その使徒は、第三新東京に突然現れた。
 白と黒が奇妙に入り混じった巨大な球体が第三新東京の街に浮かんでいる。そしてゆっくりと移動しながら、ネルフ本部へと向かってきていた。
 パターンはオレンジ。だが、これが使徒でないはずがない。
 もっとも、それを見てもチルドレンたちの様子はいつもと変わらない。正体不明だというのに、何も心配していない。
 その理由は非常に単純だ。

 次の使徒は問題ない。

 少年は確かにそう言った。
 第十一使徒イロウルのことを知らないファーストチルドレンとセカンドチルドレンにとっては、この使徒は『問題ない』と思っているのだ。
 その意味では、普段通りに冷静な様子だったサードチルドレンの方が、もしかすると気が入っていたのかもしれない。












第拾捌話



覚醒の時












 三機のエヴァが球体を取り囲むように配置される。
 球体は依然としてゆっくりと進行している。その球体を真剣に目で追う三人のチルドレンの様子が発令所のメインスクリーンに映し出される。

「今回、随分とシンジくんは素直に出撃してくれたわね」

 リツコは正直驚いていた。作戦部が立てた作戦ははっきりいってまともと呼べる代物ではなかった。臨機応変、といえば聞こえはいいが、実際のところは使徒の攻撃にあわせて対応していくという出たとこまかせでしかない。
 こう見えても作戦部の部長はこのたび昇進している。だが昇進したからといって作戦の内容に変化が出るわけではない。少年は相変わらず拒否権を使うと言ってきかないし、その本心を見せるようなところはどこにもない。

「ま、たまには私の顔を立ててもらわないとねん。シンジくん? 今使徒は初号機の方に向かっているから、もしものときは足止めお願い」

 だが少年が何の文句もなく今回の作戦を受理したということでミサトの方はご機嫌であった。少しは認められたとでも思っているのだろうか。だとすれば少年を見誤っているだろう。

(彼、何か企んでるんでしょうね)

 リツコは冷静にそう判断する。ここしばらくのことを考えると、とてもではないがミサトで扱いきれるような相手ではない。おそろしく用心深く、おそろしく用意周到だ。
 この間、ようやく、ようやく彼の尻尾を掴んだ。未来を知っているというかすかな手がかり。

(この戦いはどうするつもりなのかしらね)

 たとえば第三使徒、サキエル。
 それほど苦もなく倒していた。そのとき彼は、出撃することを特別気にもとめていなかった。

 第四使徒、シャムシエル。
 彼は出撃することにはこだわらなかった。ただ、クラスメートが勝手に出てこないように見張ってほしいということを言っていた。その結果として彼は危険な目にあったが、もしそうでなければ危険はなかっただろう。

 第五使徒、ラミエル。
 初めて出撃を渋った。そして敵の加粒子砲から身を守った。そう、彼は出撃したら危ないということを事前に知っていたということの証だ。

 第七使徒、イスラフェル。
 出撃はした。そしてアスカが倒れ、彼が一人で分裂する使徒を倒した。危険らしい危険はなかったように思う。

 第八使徒、サンダルフォン。
 出撃はせず、アスカに任せた。そして充分に倒せた。もちろん、少年の手のひらの上で、であるが。

 第九使徒、マトリエル。
 その場で撃退した。これも問題ない。

 第十使徒、サハクィエル。
 出撃する時に自分から作戦を提示している。

 第十一使徒、イロウル。
 敵が出現する前に敵を殲滅してしまった。

 以上のことを考えると、出撃を渋ったのは一回だけだ。それは出れば負けるということが初めから分かっていたからだ。
 だからこそ、今回も出撃しているから倒せる──そのはず。

(どうしてこんなにも不安になるのかしら)

