結局、ムサシは戦自に引き渡されるということで決着がついた。
ムサシ本人がネルフには非協力的だったこと、そして戦自の方としても脱走兵は処分しなければならないという面子の問題。お互いの組織のためにも、ムサシがネルフにいることが好ましくなかったのだ。
マナは三度、ムサシに翻意を促したが、覆ることはなかった。
ムサシは既に誰からも聞く耳を持たず、そのまま戦自へと連行されていった。
ただ、ネルフ側からの条件として、次の内容が添付された。
『今回脱走した浅利ケイタ、ムサシ・リーに対する過度の処罰を与えないこと。さもなくば……』
その後に、戦自が少年兵を使っていること、少年兵に対して体罰を課していることを公表することなどの内容が盛り込まれている。
そしてネルフはかわりにムサシが乗っていたロボットをそのまま接収した。
このロボットは水陸両用なだけではなく、追加ユニットを装備することで空も飛ぶことができる。
それを見た少年は呟いていた。
「これは……使えるかもしれないな」
何に、とは誰も聞かなかった。もちろんそれは使徒迎撃のために、という意味なのだ。
第拾漆話
願いを叶えて
葛城ミサトが昇進してから数日後、ついにパターン青が襲来した。
衛星軌道上をネルフ本部に向けて近づいてくる使徒。
小型爆弾を三度落下させ、N2並の爆発を地上・海上で三度起こさせた。
その後、使徒はロスト。
今度は直接このネルフ本部に本体ごと落ちてくることが予測された。
「お願いがある、マナ」
「脱出しろっていうんだったら聞かないわよ。私はシンジ君と一蓮托生なんだから」
既に第三東京市には避難命令が出ている。それを知っていてマナは先手を打ってきた。少年はその潔さに苦笑する。
「そんなことを言うつもりはないよ。マナ、君にはネルフ本部に来てほしいんだ」
「ネルフに?」
「僕が戦うところを見ていてほしい。自分が負けたら、後ろにいるマナを殺してしまうことになるという意識を僕に強く持たせるために──ひどいことを言っているね、僕は」
「ううん、嬉しい」
マナは少年に抱きついた。
「それって、私に傍にいてほしいってことだよね」
「そうなるかな」
「綾波さんより?」
「その質問はずるいよ、マナ」
「三人はべらせてるシンジ君の方がずるいと思う」
「確かにね」
少年は苦笑した。
「全員を守りたいっていうのは、全員を幸せにすることはできないっていうことなのかな」
少年はぽつりと呟いた。
だが、それ以上、二人の間で会話はなかった。
『負けられない』
初号機から、ぽつりと呟く言葉が発令所に聞こえてくる。
そして、それが初号機から出たものだということに、誰もが驚いた。
「いい心意気じゃない、シンちゃん」
ミサトが話しかける。
「ま、シンちゃんが効果的な作戦を教えてくれたおかげで、作戦成功率は十%まで上がってるから、安心して戦ってきなさいな」
『それって、十回に九回は失敗するってこと?』
アスカの弐号機からげんなりした声が聞こえてくる。
「十回に一回は成功できるんだから、その一回をもぎとって来なさい。いいわね」
「シンジ君」
ミサトの横から、マナが割り込んできた。
「無茶だけはしないで、シンジ君」
『それは無理かな。土台、作戦自体が既に無茶なんだから。それはやってる僕たちも作戦を立案した葛城さんも、みんな分かってることだよ。大丈夫。マナは信じてそこにいて』
にっこりと笑って、少年の映像が切れた。
「ひゅ〜。いっぱしのプレイボーイってところね」
マナは右手を胸の前で強く握った。
(帰ってきて)
いまや自分にとってたった一つだけ信じられる存在。
碇、シンジ。
(死なないで)
彼女は祈った。
使徒を高度二万で発見。
それと同時に、エヴァ三体が動く。
使徒は急速に降下。
そして、高度一万をきったところで、使徒と地上の間に三機の国連機が割り込んだ。
爆発。
国連機にはそれぞれN2爆弾を一つずつ搭載していた。無論、無人機だ。
無人の国連機にN2を持たせて、使徒に直撃させる。そのために、第三の空中高度約八千のあたりで、三機ごと一組にして、二十組計六十機の無人国連機を配置しておいたのだ。
N2爆弾が三発分の爆風だ。使徒の体はその爆風に押され、空中で勢いが失われる。
