ようやく歩きまわれるようになった彼女は、病院服のまま庭に出ていた。
 左腕の部分の布地がぷらぷらと揺れている。もう数日もすれば義手手術を行うとのことだったが、それもどうせ自分の腕ではない。なくした腕は還ってこない。
 どうしてこんな目にあったのかと思うと、すぐに涙がこみあげそうになる。
 彼女はまだ、十二歳だ。
 突然使徒戦争に巻き込まれ、気づけば左腕を失った。そんな重たい事実にはなかなか耐えられるものではない。それにしては気丈に振舞っていた。
 特に毎日のように面会に来る兄が申し訳なさそうな顔を見るにつけ、いつも以上に元気な様子を見せる。それも彼女にとっては苦しかった。苦しいのは自分なのに、自分のせいで兄まで苦しめている。だから少しでもあの優しい兄が苦しまないようにと無理を続ける。
 だから最近は、こうして一人でいる方が気楽だった。
 何も考えなくて、すむから。

「一人?」

 少しキーの高い、少年の声が聞こえる。
 彼女が見上げると、そこに綺麗な顔立ちをした少年がいた。

「あ、はい……」

「これは、邪魔しちゃったかな」

「いいえ」

 優しそうに笑う少年。自分より一つか二つ、年上のように思えた。

「もしよかったら、少し話でもしようか。知らない相手と話すのは、少し気がまぎれるかもしれないよ? 隣、いいかな」

「あ、はい」

 そうして隣に座って彼女を見つめてくる。
 そんな横顔も、今までに見てきた男子生徒よりもはるかに素敵だった。

「あ、私、鈴原アヤっていいます」

「ごめん、僕も名乗ってなかったね。僕は碇シンジ。よろしく」

 にこりとした笑顔が、最高に綺麗だった。












第弐拾話



宴の前












 前回の使徒戦以来、サードチルドレンが毎日のように鈴原アヤを見舞いに行っているという話はとっくにリツコの耳に届いていた。
 おそらく、本当にアヤがコアにされないかどうか見張っているつもりなのだろう。病状や今後の手術についてもかなり詳しく本人から聞きだしているようだった。
 その報告を受けたリツコは一安心していた。

(やはり、トウジくんがフォースチルドレンとなることを知っていたみたいね)

 あの場ではトウジのことなど全く知らないという素振りを見せていたが、おそらくあれもポーズなのだろう。もっとも、それを隠さなければならない理由もまだ分からないが。
 とはいえ、今のリツコはそのようなことにこだわっている暇などなかった。アメリカ支部から送られてくる二千人もの大所帯をどうやって捌くか、それに四苦八苦していたのだ。
 一時的に本部に住まわせるのも危険だが、帰しても彼らには行くところがない。おそらく研究所がなくなった際には、しばらく本部で預かってほしいとアメリカから依頼されるだろう。もちろん、それほど長い時間ではないだろうが。

「赤木くん」

 ケイジで指示を出していたリツコのもとを訪れたのは冬月副指令であった。

「副指令。このようなところへ」

「いやいや。ちょっと内線ではなんだからな」

 ちらちら、と冬月は回りを見回す。誰も近くにいないことを確認してから尋ねる。

「今回の二千人の本部見学、あれはいったいどういう理由かね。それも、向こうではS2機関の搭載実験があるんだろう」

「ええ。ですが、必要なことだと判断しました。S2機関の実験を今後とも続けていくならば、彼ら支部の者に対してエヴァの知識を与えていくことは必要な作業です」

「それは分かるが、急すぎはしないかね」

 話には聞いている。突然本部から支部に向けて発信された一つの文書。二千人といえば、研究所の半分以上の人数だ。それがいきなり本部へ来い、というのだから。

「今やらなければいけないことです。S2を完全なものにするためにも。私たちの目的では、S2を初号機に搭載させないといけない。そうですよね」

「うむ。だが、まさに実験期間中というのは、実際に実験に立ち会う者を呼ぶことはできないということだろう?」

「ええ。ですがエヴァに関することは末端の人間になればなるほどその正体や扱い方が分からなくなっていくものです。むしろ、末端の人間ほど今回は来てほしいと思いましたので」

