突如、動きを止めた初号機を回収し、引き出されたエントリープラグの中にいた少年は全く意識がなかった。
 堰が切れたかのように泣き出したレイ、がくがくと震えるマナ、そして「起きなさいよシンジ!」と叫ぶアスカ。
 緊急治療室へと運ばれ、すぐに『蘇生』の処置が取られた。
 そう、彼の心臓は停止していた。
 何分間停止していたのかは分からない。
 だが、生死に関わるというのは、誰の目にも明らかであった。












第拾玖話



逃げ場所はない












「それにしても、またとんでもない生還劇だったわね」

 ケイジで整備に立ち会っているリツコがぽつりと呟く。
 結局、何があったのかは分からない。生命維持モードに切り替わって十七時間、その間のエヴァの動きは何もなかったようだ。断言ができないのは、記録が残っていないためだ。
 結局、初号機の暴走によって使徒は倒れた。
 それすら、少年のシナリオ通りだったというのだろうか。

(そういうのとは違うわね)

 単に、彼は使徒を倒す方法としてそれしかないということを知っていただけなのだ。
 たとえ自分の命がなくなったとしても──

 ピピッ、と携帯に連絡が入ってポケットから取り出す。

「──そう、分かったわ」

 ふう、と息をついて携帯を切る。そしてポケットからタバコを取り出した。

 自分の命がなくなっても、という言い方はよくなかった。
 なぜなら、少年は意識を取り戻していたからだ。






 蘇生処置が成功し、少年の心臓は再び動き始めた。もっとも、ネルフの超一流の医療技術があってこそなんとか成功まできたというところであって、少年はそれから二日間、全く意識を取り戻す素振りを見せなかった。
 看病していた三人の少女たちも、既に疲労が限界に達していた。
 そんな折、突然少年の容態が変化した。
 少女たち三人の目の前で、突然苦しそうに呻き始める少年。完全に脳は意識を取り戻している証拠であった。それだけでも喜ぶべきことなのだが、その様子があまりにも苦しそうであった。
 三人は医者に連絡を取ることも忘れ、そのまま少年の様子をただ見つめた。
 そして、彼がついに、目覚めた。

「シンジ!」
「シンジくん!」
「碇くん!」

 三人の声が同時に揃う。
 だが──

「いやだ……」

 彼の表情は、いつもの自信に満ち溢れた、包容力のあるものとはかけ離れていた。

「なんでだよ! どうしてこんな苦しい思いまでして戦わなきゃいけないんだよ! 僕はもう戦いたくないって何度言えばいいんだよ!」

 パニックに陥っている少年ががばっとシーツを引き剥がし、肩で息をする。

「碇くん!」

 そんな彼に、レイが落ち着かせるかのように正面から抱きつくように触れる。

「綾波、レイ」

 だが、その少年の顔に浮かんだ表情は、恐怖、であった。

「やめろ! いやだ! いやだ! こんなのはいやなんだよっ! どうしてみんな僕をほっておいてくれないんだ! どうして僕ばっかりこんな目にあうんだよっ! こんな怖いのはもうたくさんだ!」

 少年は力の限り、レイを突き飛ばしていた。
 ベッドから三メートルも遠くまで突き飛ばされたレイは、呆然としてその少年を見詰める。

「シンジ!」

 アスカが取り押さえようとして動く──が、それより早く少年の体に変化が起こっていた。

「……──ぁ」

 立ち上がった少年は、両腕で自分の体を抱き、何かに耐えるようにしながら頭を下げて震える。

「シン──」

「いいから、お前は、黙ってろ……っ!」

 声をかけようとしたアスカであったが、その殺気のこもった声に、完全に体がすくむ。
 三人はただ黙って、少年の変化を見つめた。
 そして、徐々に少年の体から力が抜け、震えも止まり、少しずつ顔を上げる。