 この使徒が現れてから、少年はほとんど何もといっていいほど口をきいていない。じっと、ただ黙っている。
 そう。いつもなら皮肉でもなんでも、話しているはずなのに。

『行きます』

 気づくより早く、少年は動いた。

「待って、シンジくん!」

 リツコが叫ぶ。だが、遅い。
 少年は手にした拳銃を球体に向かって三射する。
 瞬間、その球体は消えた。

「パターン青!」

 マヤの叫びが発令所に響く。
 その直後に球体が再び、初号機の直上に現れる。

「上?」

「いえ、下です! 初号機の真下!」

 影が広がる。
 その影の中に初号機が飲み込まれていく。

『シンジ! 大丈夫なんでしょうね!?』

 さすがにおかしいと思ったのか、弐号機のアスカが少年に声をかける。

『うん、多分ね。赤木博士、聞こえますか』

「シンジくん?」

 不安が一層増大する。

『あとのことは加持さんに伝えてありますから、聞いてください。何とかなることを祈ってください。それじゃあ』

「それじゃあって……シンジくん!」

 そう言っている間にも初号機は腰まで埋まっている。

『碇くん』

 レイの顔は蒼白になっている。

『ちょっとシンジ! あんた、次の使徒は問題ないって言ったわよね!?』

『え……ああ』

 そのとき。
 あまりにも馬鹿なミスをしたと少年は笑った。

『ごめん。次の使徒って、こいつじゃないんだ。すっかり言うの忘れてた。アスカたちの知らないところで、もうとっくに一体倒してたんだよ』

『はあ!?』

 アスカの目がこれ以上ないくらいに見開かれる。

『碇くん!』

 同時にレイからも叫び声が上がる。

『大丈夫。なんとかはするつもりだから。もしかしたら協力を仰ぐかもしれないけど、後はよろしく。じゃあ』

 首だけになった初号機から最後の言葉がかけられる。
 通信機に映った少年の顔は、とてもこれから死地に向かうようなものではない。穏やかで、優しい表情だった。

「シンジくん!」

 ミサトの声が最後に届いたかどうか。
 初号機は最初からそのことを分かっていたかのように、その姿を消した。

『碇くん!』

 金縛りが溶けたかのように、突然零号機が駆け出す。

「待ちなさい、レイ!」

 リツコの制止も聞かない。初号機の後を追うようにしてその影に飛び込もうとする。

「零号機の電源落として! 早く!」

 リツコの指示にマヤが素早く従う。そして零号機は強制的にシンクロカットされ、そのまま不自然な格好で倒れこんだ。

「アスカ! 零号機を回収して戻って。早く!」

『分かってるわよ!』

 弐号機は三極プラグを抜いて零号機に駆け寄り、そのまま回収地点まで向かい、零号機を放り込んだ。

『私も一旦引き上げてかまわないんでしょ?』

 冷静なアスカの声が発令所に届く。

「ええ。一度戻ってちょうだい」

 ミサトが顔をしかめながら答えた。






「どういうこと?」

 アスカが尋ねる。ミサトはただ顔をしかめ、リツコは冷静に話を続けた。
 ちなみにレイは医務室で寝かされており、発令所にはいない。

「あの使徒、本体は下にいる黒い奴の方、ということ。空中に浮かんでいる方が影というわけ。直径は六八〇メートルの円、厚さ約三ナノメートルを内向きのA.T.フィールドで支えている。その中はディラックの海と呼ばれる虚数空間につながっている。空気も水もない、一切の無の世界というわけね」