 流暢に答えるリツコ。全く、ここまでのことをさせるのだから、少年に対する見返りは相当大きくなければやっていられない。

「まあ、そこまで君が言うのなら必要なことなのだろう。全て任せることにするよ。それに、碇の奴も好きにさせるように言っていることだしな」

 総司令が。
 その言葉はリツコの気を重くさせた。何しろ、ゲンドウは自分に黙って研究所職員を三千人、人柱にしようとしていたのだから。

(でも、千人を助けることはできなかった)

 マヤと徹夜で支部の情報を詰めて、ようやく算出した二千人であった。当日は実験と直接関係ない職員には休暇にするよう指示してある。おそらくもう二、三百人ほどは助けられるだろうが、結局五百人以上が犠牲となることは避けられない。
 知っていて何もできない。それがこれほどもどかしいとは。

(……シンジくんも、ずっとそういう思いだったのかしらね)

 全てを知っているということは、何かを諦めなければいけないという選択を迫られていることなのかもしれない。
 少なくとも、今の自分は以前ほど少年を苦手には思わなくなっていた。それは、少しでも同じ土俵に上がることができたからだろうか。






 もちろん、少年がそうした行動に出ていることを、かしまし三人娘が知らないはずがない。

「で、アンタのことだから、どうせまた何かの伏線なんでしょ?」

 夕食の際にずばり切り込んでくるアスカはいつものように容赦がなかった。苦笑しながら少年は「まあね」と答える。

「あのジャージの妹なんですってね。どういう関係よ」

「安心していいよ。別に、この家に同居人が増えるっていうような関係じゃないから」

 つまり、かしまし三人娘と同格ではないということを宣言したことになる。とりあえずそれを聞いていたレイもマナも一安心する。

「平たく言うと、四人目。もうすぐ到着する参号機のパイロット」

 ずずっ、と味噌汁をすする。うん、今日も良い出来、と少年は自画自賛した。

「フォースチルドレンッ!? あいつがっ!?」

 ボリューム最大でアスカが怒鳴る。だが、そう怒鳴っても事実は事実。変えようがない。

「うん。今日赤木博士から直接言われた。間違いないみたいだね」

「それで、アンタはどうしたっていうのよ」

「別に。本人には邪魔になると言っておいたけど、どう捕らえられるかは分からないな、正直」

 少年はこの件に関してはそれほど重たく取り扱っている様子ではなかった。少なくとも、前回のレリエル戦の時のように何らかの危険が伴うということはないようだ。

「それでアンタ、まさかジャージまでこの家に呼ぶつもりじゃないでしょうね」

「なんでそんなことしなきゃいけないんだよ。さっきも言ったけど、あいつは邪魔だ。僕はあいつをパイロットだなんて認めないよ」

 きっぱりと言い切る。まあ、今までも好き嫌いがはっきりしている少年だっただけに、それほど違和感というものはないのだが、ここまではっきりしているのも珍しい。

「よっぽど嫌ってるみたいだけど、なんかあったの?」

「それは本当に単純に僕の個人的な感情だからノーコメントにしておくよ。ただ、あいつのせいでハラワタぶちまけたと思うと、やっぱり一回白黒つけておいた方がよかったかなと思うくらい」

