その日は案外早く訪れた。
学校が休みになったある土曜日。朝からネルフへの呼び出し。しかも、マナを連れてくるようにとの指示つきだ。
ムサシとケイタの件が絡んでいるに違いない。
四人はブリーフィングルームへ集まった。
「ちょっち言いづらいんだけどね」
ミサトの声は決して明るいものではなかった。
「まずい内容ですか」
「そうね。あんまりいい内容とは言えないわね」
「ムサシとケイタに何かあったんですか」
マナが心配そうに尋ねる。
「ムサシ・リー君は現在も行方不明。でもね、浅利ケイタ君は」
ミサトが顔をしかめながら言った。
「戦自に連れていかれたわ。一歩遅かったのよ」
第拾陸話
未来への布石
マナはショックで立ちくらみを起こした。ふらり、とよろめく彼女を少年が支える。
「戦自にしては随分と早い動きでしたね」
少年が言う。その言葉にミサトは妙な引っ掛かりを感じた。
「どういう意味?」
「いえ、脱走兵を捕まえるのに全力を尽くすなんて、戦自らしくないなと思いまして」
「そうね。シンちゃんは何か知らないの?」
「考えられることがあるとすれば、ネルフと戦自が決裂したということ、くらいしか考えられませんね。僕はマナ、ケイタ、ムサシの三人をネルフで保護してほしいと父さんに希望を伝えました。そのあとどうしたかは知りませんけど」
「ふむ」
ミサトは悩む。
上の方針は聞いている。ケイタ、ムサシを無事に保護すること。だがその命令は実行に移すよりも早く意味が半分なくなってしまった。
「ムサシ君だけでも助けないとね」
「居場所は分からないんですか」
マナが少年の腕から身を乗り出して聞いてくる。
「そうねえ。足跡は途中まで分かってるわ。ついでに調査も続けてる。でも、現在どこにいるのかは全く不明」
「そうですか」
苦悶の表情を浮かべるマナ。それを見ていた少年が一つ息をついた。
「こういうときは専門家に頼るのが一番ですね」
少年の言葉にミサトは疑問符を浮かべる。
「どういうこと?」
「俺を呼んだかい、碇シンジ君」
だが、ミサトの言葉よりも早く、太い男の声が聞こえた。
「加持さん」
アスカの顔がぱっと明るくなる。
「ええ、ちょうどいいタイミングでした。狙ってましたね?」
「そんな人聞きの悪い。で、なんだい?」
「戦自から逃げ出したという少年兵を探し出してほしいんです」
「そりゃまた、難しい要望だな。だが、俺のところに入ってきた情報によると、既に一人は捕まったって話らしいぞ?」
「ええ。残りの一人だけでもなんとかしたいんですが」
「そいつは少し時間がかかるかもしれないな」
加持は無精ひげに手をやる。
「一日待ってくれ。今日の夜にはなんとかしよう」
「さすが。頼りになります、加持さん」
「それはかまわないが、俺に見返りはあるのかな?」
「そうですね、ではこれを」
少年は何かを投げてよこした。
『それ』は放物線を描いて加持の手に落ちる。
その正体は、ネルフの一般見学者用の大型記念メダルだった。
「これは?」
「お守りです。左胸のポケットに必ず入れておいてください」
「おいおい、こんなもので人を釣ろうってのか?」
「迷惑なら諦めますが」
「やれやれ」
加持は頭をかき、片目を瞑って尋ねた。
「近い将来、俺が撃たれると思っているのか?」
え、と誰もが加持を見、そして少年に視線を送った。
「その可能性は高いでしょう? 何しろ世界を敵にして活動している加持さんですからね。それは保険です。その保険で命が救われる可能性が0.1%でも上がるというのなら」
「OK。君に全て託すよ、シンジ君」
加持は振り返ると、ゆっくりとした足取りで遠ざかっていった。
「シンジ君?」
全ての会話が終わった後で、ミサトが尋ねた。
「はい」
「今のは、どういうこと?」
「葛城さんには関係のないことです。全ては僕と加持さんの問題ですから」
「命を落とすって」
「さあ。ただ、加持さんの立場から考えるとその可能性もあるということです。加持さんのことが心配ですか?」
言われてミサトは大きくうろたえた。
「はあ? 誰があんなやつ!」
だが、それが強がりでしかないということは誰よりも答えた本人が一番良く分かっていることであった。
「それならいいですけど。いつ何が起こるか分かりませんから、後悔はしないようにしてくださいね。それじゃ、今日はこれで帰ります」
