヒカリが迷惑じゃないかなって」
『アスカは私のことが迷惑じゃないのね?』
「当たり前じゃない」
『私も、同じよ』
電話の向こう側で、くすっと笑った。
『アスカもそういうこと気にするんだ。けっこう可愛いんだね』
「どういう意味よ」
『だって、いつも自信たっぷりで、くよくよしたりしないようなイメージがあるから』
「やっぱりそう見える?」
『少しね。でも、私が声をかけたのも、きっとそうじゃないんじゃないかなと思ったからだし』
言っている意味が分からない。どういう意味かと尋ねなおす。
『前に、シンジ君に言われたことがあるの。友達になるためには覚悟が必要だって』
「覚悟?」
『そう。シンジ君の言っていることは正直よく分からないけど、でも私は決めたのよ。アスカの友達になろうって。だってアスカって、うちのクラスに来てそうそう問題起こしたじゃない?』
「あ、あれは……」
『自分勝手なところがあるのなら、私が緩衝材になることができるはずだと思って、それで思い切って声をかけてみたの。もしそれが迷惑だったっていうのなら……』
「迷惑なんかじゃないわよ。正直、ヒカリには感謝してる」
『よかった』
本当にほっとしたような様子が受話器の向こうから読み取れた。
(そっか、みんな同じなんだ)
何か、革命的な事実にアスカは気がついたような感じがした。
他人に嫌われたくない、好きな人に好かれたい。
そんな、ごく当たり前の感情。
「ヒカリ」
『なあに?』
「今日電話くれて、ありがと」
『どういたしまして。それじゃ、日曜日にね』
「うん」
アスカは答えて受話器を置いた。
それから、ふと考えた。
(あと二人)
今までになかった感情をぶつけてくる相手のことを考える。
一人は自分に対して徹底的に無関心な態度を取るアルビノの少女。
もう一人は自分を子供扱いするかのような態度を取る黒髪の少年。
(一緒に暮らす、か)
友達になるには覚悟がいる、と少年が言った。
(悪くはないかもしれないわね)
少なくとも、あの二人は自分を特別扱いしない。
アルビノの少女の方は正直自分を毛嫌いしている節があるが。まあ、少年を取られると思って防衛本能が働いているのだろう。自分にはそんなつもりは毛頭ないのでこれは問題ない。
問題は、少年の方だ。
(いったい何を考えているのかしら)
前に話をしたときは全てを明らかにすることはできなかった。
だが、一緒に暮らしていれば少しは見えてくるものがあるかもしれない。
(少し、本気で考えてみよう)
この時点で、アスカは既に少年の魅力に取り付かれていた、と言っても過言ではなかっただろう。
拾参
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