 どうやら、まだ第四使徒のことを根に持っているようであった。とはいえ、そのことを知っているのはこの中ではレイだけなのだが。

「それじゃ、それに関しては追及しないわ。そのかわり、もう一つ教えて」

「何」

「次の使徒のことよ。次はどういう手でくるの?」

 少年の体調も一段落し、ようやくこの話ができるとアスカは待ち構えていた。初めから今日こそはその話をすると決めていたのだ。

「まだ分からない」

「は?」

 だが、少年の言葉は意外な変化を見せた。

「分からないって、どういうことよ」

「言葉の通りだよ。もちろんどういう使徒かっていうのは分かっているんだけど、どういう形で出現するのかが不明ってこと。でも安心していいよ。次の使徒は強くない。普通に戦えば普通に勝てる。でも」

「問題はその次、ってこと?」

 さすがに長く少年と話をしてきているだけのことはある。そう、と少年は呟く。

「第十四使徒。まあ、言ってしまうと最強だよ。多分勝ち目はないね」

 さらりと少年は言ってのける。

「強いの?」

「強い。容赦なく強い。エヴァが百機あっても叶わない」

 少年が説明したところによると、第十四使徒とは以下のような使徒であった。
 まず、防御力が段違いに高い。A.T.フィールドを中和したとしても、エヴァのこれまでの兵器では傷一つつけられない。しかもコアに攻撃をしかけたとしても、コアを守るための装甲が用意されている。その装甲はN2爆弾ですら無傷という無敵のシールドだ。
 攻撃は折りたたむことができる両腕。トイレットペーパーのように伸びて攻撃してくる。A.T.フィールドを全開にしても容赦なく突き抜けてくる。あれはくらったが最後、腕でも首でも切り落とされる。
 そして使徒の放つ衝撃破。これはネルフの二十四枚あるシールドを一撃で二十二枚までぶち抜ける凶悪無比の技。

「さあ、こんな使徒を相手にどう戦う?」

「アンタが質問する役かいっ!」

 アスカは大声で怒鳴りつける。だが、それは半ば自分の精神安定のためだった。
 聞いた限りでは、どんなことをしても勝てそうにない。こちらの攻撃は届かず、向こうの攻撃は一度くらえばアウト。これでは勝負にならない。

「ダメージを与える方法はあるの?」

 レイが静かに尋ねる。そう、ここまで言って少年が困っていないように見えるのは、きっと方法があるからだろう。

「まあね。これ」

 少年は拳を握り締めた。

「肉弾戦。それしか方法はない。敵のコアを引きちぎって、潰す。まあ、それができる相手かどうかはわからないけどね。これは完全なパワーゲームだよ。綾波とアスカは完全に僕のバックアップに回ってもらう形になる。で、僕が仕留める」

「どうしてアンタなのよ」

 不満げにアスカが口にする。

「決まってる。僕の方が使徒に詳しいからだよ。コアの場所まで完全に分かっている。僕なら戦いの中で敵のコアを探してためらうことはない。その一瞬の差が僕にはある。こうして説明されるだけのアスカには、絶対にそれがない。だからさ。少しでも勝率は高めたいからね」

 言っていることは限りなく正しい。

「ま、いいわ。アンタにはアンタの事情って奴があるんだろうし。そこは大目に見てあげる」

「ありがとう」

「でも、勘違いしないでよね。エヴァのエースパイロットはアタシなんだから!」

 びしっ、と指を差す。少年は苦笑して答えた。

「僕はただ知っているだけだよ。シンクロ率だって僕の方が確かに上だ。でもそれは、エヴァの動かし方を知っているにすぎないんだ。僕は自分が一度だってアスカに上回っているなんて思ったことはないよ。これは本気だ」

 真剣に言う少年に、逆にアスカの方が驚いて言葉をなくす。

「ただ、使徒戦に関していえば、それこそ勘違いしないでほしい。これは情報戦なんだ。アスカでは敵わない相手でも、僕なら倒せるんだ。それが情報量の差だよ。僕は絶対に、誰も死なせたりはしない。アスカも、レイも、マナもね」