 それは、いつもの少年の表情であった。

「綾波」

 その、たった数分の出来事で大量に汗をかき、肩で呼吸をしたまま、少年は自ら突き飛ばした少女に駆け寄り、その体を抱きしめた。

「ごめん、大丈夫だったかい、綾波。ごめん、綾波、ごめん……」

「碇くん……」

「ちょっと混乱していたんだ。使徒の精神汚染を受けていたから。でも、もう大丈夫。突き飛ばしたりして、ごめん。心配かけて、本当にごめん」

「……もう、いいの」

 レイは少年の胸に自分の顔をうずめる。
 ようやく、戻ってきた温もり。
 この絆があるのなら、自分は──

 瞬間、先程みせた少年の怯えた表情が頭をよぎる。

 びくん、とレイの体が震えた。
 少年が怯えたのは、自分。
 他の誰でもない、自分。
 それは、自分が──二人目、だからだろうか。

「綾波?」

 じわり、と目に浮かんだ涙を見て、少年がおずおずと声をかける。

「あやな──」

「碇くんは、私が怖い?」

 少しだけ、少年は困ったような顔をした。

「怒るよ、綾波。僕は絶対に綾波を嫌ったりしない」

「なら、絆をちょうだい」

 まだ涙の止まらない、真剣な瞳でレイがすがってくる。
 少年は親指でその涙を拭うと、彼女の目が伏せられるのを待ってから、優しく口づけた。

「誰にも渡さない。僕の綾波」

 強く抱きしめて、耳元でささやく。それだけで、彼女はまた泣き出してしまった。嬉しさで。

「……怒るんじゃなかったんですか」

 突然目の前で始まったラブシーンに、生還してくれた喜びよりも嫉妬を全面に表してマナがアスカに尋ねる。

「なんていうの、毒気? 抜かれるわよ、これじゃあ」

 だが、アスカが毒気を抜かれたのはこのシーンを見せられたせいということばかりではなかった。
 レイと同じだ。黙ってろ、と言われたあの言葉。自分のことを見てもくれなかった。
 確かにレイを突き飛ばしたことといい、少年はパニックに陥っていたのだろう。

「シンジ。その辺りにしときなさいよね。ギャラリーがいるんだから」

「アスカ」

 少年は綾波を支えながら立ち上がる。

「全く、アンタは最初からエヴァを暴走させるつもりだったの?」

「まあ、それくらいしか方法は思いつかなかったからね」

「自分の命を危険に晒してまで?」

「生き延びる自信はあったよ。ただ、みんなに心配はかけたのは間違いないことだ。それについては本当にごめん」

「シンジ」

 獲物を追い詰めるような目で、アスカが睨みつけてくる。

「歯を食いしばりなさい」

「うん」

 少年は言われたとおりに歯を食いしばって、少女の平手を受けた。

「これで今回のことはナシにしてあげるわ。これにこりたら、二度と一人で特攻するなんて真似はやめてよね」

「うん、大丈夫。多分そんなことになるのは今回だけだから。僕だってこんな苦しい思いをするのは嫌だよ」

『どうして僕ばっかり』
『こんな怖いのはもうたくさんだ』

 そう叫んだ少年の声は、三人の脳裏にこびりついている。
 それが少年の真実。それが少年の偽らざる気持ち。
 だがそれを、少年は自分たちを守るためだけに押し殺して、必死になって戦っている。