「じゃあアイツはどうなるっていうのよっ!」

 アスカが苛立ちを隠さずに尋ねる。

「生命維持モードに切り替えれば十七時間は生存可能よ。それにシンジくんはなんとかはするつもりだと言っていたから、多分考えがあるんでしょう」

「何をそんなに落ち着いているのよ!」

 アスカが声をさらに張り上げるが、リツコはあくまでも冷静だ。

「そうね。信じてるから、かしら。何かしてくれるんだろうって。で、加持くん?」

「あいよ」

 呼ばれてようやく男が腰を上げた。

「あとのことは加持くんに任せてある、そうシンジくんは言ってたわね」

「ああ、そうだったな」

「で、シンジくんはいったい何を残していったの?」

「これさ」

 加持は一枚のディスクを取り出した。それをひょいとリツコに放る。

「これは?」

「シンジくんからの預かりものだ。必要になったらリッちゃんに渡してくれって言われた。いつなのかは聞かなかったが、さっきの様子からして今でいいんだろうな」

 それじゃ、と一言残して加持は発令所から出ていこうとする。

「加持さん!」

 えもしれぬ不安に駆られたアスカが加持を引き止める。

「大丈夫だよ」

 そのアスカの頭を、加持はぽんぽんとなでる。

「シンジくんなら絶対に大丈夫だ。俺にさっきのを任せた時も自信たっぷりだったからな。使徒を倒す方法があると言っていた。だからきっと大丈夫なんだろう」

「でも」

 今のリツコの説明で、いったいどうやって敵を倒せるというのだろう。

「信じるんだ。シンジくんを」

 そして加持は発令所を出ていった。
 その間にもリツコは急いでディスクを解凍していた。

「何て書いてあるの?」

 ミサトが尋ねる。だが、それに対してリツコは顔をしかめた。

「使徒を倒すために、熱量が必要みたいね」

「熱量?」

「そう。既存のN2爆弾を全部持ってきてもカバーできないくらいの熱量」

 手渡されたディスクには、ただ指示だけが書かれていた。
 少年があの影に飲み込まれてからぴったり十時間後、そこで現存するN2爆弾を全て影に投下してほしいという希望だけが書かれていた。
 その十時間で、影の中で何をするつもりなのか。
 N2爆弾を全て使えばあの使徒は倒せるのか。

『熱量が必要なんです。N2爆弾を全部投下しても足りないかもしれません。その熱量でカバーできるかできないかの勝負です。成功すれば使徒は倒せますが、失敗すれば使徒は倒せません。後のことは考えないで、あるものを全て使ってください。一つだけでも残しておこうとか、そんなことは考えないでお願いします』

 最後にそう締めくくられていた。少年にとってはそれだけの熱量があっても足りないかもしれないという不安があるのだろう。

「すぐに準備に入るわ。国連軍に至急連絡を取って」






 規則的な心電図の音。
 目が覚めたときに最初に聞こえたのはその音だけだった。そして、自分がどうしていたのかを思い出す。
 少年があの影に飲み込まれた。そして知った。
 あれが、次の使徒ではなく、さらにその次の使徒であるということを。
 少年があえて黙っていたのか、それとも本当にすっかり伝えるのを忘れていたのか。だが、そんなことはどうでもいいことだ。
 いずれにしても、この使徒を相手に自分がすることは何もない。それは最初に少年から聞かされている。
 内側から破壊するしかない。少年はそう言った。だから、慌てず待っていてほしいと。
 だが。
 もしあの空間に飲み込まれて無事に帰ってこれなかったとしたら?
 自分はもう二度と彼に会えない。
 自分はもう二度と彼に会えない。
 自分はもう二度と彼に会えない。

 自分は、もう、二度と、彼に会えない。

「そんなのは嫌、そんなのは嫌、碇くん、碇くん、碇くん……」

 体の震えは大きくなるばかりで、まるで収まる様子を見せなかった。






 零号機と弐号機が、円のすぐ外側に、使徒を挟む形で配置される。
 作戦としては、零号機と弐号機がA.T.フィールドでコンマ三秒だけ干渉し、そこをめがけて現存する全てのN2爆弾を投下する。
 それだけだ。
 少年の指示にはそうある。そして続いてこうも書いてある。

『投下後、すぐに効果が出るというわけでもないと思います。僕が突入してから十七時間経っても戻らないようであれば、失敗だったととらえてください。その場合、僕の命はどうなってもかまいませんから、初号機だけは回収してください。そちらからでは回収の手段もないでしょうから、そちらの世界に戻る方法はこっちで何とかしますので』

 結局、彼はこの作戦をもって使徒を倒すことが必ずできるとは信じていない。どれだけの熱量が必要になるのかは分からない。もしN2で無理なら、この地上ではどのような攻撃方法も無駄だろう。
 N2、投下。
 そして全ての爆弾が影に飲み込まれていく。
 はるかな深淵で、何かが光った。
 だが、それきり。
 使徒に変化は何もおきなかった。