 それは少年の覚悟だ。平気で口にしながらも、それを絶対に実行してみせるという強い意志の表れなのだ。






「はあ」

 少年とレイが寝室へ入ったのを見て、マナがため息をついた。
 レイは今でも少年と一緒のベッドで眠っている。
 中学生には早いことだというのは分かっている。それでも、羨ましいと思うのは悪いことなのだろうか。

「なぁ〜に思わせぶりなため息ついちゃってんのよ、転校生」

 アスカがにやにやと笑っていた。顔を赤くしたマナが俯く。

「なに、まさか『私もシンジくんの隣でねたーい♪』とか思っちゃったりしてるわけ?」

「そうです。いけませんか」

 だが、この時のマナは随分挑戦的だった。

「アスカさんだって、同じことを思っているはずです」

「アタシがぁ!? 冗談じゃないわよ!」

 だが、彼の家まで一緒に住むために来ているのを見れば説得力は限りなく低い。

「私は、どうあってもシンジくんの力にはなれないんです。いつもシンジくんに助けてもらってばかり。ムサシのことだってそうだし、私自身をかくまってくれたためにシンジくんはネルフに弱みを握られている」

「アンタ、そんなこと考えてたの」

 いまさら、というようにアスカが答える。だが、これはマナにとっては切実な問題だった。

「そうです。ずっと考えてました。私、どうすればシンジくんに恩返しできるんだろうって。いつもシンジくんに助けてもらってばかりで、私は何も返すことができないでいる」

「そんなの、アンタが一緒に住んでいるだけでアイツにとっちゃ充分なんでしょ」

「それも分かってるんです。でも、それだけなら自分に自信がもてないんです。アスカさんやレイさんは一緒に戦うことができる。シンジくんを助けてあげられる。でも、私には──」

「別にアタシだって、シンジを助けることなんかできないわよ」

 少し不満げにアスカがもらす。

「アイツ、アタシたちの力を信頼しているみたいに言ってたけど、ようはバックアップなんて、危ないから前に出てくるな、って意味よ? 守られてんのはアンタだけじゃないわ。アタシたちだって同じなのよ」

 明らかにアスカは不機嫌そうだった。それも仕方ない。彼女はずっと一番でいるためにネルフにいたのだから。それをあっさりと上回っていく少年に嫉妬するのは仕方のないことだ。

「でも、戦うことはできます。私にはできない」

 ぐっ、とマナは拳を握り締める。

「分かってます。たとえエヴァに乗ったとしても、私じゃ何もできないって。アスカさんみたいに、自分が何もできなくて悔しい思いをするだけだって。でも、でも今のままじゃ、私は本当にただのお荷物になってる。それが嫌なんです」

 アスカが表情をなくしてマナを見つめた。
 そのいつになく真剣な様子に、マナが驚いて「どうかしましたか」と尋ねる。

「いや。そう考えると私も結構羨ましがられる立場にいるんだなって思ったのよ。アンタも大変ね。バカシンジの相手は一筋縄じゃいかないわよ」

「分かってます」

「それじゃ、シンジを喜ばす方法、教えてあげようか?」

 にやにやと笑うアスカ。明らかに怪しかった。

「……一応、後学のために聞いておきます」

「んじゃ、ちょっと耳貸して」

 ひそひそ話をするように、アスカが彼女にその『方法』を伝える。
 直後、真っ赤になったマナは、勢いよく立ち上がった。

「そんなことできません!」

 ばたばた、と駆け去っていく後姿を見て、アスカは笑っていた。

(こりゃ面白いからかい相手ができたわ)

 案外あの転校生もこうして慣れてくるといい奴だった。

(ったく、罪づくりね、バカシンジも)

 そうして最後に少年の寝室の方を見てから、アスカも自分の部屋に戻った。






「碇くん?」

 ベッドの中、虚空を見つめる少年が思索を中断したのを見計らって彼女は声をかけた。

「ああ、綾波。まだ起きてたかい?」

「何を考えてたの」

「まあ、色々と。考えることは山ほどあるよ」

 そう。少年にはいくらでも考えることはあるのだろう。それを教えてもらえない以上、彼の悩みが何なのかレイには分からない。
 少しでも少年の力になりたい。それなのに、彼はそれを拒む。