「シンジくん」

 マナが近づいてきて、そっとその手に触れる。

「ごめん、マナにも心配かけちゃったね。戻ってくる自信があったから、マナには言わないようにしてたんだけど」

「うん。気遣いは嬉しいよ。でも、アスカが言ってたの」

 ちらり、とマナがアスカに流し目を送る。あ、あ、と彼女の顔が真っ赤に染まる。

「アスカ、自分なら一人だけカヤの外は嫌だって。家族なら苦しいことも分け合うものだって」

「そんなことを言ったの?」

 少年が本気で驚いてアスカを見つめる。ふん、と彼女はそっぽを向く。

「アンタならそう言うんじゃないかと思ったからよ。どうやらアタシの見込み違いだったみたいだけどね」

「ごめん」

「今日のアンタは謝りすぎ! 内罰的よ!」

「そうだね、確かに」

 苦笑する少年は、手をつないできたマナを抱き寄せる。

「あ、シンジくん」

「ごめん、マナ。でも、僕は絶対に死なないから、安心して。僕はマナを置いてはどこにも行かないよ」

「うん」

 だが、今度はそうなると目の前のクールビューティが静かな怒りを見せる。
 なかなか、三人を平等に愛するというのは難しいことのようであった。






「サードチルドレンが意識を取り戻したそうです」

 地下、ターミナルドグマ。
 リツコはその『禁断の場所』に報告に来ていた。その場所にいるのはただ一人、総司令碇ゲンドウ。

「ああ」

 冬月がこの場にいてくれたら、と思う。自分ではこの人物に対しておいそれと質問や意見を言うことができない。
 だから、淡々と事務的なことしか話すことができなくなる。

「フォースチルドレンの選抜、終了しています」

「ああ」

「その……よろしいのですか?」

「問題ない」

 少年はフォースチルドレンが近く選抜されることを知っていた。
 そして、それを知ったゲンドウは。

「予定通り、行え」

「はい。ですが、機体はどうしますか」

「問題ない。じきに届く」

 ゲンドウは何も言わなかった。
 彼が届くと言うのなら、本当に届くのだろう。
 彼女は何も言わず、その不思議な物体のいる空間から出た。

 白き巨人。

 あれが何者なのか、リツコは知らされていない。だが、あれの存在はずっと以前から知っていた。
 おそらく。

(あれが、使徒の目的なのね)

 ここにきて、ようやく目星をつけることができていた。






「で、結局エヴァ参号機はこっちに来れないわけ?」

 なんとか首の皮一枚つながった作戦部長が不満げに話を切り出してきた。

「ま、そうでしょうね。分かっていたことではあるけれど」

 リツコはそれに応じるも、ゲンドウの『じきに届く』の言葉を考えるとそこまで悲観的というわけでもなかった。
 どういう裏工作を使うのかは分からないが、第一支部も第二支部も確かにそう簡単に動く組織というわけではない。よほど強引な手段を用いるつもりなのだろうが。

「どういうこと?」

「現状の三機で充分に使徒を撃退している、というのが理由よ」

「はあ? ここが倒れたら人類が全滅するってわかってんの?」

「私に言わないで。国連も加盟国も、どこだって自分の利権が一番大切なんだから。それに、理由はそれだけじゃないわ。この間のN2全弾投下、あれも理由の一つよ」

 ミサトがまた疑問符を顔に出すので簡単に説明する。

「つまり、ネルフに兵力を集中しすぎないようにしたいのよ。もしネルフが国連に背いたら、ネルフを止められる組織はもうないわ。N2が全てなくなったんですもの。N2はいわば、私たちに対する切り札という意味もあったのよ」

 もしネルフが国連と違う方向に動くようであれば、N2をネルフに全弾投下する。
 確かにそれは想像すると恐ろしい事態である。

「なるほどね。N2がなくなったらエヴァは止められない、か」

「それだけが国連の手段というわけじゃないでしょうけど、でもN2があれば私たちに対する抑制にはなるでしょう」

「まあね。あんなの全弾くらったら、ジオフロントなんて一瞬で蒸発するわよ」

「そういうこと。あれで使徒を倒せたからよかったようなものの、もし倒せなかったら司令もあなたも、今ごろクビどころじゃ──」

 そこまで考えて、リツコは口を止める。
 そう、使徒を倒せたからN2の全弾投下も結果としてやむをえなかった、ということになっている。まだ少年とは話していないが、あのN2全弾投下がなければ使徒は倒せなかったのだろうか。
 そうではない。結局使徒を倒したのは初号機の暴走の結果だ。N2の全弾投下など、いったい何の効果があったというのか。
 少年はゼーレを敵に回すことを公言している。
 ならば、少年の狙いは、使徒を倒すためにN2を使ったのではなく、N2を強引に使わせてゼーレの切り札を奪うことではないのか。
 リツコはマイクに向かって叫んだ。

「シンジくんをここに連れてきて、早く!」

「ど、どうしたのよリツコ」

 慌てるミサトをじっと見つめる。
 これから話す内容を、ミサトにも聞かせるべきだろうか。
 彼女の目的は分かっている。父親を殺された復讐のために使徒と戦う。それが彼女の目的だ。
 だから、ゼーレなどというものに関わってほしくない。これは友人としての、願いだ。

