「エヴァで使徒を受け止める!?」

 さすがにその話を聞かされたアスカは愕然とした。
 あまりにも巨大な質量を持つ敵。それを倒すには、落下してくる使徒を受け止め、A.T.フィールドを中和し、そしてプログナイフを突き立てる。それしかない。

「成功の可能性はあるんだ。ただ、あまりに大変だというだけでね」

「大変なのは分かるけど、そんなにデカイの?」

「直撃したら、富士五湖が一つになって太平洋とつながるよ」

 苦笑しながら少年は言う。

「残念ながら、僕にはこの倒し方以外に方法を知らない。もう少し僕にA.T.フィールドを自在に操るだけの力があれば、別の方法もあるんだけど」

「別の方法?」

「うん。たとえば空中で使徒を撃退する、とかね」












第拾伍話



信じています












「本日わたくし霧島マナは碇シンジ君のために、本日朝六時に起きてこの制服を着てまいりました! どう、似合う?」

 突然の転校生の登場は、少なくとも二人の女生徒を不快にさせ、その他大勢の生徒たちを興味の渦に陥れた。
 これほど積極的に少年に近づくのだ。アルビノの少女は明らかに不満オーラを撒き散らしていたし、天才少女の苛立ちは半径二メートル以内に誰も近づけさせなかった。

「マナ」

 しばらくして、少年が彼女の名前を口にする。いきなりのファーストネームだ。
 二人の少女から、ぴしっ、という音が確かに聞こえた。

「少し、話せるかな」

 だが、二人がもう少し冷静なら少年の表情が少しも和らいでいないことに気づいただろう。少なくともクラスの生徒はそのことが分かっていた。アスカと話しているときの楽しそうな少年の姿と、レイと話しているときの優しそうな少年の姿。だが、霧島マナという少女と話しているときはそのどちらも存在していなかった。

「いいけど、ここじゃ駄目なの?」

「かなりこみいった話になるからね。屋上にでもいこうか。ここはギャラリーが多すぎるから」

 そう言って不機嫌そうに教室を出ていく。待ってよ、と音符でもついているかのような声を残してマナがそれを追った。
 少なくともこれで、嵐の元凶は去った。
 問題は、嵐そのものがまだ教室の中に残っているということだった。
 ばきっ、と鈍い音がする。

「あら、このシャープペンシル、寿命だったみたいね」

 天才少女はストライクでゴミ箱へそのシャープペンシルを放り投げた。





「で、話って何かな?」

 誰もいない屋上──もちろん、誰にも聞かれないためにここを選んだのだろうが。

「別にたいした話じゃないよ。戦略自衛隊は僕から何の情報を手に入れようとしているのかを確認したかっただけ」

 マナの表情は変わらなかった。

「え〜っと、言ってることがよく分からないんだけど」

「戦略自衛隊が整備した特殊チーム。詳しい名前は忘れたけど、子供たちだけのロボット運転のためのチームがあるだろ。その中で二人の脱走者が出た。確か、ムサシとケイタ。苗字までは覚えてないけど」

 今度こそ、マナは完全に青ざめた。
 自分が目的をもって少年に近づいているということを、最初から少年は分かっていた。

「ま、安心していいよ。ネルフはまだそのことを知らないから」

「私を、どうするつもり」

 マナの表情は真剣そのものだった。

「取引しないか」

「取引?」

「そう。君が知りうる限りの戦略自衛隊の情報を流してほしい。そのかわり、僕のできうる限りで協力をしてもいい」

「協力?」

「君とムサシ、ケイタの三人をネルフで預かろう。そのかわり、戦自の情報を全てネルフに流す。もっとも、君たちの知っている情報くらい、ネルフはおさえているだろうけど、体験者の話はネルフにとって有益だろうからね」

「でも──」

「どのみち、このまま君が戦自に協力したとしても、ムサシとケイタは助けられない。何故なら、軍隊での逃亡は──」

「やめてっ!」

 マナが俯いて、肩を震わせる。

「選ぶのは君だ。僕はどっちでもいいけどね。でも、僕から持っていける情報では戦自は何も得るものはないよ。君が戦自と運命を共にするっていうんならかまわないけど」

「待って」

 マナは少しも笑顔を見せず、真剣な表情で少年を真っ直ぐ見つめた。

「ムサシとケイタは、助けてくれるの?」

「戦自よりも先に見つけることができればね。それこそ、君からムサシとケイタを説得してくれればいい。戦自のロボットなんて、どうせたいした戦力にはならない。少なくともネルフの敵にはならないよ」