「次の使徒のこと?」

 少年が苦笑する。

「次の使徒は問題ないって言わなかったっけ」

「それが本心とは思えないわ」

「なるほど。みんな騙せたと思ったんだけど、綾波は別だったか」

 確かにマナとアスカは気づいていなかっただろう。夕食時の少年は、明らかに会話をすりかえていた。触れてほしくない第十三使徒戦から話をそらし、最強の使徒と位置づける使徒の話をしてアスカの興味を惹いてしまった。
 だが、レイには分かっていた。今までパワーゲームならば少年は何度でも跳ね返してきた。サキエルも、シャムシエルも、ラミエルも、イスラフェルも、マトリエルも、サハクィエルもだ。
 だが、レリエルのようなパワーゲームにならない敵こそ、少年は今まで一番恐れていたのではなかったか。彼の力が通用しない敵こそ、一番危険なのではないか。

「正直に言って、次の使徒は少しやっかいなんだ」

「勝てるのは間違いない?」

「ああ。それほど強くはない。ただ、次の奴はエヴァに寄生するんだ」

 エヴァに寄生する。それが意味するところはつまり、

「相手はエヴァ?」

「そう。四号機がこの後実験ミスで失われて、参号機が日本にやってくる。その途中で使徒に憑依される。使徒が活動を開始するのは最初の起動実験の時。松代でね」

「それじゃあ、起動実験は──鈴原くんが?」

「そうなるんだろうね、きっと。普通に戦えば彼が傷つく。だからエヴァに関わるなって忠告はしたんだけど。まあ、乗る乗らないは彼の自由だからね」

 先程から毒づいているのはどうやらそれが原因だったらしい。

「碇くんは優しいから」

「なに?」

「鈴原くんのこと、嫌っている振りをして自分と関係ないように見せている。でも、妹さんのケアをしたり、鈴原くんのことを考えてくれている。碇くんは優しい」

「僕は彼のことが嫌いなんだよ?」

「嘘」

「はあ、やれやれ」

 少年は大きくため息をついた。だが、レイには分かっている。そんなポーズすら崩せないから、彼は碇シンジなのだ。

「でも、今考えていて分かったことがある」

「なに」

「僕はずっと、どうして参号機に使徒が取りつくのか考えていた。そうしたら、簡単なところに答があったんだ」

「どうしてって、使徒が参号機をのっとろうとしたのではないの?」

「使徒にそんな知能はないよ。使徒を操っている奴らがいるんだ。ネルフに参号機を渡したくないと考えている奴らがね。そいつらが参号機に使徒を植えつけたんだよ。全く、狂気じみている」

「誰?」

「綾波はまだ知らなくていいよ。そうだね、全ての使徒を倒してからじゃ遅いか……最強の使徒を倒したあと、多分一ヶ月くらいの余裕があるはずだから、その時にでも」

「分かった」

 少なくとも少年はその件に関してずっと秘密にするという姿勢ではないらしい。それが分かっただけでも彼女は嬉しかった。

「それじゃあ、鈴原くんごと参号機を倒すの?」

 そのかわり、的確なところをついてくる。少年は困ったように笑った。

「そう、そこなんだよなあ……」

 どうすればいいのか、少年もまだ把握できていないようだった。少年にしては珍しいことだ。

「鈴原を戦わせない方法ならいくらでもある。あいつをボコボコにして病院送りにすれば済むことだ。でもそれだと一時しのぎにしかならないし、問題が解決するわけじゃない。参号機が本部に来るとなれば、必ず使徒がついてくる。何かのきっかけで使徒が突然活動を開始するとも限らない。結局、倒さなきゃいけないっていう現実だけが残されている。ま、仕方がないね。ここは鈴原に痛い目を見ることを我慢してもらおう。よければ無傷、悪ければ義手か義足のお世話になるだろうね。そして最悪は──」