「ミサト。よく聞いて」

 いつになく真剣な友人の言葉に、ミサトは言葉もなく頷く。

「あなたが使徒を倒すことを自分の目的としているのなら、これから私とシンジくんが話す内容は聞かない方がいいわ。あなたのためにならない」

 それは、出ていけという意味だ。
 だが、ミサトはその言葉を自分の中でじっくりと反芻してから答えた。

「それは、私に覚悟があればここにいてもいい、ってことよね」

「中途半端な覚悟なら必要ないわ。あなたは使徒を倒すことができれば充分じゃないの?」

「十五年前みたいに、誰かの掌の上で踊らされるくらいなら、死んだ方がマシよ」

 セカンドインパクト。彼女たちの世代にとっては忘れることができない大惨事である。
 南極の氷がとけ、水位が上がり、地軸も曲がり、日本には四季がなくなり、虫の声が途絶えた。
 異常気象、不作、疫病、そして戦乱。セカンドインパクト後の世界を考えると、よくこうして無事に生きていられたものだと思う。
 そして、そのセカンドインパクトすら、何者かによって操られた事象だというのなら、彼女が許すはずもない。
 それは、リツコにもよく分かっていた。

「好きになさい」

 ミサトが頷くのを確認すると、リツコはコーヒーを三人分淹れた。
 その直後、少年が元気な姿を見せた。

「呼ばれて来ましたけど」

「ええ、わざわざ悪かったわね。体の具合はもう大丈夫?」

「なんとか。まだちょっとだるいですけど、問題はないですよ」

「そう。座って、今コーヒーを淹れたところだから」

 リツコはまず少年にカップを渡すと、ミサトと自分の分も持ってくる。

「それで、何の話ですか?」

 少年は視線をミサトの方に流す。いてもいいのか、という意味に取れた。

「ミサトなら気にしなくていいわ。大したことじゃないから。あの使徒に飲み込まれた先のディラックの海、あそこがどうなっていたのか知りたいのよ」

「ディラックの海、ですか」

 少年はしばし考えてから、尋ねる。

「そもそも、ディラックの海ってなんですか」

 あまりに意外な質問だった。少年ならばそういう知識は当然にあるのかと思っていた。
 いや、知っていてそれを隠しているのかもしれない。

「ふうん、その言葉自体は知っているのね」

「ええ、どこかで聞いたことがあります」

 どこかで聞いた。それはなんとも都合のいい言葉使いである。覚えていないのだから追及のしようがない。リツコは苦笑すると簡単に説明した。
 ディラックの海とは、イギリスの物理学者ディラックが考え出したエネルギー理論である。
 ディラックのエネルギー方程式を解くと、解に正のエネルギーと負のエネルギーが存在することになるが、この世界には正のエネルギーしかなく、負のエネルギーはどこにも存在しない。そこでディラックは負のエネルギーが詰まっている空間が真空であると定義した。
 だが、真空に負のエネルギーの粒子が詰まっているとすれば、真空を進む際に粒子との摩擦が生じることになるので、慣性の法則に従って永遠に進み続けるということはありえなくなる。従って、この負のエネルギーが満ちた場所は、この世界ではない『異世界』に存在するのではないか、と考えられた。
 それが虚数空間である。
 虚数というものも本来ありえないのに作り上げた机上の数に過ぎないのだが、理屈では存在することになる。本来存在しない虚数空間に、本来存在しない負のエネルギーを満たした場所、それがディラックの海と呼ばれる場所だ。

「それって、存在しないって意味じゃないんですか?」

「でもシンジくんは実際にその世界へ行ってきたんでしょう? 向こうには何があったの?」

「何も」

 少年は肩をすくめる。

「何もありませんでした。ただ広い空間が延々広がっていただけです」

「まあ、そうでしょうね。でも、もう少し詳しく教えてくれると嬉しいのだけれど」

「そう言われても、何もないものは何もないですからね。上下左右前後、とにかく何もない真っ暗な空間がひたすら広がってました。いや、あれは暗いっていうのかな。何も見えない、何もない空間、って言った方がいいんだと思います」