「それは──」

「自分がもともと居た場所をかばいたい気持ちは分かるけど、これは現実だから。試してみるかい? 戦自の通常兵器で一度たりとも倒せなかった使徒、それを倒したエヴァンゲリオンの力がどれほどのものなのか、見せてあげるよ」

 少年の言葉は徹底的にマナを抉っていた。
 マナは決して自衛隊を好いていたわけではない。だが、戦自を徹底的にけなされたなら、かばいたくなる心情もそれなりにあるのだ。
 しかも、自分たちはロボットを動かすことができるエリートとして育てられた。そのロボットが無能呼ばわりされたのでは、今まで自分たちがしてきたことは何だったのか。

「シンジ君」

 マナの様子が変わった。
 殺気を帯びた、といえば分かりやすいだろうか。

「やる気? 僕は強いよ」

「シンジ君の言葉が正しいかどうかを確かめたいの。受けてくれる?」

「怪我をするよ」

「いくわよ」

 マナは俊敏に動いた。
 これでも戦自の戦闘訓練をくぐりぬけてきたのだ。そしてパイロット候補というところまでやってきていたのだ。当然、並の実力であるはずがない。
 何年も何年も、ただ戦うことだけを学んできた。
 それが、たかが数ヶ月前に初めて戦闘訓練を行っただけの少年に負けるはずがない。
 マナの中に油断があったわけではない。むしろ全力で叩きのめし、この口だけ少年を黙らせてやるという意気込みがあった。

「甘いよ」

 だが、少年はそれより早く動いた。
 何でもないノーモーションから少女の横につき、体当たりでバランスを崩しておいて、足を払う。
 正面から倒れた少女の背に乗ってその上に乗った。

「オ・ルヴォワール」

 少年はその首に手をかけた。
 ──もちろん、力を込めたりはしないが。

「まいったわ」

「分かってくれて嬉しいよ」

 少年は立ち上がって、マナに手を貸す。
 その瞬間を狙って、マナは仕掛けようかと思った。
 だが、やめた。
 それをやっても、かなわないという何かを少年から感じたからだ。

「へえ」

 その様子を見取った少年は感心したように言う。

「なに?」

「よく今仕掛けなかったなって思って。返り討ちにするところだったんだけど」

「勝てない相手に歯向かうほど馬鹿じゃないのよ」

 潔く少年の手を取り、立ち上がる。

「ああもう、朝六時に着てきた制服が汚れちゃった」

「それは本当なの?」

「そうよ。上からはシンジ君を色仕掛けででも落としてこいって言われてたんだもの。メイクにだって気を使うわよ」

 ふうん、と少年はつまらなさそうに答える。

「マナに色仕掛けをさせるなんて、無駄な行為だね」

「それって、私に色気がないっていうこと!?」

 女の子としては当然の怒りだったが、少年は首を振った。

「逆。色仕掛けをするまでもなく、マナは充分に綺麗だっていうこと。たとえマナが何を目的にしていようと、僕のことを何とも思っていなかったとしてもね」

「ちょ」

 素で言われては顔を赤らめるしかない。不意をつかれて完全に照れてしまったマナには、もはや反撃の余地はなかった。

「もう、シンジ君、ズルイ!」

 右手で叩く振りをするマナに、少年はようやく微笑んだ。





 ──そして、二人仲良く帰ってきた様子が教室内にトルネードとブリザードをもたらすことになるのだが、それはまた別のお話。





 少年の提案は、ネルフ上層部に簡単に引き受けられた。
 ただし、少年とマナは最後に司令室まで呼び出され、その意思確認を行うことが条件として課された。つまり、総司令碇ゲンドウが最後の障害というわけだ。
 その話を聞いている間もアスカとレイは始終不機嫌そうだった。しかも少年とマナが現在まさに司令室に呼び出されているのだから、不満の捌け口がないというのも問題だった。