「OK。また明日ねん」
少年たちはそうしてまた、自分の家へと戻っていった。
この日は、子供たちにとって久々の休日であった。
少年も倒れた日から格闘訓練をしばらくストップするよう指示を与えられていた。
アスカとレイも特別シンクロテストなどが入っているわけでもない。
マナとアスカが引越ししてきたばかりで、いろいろと買い物の必要もある。
というわけで、今日は四人で買い物という予定だった。
この、今朝の一件さえなかったら、今日は四人で楽しく過ごす予定だったのだ。
「どうする、今日?」
ネルフ本部の出口でアスカが少年に尋ねてくる。
ケイタ、という名前がどれほど少年に影響を与えているのかは外見からでは全く分からない。少なくとも表面上、ショックを受けているような様子はなかった。
「そうだね。中止にして家でのんびりっていうのも悪くないと思うけど。でも、マナ次第かな」
暗い様子で後ろからついてくるマナに聞こえないように少年が言う。
そして、こういうときに強引に話を進めるのはアスカの性質だった。
「転校生!」
アスカがくるりと振り返って、びしぃ! と指を差す。
「はい」
「今日は徹底的に遊ぶわよ!」
「はい?」
「アタシたちだって、滅多にない休みなんですからね! たまには自分のこと全部忘れて、徹底的に遊ぶ! いい!?」
「は、はい」
何故自分が怒られているのだろうか、と不思議そうにきょとんとするマナ。
少年はその様子を見ながら苦笑していた。隣でそれを見ていたレイには察しがついていた。わざとアスカをたきつけるような言い方をしたのだ、と。
そして彼らは有言実行した。ボウリング、カラオケ、そしてショッピングと休日をあますことなく使った。
その夜、マナはまだ家に戻っていなかった。
三人には特別何も言わず「もう少し一人で見て回りたいところがあるから」と夜の錦糸町を歩いていた。
そして、ある喫茶店に入る。
その中。
一人の浅黒い肌の少年が自分に手を上げてくる。
ムサシ・リー。
戦自から逃げ出した少年。
「大丈夫なの、こんなところで。戦自が探してるのに」
席についてからマナは小声で話しかけた。
それはボウリングの最中のこと。彼女の携帯に連絡が入った。時間と場所だけが指定されたメッセージ。それがムサシからのものであるということを彼女は直感的に悟った。
そして考えた。これをシンジに伝えるべきか否かということを。
だが、まずはムサシ本人の意思を確認したいという思いが強かった。だから誰にも言わず、一人で会いにきた。
「大丈夫だよ。俺たちが第三に来ていることは誰にも知られて──」
「ケイタは捕まったわ」
さっ、とムサシの表情が変わる。
「本当か?」
「ええ。信頼できる筋の情報だから」
「信頼?」
ムサシは分からないというように首をかしげる。
「だいたい、何でお前が第三に来てるんだ?」
「私はスパイ活動をするためにここに来たの」
マナは悲しそうにうつむく。
「ムサシとケイタが脱走した罪を助けてもらうために」
「ネルフのエヴァンゲリオンか? それは無理だろ」
「ええ。碇シンジに接触して調査するはずだったんだけど、早々に見破られたわ。ネルフの情報収集力、かなり高いんだと思う」
自分が転校してくること、そしてその正体まで全てを知っていた。しかも、直前に起こったムサシとケイタの脱走まで。
「よくそれで無事だったな」
そう、本来なら自分はネルフに捕らえられ、最悪拷問されていても文句の言えない立場なのだ。
「ムサシ、よく聞いて」
「うん?」
「私、転向したの」
ムサシの表情が凍りつく。
「なんだって、それじゃあ……」
「私はネルフの庇護の下で暮らしているの。私の知る限りの情報はネルフに提供することになっているの」
「裏切るっていうのか?」
「そう。ムサシとケイタを助けるために」
ムサシが声を荒げてもマナは動じなかった。
もう自分は決めたのだ。ケイタは助けられなかった。だが、ムサシだけなら助けることはまだできる。
「ムサシ。私と一緒にネルフに来て」
「な、そんなこと、無理に決まってるじゃないか」
「無理なんかじゃない。今、ネルフは私たちを助けるために尽力してくれているわ。それともネルフに転向することはできないの?」
自分もできないと思っていた。そして今でもまだ完全に信じ切れないでいる。