「死ぬの?」

「ありうるね」

 少年はつまらなさそうに言った。
 結局、参号機パイロットの生命は風前の灯火ということだけが分かった。






 数日後、ネルフ第二支部から二千人の研修生たちがやってくる。
 彼らは自分たちが保護されるために来たのだということを全く知らない。突然の旅行に戸惑っているものもいれば、不快に思うものもいるだろうし、逆に喜んでいるものもいるだろう。
 だが、その旅行中に訃報が届くのだ。
 ネルフ第二支部、消滅、と。






「アメリカ政府は何て言ってきたんですか?」

 少年が尋ねる。ちょうどいつもの戦闘訓練後であった。最近は少年の方が格段に強くなったこともあり、対複数相手の訓練が続いていた。

「二千人の受け入れ先を決めるまで、しばらく本部で預かってほしいって。まあ予想ができていたから問題はないわ」

 ネルフ第二支部がS2機関の暴走により消滅する。その結果、行き場所を失った二千人が路頭に迷うのは当然の話で、一段落つくまで本部預かりになるのも予想できた範囲だった。

「エヴァについては?」

「予想通り、参号機は本部送りになるみたいね」

「なるほど。ゼーレが黙っていないでしょうね。彼らはネルフ本部にエヴァが集まることをよしとしないでしょうから」

 平気でそういうことを口にするようになったのは、リツコに対してある程度信頼を置いているからだろうか。いや、そうではない。
 情報を与えておいて、リツコを上手に動かすつもりなのだ。それも、他に道はないというように。

「妨害工作をするつもりかしら」

「でしょうね。僕の中では参号機が使えなくなるような細工をしますけどね。おそらく、とっくに手は打たれていると思います。無事に参号機が到着したら、充分に気をつけてくださいね。自爆装置とかあると厄介ですし」

「そんな見えすいたことはしないわね。彼らなら、もっと巧妙で見つかりにくいことをするんじゃないかしら。それこそこの間のタンパク壁──」

 そこまで言って、リツコは気づく。
 なるほど。少年はそれを自分に気づかせたかったということか。

「というわけで、充分に気をつけてくださいね。何があっても大丈夫なように」

「ええ。わざわざヒントをくれてありがとう、シンジくん」

「どういたしまして」

 使徒。
 参号機に使徒をもぐりこませる。リツコにもそれが規定の路線なのだということが理解できた。






 ある日、鈴原トウジは、昼休みに校長室に呼ばれた。
 戻ってきた彼はどこか呆っとしていて、その後の授業も(いつものことではあるが)ほとんど集中できていないようだった。
 その彼を見た少年は、放課後に彼を屋上まで呼び出す。
 少年の顔を見るなり、彼も何の話なのかは予想がついたらしい。