「それにしても、シンちゃんやるわね〜」

 ミサトの心無い一言が、さらに二人の機嫌を悪くする。だがそんなことも無視してリツコがその口車に乗った。

「そうね。戦自の人間を引き込めるのは悪いことではないわ」

「あちらさんは名誉にかけて攻撃してくるかもしれないわよ?」

「そうはならないでしょうね。何しろ戦自が少年兵を使っていることを公にされてしまうおそれがあるもの」

「なるへそ」

 話が進めば進むほど苛立ちがつのる二人だ。もしかするとこの意地の悪い三十路と三十路手前コンビは二人の様子を面白がっているのかもしれない。

「そういや、あの子、これからどこに住むのかしらね」

 確かにそうだ。ネルフに転向したとなれば、今までの住居はもう使えないだろう。

「まあ、うちで引き取ることになれば彼女の安全をふまえて戦自と裏取引があるでしょうけど、住居は必要ね。ま、ネルフ本部で寝泊りするのはかまわないわよ?」

「もしかしてシンちゃん、例の新居に連れ込むつもりかな?」

 ミサトの何気ない一言は、ついに二人を爆発させた。

「ぜっっっっっったいに御免よっ!」

「……あそこは、私と碇君の家」

 もともとアスカと同居することからして嫌がっていたレイは、これ以上邪魔な人間が増えるのは御免こうむりたかった。

「一号さんと二号さんに加えて、三号さんかあ」

「誰が二号さんよ!」

 少しは自覚があるらしい天才少女が怒鳴りつける。

「まあ、このままいけばシンジ君の家に決まるでしょうね。少なくとも彼はそう思っているのではなくて?」

 リツコが締めた。そう、結局は身柄の保護ということになれば少年がどう考えるかが全ての鍵を握っているのだ。





「戦略自衛隊の少年兵三名をネルフで引き受けることにメリットは何もない」

 だが、案外障害は大きかった。ネルフの最高責任者がこの問題に『ノー』と言ったのだ。
 とはいえ、わざわざ少年とマナを呼び出して本人たちに言いつけたのだから、それには裏があるというべきだろう。

「で、父さんはどういうメリットを期待しているわけ?」

 本題に入る。要するに、これは交渉なのだ。
 少年は三人の身柄保護を求める。そのかわりに何を差し出すのかと。

「簡単なことだ。レイを返せ」

「返したって、もう以前の綾波じゃないよ。僕が教育した。もう綾波には感情がある。残念だけど今の綾波でどんなダミープラグを作ってもエラーが出るだけだよ」

「それはお前の知ったことではない。とにかくレイと引き換えだ。それ以外の交換条件はない」

「悪いけど父さん、母さんに会いたいんだったら僕をエヴァからおろすべきじゃない。父さんの補完計画にはもう、綾波では成功しないんだ。つまり、綾波を父さんが引き取っても、父さんは母さんには会えないんだよ」

 サングラスの向こうで、ゲンドウの目が光る。

「なるほど」

 冬月は冷や汗をかいていた。こういうときの碇ゲンドウという男は、ロクなことを考えない。
 自分の決めたことは、必ずやりとげる男だ。それがどんな手段、どんな方法であれ。

「そのかわりと言ったらなんだけど、父さん。こういう条件ならどうかな」

「言ってみろ」

「父さんの補完計画に協力する、というのでは」

 ぴくり、とゲンドウが反応した。

「どういうことだ」

「父さんがそこまでして母さんに会いたいっていうのなら、僕が協力するよ。補完計画を行うといい。父さんの補完計画は、別に人類を巻き込まなくたってできるはずだ。父さんは人類が一つになることを望んでいるわけじゃない。父さんは父さんの心の補完がしたいだけ、つまり母さんを取り戻したいだけなんだろう? だったら、僕とエヴァ初号機を使えばいい。その協力はするよ」

「それはどういう意味か、分かって言っているのか」

「多分ね。ゼーレと敵対する。そういう意味だと思ってるけど」

「そこまで知っているのなら話は早い。奴らの補完計画はつぶさねばならん。それはユイの望みでもある」

「母さんの望みなんだから、子供の僕が承知しないはずはないだろう? 最初から僕はゼーレとは戦うつもりだったよ。ただ、僕の立場と父さんの立場は若干異なる。共同戦線を張ることはできるけど、最終的には仲たがいするだろうことも分かってはいるんだ。あまり同盟は組みたくないけど、この際しょうがない」