だが、それを信じさせようという気にさせてくれたものは。
「ネルフに行くことができないという理由は、きっと私たちの心の中にあるんだと思う」
「心の中?」
「私たちは戦自ではエリートとして育てられてきた。その特権はネルフに入ることでなくなってしまう。ムサシはまだ、脱走してもエリートのつもりなのよ」
「そんなつもりはない」
憮然として答えるムサシだが、ムキになっている時点で肯定しているようなものだった。
「私も分かったのよ。本当のエリートっていうのは、シンジ君や、アスカさん、レイさんのような人たちなんだっていうことが。私なんか、三人の足元にも及ばないんだっていうことが分かった。だから、私はネルフでもやっていけると思う」
「それ以上言うな、マナ」
「ムサシも来れば分かるよ。本当のエリートって、自分で自分のことをなんとも思ってないんだって。だって、自分のことが優秀だっていう前提で活動してるんだもん。そして自分が優秀であることを信じる必要なんてないんだもん。私たちみたいに、エリートじゃない人間はそれを信じるところから始めなきゃいけない。でも、シンジ君は──」
「それ以上言うなっ!」
ムサシの手が伸びていた。
マナは驚愕で硬直していた。目は見開かれたまま瞬きもしない。強引に視線を変えさせられて斜め下を凝視していた。
「あ、マナ……」
ムサシも自分でどうしてこんなことをしてしまったのか、と自分の手を見直していた。
と、そこへ。
「女性を殴るなんて、最低だね」
マナの後ろから、既に聞きなれてしまった声が聞こえてきた。
「し、シンジ君」
「彼がムサシか」
少年の後ろには、無精髭の男が立っている。
少年は近くにあった、温くなってしまったおしぼりを手に取り、マナの頬にあてる。
「大丈夫、マナ?」
「うん。平気」
「ちょっと、下がっててもらえるかな」
マナを立たせて加持に預けた少年は、座っていたムサシを見下ろす。
「話は聞かせてもらったよ、脱走兵のエリートさん」
「てめえ」
「マナのお願いだからね。君の安全は保証する。でも、自由が約束されるなんて思わないでね。僕はこれから君をネルフに連行する」
「やれるもんならやってみろよ」
ムサシはいきがり、その場に立ち上がった。背は少年よりも高かった。そして、ムサシはたいしたことがないと思ったのか、ふんと笑った。
そして、二人が動いた。
「やめて、シンジ!」
ムサシはまさにエリートだった。パイロットとして選ばれるだけの力と技量があった。
確かにマナは少年にかなわなかったが、ムサシに勝てるほどだとは思っていなかった。
そして。
一回、二回、三回と、ムサシの拳が少年の腹、顔、肩を殴打した。
だが、四回目はなかった。
もう一度顔を狙ってきたムサシの拳を、少年は体を開いてかわす。
そして、勢いをつけて肘でムサシの顔を叩きつけた。
ムサシは少年を三回殴ったが、少年は一回でムサシを叩きのめした。膝をついたムサシの腕をねじり上げ、ムサシが悲鳴を上げる。
「シンジ君、あまり痛めつけない方がいいんじゃないのか? 彼女が心配しているぞ」
「三回も殴られて、この愚か者に仕返しもできないんですか?」
「それはまあそうなんだが、ダメージは彼の方が大きいだろう。肉体的にも、精神的にもな」
自分より弱いと思ってしまった相手に叩きのめされたという事実、そして自分がエリートではないという現実。
確かに彼にとっては大きな衝撃だろう。
「大人ですね、加持さんは」
「そうか? こんなことを言われて反抗的にならない君の方がずっと大人だと思うがな」
「僕は案外感情的なんです。あまり僕を過大評価しないでください」
「それで、彼をどうするつもりだい?」
加持はポケットからチャラチャラと音を鳴らして手錠を取り出す。
「そうですね。それが一番でしょう」
「やめろ!」
ムサシが下で暴れるが、腕を捻られていては抵抗できない。あえなく少年に後手で手錠をかけられる。
「それじゃあ、ネルフに連行しておいてください。拷問はしないでくださいね。マナを悲しませるつもりはありませんから」
「分かっているよ。こちらで預からせてもらう」
「はい。それじゃ、マナ。帰ろうか」
まるで勝負にもならず捕らえられたムサシを見て、いや少年を見て、マナはぽかんとしていた。
「強いんだね、シンジ君」
「そうでもないよ」