 結局、人類初の虚数空間体験は、ただそれだけで終わってしまったということだった。

「残念ね。もしもう一度同じ機会があったら、少し詳しく調べてみてくれるかしら」

「もうないですよ、こんなことは」

 少年は苦笑する。

「そう。じゃあこの先、虚数空間に放り込む使徒はいない、ということね」

 言葉尻を捕らえてリツコは尋ねる。

「こんな使徒がまた現れても、僕はもう飛び込んだりしませんよ」

 それに対する少年の言葉は、認めたとも認めていないとも取れるものだった。そういう言葉使いを選んでいるのだろう。

「それじゃあ聞くけれど、シンジくん。結局のところ、シンジくんはあの使徒を倒すのに、初号機を暴走させるしかないって分かっていたのね」

 確認である。まあ、あの戦い方を見る限りではそうとしか取れないが。

「暴走したときのことはあまり覚えてませんけどね。でも、それしかないっていうのは確かに分かっていました。内側から破壊する。それしか手はありませんから」

「なるほど」

 捕らえた。
 リツコは笑って、さらに尋ねた。

「じゃあ、N2を全弾投下させたのは何故?」

 少年の顔が驚く。そして、顔をぽりぽりとかいた。

「最近の赤木博士はやっぱり意地が悪い質問をするなあ」

 傍で聞いていたミサトはまだ状況が分かっていない。あえて説明するような口調でリツコが続けた。

「つまり、シンジくんはあのN2を全部虚数空間に捨てるために投下させたのね?」

 え、とミサトはようやくその言葉に反応する。

「多分、赤木博士の考えで間違ってないですよ。そこまで感づいているなら、僕の狙いもお分かりでしょう」

 どうやら間違いではないらしい。

「ゼーレから、N2を奪うため、ね」

「そうです。本当はカムフラージュのために十七時間経ったぎりぎりのところで投下してもらった方が、こうしてばれなくて済んだんですよ。エヴァの暴走もN2のせいにできますからね。でも、僕はあのN2を一つたりともゼーレの手元には置いておきたくなかった。まあ、どれだけ言っても一つや二つは残してあると思いますけど。それに、一度作ったものですからまた作ることもできますしね」

 とはいえ、何百というN2を新たに作り直すほど、国連も金銭的な余裕はないだろう。

「ネルフとゼーレが敵対すると考えている?」

「百%、ですよ。というより、もう既にゼーレはちょっかいをかけてきてるじゃないですか。気づきませんか?」

 リツコは何を言われているのか分からない。

「小さなところではこの間の全電源カット。あれは妨害工作でしょう。ゼーレ以外にそんなことができる組織はありません。多分『鈴』が動いたんだと思いますけどね」

「そう。やっぱりあの事件はそうだったのね」

「それに、この間極秘裏に倒した使徒。あれもわざわざタンパク壁に忍ばせてくるなんて、ゼーレのしわざに決まってます」

 少年はどこまで知っているのだろうか。自分ですら知らないことを。
 リツコは恐ろしさすら感じる。そして、まだ少年が自分に隠していることは山ほどある。
 いったい何を知っているのか。

「ゼーレと敵対するのはいつ?」

「決まってます。十七の使徒を全て倒した後ですよ。生き残りをかけた勝負ですね。人間の敵は人間です」

「ゼーレはここにどう攻めてくるつもりかしら」

 口にしたのは、半ば少年が知っているだろうと推測しているからだが、それに少年は口を閉ざした。いや、違う。
 少年は再び、今度は悟られないようにほんの一瞬だけ、ミサトを見た。

(……ゼーレとの戦いについて、ミサトには知られたくないということ)

 後で教えてくれるのならばそれでもかまわない、とリツコはこの場での追及を諦める。やはり、外に出しておくべきだった。

「色々と情報を提供したお礼に、何か別の情報を僕にはもらえないんですか?」

 突然少年がそんなことを言い始める。

「どうしたの、突然」

「いえ、僕たちは対等の立場で協力を申し出たはずです。なら、ネルフが隠していることも少しは教えてくれてもいいんじゃないかと思いまして」

 少年が何を言いたいのかは分からなかった。だが、以前から少年と話していれば、おのずと予測がつく。
 少年が知っていること。ダミープラグ、S2機関、そしてフォースチルドレン。