「その娘にそれだけの価値があるというのか?」

 少年は隣のマナを見る。彼女は既に何の話をしているのか、よほど高度な次元で話をしているということだけは分かっていたようだったが、それ以上は理解できなかった。

「父さんは母さんを助けたいんだろう? 僕にも助けたい人がいる。綾波がそうだし、アスカがそうだ。そして、それがマナもそうだったっていうだけのことだよ」

「女の敵だな」

「父さんには負けるよ。赤木博士とはどう決着をつけるつもりなの?」

 そんなことを言われても全く動じないあたりがゲンドウであった。

「よかろう。お前がそれを交換条件にするのなら文句はない。だがシンジ、もう一つだけ情報を提供するならだ」

「僕で答えられることなら」

「お前は何者だ?」

 マナが少年を見つめる。少年は驚いた様子だった。

「どういう意味だい?」

「そのままの意味だ」

「ええっと、碇シンジ、十四歳。エヴァンゲリオンを操ることができる中学二年生だけど?」

「聞いているのは器の話ではない。中身の話だ」

 少年は眉をひそめる。

「と、言われてもね。碇シンジは碇シンジだよ。それ以外の何者でもない」

「一つだけ、推論を述べさせてもらおう」

 ゲンドウのサングラスが光る。

「お前は、未来のシンジか?」

 ぎょっとした様子でマナが見つめる。思わず少年は吹き出していた。

「いつから父さんはファンタジー小説家になったの?」

「用意された答か。まあいい」

 ゲンドウは冷静に答えた。

「三人の身柄をネルフで保護しよう」





「……で?」

 テーブルを挟み、ものすごく不機嫌そうな天才少女を前にして、少年はたおやかに微笑む。

「ええっと、霧島マナです。今日からよろしくお願いします」

「んなこと聞いてんじゃないわよ! どうして! アンタが! ここにいるのかってことよ!」

 ──結局、マナは少年が引き取ることになった。
 戦自との取引が進められることになってはいたが、まだ完全に自由の身になったというわけではない。マンションの周りには多数の黒服が取り巻いていた。
 それでも、このマンションの中は平和で安全で、しかも痴話げんかをしてもそれが外に露見する心配もない。

「マナもこれからここで暮らすことになったんだよ」

「というわけなんです」

「何が、というわけ、よっ!」

 とにかく不機嫌なアスカだったが、もともと彼女には怒る権利などない。立場的にはここに住まわせてもらっているということになるのだから。
 むしろ強引にこのマンションまで連れられ、既に少年抜きには生きていくことすらできないレイの方が不機嫌度は千倍高かっただろう。
 彼女が何も言わないのは、アスカの方が先に口にしているのでレイは口を挟む暇がないという、ただそれだけの理由だ。

「だいたいその女、戦自のスパイなんでしょ!?」

「もうネルフに転向しました」

「簡単に寝返る奴を信用できるわけないでしょ!」

「はいはい、ストップ」

 少年は口論をやめさせる。

「悪いけど、ここは家主の強行手段を取らせてもらうよ」

「なんですって」

「ここは僕のマンションだから。僕が決めた人しか住まわせるつもりはないし、逆にここに住んでいる以上、僕の意見には従ってもらうよ」

 すると、突然レイが椅子から立ち上がった。
 どうしたのか、と三人の目がレイに向けられる。
 レイは少年の傍に立った。
 次の瞬間。

 ぎゅううううう〜。

 と、力強く少年を抱きしめていた。

「ちょっと、綾波」

「ああっ、綾波さん、ズルイっ!」

「何やってんのよファーストッ!」

 だが、レイはそれでも少年を抱きしめる腕を解こうとせず、ただ少年を抱きしめ続ける。
 まるで、渡さないとでも言っているかのようだ。いや、実際その意思表示なのだろう。
 逆にそれを見たマナが、うらめしそうに少年を見つめる。