『アスカ、レイ。役目は終わりよ。戻ってらっしゃい』

 その場で効果は現れなかった。
 あと、七時間。
 長い時間になりそうだった。






「アタシさ、アンタがあのままあの中に飛び込むんじゃないかって、そんなことを思ってたんだ」

 ケイジに戻ってくるなり、アスカがレイに声をかける。

「必要ないもの」

 レイの表情は固い。口には否定しても、心の中では追いかけていきたいという気持ちが大きいのだろう。

「碇くんは待っていてほしいと言った。だから、待ってる」

「けなげよね〜。さて、そういやあの転校生、何も状況話してなかったっけ」

 おそらく、今彼女に話すのは得策ではない。パニックを起こすだけだ。
 だが。

(アイツだけ仲間はずれってわけにもいかないか)

 少年は今、死地にいる。
 ならば、帰ってきたときには自分たち全員に出迎えてほしいのではないだろうか。

「ファースト、行くわよ」

「どこに?」

「転校生のところよ。シンジが帰ってきたら、心配かけた罪を全員でこらしめるんだから」

 今回の戦い、マナは発令所にはいなかった。下手にシェルターにいるよりは発令所の方が安全だということでネルフにはいたが、別室で待たされていた。
 少年からは、一日以上はかかる、と告げられていた。どうしてそんなに長い戦いになるのかは伝えられなかった。
 少年は、次の使徒は大丈夫だと言っていた。だからきっと大丈夫なのだろう。
 不安はなかった。
 その報告が、彼女の元に届くまでは。

「嘘」

 愕然とするマナ。

「嘘じゃないわ。私たちの目の前で飲み込まれたのよ。あいつは最初から飲み込まれるつもりだったのよ」

「でも、シンジくんは次の使徒は大丈夫だって」

「あいつ、アタシたちの知らないところで別の使徒を倒してたのよ。ほんと、やな奴よね。ミサトすら知らなかったくらいだから、徹底してるわ」

 知っていたのは技術部のリツコとマヤだけだ。作戦部には全く秘密裏にその使徒は撃退されていた。

「シンジくんは大丈夫なんですか」

「今のところ不明よ。あと七時間のうちに帰ってこられれば大丈夫だと思うけど」

「七時間?」

「エヴァの内臓電源が完全に切れて、生命維持がきかなくなる時間よ」

 マナの顔が青ざめていく。

「大丈夫」

 そこにレイが声をかける。

「碇くんは、必ず帰ってくると言ったから、大丈夫」

 信じていると。
 彼女は、不安を殺して、けなげに、強く、そう言いきる。

「全く、アタシもさ、もう駄目なんじゃないかと思ったんだけど、ファーストがそう言うもんだからさ。少しは信じてみようかなって思ってたところ。転校生、アンタはどうする? アタシたち、これからアイツが帰ってくるのを出迎えに行こうかと思ってるんだけど」

 もちろん、答は決まっていた。

「行きます」

「それじゃ、みんなで発令所に行くわよっ!」

 アスカを先頭に、レイとマナが続いた。






 結論としては、少年の帰還は非常に難しいと言わざるを得なかった。
 引き上げたアンビリカルケーブルの先には何もなかった。つまり、あの空間は途中からどこかへ『消失』するように作られている。

(使徒の形態が変化してきているわね)

 前の使徒といい、今回の使徒といい、直接戦闘を目的としない使徒が立て続けに現れている。いったい何が目的なのか、完全に不明だ。

(そもそも、第三新東京に使徒が来る目的は何? エヴァがいることがその理由?)

 いや、違う。敵にはそんな知能はない。最大の障害となる敵を先にたたく、などという理由はあてはまらない。

(それとも)

 動きの止まった使徒を見ながらリツコは考える。
 エヴァ初号機を飲み込んでから、使徒は完全にその場所に固まって動きを止めた。
 国連機が攻撃を仕掛けても何も反応しない。完全に固まったままだ。

(エヴァ初号機を取り込もうとした?)