「使徒の落下地点、誤差修正完了!」
マヤの指示でエヴァ三体が当初の目標地点から進路を若干変更する。そして、予測落下地点に到達した。
A.T.フィールドが張り巡らされる。
当初の勢いをなくした使徒は、ようやくゆっくりと降下してきた。
『オ・ルヴォワール』
零号機と弐号機が高度三百の使徒に対して完全にA.T.フィールドを中和したところで、初号機がプログナイフを使徒のコアに向かって放ち、貫く。
そして、爆ぜた。
「パターン青、消失しました」
オペレーター伊吹マヤの言葉に、マナは涙を浮かべてその場に崩れ落ちた。
「しっかし、よくもまあこんなこと思いつくわよね」
三人だけになったブリーフィングルームで、アスカが少年に話しかける。
「要は使徒を受け止めるといった段階で、下にもぐりこめるかどうかの勝負だったんだ。だから後は時間を稼ぐかどうかの問題ってことだよ。頭を使えば誰にだって分かることなんだ」
「アタシが頭が悪いって言ってるわけ?」
「違うよ。作戦部にもう少し考えてほしいって言ってるだけ」
少年はため息をついた。
「だから、作戦拒否権なんてものをもらってるんだけどね。ただ……」
「ただ?」
アスカが反復し、綾波も視線を向けてくる。
「次の使徒もまだいいんだ。これは問題ない。でも、その次が少し問題かな」
綾波がびくっと震える。アスカが怪訝そうに少年に質問しようとしたとき、扉が開いてミサトとマナが現れた。
「シンジ君っ!」
入ってくるなり、マナは少年に抱きつく。
生存確率十%。それを聞いてからというもの、マナは少年がこの戦いで亡くなってしまうのではないかと、そればかり考えていた。
無事に、また会えた。
泣きながら、マナは少年にしがみついていた。
「大丈夫だよ、マナ。言っただろう、マナを守るために戦ってくるんだって」
「でも」
「僕たちはこれが仕事だからね。特に僕なんかはお金のためっていう理由もあるわけだし。というわけで葛城さん、お金の振込み、またよろしくお願いします」
「へーへー。大金持ちね、シンちゃん」
「ありすぎて困ることはありませんから」
「私もお金欲しいな〜いっそシンちゃん、私と結婚してくれない?」
その瞬間、少女たち三人からぎらりと睨みつけられる。
「さてっと。それじゃ、簡単にミーティングして終わりにしましょうか。今頃、みんなが第三に戻ってくるっていうんで、かなり慌しいことになってると思うけどね」
「葛城さん、一つだけ」
少年がミーティングを行う前に割り込んできた。
「何?」
「赤木博士に、後でお会いしたいんですけど」
「リツコに? そりゃかまわないけど、どしたの?」
「ちょっとお願いがあるんですよ。そんなにたいしたことじゃありません」
少年は少し神妙な面持ちだった。
「一つ聞いてもいい、ファースト?」
アルビノの少女は天才少女から話しかけられて、読んでいた本から視線を移す。
少年がリツコのところに行っている間、残った三人は少年が戻ってくるまで待つということになったのだ。
「なに?」
「次の次の使徒って、どういうやつ?」
綾波は表情を変えなかった。
「どうして私に聞くの」
「アンタが知ってるからよ。さっきの反応見りゃモロバレよ」
「知らないわ」
「嘘おっしゃい!」
「知らないの。聞いてないから。私が聞いたのは、たった一つだけ」
少し、綾波の体が震えているようだった。いや、間違いなく震えている。
「いか……碇君が、使徒に、飲み込まれて、危険な目に合う、って……」
呂律も怪しい。それだけ強い使徒が現れるということを意味しているのか。
「どんな敵かは聞いてない。でも、それしか多分方法はないって。碇君は、碇君、碇君……」
がくがくと震え出し、ついにはもう何も言えなくなってしまっていた。
「ファースト……」
「綾波さん」
マナは彼女の傍に近づき、そっと肩を抱きしめる。
「信じましょう」
「……」
「シンジ君は、今回も無事に帰ってきました。そのときだって、きっと無事に帰ってくる。そう、信じましょう」
綾波の震えは、おさまる気配をまるで見せなかった。
リツコは少年を部屋に招きいれ、コーヒーを一つ差し出した。
「ちょうど作ったところだから」
「ありがとうございます。戦闘後は飲み物がほしくなるんですよ。LCLが口に残っているような気がするので」