本当にそう思っているのか、吐き捨てるように少年は答える。
「でも、あまりムサシを」
「分かっているよ。拘束はさせてもらうと思うけど、痛めつけるようなことは絶対にないから安心して」
ほっと安心したようにマナは安堵の笑みを浮かべる。
「マナ」
ムサシは後手で手錠をかけられた状態でマナを見る。
「どうしてだ。なんで、ネルフなんかに……」
「戦自から離れて、どうやって暮らしていくつもりだったの、ムサシ」
ムサシより、マナの方がずっと現実的だった。
「俺は、ケイタとマナの三人でずっと」
「そんな場所、どこにもないんだよ」
マナは諦めたように彼を見つめる。
「だって、私たちはもう、戦自から追われる立場なんだもん。どこに逃げたって逃げ切れない。だったら私たちを守ってくれる場所を探さなければいけないんだよ」
「ネルフだって、同じ穴のムジナじゃないか!」
「違う! だって、シンジ君はネルフの人間じゃないもん!」
「見損なったぜ、マナ。他の男に騙されるなんてな」
「ちが……私、騙されてなんかない!」
「脱走したあげくにお前に裏切られるとは思ってなかったよ!」
「ムサシ!」
「お前は──」
「いい加減にしろ、うるさい」
少年はムサシの頭を掴むと、思い切り床にその頭を打ち付ける。
「シンジ君、やめて!」
「悪いけどやめない。こう見えても僕は怒ってるから。僕の大事なマナを傷つけるようなことを言った奴にはお仕置きが必要だからね」
「何言ってやがる。マナは俺とケイタが……」
「黙れ」
再び頭を打ち付けられる。そして、やれやれと立ち上がった少年はマナの腕を取った。
「こんな僕は嫌いかい?」
「……」
マナはすぐには答えられなかった。
確かに今までは自分を守ってくれるという大きな優しさに惹かれていた。だが、今の少年は単に自分の不満をぶつけているだけではないだろうか。
「マナが僕を嫌いだっていうのなら、それでもかまわないよ。加持さん、彼女を頼みます」
「いいのかい?」
「ええ。マナ、君の部屋はいつでも空けておくから、気が向いたら戻ってきて」
そう言うと、少年はカウンターまで言って「迷惑をおかけしてすみませんでした」と懐から大枚をはたいていった。
「シンジ君、待って」
だが、少年は振り返るようなことはしなかった。
置いていかれた。
それはある意味で当然だといえた。何故なら、自分はまだムサシと少年とのどちらを取るか決めきれなかった。
それを見抜いた少年が、ゆっくり考えろと時間を与えてくれたのだ。
きっとそうなのだ。
(やっぱり優しいね、シンジ君は)
マナは床にうつぶせになっているムサシの傍に膝をつく。
「ムサシ」
彼は顔をあげなかった。こんな無様な姿を見られたくない、そう思っているのだろう。
「私ね、シンジ君のところにいく」
「マナ」
「どうしてなのかは分からない。でも、シンジ君はずっと私のことを守ってくれた。自分が不利になっても、私一人のために全力でかばってくれたの。シンジ君は私のことを騙しているのかもしれない。全然好かれてなんかいないのかもしれない。でも、私が少しでも生活しやすいようにってがんばってくれたシンジ君は、ムサシが今抱いているような悪い人じゃ、決してないんだよ。だって、ムサシとケイタをなんとか助けてほしいってネルフの総司令にまでシンジ君はお願いしてくれたんだもん」
「エヴァンゲリオンのパイロットなら、それぐらいの優遇はきくんだろ」
「違うよ。よく分からなかったけど、シンジ君も交換条件を出されたみたい。私やムサシを助けることでシンジ君には何もメリットはなかったはずなの。どこかにメリットがあったら、絶対別の場所にデメリットが出るんだよ。今回、私やムサシにはメリットがあった。ネルフにもメリットがあった。でも、それは全部シンジ君がデメリットを引き受けてくれたからなんだよ。ムサシにそれが分かるはずはないと思う。だって、シンジ君のそんな姿を見たわけじゃなかったから。でも、私はすぐ傍で見ていたの。シンジ君が私を助けるために苦労していたところを」
「マナ」
「私、少しでもシンジ君に恩返しがしたい。たとえ私が騙されていたとしても、それこそボロボロにされても、殺されたとしても、私はシンジ君を信じる。できれば、ムサシも信じられるようになるとよかったんだけどね」
マナは立ち上がった。