「何や、お前から話しかけてくるなんて珍しいな、碇」

「単刀直入に言う。ネルフからの誘いは断れ」

 ずばり、まさに本題だった。断ればトウジを斬り殺すと言わんばかりの勢いだ。

「何でや」

「邪魔になるからだ」

「そりゃ、えらい簡単な理由やな」

 トウジは屋上から町並みを眺める。

「わしな、妹がおるねん」

「知っている」

「そうやな。それで一回、喧嘩ふっかけたこともあったな。最近、よく会ってくれとるみたいやないか」

「口止めはしておいたんだがな」

「アヤの手術には金がいるんや。莫大な金がな。でも、わしがネルフに入るならその費用は一切かからないって言ってくれたんや」

「取引か。やれやれ、ネルフも酷な選択をさせる」

「でも、わしがネルフに入ることで妹が助かるっちゅーんなら、それでもええかなと思うんや。だから、碇。これはもう決めたことなんや」

「なら提案しよう」

 少年ははっきりと告げた。

「その費用は僕が出す。だから、お前はネルフに入るな」

「なん……やて」

「費用に億単位かかっても大丈夫だ。それくらいの持ち合わせはある。鈴原アヤという少女は僕にとっても友人だ。友人のために僕ができることっていったら、それくらいだよ」

「──いや、それは断る」

 だが、トウジは断固としてその誘いを断った。

「どうして?」

「妹を助けるのは、あの日、助けられなかったわしの使命や。それを他人に任せるっちゅーのは好かん。まあ、碇がアヤと結婚するっちゅーんなら話は別やけど」

「お前を兄とだなんて死んでも呼ぶつもりはない」

「なら、この件については引っ込んでてくれんか。わしが全て、片付けるからのう」

 彼は本気であった。一度話が持ちかけられたとき、自分で妹を救うことができるということの方が彼にとっては嬉しかった。それは、どれほどの大金に換えられるものではない。
 だから、少年もこれが最後の説得だったのだろう。

「死ぬぞ」

 と、言った。

「そうか。ま、しゃあないな。わしもお前がエヴァの中で苦しんでるの、見とるからのう。ま、わしに出来ることなら何でもするつもりや。悪く思わんといてくれ」

 何を言っても彼は自分の決断を翻すつもりはないのだろう。それが十四歳の若さというものなのかもしれない。

「分かった。だが、もしも邪魔になるようだったら、その時は僕がお前を殺すから、それは覚悟しておいてくれ」

「ああ」

 少年は説得を諦めて、屋上を去った。






 その夜。いつになく気が滅入っている少年の様子に、さすがに三人娘も心配になる。
 何かがあったのは間違いない。だが、その原因がつかめない。

「シンジ」

「……」

 だが答えない。いや、単に自分の世界に入って聞こえていないだけなのだろう。

「シンジ! 起きろこの馬鹿!」

「えっ? ああ、何かあったかい」

「何もないわよ。ただ、アンタがそうやって『かまってください光線』出してるから、アタシたちみんなそれに影響されちゃってるだけよ」

「ああ、そうか。ごめん」

「謝らなくてもいいから、何があったのか言いなさいよ。家族、なんでしょ」

 アスカの言葉に少年の顔が綻ぶ。

「なによ」

「いや。結局、鈴原の説得には失敗したんだ。それだけだよ」

「フォースチルドレン選抜?」

 マナがぴくりと反応する。レイはじっと少年を見つめた。

「まあね。エヴァに乗れば死ぬ可能性もある。やめろって言ったんだけど」

「そうよね、今さら戦線に入って来られても困るわね。アタシだってアンタの足を引っ張ってるくらいなんだから」

「アスカと綾波は足を引っ張ってなんかいないよ。でも、ここで入ってくる鈴原がそうなるのは自明だね」

「ジメイ?」

「分かりきってる、ってこと」

 アスカは難しい日本語でも使いこなすことができるが、まだこうしていくつか使えない言葉があったり、間違った使い方をしたりする。最もこの年で二ヶ国語を話すことができることがすごいのだが。
 と、その時。マナ以外の三人の携帯が一斉に鳴った。

「明朝八時、ジオフロント集合」

「突然ね。何があったのかしら」

「さあ。でも、参号機の件──」

 と言いかけた少年は少し黙り込んだ。

「どうかした?」

「いや。参号機の件なら僕らには声がかからないはずだと思って。フォースチルドレンが松代で起動実験をするはずだから」

「アンタ、どうしてそんなことまで知ってるのよ」

「調べれば意外に分かるものだよ。それに加持さんっていう情報提供者がいるしね。それより、気になるな。どうして僕らが呼ばれたのか」

「ふうん、これはアンタにとっても予定外?」

「予定なんて、かなわない未来のことだよ。僕が知っていることなんて、ごく一握りのことにすぎないんだから」

 そうは言うものの、少年の知識量は桁外れである。仮にネルフにことに詳しいのだとしても、彼の知識量はただの中学二年生のレベルにはとどまらない。いろいろなことに通じすぎている。