 考えられないことではない。なにしろ、あのエヴァはアダムのコピー。使徒が求めたとしても何も不思議はない。
 ならば、あの使徒が行っているのは、まさにエヴァンゲリオン初号機の全てを体内に取りこもうということなのか。もしそれが完成したなら生じるのだろうか、サードインパクトが。

(でも、所詮はコピー)

 そう。アダムの代役はできない。アダムは太平洋の海底に沈んだままだ。
 使徒はアダムとの接触を求めている。だが、ここにアダムはいない。
 なら、ここには何があるというのだろう──?

「邪魔するわよ」

 その時、真紅のチルドレンがお供二人を携えて発令所に入ってきた。

「どうしたの」

「状況を確認しに来たのよ。でも、この様子だと動きはないみたいね」

 リツコは素早くレイとマナに目をやる。レイはある程度落ち着いたようだったが、今事情を知らされたばかりのマナの方といえば、もはや震えを止めることすらできないほどに動揺しているようだった。

「アスカ」

「何」

「どうして、彼女にまで状況を教えたの?」

 別にとがめるつもりはなかった。単に、アスカの心境を確認したかっただけだ。

「別に理由なんてないわよ。ただ、アタシだったら一人だけカヤの外にいて、全部終わってから知らされるのなんてまっぴらごめんって思っただけよ」

 マナがアスカの後ろ姿を見る。だが、アスカは目の前にいるリツコを睨みつけているので、そんなことには気づくこともない。

「そう」

「それより、アタシたちこれからちょっと食堂でご飯食べてくるから、何か変化があったら教えて。それじゃ」

「は?」

 リツコが唖然として尋ね返そうとしたが、それよりも早く弐号機パイロットは二人の手を引いて発令所を出ていってしまっていた。

(無理しているのかしらね)

 リツコは見送ってからため息をついた。
 いずれにしても、少年が戻ってこないことには彼女たち三人はいずれも救われないということは明らかであった。






 食堂には誰もいなかった。この緊急時にのんびり食堂で食事ができるなど、いつでもスタンバイ状態にならなければいけないチルドレンくらいのものであろう。
 だが、二人のお供が全く自分から動こうとしないので、アスカはとりあえず三人分の料理を用意する。
 テーブルについても二人は何も話すことも食べることもせず、ただ黙ってじっとしていた。
 そしてアスカが一口つけてから、ふう、と一息つく。

「あんたたち、無理してでも食べないと駄目よ。そんなんじゃ、シンジが帰ってくる前にあんたたちが倒れるでしょ」

 自分から積極的に食べることで、二人の食欲を刺激しようとする。やがて、おずおずとマナが箸を手に取った。

「アスカさん」

「何?」

「ありがとうございます」

 ん? と分からない振りをする。というか、何に感謝されたのか、正直アスカには分からなかった。

「教えていただいて、です」

「ああ、そのこと」

 少年が危機に立たされているということを教えてくれてありがとう、ということだった。それなら別に感謝されるほどのことでもない。というより、

「家族なら当然のことだって、あいつなら言うに決まってるでしょ」

 碇シンジという少年をずっと見続けてきたアスカにはそれが分かる。彼の言いたいことは結局、家族ならば楽しいことだけではなく、辛いことも悲しいこともみんなで乗り越えなければならないということなのだ。

「それに、食事のことも。無理に元気づけようとしてくれてますよね」

「別に。アタシだって別にこんなときに食べたいなんて思わないわよ。でもね、あと──だいたい六時間か。その間何も食べなかったら、いい加減倒れるでしょ。あいつが帰ってくる時間にお腹がすいて動けないなんて馬鹿みたいな真似、できないし」