「いつも悪いわね」
「いえいえ。お金のためですから。さてと、本題に入りましょう」
「なにかしら」
「もうすぐ行われると思うんですが、プリブノーボックスで模擬体に乗って行う実験がありますよね。大量に体中消毒されて、裸でプラグに乗るやつ」
こう、いつもいつも先読みをされると、もう苦笑するしか手段がない。
「よく知ってるわね。どこからの情報?」
「ダミープラグのことを知ってるんですから、それくらいは情報をつかんでないと。やっぱりダミープラグの開発は進むんですか?」
「仕方ないわね、こればかりは。S2についてもシミュレート結果をアメリカに送信してるわ。可能な限り、万全の態勢をしいているつもりだけれど」
「まあ、それについては今はどうでもいいんです。どうやら僕の考えは父さんには伝わっているみたいですしね」
ゲンドウはS2機関とダミープラグの再シミュレーションを行わせ、その度に生じるエラーを次々に修復させている。
問題はダミープラグだ。あれを搭載する指示は受けているが、はたして使えるのかどうか。
少年は一区切り置いた。
「その実験の三日前くらいに、プリブノーボックスの近くで工事の予定とか入っていませんか?」
「工事? ちょっと待ってね」
さすがにリツコもそこまで全てを把握しきれているわけではない。コンピュータから予定表を検索する。
「入ってるわね。タンパク壁の一斉取替え」
「その工事が終わったら僕に教えてくれませんか?」
「何故?」
「その必要があるからです。種明かしはそのときにしますから。使徒と戦うにあたって、万全の態勢で臨みたくはないですか? プリブノーボックスの実験も、途中で使徒が現れたりしたらリツコさんにとっても被害は大きいと思いますけど」
実験中に使徒が出る。
そう、少年は言った。
だが、それとタンパク壁との関係が全く分からない。
「謎だらけね」
「必ずそのときに説明しますから。今はまだ言えないんです。余計な要素を増やしたくないので。今は順調にその工事が終わってほしいんですよ」
「いいわ。あなたに工事が完了したら伝えればいいのね」
「ええ。よろしくお願いします」
「かまわないわよ。そのかわり、お礼は高くつくわよ」
「次の使徒をタダで倒してあげますよ」
「あら、それは嬉しい。あなたに払うお金を工面するのも結構大変みたいだから」
マンションに戻ってきて、四人は食事を取る。だが、なんとなく雰囲気がよくない。会話も少ない。
全部食べ終わり、切り出したのはアスカだった。
「シンジ、話があるんだけど」
「なんだい?」
「教えなさい。次の次の使徒って、どんなやつなの」
「次の次?」
「アンタがさっき言ったのよ。次の使徒は問題ないけど、その次が問題だって」
「そんなこと言ったっけ」
「ええ。ファーストに尋ねたらずっとだんまりだし、直接アンタに聞くのが手っ取り早いと思ってね」
「なるほどね。マナもその話を聞いてたんだ。だから雰囲気が変だったんだね」
綾波は表情もなく少年を見つめる。
そして、数日前に少年からされた『約束』を思い出した。
『次の次の使徒のことだ。僕はもしかしたら、使徒に飲み込まれることになるかもしれない』
『飲み込まれる』
『ああ。どうせ見れば分かることだけれどね。ある意味では最強の使徒が来る。倒し方が存在しないという点では、多分最強なんだろうね』
『どうするつもりなの』
『内側から破壊するしかどのみち方法はないんだ。そして、それができるのは初号機だけなんだよ。だから綾波にお願いするのは、僕が使徒に飲み込まれたとしても、慌てずに待っていてほしいんだ。僕は必ず帰ってくるから。だから、僕のことを信じて待っていて』
綾波には使徒がどういうもので、少年が何を考えているのかまでは分からない。
だが、少年は自分の命に代えても使徒を倒すつもりなのだ。
自分が変われるのなら変わりたい。
少年が死ぬくらいなら、自分が死んだ方がましだ──と考えると少年が嫌がるので、あまり考えないようにはしているが。
「どのみち、その時が来たら分かるよ」
「分かってから対策を立てたんじゃ遅いでしょ」
「対策なんか立てられないよ。もしもアスカがどうしてもって言うんだったら、ためしに影を捕まえてみて」