「考えても分からないことを真剣に悩む必要はないんじゃない?」

 結局、アスカのその一言でお開きということになった。そして少年がレイとともに寝室に向かおうとしたときである。

「あの、シンジくん」

 意を決した様子で、マナが話しかける。

「なに?」

「あの、えーと」

 優しく微笑む少年と、無表情で見つめてくる傍のレイ。
 マナは少し悩んでから、丁寧に尋ねた。

「今日だけでいいんです。私と一緒に、寝てくれませんか」

 ぶふっ、と食後のミルクを飲んでいたアスカが吹き出す。

「大胆だね、マナ」

 少年もさすがに驚いたようにして頭を押さえた。隣ではレイが予想通り嫌そうにしている。

「お願い、シンジくん。今日だけでいいから」

 少年はレイを見つめる。彼女は何も言わない。少年の指示には従うつもりなのだ。

「ごめん、綾波。マナにも理由があると思うから」

「かまわないわ」

 不満モード全開でつっけんどんに言われては、さすがに少年も困らざるをえないという様子であった。

「綾波はいつも通り僕の部屋で寝てていいから。それじゃあマナ、一緒に寝ようか」

 少年はさっさとマナの部屋へと向かった。

「私の部屋でかまわないの?」

「正直、僕の部屋じゃ綾波もマナも嫌だろう?」

 少年の部屋はレイが独占しているようなものだ。そこに他人が入ってくるのは勘弁できないだろう。また、綾波の匂いがもう少年の部屋には染み付いている。そこにマナも入っていくのはためらわれるだろう。
 だから、少年はマナの部屋へ行くと言い出したのだ。

「ありがとう、シンジくん」

 部屋に入り、寝着に替え、そしてマナは先にベッドに入る。

「ええと、それじゃあ、どうぞ」

 顔を真っ赤にしながら、誘う。

「それじゃ」

 少年は電気を消すと、彼女の隣に入った。
 そして、彼女を軽く抱きしめながら、腕枕の体勢を取るようにゆっくりと体を倒す。

「それにしても、突然どうしたの、こんな大胆に」

 真っ暗でほとんど何も見えない状況で、少年は隣にいる少女に話しかける。

「好きな人の隣にいたいっていうのはおかしいかな」

「おかしくはないと思うけど。でも、」

「シンジくん。いつもレイさんとはどんな話をしてるの?」

 多少強引だっただろうか、彼女は無理にその話題から遠ざかろうとした。
 今は、彼と二人の時間を大切に過ごしたい。

「たいした話はしないよ。僕は寝る前はいつもあれこれと考えることが多いから、綾波がそれを邪魔することはあまりないし」

「私は邪魔かな」

「そんなこともないよ。マナが寝てから考えることは考えればいいだけだしね」

「じゃあ、私がずっと起きてたらどうするの?」

「どうしよう」

 少年が苦笑すると、少女も笑った。

「綾波さんとは、話をするだけ?」

 その先までしているのか、という質問であった。

「たまにはキスもするけど、それ以上はしたことないよ。一応中学生だし」

「そっか。良かった」

 えへへ、と笑いながらマナは少年を強く抱きしめた。

「ね、キスして」

「うん」

 少年も彼女を抱きしめると、その唇を重ねる。
 彼の右手が、彼女の髪をなでる。

(幸せで、溶けそう)

 自分の全てが少年に包まれているかのようで。

(ありがとう、シンジくん)

 心の中で、感謝を捧げる。

(そして、ごめんなさい)

 闇の中に浮かぶ少年と視線がからむ。
 その彼に向かって、彼女は穏やかな笑顔を向けた。






弐拾壱

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