「はあ」

「だいたいね!」

 だんっ、とアスカはテーブルを叩く。

「このアタシに何の説明もなく知らない間に使徒を一体倒しておいて、あげくにこんなに心配させて、あの馬鹿一回張り倒さないと気がすまないってもんよ!」

 その剣幕に、ずっと黙っていたレイですら驚いて顔を上げる。
 そう、アスカは怒っていた。これ以上ないくらいに。

『アスカが自分の影を手に持つことができたら教えてあげるよ』

 少年は全てを知っていた。影に飲み込まれることはもちろんのこと、エヴァを含めた地上の兵器が何一つ役に立たないということを。ただ倒せる可能性があるとすれば、飲み込まれた内側から破壊するしかないのだと。
 そんなことを少年は一言も言わなかった。言うはずもない。自分を危険にさらしてあの影に飛び込むのだと彼が言おうものなら、レイもマナも、そして自分だって止めるに決まっている。それを知っていたから彼は何も言わなかったのだ。

(だからって、一言の相談もなしに勝手にいなくなってんじゃないわよ!)

 信頼してくれなかったのが腹立たしい。たとえ信頼されてもそれに応えられる自信がない自分がさらに腹立たしい。
 どうすることもできないなら、せめて心配をかけさせた罰に一回くらいはたいてやってもいいだろう。

「おいおい、随分と大きな声だな。食堂の外まで響いてたぞ」

 と、三人のところに顔を出したのは加持であった。

「お、食事か。随分と余裕だな」

「加持さん」

「分かってるさ。時間のあるときに体力は回復させておく。戦士の大切な役目だってことはな。大方、レイちゃんもマナちゃんもそのことが分からないから、アスカが無理矢理食堂に連れてきたんだろ?」

 さすがにこの男はなんでもお見通しであった。アスカが少し赤らむ。

「そういう加持さんは、こんなところでどうしたの?」

「ま、俺もそんなに仕事のある方じゃなくてね。これからちょっと作戦部長のところに顔を出す予定なんだが」

「ミサトのところに? そういや、ミサトはどうしてるの?」

「ま、あまり楽しいことにはなってないだろうけどな。結局今回の事件は、たとえシンジくんがこの状況を望んだのだとしても、作戦を立てたのは葛城で、それに従ったのはシンジくんだ。作戦拒否権なんか理由にならない。作戦部の立てた作戦で失敗した、その事実がまずい」

 いつになく加持の顔は真剣そのものであった。

「ミサト、どうなるの?」

「さっきのN2で上もお冠だからな。もしエヴァ初号機が戻ってこなかったとしたら、クビじゃすまないだろ」

 さらっと、とんでもないことを言う。

「N2全弾投下って、そんなにまずいの?」

「アスカも知っていると思うが、今までエヴァ以外の国連兵器で唯一使徒にダメージを与えられたのはあのN2だけだ。N2で倒せる使徒は今までいなかったが、足止めだけならできる使徒はいくらでもいた。それができなくなるんだから、こちらの手札が一枚なくなったようなもんさ」

「そっか。でもそうしないと殲滅できないなら、やるしかないじゃない」

「ま、そうなんだがな」

 加持は苦笑した。

「さて、それじゃ俺はそろそろ行くよ」

「ええ、もう?」

「ああ。ま、仕事はなくてもやることはいくらでもあるんでね」

 じゃ、と男はぶらりとまたいなくなった。






 少年が消えても全くといっていいほど動じない、または還ってくることを疑っていない人物といえば、それは加持リョウジであった。
 たとえ少年のことを信じているリツコであったとしても、ディラックの海と呼ばれるところからの生還劇は奇跡だと考えている。
 だが、加持は違う。彼は最初から信じて疑っていない。何故なら、碇シンジという少年はこんなところでは死なないと勝手に決め込んでいるからだ。
 少年が還ってくると信じている理由はいくらでもあるが、あの奇跡みたいな少年が何の策もなく飛び込むはずがないと、少年の奥の深さに期待しているところが一番大きい。
 むしろ、心配するのは分かるとしても、どうして還ってくるのが絶望的のような態度を回りがしているのか、その方が不思議だった。今までも彼は奇跡のようなことをいくらでもしてきたというのに、だ。