「はあ?」
「アスカが自分の影を手に持つことができたら教えてあげるよ」
リツコから少年に連絡がきたのは、それから五日後のことだった。
テストまで二日。少年は連絡が入るのを予期していたかのように電話口で『分かりました』と告げた。
そして、その日の夜。
「シンジ君?」
リツコは予定外の来客を受けた。彼がわざわざここに来るということは、また何か厄介な願いをされるのに決まっている。
「こんばんは、赤木博士。一つお願いがあってきました」
これだ。
理由は決まっている。今日終わった工事とやらだろう。
「予想はしていたけれど、何をするつもりなの?」
「第87タンパク壁を撤去してください」
第87タンパク壁。
突然そのようなことを言われても、理由もなくできるはずもない。
「理由は?」
「そこに使徒が潜んでいるからです」
リツコは言葉をなくす。
では、使徒の本部侵入を許した、ということになるではないか。
「どういうこと?」
「次の使徒はウイルス型です。一切の実体がない、プログラムのようなものです」
「プログラム?」
「ええ。この後行われるエヴァの実験に呼応する形でプログラムが起動します。そして爆発的に増殖するウイルス型使徒はMAGIをハッキング、バルタザール、メルキオール、カスパーの三つを支配下においてネルフ本部ごと自爆しようとします」
「だから、実験中に使徒が現れると言ったのね?」
「ええ。であればまだ安全なうちに撤去してしまって、別の場所へ運んでいって自滅促進プログラムを打ち込んでやれば、一気に消滅させることができます」
それにしても、とリツコは思う。
何故そこまでの情報を手に入れているのだろう。だいたい、そのタンパク壁に使徒が侵入しているだなど、誰が気づくというのか。
(そうなることを知っていた、ということね)
未来を知っている、とゲンドウは言っていた。おそらくそうなのだろう。その未来を前提にして少年は活動しているのだ。
「教えてほしいことがあるのだけれど」
「僕で答えられることでしたら」
「ええ。別にあなたの目的なんか聞いても時間の無駄になるだけのようだから。聞きたいのはこの後の使徒たちのことよ」
「使徒──たち?」
少年は首をかしげる。
「ええ。あなたは未来を知っているのでしょう。だったら、この後、いつごろ、どんな使徒が現れるのか、教えてくれると助かるわ。こちらでも対策を打ちやすいから」
少年は苦笑した。
「赤木博士まで、父さんの影響を受けたんですか? 未来のことなんか誰にも分からないですよ」
「でも、あなたは知っている」
「僕が知っているのは、現在のことだけですよ。未来も過去も、何も知りません」
「じゃあ尋ねるけど、この後選抜される予定のチルドレンのことは?」
「四人目がもう決まったんですか?」
珍しく少年が感情を見せる。そして、彼は『失言』をしたことに気づいていない。
「いいえ。『まだ』決まってないわよ。随分『時間』にこだわるみたいね」
少年はすぐに表情を戻す。気づいたのだろう。自分が『もう』決まったのかと尋ねたことに。
「人が悪いですね。僕にカマをかけるなんて」
「まだ子供だってことで私も安心したわ。やっぱり、未来を知っているということね」
「いまさら秘密にするまでもないことなんでしょうけど、ノーコメントです。それに、これは本当ですけど、僕が何でも知っているなんてことはないですよ。知らない情報が多すぎて困っているくらいですから」
「でも、何を知っていて何を知らないのかの区別がきちんとできている。それは大きいことだわ」
リツコは睨むように少年を見つめる。
「一つだけ聞くわ。あいつらと戦うというのは、本気なの?」
あいつら=ゼーレ、ということは少年も分かっているだろう。司令室ならばともかく、いったいどこにゼーレの間者がいるか知れたものではない。
「ええ。この世界を壊されるのは真っ平ごめんですから。それについては間違いなく父さんと協力体制をとらせてもらいますよ」
「ユイさんを蘇らせるというのも?」
「それは父さんの考えることで、僕の考えることじゃありません」
「なら、あなたと司令とが対立するのは何故? お互い考えていることに大きなズレはないのではなくて?」