「悪いけど綾波、そろそろ離してくれないかな」

 駄々っ子をあやすようにして、少年はようやく腕を解いたレイの頭を撫でる。

「別に誰がここに住むようになっても、僕の綾波への気持ちも、アスカへの気持ちも、マナへの気持ちも変わるわけじゃない。だから、綾波も安心していい」

 コクリ、と頷くレイ。まさに子供だ。

「というわけで、さくさくご飯を食べちゃおうか」

 はあ、とアスカはため息をついた。

「アタシ、今日はいらないわ。なんだか気が抜けちゃった」

「駄目」

 だがそれを少年は素早く却下する。

「どうしてよ」

「家族はそろってご飯を食べるものだから。仕事の時とかは仕方ないけど、それ以外でせっかく揃ってるんだから、みんな揃ってご飯を食べないと駄目」

「それもアンタのルール?」

「ああ。僕はみんなに仲良くしてもらいたいからね」

「好きにしなさいよ、もう」

 ぐったりと疲れた様子で、アスカはリビングのソファに寝転がった。

「できたら呼んで」

「オーケー」

「あ、アスカさん。私、マッサージしましょうか」

「いらないわよ──って、何アンタもう始めてんのよ!」

 そのソファの横についたマナがアスカのふくらはぎからマッサージを開始していた。

「ほらほら、シンジ君も言ってたでしょ。みんな仲良くって」

「だからって──ひゃっ!?」

 アスカの足を掴んでいた手が二つから四つに増えた。何事か、とうつぶせになったまま振り返ると、何故かアルビノの少女までがマッサージをしているではないか。

「どうしてアンタまでマッサージしてんのよファーストッ!」

 するとレイは表情を全く変えずに淡々と答えた。

「碇君がやれって言ったから」

 きっ、と睨みつけると少年はくすくす笑っていた。

「シンジ!」

「いいからいいから。疲れてるときはマッサージが一番だよ。調理が終わるまで少しかかるから、それまで三人で仲良くしていてね」

「やめろ〜〜〜っ! 馬鹿、ファーストくすぐったい……っ!」

「あ、綾波さん、もう少し全体的にほぐすような感じで……」

「こうすればいいの?」

「あはは、やめろ、ファースト、あは、あはは……」

 これはある意味、拷問かもしれない。隣でレイのマッサージを見ていたマナはそんなことを思った。

 どさっ

 と、何か、物音がした。
 三人が、音のした方をいっせいに見つめる。

 そこには──

「碇君」
「シンジッ!」
「シンジ君っ!?」

 ──シンジが意識を失って、倒れていた。





 ネルフの救急病院の待合室で、三人は何も話さず並んで座っていた。
 アスカですらこのメンバーで一緒にいることを何も言わず、ただ少年が倒れたことに対してさまざまな思いをめぐらせていた。
 突然倒れた少年。
 直前まで何事もなく嬉しそうに、楽しそうにしていたはずの少年は、今この病室の中で検査を行っている。
 担当医は赤木リツコ博士だった。
 彼女が出てきてタバコに火をつける。相変わらず禁煙だというのに、どこでもタバコを吸いたがる。