(なるほど)

 フォースチルドレンが選抜された。少年はそのことを追及してきているのだ。

「フォースが選抜されたわ」

 少年よりもミサトが驚いていた。

「ちょっち、聞いてないわよ」

「内々によ。委員会から正式には来週下りるわ。驚かないのね、シンジくん」

「まあそれについて知っていたのは、赤木博士もご存知でしょうし。それで、誰です?」

「それも知っているんでしょう?」

 ためしに尋ねてみる。

「あまり僕を過大評価しないでください。僕にだって知らないことは山ほどあります」

 とてもそうは見えない。これも演技をしている可能性が大きい。
 だが、本当に知らないのだろうか。
 まあここは、相手のご機嫌を取っておいたほうがいいだろう。

「フォースチルドレンは、鈴原トウジ」

「鈴原?」

 誰、という様子で尋ね返す。

「シンジくんのクラスメートよ。知っているでしょう?」

「クラスメート? いえ、正直僕が覚えているのは、アスカと綾波とマナの他には委員長くらいですから」

「ほら、この間エヴァに乗ったジャージくんの方」

「ああ」

 ようやく思い出したというように、少年は嫌そうな顔をした。

「そういえばいましたね、そんな奴」

 どうやらあの事件は、少年によほど嫌な思い出として残っているようだった。

「実際のところ、感想は?」

「邪魔」

 一言だった。

「邪魔?」

「戦う覚悟のない奴にうろうろされるのは困ります。綾波もアスカもそれがあるから背中を預けられる。でも、彼にそれがあるとは思えない。これはゲームじゃない。中途半端な使命感や期待感を持ってこられても、邪魔にしかならない」

「でも、シンジくんだってもともとエヴァのことを知らなかったでしょう?」

 不敵に笑う。もちろん、言った本人が自分の言葉を全く信じていなかった。

「僕は最初から決めていましたから」

 少年はそれ以上何も言わない。詮索無用ということだった。

「コアは、彼の妹ですか」

 突如、少年は核心をついてくる。リツコは今度こそ、冷や汗を隠しきれなかった。

「どうやら、そうみたいですね」

 少年から怒りが見え隠れする。

「待って、シンジくん。誤解があるわ」

「待ちません。人類を救うためとはいえ、罪もない少女を人柱にするつもりですか」

 ミサトは突然の事態の変化に戸惑う。

「ちょっと、どういうことよ」

「葛城さんは知らないかもしれませんが、エヴァのコアに使われているのは、現実に存在する人間の人格なんですよ。それも、生きていたままでは使うことができないという、禁断の術です」

「それって」

「初号機には僕の母さんが、そして弐号機にはアスカの母さんがインストールされている。コアは近親者、非常に近しい人物じゃなきゃ駄目なんです。より高くシンクロするためには」

「どうして、それを知っているの、シンジくん」

「僕が知っていることなんかより、彼の妹の問題です。どうなんですか。コアは本当に彼の妹を使うんですか」

「鈴原アヤさんならコアにすることはできないわ。何故なら、彼女の容態は決して死ぬようなものではないからよ。シンジくんは知らないかもしれないけれど、彼女はもうとっくに意識が戻って、こんど左腕の義手手術をするところなのよ」