「あるんですよ。残念ながらね」
少年は肩をすくめた。
「それは父さんも分かっていることです。知りたければ父さんから聞いてください。さて、お喋りはこれくらいにして、そろそろ作業に取りかかりましょうか。約束通り、今回の使徒は無料で退治してあげますよ」
「自滅促進プログラムを打ち込むのは私の役目じゃないの」
「退治方法を教えたのは僕ですよ。さもないと大事なチルドレンが一人か二人、いなくなるところだったんですから。というわけで、きちんと殲滅してくださいね」
そういい残して少年は出ていく。
後に残されたリツコはただため息をつくしかなかった。
そしてフォンを取って話しかける。
「マヤ? ちょっと、至急にやってほしいことがあるの」
第87タンパク壁は撤去され、地上へ運び出される。
NERV科学班の精密な調査のもと、自滅促進プログラムが打ち込まれる。
そして、パターン青は完全に消滅した。
「使徒、殲滅しました」
今までで一番呆気ない倒れ方であった。
かくして、第十一の使徒イロウルは上層部と科学部、そして少年の三者だけで解決された。このことはチルドレンはおろか、作戦部へすら伝えられなかった。
何も知らないチルドレンたちは、そのことを後で知って後悔することになる。
「こんな時間までどこ行ってたのよ、シンジ!」
少年が帰宅したのは十二時を回ってからであった。もちろんこんな時間まで出歩くとすれば、それはネルフへ行っていたに決まっている。
「ちょっとネルフまでね。遅くなるっていうメモと晩御飯は用意してあったと思うんだけど」
「だからっ! アンタが言ったんでしょうがっ! 家族は全員そろって食事するって!」
そうやって少年の帰りを待つ必要がないからこそのメモ書きだったのだが、少年の家に住む三人は誰も夕食をとろうとはしなかった。
彼女たちにとっては、食事をするときに少年がいないというのは寂しいことなのだ。
「それとも、まさかアンタ、外で食べてきたって言うんじゃないでしょうね?」
少年はきちんと食事を四人分作ってから出ていっている。だとすれば食べてくるはずがない。
「まさか。お腹ぺこぺこだよ」
「ぺこぺこ?」
どうやら彼女の優秀な辞書にはそういう日本語の使い方は登録されていないらしい。
「お腹が空いたっていうこと。それじゃ、ご飯にしようか」
ソファを見ると、少年の帰りを待ちきれなくて、レイとマナがお互い寄りかかって眠っていた。
「こうしてみると姉妹みたいだね」
「あの二人? そうね、どっちも天然だし」
「違うよ。アスカも含めて三人姉妹だよ」
少年が苦笑する。
「はあ? なんでアタシがあいつらと一緒なわけ?」
「すっとぼけている三女が綾波、現実的でたくましい次女がマナ、そして頼りになる長女がアスカ。ぴったりだと思うけど?」
「そりゃまあ、私はあの二人に比べれば頼りになるでしょうけど」
頼りになるという言葉だけで機嫌をよくする彼女は、やはり少年にとっては扱いやすいのだろう。
「それじゃ温めなおすわね」
「僕がやるよ」
「いいわよ。アンタも疲れてるんでしょうから、座ってなさい。この間だって倒れたんだし」
「随分前のことじゃないか。もう大丈夫だよ」
「い・い・か・ら!」
彼女は怒った表情の中に、どこか困ったような様子があった。
何故だか少し睨みあったあと、彼女はついと顔を背けた。
「あのさ、シンジ」
「なに?」
「これでもね、アンタのこと心配してたのよ。ファーストも転校生もね。遅くなるのは分かってたけど、それでも十二時過ぎたら、またどこか誰も知らないところで倒れてるんじゃないかとか、そんなことばっかり頭にあったのよ。お願いだから、少しでいいから、休んでて」
彼女がお願いだと言うことが、果たしてこの十四年間でどれほどあっただろうか。
だが、少年も彼女が心配してくれているということを理解して「分かった」と答えた。
「そんなに時間はかからないと思うけど、それじゃあ少しゆっくりさせてもらうよ」
ようやく彼女の顔に笑顔が戻った。
「すぐにやるから、待ってて」
嬉しそうな様子で、彼女はキッチンへ向かった。
拾捌
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