言うべきことは言った。あとはすべてムサシ自身の決断だ。
「加持さん。ムサシをよろしくお願いします」
「ああ。ちょっと待った」
加持はポケットから一枚の万札を出した。
「タクシー代だ。シンジ君はさっさと行ってしまったよ」
「え、でも」
「大丈夫。こう見えても俺も金持ちなんでね。それにこの金はもともとシンジ君から俺に調査費用ってことで前渡しでもらってるお金なんだ。というわけで気にせず使っていいよ」
「ありがとうございます」
ぺこりと一礼すると、そのお金を受け取ったマナは喫茶店を出て行った。
「やれやれ。シンジ君も罪づくりだな」
そして加持はようやくその少年を立たせてネルフへと連行していった。
家に帰ってきた少年を出迎えたのは、二人の少女によって作られた夕食だった。
「これ、二人で作ったの?」
「まあね。このアスカ様にかかればこれくらいちょろいもんよ」
「あなたは味見しただけ」
「ファーストッ!」
少年はいつの間にか少しずつ仲良くなってきている二人の少女を見て微笑む。
「ところで、転校生はどうしたのよ」
「さあ。戻ってくるかもしれないし、こないかもしれないね」
「ふうん?」
アスカはテーブルの上に並べられた四人分の料理を見る。
「それじゃ、もう少し待とうか」
「いいの?」
「あのね、アンタが言ったんじゃない。家族は揃ってご飯を食べるんだって」
少年は苦笑した。
「そういや、そうだったね」
「ま、アンタもこの間倒れたばっかりなんだから、ゆっくり休みなさいよ」
そう言いながら天才少女は少年をソファーに座らせた。そしてちょこんとレイがその隣に腰かける。
「ところでさ、シンジ」
アスカはレイの反対側に座ってきた。
「なに?」
「一つだけ聞きたいんだけど、あの霧島マナって子」
「うん」
「あの子のことも、アンタはもともと知ってたの?」
「どういう意味?」
尋ね返されたアスカは、慎重に言葉を選びながら答える。
「はっきり言うけど、アンタは色々なことを知りすぎている。使徒のこともそうだし、考えてみればアタシたちのことだってそうよね。この間は煙をまいたけど、アンタはアタシたちのことを調べたわけじゃない。初めから知ってたんでしょ?」
少年は何故だか苦笑していた。
「何事も最初から全部知っていることなんてないよ」
「でも、私たちのことは知っていた。違う? 別に話したくないんだったら、その理由なんて聞かないわよ、もう諦めてるから。でも、アンタははじめからアタシたちを知っていて、そしてアタシたちを助けようと尽力していた。それは分かるのよ」
「その仮定から進めていくと、マナのことも僕が知っていたって言うつもりなの? 転校してくる前から?」
「そうよ。屋上でアンタと転校生が話した後、いきなり仲良くなってたわよね」
だが、そこから先はアスカは何も言わなかった。
聞きたいことはあった。少年はマナに何と言ったのか、ということだ。
綾波レイにしろ霧島マナにしろ、そして自分にしろ、彼の最大の魅力は言葉と実行の両方にある。まさに有言実行だ。
自分やレイを助けると言い、命がけでそれを実行する。自分に悟られないように裏で手を回す。彼はまさに言ったことに対して責任を持って行動している。
霧島マナにはいったい、何と言ったのだろう。
「まあ、親睦を深めたかな」
「アタシには何も言いたくない?」
「そういうわけじゃないよ。でも、アスカだって自分のことを他人にべらべらしゃべられたりしたら、やっぱり面白くないだろう?」
「それはそうね。でも、この場合問題なのは転校生のことじゃない。アンタのことよ」
そう。別に霧島マナ自体はどうでもいいのだ。
問題は、この少年が何故全てを知っているのかということなのだから。
「はっきりと答えて。アンタは霧島マナが転校してくる前から彼女のことを知っていた。ヤー? ナイン?」
少年が口を開いた。
その時。
「ただいまぁっ! 遅くなってごめんなさいっ!」
これ以上ないというタイミングで、当の本人がご帰宅あそばれた。
「何やってんのよ転校生! ご飯が冷めちゃったじゃないのっ!」
だが、アスカは今の話などなかったかのようにマナに話をふる。
きょとんとしているのはレイだ。少年は苦笑するだけだ。
(碇君、最近笑うことが多くなった)
いや、少年はもともと自分の前では笑っていた。