「じゃあ、誰をコアにするつもりですか! それ以外に該当者はいないでしょう!」

「それは言えないわ。でも、現状、今生きている人を犠牲にすることはしないわ。私の全てにかけて約束する」

 ともかく、その言葉を聞いてひとまず落ち着いたのか、少年は一度呼吸を整えた。

「そんなに彼の妹のことが気になるの?」

「そりゃ、せっかく助けておいて殺すなんて後味悪いですからね」

「そうじゃないわ。あなたはただ助けたいだけなのよ。守りたいという意思を表に出さないようにしている」

「相手の心の中まで分析ですか? それより質問がまだです」

「コアの件なら、これ以上はないわよ」

「違います。機体はどうするかということです。参号機も四号機もアメリカだと思いましたが」

「現状でこっちに来る予定はないわ。あなたのお父さんがどうにかしてくれる予定だけど」

「どうにか?」

 少年は自然と考える姿勢になる。

「……一つ、いいですか」

「いくつでもかまわないわよ。どうぞ」

「四号機のS2機関搭載実験はどうなりましたか」

 また話が飛ぶ。リツコはスケジュール表を覗いて確認する。

「残念だけど、凍結はしてないみたいね。やるみたいよ。まあ支部とはいえ、向こうとこっちは全然別の組織だから」

「なるほど。そういうことですか」

 少年は一人納得して、苦虫を噛み潰したような表情を見せた。

「突然納得して、どうしたの」

「いえ、どうしてS2機関の搭載実験が『失敗』するのか、ようやく分かったんですよ。僕も案外、頭が悪い。どうしてこんな簡単なことに気づかなかったんだろう」

「失敗?」

 まだやってもいないのに失敗とはどういうことか。

「僕がS2機関が危ないと父さんにわざわざ伝えてもらったにも関わらず、実験は止まらない。赤木博士は知らないかもしれませんが、父さんは全部知っているはずです。やれば暴走するっていうことは。父さんが無理に止めたりしないのは、失敗させる必要があるってことです」

「失敗させる必要?」

「ええ。つまり、父さんのシナリオではこうです。四号機の実験が失敗する。ただ失敗するだけならいい。結果は、研究所の全てがディラックの海に放り込まれるほどの『災害』となる。もちろん、四号機も含めて」

「な」

 リツコは空いた口がふさがらない。

「アメリカ政府は第一支部と第二支部の両方を失うわけにはいかない。だから、自分から参号機を手放し、ネルフ本部へ移送することが決定する。それが父さんのシナリオなんでしょう」

 数千の人名を人柱に、ネルフにエヴァを集める。

「さすがだね、父さん。手段は選ばず、ってところか」

 少年が毒づく。さすがにリツコも言葉がない。ゲンドウはそんなことは何一つ言わなかった。言うはずがない。そんな必要すらないのだから。

「赤木博士の権限で実験を停止、もしくは延期させることは?」

「無理ね。この段階で私が何を言っても無駄よ。アメリカ政府は強引にでもこの実験を実施してくるわ」

 少年は頭を抱えた。
 国一つを、それも常任理事国にして世界の大国アメリカを動かすなど、一人の人間の意向ではどうにもならない。それこそ、総司令碇ゲンドウがストップをかけたところで、アメリカは国の威信にかけて行うだろう。
 数千の犠牲が結果として出ることになっても。

「それなら、被害は少しでも食い止めましょう」

「どうするの?」

「実験当日は研究所内には必要最小限の人員を残して、全員研究所の外に出してください。いっそのことネルフ本部に呼んで研修会を開くというのも手です。なんでもいいです、とにかく無駄な犠牲は省きたい」

 ネルフの支部だ。それこそ実験に携わらない事務方や掃除家などいなくてもいい。
 その日は実験以外全て稼動しないようにする。そうして一人でも多くの人命を救う。

「分かったわ。可能な限り手を打ってみる」

「ありがとうございます」

 一安心したかのように少年は安堵の息をつく。

「実験はいつですか」

「あと十日ね。急がないとまずいわ。ま、なんとかするから」

「期待してます。この件がすんだら、一つ面白い情報を提供しますよ」

「面白い?」

「それは全てが終わってからのお楽しみにしておきましょう」

 少年は苦笑すると立ち上がった。

「それじゃあ、僕はもう行きます。三人が待っているので」

「今日一日はまだ退院は──」

「しますよ。どうせ検査だけなんでしょう? 僕には必要ありません」

 少年は言い残すと部屋から出ていった。
 あとに残されたミサトの鋭い視線を受けつつ、リツコは冷めたコーヒーを一気に飲み干した。

「忙しくなるわね」

 誰にともなく、彼女はそうもらした。






弐拾

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