「リツコ!」

「あら、あなたたちまだいたの」

「まだいたの、じゃないわよ! どうなのよ、シンジの様子は!」

「あら、シンジ君が心配?」

 嬉しそうにリツコは目を細める。チルドレンの成長は決して悪いことではない。他人を認めるような様子がアスカに出てきたのなら、それは必ずプラスに転じるだろう。

「問題ないわよ、単なる貧血」

「貧血?」

「ええ。でもただの貧血ではないようだけれど。原因はどこにも見当たらないから、精神的なものが何かあるのかもしれないわね」

 レイは思い返していた。そういえば──あれは、サンダルフォン戦だったか。少年が具合悪そうに更衣室で震えていたのは。

「一週間、ここで入院してもらいます」

「一週間も!?」

「ええ。その間、一切面会謝絶」

「面会謝絶!?」

 アスカがいちいち声を上げて驚く。

「今はシンジ君の体調が一番よ」

「でも、赤木さんは貧血だって」

 マナの言葉に、タバコを大きく吐き出してリツコが答えた。

「そうよ、単なる貧血。でも、原因が全く分かっていないのよ。精密検査をする必要があるわ」

「だからって、どうして面会謝絶になるのよ?」

 当然の疑問をぶつけたのはアスカだ。

「原因が分からないからよ。もしかしたら、人との接触が彼に負担をかけている可能性だってあるということよ」

「アタシたちがシンジのストレスになるっていうの?」

「平たく言うと、そうなるわね」

 リツコは正しいことで言葉を濁したりはしない。アスカの言っている通りだと、はっきり頷いた。

「まあ、あなたたちがもう少し仲良くしてれば、彼のストレスも少しは減るでしょう。一週間後に退院したとき、彼の気に入るように、お互い心がけておくことね」

 話はそれで終わり、とリツコは切り上げた。

「ちょっと待ってよ。それって、アタシたちのせいでシンジが倒れたってこと?」

「直接の原因ではないでしょう。でも原因の一端であるのは間違いないわ」

「じゃあ、アタシがこいつらと仲良くしなきゃいけないっていうわけ? このアタシが?」

「でなければシンジ君はずっとこっちで面倒をみさせてもらうわ。ストレスのたまる家に帰りたいなんて思うはずないでしょう?」

「仲良くします」

 真っ先に答えたのは、やはりマナだった。

「シンジ君に、私のせいで負担をかけたくありません」

 コクリ、とレイが頷く。そして、二人ともアスカを見た。

「な、なによ。それじゃまるで、アタシが悪役みたいじゃない」

 だが、二人の視線はそれでもアスカを見つめる。

「ああもう、分かったわよ! 仲良くでもなんでも、すればいいんでしょう、すれば!」

 と、その時病室の扉が開いた。

「シンジ君」

 リツコが驚いたように目を見開く。

「やあみんな。心配かけて御免」

 少年はにっこりと微笑む。いつもの笑顔だった。

「碇君!」

 がばっ、と抱きついたのはレイ。そしてマナはうっすらと涙を浮かべながら少年に微笑みかける。少年もそれに応える。
 アスカは──

「なんだ、ぴんぴんしてるんじゃないの」

「そうみたいだね。というわけで赤木博士、僕はもう帰りますので」

「何言ってるの。全治一週間。本当は一ヶ月くらいは入院させたいところなのよ」

「自分の体調のことは自分が一番よく分かってます。どうして倒れたのかも分かってるつもりです。だから大丈夫」

「素人はみんなそう言うのよ」

「赤木博士は原因が何だとお考えですか?」

 そんなことを尋ねても、精神的なものということは少年に聞かなければ分からない。

「少なくとも、僕は自分のことをよく分かっているつもりです。それに今は、みんなと一緒にいたいから。その方が僕の心は安らぎます。面会謝絶になんかされたら、ますます気が狂いますよ」

 その言葉にレイは抱きしめる力を強め、マナも少年の肩に自分のおでこをあて、アスカはふんとそっぽを向いた。

「というわけですので」

「全く、罪つくりね。何人の女の子を囲えば気がすむわけ?」

「別に囲っているつもりもないですよ。僕のことが嫌いになれば、三人とも僕から離れていくでしょうし、そうならないように僕はみんなを愛する努力をやめませんから」

 素で言うあたりが少年の奥深さか。
 全く似つかないのに、やはりこの少年はあの男の息子だということだろうか。
 リツコはため息をついた。





 その夜。
 レイはベッドに横たわる少年の隣で横になっていた。少年の負担になるかと思ったのだが、少年が『かまわない』と言ってくれたので、今日も一緒に横になっている。
 少年は寝る前、必ず虚空を見つめる。見つめる中でものを考える。
 その間、レイは一度も邪魔をしたことがない。彼のためにならないようなことはできるだけ避けるようにしていた。
 だが、もしも自分が声をかけることで彼が少しでも助かるのなら。
 その勇気が、彼女に声をかけさせた。

「碇君」

 耳元で囁くように声をかける。

「何?」

「何か私で相談に乗れることがあれば、いつでも言って」

 少年は首だけ傾けて彼女の顔を見つめる。相変わらず表情のない顔だった。

「ありがとう、綾波」

 少年はよしよしと頭を撫でる。

「使徒のこと、考えてるの?」

「それは半分かな。もう半分は──」

 こういう話をするとき、少年はたいがい哲学的な話を始める。

「本当の自分、というものについてかな」

「本当の自分?」

「ああ。今日、父さんに言われたよ。お前の中身は何者なんだってね。一応、僕は碇シンジのつもりだったんだけど」

「碇君は碇君だわ」

「そうだね。でもそれは、中身は別人で、碇シンジという器の中に入って活動しているだけなのかもしれない。たとえそうだとしても、確かめる術はない。自分は自分だと思っていても、本当は違うのかもしれない。別の人間がこの体の中に入っているけれど、その上から別の記憶を植えつけられて自分が碇シンジだと思い込まされているのかもしれない」

「でも、碇君なんでしょう?」

「そうありたいね。ここが僕にとって本来あるべき場所だといいんだけど……」

 そう言いながら、少年は睡魔に襲われていったのか、ようやく眠りについた。
 その横顔を見ながらレイは思う。

(……たとえあなたが碇君じゃなかったとしても、別の器にあなたの意識が移り変わったのだとしても、私はあなたを信じる)

 レイも少年のぬくもりを感じながら、眠りについた。






拾陸

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