ただ、彼がこの家でくつろいでいるということは分かる。
「さて、それじゃあご飯にしようか」
少年は立ち上がるとテーブルについた。
レイは考えていた。
少年は自分のことを知っていた。
自分が二人目であるということを知っていた。
それを知っているのは、ネルフの中でもたった三人だけ。
秘密がもれるはずがない。
それなのに、少年は知っていた。
何故だろう。
少年は何でも知っている。
使徒のことも知っている。
ネルフのことも知っている。
委員会やゼーレのことも知っている。
そう。
少年は知っているのだ。
きっとこれから先、何が起こってどうなるのか、全て分かっているのだ。
少年が倒れたのは、全てを知っている重みからだろうか。
自分は少しでも、彼を救うことができるのだろうか。
隣で横になって、虚空を見つめるその瞳。
自分はどうして、こんなにも無力なのだろうか。
彼を助けることはできないのか。
やりきれない。
自分に力がないことのもどかしさ。
少年は倒れた日の夜、自分の中身が何者なのかということを話していた。
そのとき、彼が言葉を選んでいたのは分かる。
彼は自分が何者なのか知っている。
そうでなければ、自分も人間じゃない、なんていう言葉が出てくるはずがない。
彼は、決定的に他人と自分の何が違うのかということを知っている。
知っていて行動している。
強い、と思う。
同時に、なんて哀しいのだろう、とも思う。
もう少し自分に頼ってくれてもいいのに。
少しも彼の力になれないかもしれないけれど、話を聞くくらいはできる。
でも、彼は何も話さない。
全てを自分の中に溜め込んでいく。
どうしてだろう。
自分では、そんなにも無力だろうか。
自分には、そんなにも信頼がないのだろうか。
ふと。
涙がこぼれた。
「……綾波?」
少年がそれに気づく。
「どうしたの、綾波」
布団の中から手を出して、親指でその涙をぬぐう。
「なんでもない」
「なんでもなくなんか、ないよ。もしかして、マナが来たことで何か綾波に気苦労させちゃってるかな」
「そんなことない」
「綾波。僕にできることなら何でもするから、何でも言って。僕は綾波にはずっと笑っていてほしいから」
その言葉がいっそう自分を傷つける。
自分だって。
少年には、いつも笑っていてほしい。
「私も」
彼女は答えた。
「碇君には、いつも笑っていてほしい」
「僕は幸せだよ。こうして、綾波と一緒にいられるから」
少年は彼女の頭を優しく抱く。
「綾波のぬくもりを感じる」
「碇君」
「綾波。もしかして、自分が何もできない無力な存在だなんて、考えてないかい?」
びく、と体が振るえた。
それだけで、少年に対してイエスと答えたことが伝わる。
「綾波はこうして傍にいてくれる。それがどれだけ僕に勇気をくれているか、考えたことなんてないだろうね。傍にいてくれるだけでいいなんて僕は言うつもりはないけれど、でも、綾波の存在が僕に力をくれる。それは僕にとってとてもとても大切で貴重で、かけがえのないものなんだ」
「でも、それは私の力じゃない」
「綾波の力だよ。君にしかできないことだ」
「私じゃなくても、碇君には──」
「僕たちとアスカやマナとは決定的に違うことが一つだけある」
少年はまっすぐにレイを見つめる。
「それは、僕たちは世界に一人ずつしかいないということ。人間という枠から飛び出してしまった稀有な存在だということ。アスカもマナも決して人間という枠から出ているわけじゃない。でも綾波も僕も、定義としての人間からは外れる」
「……」
「だから、どんなことがあっても僕は綾波だけは守る。それが僕の生きる意味だと思うから」
「私も碇君を守りたい」
ぎゅっ、と少年にしがみつく。
「どうして私にはその力がないの?」
「男の子っていうのは、好きな女の子が傍にいてくれるだけで、力が出てくるんだけれどね」
少年は優しく口付けをする。
いつも一緒に寝てはいたが、キスは久しぶりだった。
「それを信じてもらうわけにはいかないのかな」
「碇君のことは信じてる。でも、私が何かを碇君にしてあげたい」
「そう……」
少年は少し考えていた。
「それじゃ、一つだけいいかな」
少年は、強く彼女を抱きしめ、耳元で囁いた。
拾漆
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