「よ、随分とまいってるみたいだな」

 作戦部長の部屋に入ってきたとき、完全にグロッキーになっている彼女を見て苦笑をもらす。

「あーによぅ。あんたまで私を笑いに来たってわけ?」

 随分とやさぐれている。こっぴどく叱られたようだ。

「なに、たいしたことじゃないさ。シンジくんは必ず戻ってくるから、葛城のクビが飛ぶことはないって伝えにきただけだよ」

「どうしてそんなことが言えるのよ」

「それは、シンジくんだからかな」

「答になってないわよ!」

 ミサトが椅子から立ち上がり、声を荒げる。

「このままもし戻ってこなかったら、シンジくんを殺したのは私のようなものだわ」

「何言ってるんだ。シンジくんが飲み込まれたのは彼の意思だろう。葛城の作戦ミス……もあったかもしれないが、シンジくんがそれを利用したっていうのが正しいものの見方だ。このまま彼と初号機が戻ってこないというならともかく、どちらも無事なら譴責処分くらいですむだろ。そのあたりは碇司令は分かってるよ。今回の叱責は司令からかい?」

「副指令よ」

「だと思ったよ。司令はこの事態がシンジくんによるものだと分かっている。だから葛城に直接は何も言わなかった。それが全てさ」

「なぐさめてくれてるわけ?」

「あれ、そう見えなかったかな」

 はあ、とため息をつくミサト。こうも露骨ならば分からないはずもない。

「ありがと。少しだけやる気が出たわ」

「そりゃどうも」

 答えた加持は来たときと同じように、またぶらりと出ていった。






 そうして、運命の時間を迎えた。
 エヴァンゲリオン初号機が取り込まれてから十七時間。いまだ、使徒には何の変化もない。
 少年が残したディスクには、この時間に何かが起こるという内容が書かれていた。
 失敗、だったのだろうか。
 全てのN2を使い、碇シンジという少年と切り札の初号機を失って、なおかつ使徒が健在だというのか。
 ミサトも、リツコも、マヤも、アスカも、レイも、マナも、じっとスクリーンを見つめている。
 やがて、大きな声で叫んだのは、アスカであった。

「ふざけんじゃないわよ!」

 突然の大声に、全員が驚いて彼女を見る。

「アンタがこんなところでくたばったりしたら、アタシはアンタを一生許さない……!」

 その目に、涙。
 半日以上も、自分のことを後回しにしてひたすらレイとマナを気遣ってきた少女の、正直な偽らざる気持ち。
 彼女もまた、少年のことを心の底から心配している。レイやマナに負けないくらいに。

「還ってきて、シンジくん。私たちのところに」

 祈りのような声がマナから出る。
 両手をしっかりと組んで神に祈るようにして膝をつく。

「碇くん」

 ここにいたって、逆に冷静になっていたのはレイであった。
 取り乱すわけでもなく、体が震えていることすらなかった。
 彼女はただ見ていた。
 使徒を。
 使徒から生まれてくる、彼女を。

「来る」

 レイが呟いた、直後であった。

「A.T.フィールドに亀裂!」

 マヤの声が発令所に響く。
 大地に広がっていた使徒が割れ、そこから大量の鮮血が吹き上がる。
 同時に空に浮かぶ球体も割れ、そこから血まみれの手が出てくる。

 それは誕生と呼べるのか。

 自らの手で殻をこじ開けて出てきた赤子──初号機。

 オオオオオオオオオオオオオオオオオオ!

 大地に降りた初号機が咆哮を上げた。

「初号機のエネルギーはもう、ゼロなのよ?」

 リツコが信じられないという様子で右手で頭を押さえる。

「暴走、しているのね」

 ミサトが苦い表情でそれを見つめた。

「碇くん」

 レイが悲しそうな顔でそれをただ見つめていた。






「ついに暴走したか」

 司令室で、冬月が声をかけた。

「ああ。全てはこれからだ」

 ゲンドウが重たい声でそれに答えた。






拾玖

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